我輩は、悪魔。

『銀るつぼ』にあるシュラさんの話の姉妹編、…のようなものです。同時スタートで考えたので昇華させてやりたいなと。ハア、すんません。でも知らなくてもリンクしていないので大丈夫。
ていうか、思ったよりも長くなってしまいました。季節的なことを盛り込んだせいでしょうか。
 
 
 
 
 
 

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 授業という微睡みのひとときが過ぎ、壁一面に迫るかと思われる板には、抜くようにして残された一筋の符号がある。
『ほととぎすなくや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな』
まるで解せない。
無言で板の符号どもを落としていた女は、その消す道具を持ち、視界からいなくなる。やや離れたところに居た男はそれを眺めてから、腕を乗せている箱の中をがさごそとやりだした。何かに気付いたか居室の底にまで手を伸ばし、動かないそれを摘み上げる。汚れのないかさかさしたものだ、『紙』といったはずだ。底は『床』と称するらしい。細かに折りたたまれたそれには板とは違う符号が横並びにあり、男はああ、と胸の内で声を漏らすとぐるりと辺りを見回した。
―――この、えっくすとは何だ?
「…え?」
―――人間はこのようなものを希求するのか?
続けて問うと男は手元に視線を落とし、黙然とする。
己に向かい責めるように何だ、何なのだ? どうなってしまったのだ?と激しく浴びせかける。ならばと答えた。
―――我輩は貴様の言うところの『悪魔』だな、名を持つが物質界では現れぬようだ。
「……」
心の臓が早鐘を打つ。
―――“あやめ”とは弑するのと同意か。
「っ!」
それこそ血肉を裂くかのような嫌悪感が体内を貫く、…ではなく、蛇蝎に訂正しよう。多くはないが物質界について知り得ているものはある。しかしながら、拒んだところで契約は為されている。永きに待ったときだ、逃しはしまい。我はその者の血により埋め込まれただけの呪に過ぎぬ。平素は元より姿を顕すことはおろか、血を刻まれた者と契約との間で動くことも叶わない。せいぜいがこれだ。
―――なに、貴様とは契約中、禁を犯さぬ限り何もしはしない。
男はおもむろに顔をあげると息を吸い吐く。下級が寄生したか、と払うように小さく紙を振る。否であると訴えたが、懐疑論者さながらにまるで取り合わなかった。暗然たるものに包まれようとする意識は見慣れている、塗れてしまうのかと思ったがすぐさま浮遊する。瞬く間に符号が、いや、数式というのか、それらが愉快なくらいの闊達さで解けて、散らばり、動き始めた。丸みを持った羅列を残したままの板を睨み据えて奥村雪男はえっくすを求め、知らぬ形の符号でその思考を埋めた。
悪くはない。

 

 

 

燐に呼ばれた気がする。夜陰に溶けそうなほどのひっそりとした声だった。
「……」
顔を上げてみた、眼鏡の端にある気配が動くでもなく雪男は再び手元に視線を落とす。
今日は週中の水曜日で、夕方には任務があった。雪男は塾生達と一緒に古い洋館に現れ出る下級悪魔の祓魔に駆けずり回り、浄化をしてきた。洋館は半年後にホテルとなる予定で、吹き抜けになった書斎の高い天井と蔵書は圧巻ともいえたものだったが装丁本のコレクションは展示されるため無傷でと無茶を言われたのには閉口した。正十字騎士團ならびに祓魔師はそれなりに世間に知られもしているが、その行いを何か呪術的な儀式と思われている部分も多分にある。物心ついた頃にはすでに『人ならぬもの』の存在を知っていた雪男には大多数のそういう人の住む場所は縁のない世界のようにも感じられる。疎外感、ではなく、自分が特別に違うヒトであることを意識する自覚だ。なかった世界は想像でしかなく、知らないままに生きてくる方が寧ろ掴み所のない、虚構のように思えるくらいだった。そこにある現実《リアル》ほど確かで説得力のあるものはない。
燐の弟だから、あることが当たり前だったから。
断ちきれない鎖は重たいような、かけがえのない愛しさとぼんやりとした不安とを常に教える。
「雪男」
蔵書に気を遣うどころか体力を使うようなミッションだったので、雪男も身体に重たい疲労がある、曇天から雨と天気もよくなかったから魍魎が多く出てきて視界を阻むこともあり、無駄に動き回った燐は尚更だろう。ベッドに倒れ伏したのも早く、髪なんか拭いただけだと思う。クロを乗せ、朝まで起きないだろうはずだったのに目を覚ましたようで、雪男は報告書を見詰めたまま机のライトに手を伸ばす。
「あ。ごめん、眩しかった?」
デジタル表示は日付を越えておらず、子供は寝る時間でも雪男の寝る時間ではない。消すことはしないが光が燐に向かないよう角度を変えることは出来る。ライトに手を伸ばした、時間までやれるところまでやっておきたい。
「なんか…身体あちい…」
「え?」
「変な液被ったから、熱が抜けねえつーか…」
「魔障?」
燐は瘴気溜まりの中を悠々と歩ける存在である、傷の治りも早いし、尾もあるし牙も鋭く、青い炎まで噴出する。いまさらとやかく言うつもりはないが、いろいろと困る兄であるのは確かだ。
「聖水被ったのと違う感じの」
痛みはない、なんだか身体の中が熱いのに汗が出なくて頭がくらくらする、と顔を擦ると不機嫌そうに言う。雪男はモニターに示された時間を見直し、首を捻った。直後ならともかく任務完了から四時間以上は経っている。今日の悪魔は火の属性だった、だからその体液は触れた物を焼く。
「属性によって効くのかな、火蜥蜴《サラマンダー》の魔障は炎症に似た痛みを持つこともあるけど」冷やす?
雪男は言いながら立ち上がる、応急処置用の保冷シートとコールドスプレーが引き出しにある。胞子のほの字も身につけない兄に魔障なんてあるのか。気になるのかクロがシーツの上に胡座を掻いた燐に声を掛けていた。にゃあと問えば「気持ち悪ィ、汗かきたい」と文句でも言うように答える。雪男はしばらく考えてから、体温計も手にした。
「消せよ」
部屋の明かりを点けると機嫌の悪さをぶつけるようにして雪男を見上げる。
「なんで」
手を払い、怒ったようにそっぽを向き、押し黙る。魔障が風邪に似た症状、というやつなのか。体内に蓄積された熱がどこにも逃げず不快そうなのに燐は解決を求めようともしていない。ただ伝染しそうな不愉快さをこちらに投げつけてくる。
「シャワーでも浴びてくる?」
雪男はシートを燐に向けて放り、受け取ったかも確かめずに明かりを消すと椅子に戻る。何で近寄ってやって兄に睨まれなきゃいけないのだ、バカバカしい。
「……」
悪魔の体液は遅効性の毒になるのか? 聞いたこともない。
手が本棚の薬学書に向かう、引っ込めた。だってそこには薬草の種類と薬効のくらいしか載っていない。熱を帯びるということは廃棄熱のようなもので、作用に付随して起こるエネルギーの放出活動だ、いまさら炎症は考えにくい。急激な代謝による反作用とする方が納得できる。
「クロ、遊ぼーぜ」
「ええ?」待て。
だからってこんな時間に燐とクロに暴れられてはかなわない。
「クロとどう遊ぼうが勝手だけど、逆効果だったらより睡眠時間が削れるだけだよ」
とは言うものの、テンション高く帰ってこられる方が面倒だと実は思っている。本当に面倒だから、やめて欲しいのだけど。心の底からの真意を滲ませたつもりだ、どっこい燐は、ポケットを探るような仕草をし、壁際にある木刀を手にすたすたと行ってしまう。
「兄さん」
「お前の邪魔はしねーよ」そこじゃねえよ!
「待てよ、ちゃんと…」
―――避けているのか?
燐は背を向ける、ドアはひっそりと閉まる。
「ちょっ…」
制止することも強く言うことも出来なかった、いま誰かの声がしなかったか? 自分の声か? 頭と心臓にどんと響いて雪男は動けなかった。

 

 

 

「タオル」
外は雨が降っていた、と手を伸ばして宣い、雪男はてめえいい加減にしろよ、という怒り心頭に発するという顔を隠しもせずクロの足拭き用のタオルをぶつけてやった。もはやコントロールもままならない声でクロは、と低く問う。
「なんか呼ばれて行っちまった」
「…そう」
「雪男、風呂まだだったよな。オレも濡れたし、入る」
「なんで兄さんと」
息を吐いて眼鏡を押し上げる。燐はこきこきと首を鳴らし、何か問題でもあるのかと悪びれのまったくない顔をしており、眉間を殴りたくなった。
「…頭痛ぇし」あちーし。
「スッキリしたんじゃないの?」二度目だよ?
燐がクロを伴って部屋を出たのは小一時間ほど前のことだ、作業は捗ったが、はたと時計を見て懸念は増した。三十分ほどの運動ならすみやかな睡眠を促してくれるだろうが、一時間を木刀を振り回して遊ぶとなると通り越すような気がする。雪男は候補生の頃、任務で昂ぶってしまい、眠れないということがよくあった。小学校に入るともう養父の寝床に飛び込んでいくことは出来ず、兄の寝顔を見て気を落ち着けようと試しては何度も失敗したものだった。布団の中に丸くなり、固く目を瞑って眠りが来るのを辛抱強く待ったりして、繊細というか、軟弱というか我ながら青かったなあと何ともいえない思いがこみ上げてくる。
見たところ燐は、任務で気が昂ぶったという様子では全くない。ずぶ濡れというわけでもないがクロ相手に汗も掻いただろうし、気温だって高くはない、風邪を引きそうなくらいには体温など奪われて震えても良いくらいだろう。冷えは少々あるだろうとはいえ、風呂なんかに入ってまた目がシャキッとなって変な時間に寝落ちるなんてことになるんじゃないか。
「嫌なのかよ」
なんでまた睨まれなきゃならないんだ。
「…別に」溜め息が出た。
これ以上燐と話を続けても不毛なやり取りが続いて時間が無駄に消化されるだけだ、報告書までは終わっているし、授業の予習も英語の単語調べが残っているだけだから済んだと言ってしまっていい、好きにしなよと寝間着を手に風呂に行こうとする。
「雪男」
過ぎようとしてふいに燐に袖を掴まれた。加減のない力強さで引っ張られ、バランスを崩し掛けたのを踏みとどまってこらえる。頭からタオルを被って、相手の顔は見えなかったが声には焦りをふくんでいたと思う、動物が外敵を察知したときのそれとも似ており、どきりとした。
「…っ」
肩から燐の身体がぶつかる。思う以上の熱が感じられて雪男は燐を見た。燐は一人言ちるように詫びを口にする。
「兄さん」
「へ? あ、いや…」
厳しい雪男の声に言い訳を探すみたいに尾を振り、悪戯とかじゃありませんよ、と言いたげにタオルを揺らす。手を握るとびくっとそれこそ驚いたように肩を突っ張らせた。やはり遅れて現れた魔障の症状だかだろう、燐なりに異変のサインをどうにかして寄越そうとしているのだ。それは雪男を逆撫でないためで、近頃覚えた要らない配慮だった。兄が噛まれたとか、転んだとかそんな風にして出来た傷を言わないことなんて知っていたのに、先日は治っていたそれを血痕で知り、それこそ詰るようにして問い質した。燐は驚いた顔をし、反抗もせず大人しく診られていた。相当雪男の気が立っていたからだと思う、剣幕に気圧されて、引っ込めたというところなのだろう、あれから時々腫れ物にでも触るように接せられることがある。喧嘩にもならない言い争いをして気まずくなって、それでも別々の部屋で暮らしたいとか言い出さない。金銭的な理由があるにしたって、二人で居ることに空気みたいに馴染んでしまって距離は置くけど、離れるなんて考えもしないのだ。
「確かに火照ってるみたいだ、でも手とか冷たいよ?」
「あちいって言ったじゃねえか」分かりきったことを何を改めて言っているのだとばかりにきょとんとする。
「これは何?」どういうこと?
「何って言われても」
「興奮でもしてるの?」
「は?」
任務の勢いとかそういうのが冷めてないのかって話、と言い直すと燐は腕を組む。心外だと言いたげに尾がぶんぶんと振られていた。
「するかよ、ぐっすり寝てたのに」
と、覆うこともせずぶしっとくしゃみをする。
「汚いな」はねかすなよ。
「だって、そんな弟にアツく手を握られて…」だな。
突っぱねるでもないようだ。怠いとか痛いとか、そういうのはねえよ、と燐は鼻を啜ると赤くなった顔を誤魔化すように空いた方の手でごしごしと顔を擦った。雪男は魔障だったとしても、と燐の弱く頬を抓りながら口を開く。半端に開かれた口腔内の色が変わっているようでもなければ、糜爛しているでもない、ただ微かに熱を帯びているだけだ。
「頭痛、ね。…ほんと珍しい。調べてみたいところだけど兄さんの身体にとっては当たり前の代謝活動かも」
「タイシャ」
雪男の手を払い、知った顔は作る。だけど腑に落ちるというよりも燐の中では仕方がなくて面倒な何か、という理解に落ち着いた風だった。自分の身体のことなんだからもうちょっと掘り下げて考えたらどうなんだ。食い下がれよ。
「着替えは?」
「……」
手ぶらな両手を開いて、うむと頷く。うむじゃないだろ。
「雨に濡れて、しかも夜中に暴れて汗かいたんだから」先に行くよ。
薬湯にでもしようかと考えながら暗い廊下を歩く。なるほど雨音はしないが、湿ったような空気が肌にまとわりついた。
―――どうして水が落ちる。
「…単なる空気の循環だ。熱されて上昇した気体が上空で冷やされて水滴になって落ち…」
答えかけて、はっとして振り向く。頭の内側に響くようなそれこそ、雨音のように静かにあどけない声が落ちてきたと思った。ほんの二年前くらいまで聞いていた兄の声に似ている。高めのそれから低く、変わりかけて撚れるようになって、ぐっと雪男の胸から下を突いてくるようになった。溌剌として、少しギザつきのあるような声は自分とはまるで違う耳触りを与えて、昔からずっと聞いていたい音だった。…じゃなくて。
「…あれ?」
「そういや、もうすぐ石鹸なくなんぞ」
追いついてきた燐が言う。紛れもない、いまの燐の声だ。
「……」
「何だよ?」
頭上の蛍光灯の一つがそろそろ切れるのか、ジィ…っと鈍い音を立てた。
兄さん、僕は何に見える?
問おうと開いた唇が、舌が凍りつく。そんなことあり得ない、違う、そんなはずはないんだと、頭が否定し、首を振る。体中が拒絶した。
「雪男?」もう腹減ったのか?
燐は先んじて進むとからかうように笑って浴室の引き戸を開ける。クロも入りゃいいのになー。機嫌良さそうに尾が揺れている、脳天気に響く燐の声に縋りたいような気がしてならなかった。
変な下級悪魔を連れてきてしまったのか? それとも幻聴なのか。
忘れよう、疲れているんだ。
物思いを振り切る、キリがないことを考えたって仕方ない―――。
「兄さん」
脱衣場は冷えていたが、ガラス戸の向こうは水滴が見えている。燐が先に使っていたから湯は既に張ってあり、ぬるめが好きな雪男にちょうどいい温度にまで下がっているはずだ。燐は江戸っ子のように熱い湯に浸かってとっとと出る方で、雪男はぬるめの湯の中で息を吐いたり凝りをほぐしたり、考え事をするのが好きだった。一緒に入ると燐の方が先に出るのでまた先に入って出ていくのだろうと眼鏡の縁に触れたところで、シャツを脱いでいる燐の右腕の下に黒ずんだ痣に気付く。肌に押した痕がすっと戻るのと同じように内出血のそれが治っていくさまを早回しで流され、否応がなく突き出される便利さと不自然さに雪男は眉を顰めた。
「ん?」
「青痣作ったんだ」
つまりそれほど元気に暴れまくったと。限度という言葉を知らないのか、知らないな、うん。
「雨で濡れてっからよー、こけた」
燐は、それで、と一度言葉を切るとちらりと雪男を見る。疲労に重なって気圧の影響のせいか、燐のことがどうでもいいくらいに雪男も眠くなってきている。燐に魔障? 本人もさして考えていないのだし、気にするだけきっと無意味だ。燐がより眠れなくなってもほっておこう。
「ちょっと下もあちいんだけど」
「ふーん…」
どうすりゃいいのかな、これ、と持て余したように言って潔くタオルを肩にする燐の背中を見送ってしまう。うっかり聞き流したことに遅くなって気付いた、燐はさらりと返されたことが満足なのか鼻歌まで浴室に響かせている。
「……」
あ、まずい。

 

 

 

ふと目が覚めた。
「…雪男」
雪男が自分のベッドに戻るところだった。燐の呼びかけに手を振る、眠いから寝かせろとでもいうのだろう、二人で転がったのでは寝返りが打てないから。
「……」
手を伸ばし燐もひとり分が空いたシーツの上で身体を捻る。辺りは静かで、湿った空気に鳥の囀りが小さく聞こえている。明るさからして太陽が昇りかけているくらいだなと思う、雨は止んでいるようだ。朝というものは自棄っぱちな思いでいようが、苦いような気持ちを抱えていようが、待ったなしで訪れる。白々といつだって公平に大きな光の手が世界を丸ごと夜の底からふっと引き上げるのを想像する。
しっとりとした密な空気が漂う、静かな活動前の時間だ。
厳かなる朝焼けを見ながらまた朝になってしまったと、思うことが多かった。去年まで、祝福する気なんかちっとも起こらなかった。
あー、と喉の奥から息とも吠え声ともつかない声が出る。それにしてもよく眠れた。悔しいけど、雪男相手だと楽になるのが早い。
他の相手なんて経験もないし、知らないけれど、少なくともひとりで何とかするよりも簡単だった。雪男とそういうことをするようになったからなのか、自分が悪魔だからなのかは分からない。
「…さん」違う。
何だよ。
「…れ、しょうゆ…」
雪男が、ぼそりと寝言を漏らした。思わず起き上がって見てしまう、続いてうーんと唸るような声に笑った。
外で、名の知らない鳥が囀る。
「…なんつったっけ?」
燐は解体された鳥やら魚や肉の部位は分かるけれど、一般的に目にするものしか知らない。
身体の中を何かが駆け回って、ちりちりした。
低温で焼かれているようだった、赤外線で調理されているのかと始めは思った。だけど、熱の広がり方は違う。外からでなく身体の内側、血管の中を小さな虫が流れてはあちこちを蝕まれ、違うものが再生されていく。雪男と同じ髪質の頭髪じゃなくなって、指が手も握り返せないようなごつごつした三叉状のものになって、尾が誰彼構わず相手を刺し貫く。数時間前はそんな夢を見ていた。あれって祓った悪魔とカラいんじゃなくてアマイモンを足したみたいな姿じゃね、と燐は布団を引き上げながら胸に一人言ちる。
疲れて眠りこけていたのに、まさか夜中になって身体がおかしくなって起きるなんて思わなかった。寝苦しくなって、はっと目を開けて、微睡みかけたところに、また起こされる。悪魔の体液を被ってしかも少し飲んでしまったからなのだろうかと思った。二度と口にするものかと思うくらいに粘ついた嫌な舌触りだった。丹念に漉したような淀んだ緑色はヒドイ臭いで味などわからなかったくらいだ。とりあえず味わうという感覚は破壊したと思う、オレが悪魔でなかったらマジで舌、ダメになんぞと本気で思ったくらいだ(だけど、神木出雲は普通なら味覚以前に口腔内が爛れると言っていた)。思い出したのが拙かったのか、身体はより熱くなる。汗にならないのが本当に気持ち悪くて嫌だった。どうにか散らしたくてクロを相手に散々木刀を振り回した、降り出した雨が熱を冷ますのを手伝ってくれるかと思ったのに。
すーっと長く抜けていくような呼気が聞こえてくる。向こうは完全に寝入ったようで、なんだか自分たちが深海にいるような気がした。
「……」
この世にあってはならないくらいのマズイものを少しでも口にしてしまったからなのか、雪男とのチューはよかったなと思う。
触ろうともしなかった尾を撫でるようにしてそっと燐を抱き寄せて、知ってた?と雪男は囁いた。
僕らが悪魔を祓った洋館、ホトトギスがいたんだよ、外で啼いてたんだ。特徴のある声だからあれって思ってさ、と秘密を共有し合うような顔で顔を覗き込んで教える。燐は雀とツバメ、カラスと鳩くらいなら分かるが、ホトトギスとウグイスの区別すら分からない。正直にそう言うと、だよね、と小さく笑い、僕は授業で出てきたから、と応えて燐の額に触れる。
「ほととぎす」ニワトリでもない。
雪男は本当は、燐の成績なんてどうでもいいんだろうと思う、及第点を取ればいい、定められたボーダーラインを越えて課題をクリアすればいい、安泰と思える場所に燐が居られたらそれでいい。雪男の上に乗っかって見ているとそれは間違ってないように感じられる、何しろ知ろうが知るまいが構わないとそんな口ぶりで、ただ雪男の話を聞いて貰えるだけでじゅうぶんという顔になる。読んだ本の話をしてくれるときの顔だ、幼い燐はすぐに飽きてしまったけれど、背が伸びて弟らしいかわいげを道ばたに落としたところでそこはちっとも変わっていない。
ホトトギスも恋をする、そんなような言葉を呟いた。お前任務だってのにそんなこと考えてたのかよ、と呆れると、鳥を見て思っただけだよとしれっと返す。
「…なんだっけ?」
鳥の鳴き声がする。何だろう、きゅるきゅるきゅると喉の奥を転がすようにして、まるでネジを巻いているみたいだ。
一日の時間を回す、ネジを巻く。
「…と、…」
思い出せない、でもいい。ふわりとした眠気がやってくる。雪男と交わってそのまま寝て、相手の深い寝息を聞きながら朝になるってたまにはいい。
外で鳥が啼く。肌に唇を押し当ててくぐもった声で憎たらしいことをほざく、盛っているのは向こうなのに燐が悪いみたいな言い方をして責任を転嫁する、よく笑う、謎な照れ方をする、ぞくっとするような声で燐を求める。
雪男は全部が雪男のだけど、オレのだからな。
オレのただ一人の雪男なんだから。
そう世界に向かって宣言したくなる、朝が来た。

 

 

 

昨日の今日で燐と喧嘩した。
発端は小学校のとき一緒に入った風呂で雪男が作ったものは何だったかというものだった。食い違う記憶をお互いに譲らず、ちくりとひと刺しで転じてはやがて方向性を見失い、一言も口を利かずに登校となった。塾では問答無用で教えなければならない、個人的な感情を持ち込むなどしていいはずもない、黙りなんか少しの間だけだ。任務に学業に、日常を過ごして知らない間に気まずさとかも流されて解決されない息苦しさだけが残るのだろう。
高校に入ってお互いに干渉することが増えたので諍いは実は以前よりも多くなっている。燐は辛抱が、雪男にはきっと寛容さが足りない。頭では判っているつもりだが、燐は立場やらを自覚しているんだかそうでないんだかさっぱりな態度だったりするので言葉はきつくなるし、正直、もう一人の自分がまんま兄に映し出されているようで苛つく。
判っているのに判っていない振りをしている。
いまある均衡が崩れたら、僕らは、僕や兄はどうなってしまうのだろう。
疑問符が頭の中を駆け巡る。不確かでしかない青写真は灰色に塗られたまま持っていい希望の在処さえも分からない。
「……」
誰のためだとか意味を考えたら堂々巡りになってしまうのに、世界が終わりそうな危機を迎えそうになっているのに、そんなこととは関係なしに生きている自分を強く意識したくて答えを求めている。
だって、自分が無事じゃなきゃ他人や世界に向き合うことなんて出来ないじゃないか。水没しそうな諸島の人が、遠い熱帯の国の危険遺産に心を痛めるのか? 風化と砂漠の侵食を憂うのか? まず足下の削られる砂と押し寄せる波の音じゃないのか。
「…っ」
教員室の戸を綴じられていない報告書の束を持ったまま開けようとしたらうっかり一枚で皮膚を切った、雑に捌いたつもりはなかったけど、忘れたいほどのささやかさなのに血は滲み、痛みはしっかりと覚え、やってしまったと悔やむ。
「…たぶん、そうなんだ…」
視線が下がる、後ろ手に呟いた。
「雪男」
知った声に顔を上げ、無人であるはずの室内を見た。書棚に取り囲まれて正面は作り付けの机、椅子、個人に与えられた資料だらけの空間だ。思わず後ずさりそうになった。
「…兄さん?」
燐が、靴下と革靴だけを履いたまま、それ以外はすべての釦を外し、肌を露出させた姿で、机の上に座っていた。下着もずりさげられ、股を開いた格好でこちらを向いている。こんなこと兄がするはずない。
「誰だ」
用紙の束が落ちて銃の引き金に触れる。
「しろよ、雪男」
片足を机の上に胡座をかくようにして引き寄せると顎を引き、膝のところに頬杖をつく。声も動きも燐そのものだ。
「誰だと聞いている」
背中を冷たい汗が滑り落ちる。肩に日差しを受け、足をぶらつかせる燐の姿は若い記憶のままに生々しい、正視できなくて視線を背けてしまう。幻覚なのか、あるいは本人がどうにかなってしまったのか。
「悪魔」
と燐の唇が開く。
「奥村燐、お前のお兄ちゃん」
何を分かりきったことを訊いているのかという顔で、操られているとか、不自然さが見当たらなかった。常態と違いが分からないくらいの変化で、いやらしい媚びだとか嘲弄じみた笑みもないさまがより無残にも思え、雪男はごくりと唾を飲んだ。
「兄さんをどうする気だ」
「するのはお前だろー?」
懐けた小動物でも呼ぶみたいにこいこいと手招きする、面倒そうな口ぶりと無遠慮さが隠しようもない燐で雪男はより強張る。
「昨日みたいにさ」
「……兄さ、兄とは朝、喧嘩したままだ。無意味だ」
「ソレも、怖ェってんなら持っててもいいけど」
押し切られるように言われ、雪男は銃口を相手に向けた。早く本性を出せ、お前は兄さんじゃない。だけど見れば燐は憎たらしいほどに燐で、晒した肌も寛げた箇所も隠そうとはしなかった。
「発狂しないから?」
ふいに落ちた言葉の意味を瞬時、取り損ねた。それでも頭に反響するそれを繰り返す。
「え…」
「オレはバカだからな」
淡々と自分を貶めるでもなく、毒気なんてまるでなかった。
「発狂もしないくらいに」
「そんなこと言ってるんじゃない!」
自分について、燐について何度も考えた、だけど考えるだけ兄と自分との違いを思い知らされるようで、不毛で無益なだけだと思考は閉じた。割り切っているのと、拘泥しているのとで半々、燐からの答えを欲しいわけじゃない。
「やめろ、悪魔め」
断ち切りたいのでは決して―――。
「考えなんかお見通しなんだ、兄さんに化けるだけ無駄だ、偽物なんか通用しない!」
引き金にかけている指が震えてグリップを握る手が汗ばんでいるのが分かった。空気は満ちているのに息苦しくて、相手から真っ直ぐに向けられる視線が怖かった。
「バカじゃなかったら、も少し賢かったら、オレ狂って死んだ」
―――何を、この男は言ってるんだ?
手に確かな手応えを感じる。放たれた銃弾は正面に飛び、吸い込まれるようにして呑み込まれていく。残響が耳をつんざいた。
「違う、兄さんは違う!」
「……」
耳の下すれすれ、銃弾は窓ガラスに突き刺さっていた。燐の頬骨を掻いたそれは赤い線だけを残すとふっと消える。小さく煙のようなものがそこから立ち上るのが見えた。空気に揺らいで溶ける。相手は、見開いた目をそのまま雪男に遣り、は、と笑みともつかない虚ろな声を出す。
「兄を撃つんだな。やっぱ狂うの、は…」
調息し、狙いを定めたまま一歩近寄った。続けるというのなら次は外さない。どこぞの知れない悪魔にどうかされていい燐じゃない、自分だけなのだ。燐を傷付けて良いのも自分なら、治すのも自分だ、動けなくなればいいのにと思ったことだって実はある。
頭ががくんと落ちたと思うと身体が傾いて、ふらりふらりと右左に揺れた。
「兄さん?」
時間だ、と頭の奥から声がした。ほんのちょっと前までのあどけなさが残る燐の声色だ。何だろう、二度もあったとなると幻聴でも偶然で片付けられないような気がする。訝りながらも、燐に注意を注いでいると不気味というか、ぐらりと倒れかかる場所を求めて彷徨うように揺れた上半身はぐっと前傾する、そのまま転がっていきそうな勢いにはっと両腕が出た。
「…っ!」
燐はどさりと雪男の胸に落ちてきた。
ぐーと寝息が聞こえる。鼻を擽る体臭と、穏やかな体温に抱き留めたまま呆然としていると、燐は身じろぎをし、違和感にか、懶く目を開ける。
「…?」
「…おはよう」
「お、おはようって、なん…」
気まずそうに雪男から身体を引きはがそうとして、格好に気付いてかぎょっとする。喧嘩の真っ最中だとか言ってられないというか、素っ気なくしようとしてもこれじゃあ決まらないだろう。
「ちょ、何でこんなカッコ…」
「こっちが訊きたいよ」
雪男は燐を支える手に力を込める。燐は驚いたように尾を立てると雪男を見る。物言いたそうな顔をし、何をどう言えばいいのか分からないが、という風に小さく首を傾げる。
「頼むから、変な下級悪魔に憑かれたりしないでよ」
「何で全部俺が悪いんだよ」
燐は平気かと尋ねようとはせず、お前じゃねーの?と口を尖らせる。ただ眠いから屋上で寝ていただけ、本人は授業が終わってと強調したが恐らく午後からサボったに違いない。無意識下で動かされているのだとしたらその力は弱く、ほっておいても兄の炎に灼かれてしまうか、やがて消滅しそうな気がした。
手の平が肩の線を滑る。袖を掴むようで掴まれずに中途半端に落ち着く。何か言わなきゃと思っているのだろう、こういう風に燐を心配させたりするのも自分で、安心させるのも自分だ。決めているし、絶対に譲らない。
「…かもしれない」どっちでもいいや。
服はちゃんと直すから一回だけと言うと燐は仕方ないというように頭を撫でる、一回だけだからな、とぼそりと呟いた声が気忙しげに色めいていたように思えたが、しがみついてくる腕の力と髪に触れる甘いような吐息にそれは言わないことにした。
―――人間とは興味深い生き物だな。
稚い燐の声が頭の奥底から浮き上がってくる。見せたくもないが一方で真似も出来ないだろうと、高笑いしたくもなった。

 

 

 

我は、悪魔である。
奥村雪男と契約をした、よってその思考にとりつくことが出来、物質界の事象、大いなる知恵を得るべく手を尽くしているところだ。
いささか相手に物足りなさを覚えぬこともないが、その葛藤はじゅうぶんなほどそれを補い、飽くことはない。
この男は殺めもせずに恋をしている。
人とは愉快な動物だ、内側はたいそうにすわりどころも悪しく、揉まれ、掻き乱されては平らかに凪ぐこともないのに、ふいにまっさらながらんどうになる。得も言われぬかぐわしさに包まれて満たされ、黒きに沈み、ついぞない揺れは待てども止まることがない。
―――あやめは菖蒲、菖蒲はあやめで杜若。
ぽつりといつか返してきた。
我のことなど一顧だにしないのにすでに承知していたのである。
―――ここにあるのは五月闇。
生ぬるい雨が降っていた。地に弾け、血を洗い流す。どれも雨に打たれ、虐げられたようになっていたのに弱い光に照らされて紫の花が凛然と立ち上がり、蕾を開いているのが異なように感ぜられる。やわらかに包みを解いていく、大気の循環、生の発する息遣い、我はその目を通じて兄が青い炎に包まれるのを見ていた。

 なおと 130518

 
 
 
 

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本誌の契約書について、こうだったら面白いのに、と思いました。なので嘘。
『銀るつぼ』にあるシュラさんのとは姉妹編というか、ややシリアスめな方向で。いや、思いついたはいいがどっちを本に入れましょうかと考えていたのですが、引っかき回されるなら断然じゃない方がいいなと。
折角なので加筆して季語などいれてみました。ていうか、みかけた菖蒲がきれいだったんだよ。だから出したかったんだよ…。←それだけですか
奥村家は菖蒲湯とかやるのかなあ。でも獅郎父さんは張り切って節句を祝ったと思います。