The Embers of…

 ネタと言うか、正直書いてみたい怪異と、最終的に仲良くなだれ込んで欲しい願望を無理矢理あわせた感じになってしまいました……。
 しかも久しぶりの更新ですね……。自分が書いた最後の日付見たら物凄く間が空いていて、思わず叫びそうになりました。今年はもう少し精進したいと思います。
 
 

【PDF版】The Embers of… ※ただいま準備中です。

 
 
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 夕闇が濃くなって、ぽつぽつと街灯が点き始める。雪男と燐の双子は南十字マートの袋を提げて歩いていた。隣を歩く兄はがさがさと鳴るやかましい袋に聞き入るように、黙ったままだった。もちろんそう見えるだけで、予定していた食材が買えなくて不機嫌なのだ。
「イタかったな…」
「イタかったね」
 暫くして燐がしょんぼりとして呟くのに、雪男は相槌を打つ。その肩をどすん、とどつかれた。
「イタッ!」
 何するんだ、と殴った本人への文句は発せられないままに終わる。
「雪男っ! 気を落とすな。こんな日もある」
 気なんて別に落としてない。そう言いたかったけれど、止めた。チラシに乗っていた特売の肉と魚が買えなくて、凹んでいるのは兄さんの方だ。でもそれは僕のためでもあるのを充分に理解している身としては、ここは余計なことを言わないでおくべきだろう。
「判ってる」
 兄の頭を撫でた。
「兄の頭を撫でんじゃねー。俺がお前を慰めてんだろ。なんで逆みたいになってんだよ」
「細かいことはいいじゃない」
 よくねーよ、と燐が口を尖らせて雪男の手を掴む。掴まれたまま、兄の手を引き寄せると唇を奪う。
「お前っ……、こんなとこで……!」
 燐が慌てて雪男を引き剥がした。
「誰もいないし。慰めてくれるんでしょ」
 燐がひどく真面目な顔をして、外ではダメだと言う。夕闇にもはっきり判るほど顔を赤くしているくせに。
「さみーし。帰るぞ」
 ぐい、と雪男が掴んだままの腕を引っ張った。遠くに見える赤紫の夕焼けと、正十字学園町の何階層にも積み上がった町に灯る明かりが、少し俯いた兄の顔を浮かび上がらせる。耳まで染めてそっぽを向いたその顔は、もっと赤くなってるんだろう。その頬にもっと触れたい。
「あ」
 燐が弾かれたように顔をあげる。
「どうしたの?」
「雪」
 見てみろよ、と嬉しそうに雪男を見てはしゃいだ。じんと染み入るように寒いのは確かだが、この程度では雪なぞ降るわけが無い。それに、ついさっきまで綺麗な夕焼けが見えていたのだ。馬鹿な、と見回してみると雪ではなく、ほの青い光がふわりと漂っていた。
「なんだ……、これ……」
「あれ、雪じゃねーの?」
 空中でふわふわとしながら、光が浮かんでいるのは奇妙な眺めだった。燐が思わず手を伸ばして光をつついた。
「ちょ、兄さん!」
「だーいじょうぶだって。てか、触れねー」
 燐が光を叩き落とす勢いでぶんぶん、と手を振るが、光はするりと彼の手を通り抜けて、何もなかったように浮いていた。
「これ鬼火だ」
「おにび?」
 鸚鵡返しに呟くが、意味が掴めていないのが丸判りだ。
「兄さん、覚えてないんじゃないだろうね? 授業でもやったよ」
 兄があらぬ方を剥いてヘタクソな口笛を吹く。まったく……。光はそんな二人を見守っていたのか、暫く上下に小さく揺れながらホバリングしていたかと思うと、光が急に激しく動き出した。くるくると輪を描いたかと思うと、ひゅ、と飛び去ってはまた戻ってくるのを繰り返す。
「どうしたんだ?」
「さぁ?」
 二人して首を傾げる。鬼火がこんなに激しく動くことがあるなんて、聞いたことがない。
 その間にも、光は飛んだり止まったりを繰り返していた。かと思うと、いきなり二人に向かって飛んできた。ぶつかる、と思わず目を瞑った。風が急に通り過ぎたような、不思議な感覚がして余計にきつく目を瞑った。だが、それ以降は特に何もなく、ただ触れられたような感触が顔にあるだけだった。恐る恐る目を開けると、また少し離れた所でふわりと浮いている。
「あいつ掠ったぞ。ってか、頭ん中抜けていきやがった」
 あの状況で目を開けてたのか、兄さん。兄の相変わらずな豪胆さに舌を巻きながら、思わず顔を撫でて己の頭部の無事を確かめた。
「ぞわぞわする」
 うげぇ、と燐が感触を擦り落とすように、ごしごしと頬を擦った。雪男も左頬から鼻、右の目からこめかみにかけて、ちりちりとしたような、羽で擦られたような、へんな感触が残っている。実際には触れてもいないだろうに。煩わしく思いながら、眼鏡を外して乱暴に顔を擦った。だが、感触が消えるどころか、むず痒さが更に募ってくる。
 なんだこれ。
 擦れば擦るほど、くすぐったさと言うか、痒いのが止まらなくなる。次第に痒みが鼻の奥、丁度目頭の間くらいで強烈にごそごそもぞもぞする感覚に変わり、自然と涙が溢れてきた。オマケに目の前にあの変な光がちかちかしながら煩く飛び回っているような気がして、それが妙に気に障る。
「おい、雪男?」
 燐の声が段々遠のいて行く気がした。
 
 
 
「あ、目ェ覚めた?」
 雪男がはっと目を開けると、男がニヤニヤと笑いながら雪男を覗き込んでいた。
「え……、誰……?」
 暗い中にもはっきりと判る。『まっとうでない』感じの男だ。なのに、顔の特徴を述べてみようとすると途端にぼんやりとする。不思議に思いながら冷たい地面に横たわっているのに気付いた。どの位気を失っていたのか判らないが、背中が痛い。そろりと起き上がりながら、辺りを見回すが彼が直前まで居たはずの正十字学園町の通りとはまるで違っている。
 森の中にいるらしい。しかもとっぷりと暮れた夜。どうやら少しばかり開けた場所に寝ていたようだ。彼ら二人を少し離れて木立がぐるりと取り囲む。夜空を見上げると、圧倒されるくらいの星空が見えていた。普段なら凄い、と感動する所だけれど、今はその光景が怖かった。
「アンタ、こんなとこでなにしてたん?」
 ふひひ、と男が笑う。
「あ、いや……。僕にも実は覚えが……」
 何故こんな所にいるのか、さっぱりワケが判らない。
「ははーん。アンタもか」
 男は一人合点したように指をぱちんと鳴らした。
「あんたも……?」
 きょとんとして聞き返す雪男に、男はまたまたしらばっくれちゃって、とニヤリと笑う。
「あのジジィに追い返されたんだろ?」
 ジジィ、とは誰なのか。話についていけない雪男を余所に、男はまったくさぁ、と肩を竦めてベラベラと喋り始める。
「偉いんだかなんだかしらねーけど、俺様をこんな身体にしやがって」
 聞いてるか? と尋ねられて雪男は仕方なく頷く。聞きたいことはたくさんあるのだが、『ジジィ』とやらに怒っていて答えてくれそうな雰囲気ではなかったし、最初に彼に感じた不穏な印象が拭い去れなかった。
 係わり合いになりたくないなぁ。雪男はぼんやりと思う。
「偉いっつったって、元は漁師だぜ? 神の子とかに認められたかなんだかしらねーけど、なんで魚釣ってたよーな野郎に俺が地獄行きとか決められなきゃならないんだよ。大体その神の子ってのだって、本当かどうだか。ええ? アンタもそう思うだろ?」
 雪男の答えなどどうでも良いらしい。男は相変わらずベラベラと『ジジィ』についての文句を言い続けている。その様子に一度箍が外れたら、どうなるか判らない空恐ろしさを感じながら、心の中で冷静な雪男が某宗教の信徒が聞いたら大変なことになるぞ、と彼の表現に酷さに呆れる。漁師、神の子と来れば、某宗教では第一といわれる聖人の話じゃないか。
「ありゃぁ、絶対仕返しだよな。二度目に死んだら地獄にすら行く価値もねーとか言いやがってさ」
「二度目……?」
 男の言葉が記憶を微かに引っかく。なんだっけ? それよりも、もうこの場から去りたい。起き上がった姿勢のままで座り込んでいる地面は相変わらず硬くて冷たい。
「そうそう! 最初に死んだ時によー、俺は地獄に行くしかねーって言うからさ。ちょっと殊勝なフリしたらコロッと騙されやがってさ。もう一回生き返らせてくれたんだぜ」
 ばっかだよねー、とゲラゲラと男が笑い転げる。笑いながら、全身がいつしか夜の闇よりも濃い黒に包まれていく。もう全て飲み込まれてしまいそうだ。こいつ……、悪霊《イヴィル・ゴースト》か? 正十字学園町にいたはずなのに、いきなり知らない場所に居た。そこから大方予想はしていたけれど、今ここで悪魔と遭遇か。雪男はそっと腰の後ろに手をやって、腹の中で舌打ちする。寝ていた時の感触から、そうではないかと思っていたが、いつもの位置に銃はなかった。
「大体女も金も騙されて盗られる方が悪いんだよ。ま、俺もドテッ腹刺されたときは流石に参ったけどな。テメーのお頭が弱ぇーの棚に上げて、いい度胸だぜ。生き返ってから死んだ方がマシって目に遭わせてやったけどな、ソイツ。つってもよ、気がついたら赤ん坊だったからな。やり返してやるのに随分時間掛かっちまったぜ。そのまま生き返らせりゃ良いのに、あのジジィよけーなことしやがって」
 ヒステリックな笑い声と得々と続く自慢話に、吐き気がこみ上げてくる。無遠慮に「な、そう思うだろ?」と顔を近づけてくるのをやり過ごすのが精一杯だった。男の吐き出す息、身体を取り巻く得体の知れない黒い靄、垂れ流される言葉の全てが汚らわしかった。銃さえあれば、今すぐぶっ放してやれるのに。
「騙して、奪って、蹴落として、暴れて、やられて泣いてる弱いヤツラを笑う、それが楽しいんじゃねーか。そうだろ? そうだ、いいこと思いついた。アンタ俺と組もう。な? そんで、皆ビビっちまって震え上がるような、でっかいことをやってやるんだ」
 冗談じゃない。これ以上付き合っていられるか。はっきり断ってここを去ろうと男を見上げたが、開いた口がそのまま凍った。黒い靄の向こうに、自分の顔が見えた気がしたからだ。誘うように真っ黒いもやもやした塊が両腕を広げて、にやりと笑う。見たものが信じられなかった雪男は、記憶をふるい落とすようにぶるぶると頭を振った。男はそんな様子を見て、ムリすんなよ、と笑う。
「アンタん中、ぐるぐるどす黒いもんが渦巻いて、今にもはち切れそうなんだろ? 俺には判るぜ。なんで押さえ込まなきゃならねぇ? 自分に素直になって、全部解放しちまえよ。思うように生きて何が悪い?」
 唆してくる言葉に、ぞくりと身体が震えた。地面から寒さが這い上がってきたせいか、それとも男の言葉に共感し始めているのか……。馬鹿な。コイツが勝手に勘違いしているだけだ。さっきは自分の顔のように見えたが、もう靄に隠されてしまって見えない。下品な笑い声を上げる口だけが妙に赤く開いていた。
 男の片手に、ぽう、と火が灯った。よく見ると石だった。真っ赤に熱せられた石が炎を発しているのだ。めらめらと燃える炎ほど明るいなら男の身体を覆う靄が晴れてもいいようなものなのに、より一層黒さを増しただけだった。不思議なことに、周囲の闇も濃くなった気がする。
「自分がどんなこと出来るか、想像しただけで楽しくなってくるだろ?」
 ぽん、ぽん、と手と思しき靄の上で石をお手玉のように投げては掴む。
「俺とアンタならなんでも思いのままだ」
 どうだ、と男が一際大きな声で笑う。
「なんでも……」
「そうさ!」
 なんでも思いのままとは、どんなものだろう? これまで思いのままになったことなどあっただろうか。養父は死んでしまい頼りたくとも出来ない。学生と祓魔師と講師なんて三足の草鞋を履いて、自ら望んだとは言え多忙を極める日々を過ごしている。そのうえ理不尽な上司に振り回されて、良いようにからかわれて、仕事を更に押し付けられて。それだけで日々は一杯一杯だ。だと言うのに悪魔として覚醒してしまった兄はいい加減で、考えナシで、フォローがどれだけ大変なことか。
 兄さん――。
 ふと燐の顔を思い出した。それまでは細部すら思い出せないくらいすっかり記憶も曖昧になって、その内そんな思い出があったことも忘れ去っていたような感じだったのが、急に鮮やかに兄のあれこれが甦ってくる。
 兄こそ『思いのまま』にならない筆頭だ。手に入れたと思っても、するりと手からすり抜けているような気がする。かと思えば、急に腕の中に納まっているように感じることもあるし、自分が兄の温もりに包まれていると感じることもある。身体を繋げている時でさえ、思わぬことを言い出したりして振り回されるのだ。
 それでも、何一つ思いのままにならなくても、燐が燐のまま傍に居れば、もうあとはどうでも良いと思えてしまう。振り回されるのが猛烈に腹立たしいと思う時もあるのに、それを受け入れてしまっているのだから仕方がない。物好きにもほどがあると思うけれど、それでも燐でなければダメで、燐だから許せる。
 そんなことを思っていたら、急に腹が立ってきた。
 
 なんで僕はこんな所にいるんだ?
 
 ここが何処かなんて判らない。けれど自分の中をすり抜けて行った、あの鬼火のせいでここに居る。その鬼火の正体が何かと言うなら、それは今目の前で笑っている悪魔だ。
 ならばアイツを祓ってここから出る。
 あいつがなんと言って唆そうと、あいつの計画もこんな場所も、雪男にはなんの意味もない。
 自分勝手な妄想をベラベラと喋り続ける男を一瞥して、ふぅ、と気持ちを落ち着けるように溜め息を吐いた。腹の中はグラグラと怒りで煮えくり返っている。だけれど、頭はこれ以上ないほどに冷たく冴えている気がする。
「……そしたらさぁ、ド派手に火ィつけてやんのよ。良いと思わねぇ?」
「黙れ」
「? どうしたよ、イキナリ」
 雪男の低い声の調子に気付いたのか、男は訝ったように首を傾げた。
「何でも思いのまま? お前なんかに何が出来る」
「出来るさ!」
 雪男の言葉に面食らって、怒ったように言い返す。
「いや、出来ない。そんなちっぽけな、周りも明るくすることも、暖めることも出来ない火しか持ってないのに」
 言葉をぶつけるたびに、ぽろぽろと黒い靄が剥がれ落ちるように、男の姿が徐々に露わになってくる。それと共に、激しく燃え上がっていた石の勢いがなくなってくる。自分の姿を見て、男が慌てた。
「お前の言うでっかいことなんてどうでもいいんだ。どうしてもやりたければ自分でやるし、やるにしたって僕一人で充分だ」
「お、おい。アンタ、なに言ってんだよ……」
 火が弱くなるにつれて、言葉尻も弱々しくなった。雪男はゆっくり立ち上がると、尻についた埃をぱっと払った。
「覚えてないのか? お前は死んでるんだ。生前どんな悪党だったか、僕はこれっぽちも興味ないけど。そんな火を持っていた所で、今のお前はどこにも行けない、何にも出来ない存在でしかない」
 男が唸りながら、何かを払い落とすように手を振り回す。少し縮んだような気がする。まぁいい。手に持っていた石はすっかり火が消えて黒くなっていた。振り回すたびにぽう、と赤くなるが、火が上がるようなことはない。
 実際の悪魔である『鬼火』や『火の玉』と、そうでない自然現象はもちろん違う。混同した末に、力の弱い下級悪魔が手の付けられない災難になってしまうことだってある。ならばここでするべきは冷静になって、悪魔が何を言い出そうと耳を貸さないことだ。こんなに攻撃的になることじゃない。弱ったように見せて、反撃してくることだってある。
 だが、止められなかった。
「思い出したよ、『一掴みの藁のウィリアム《Will-o’-the-wisp》』。鬼火伝説の一つだ。それにしちゃ鬼火なんて大げさな名前だと思わないか。せいぜいお前が持ってるのは燃えさしってとこだろ。煙が燻ってるだけの、今にも消えそうな消し炭じゃないか。現実をしっかり見た方がいい」
 やめろ、やめろ、と繰り返すが、すっかり靄が晴れて継ぎはぎだらけの上着とズボンと言った、寒々しい格好だ。手で燃えていた石はどこかへ行ってしまったらしい。
「ああ、現実が見えないからこんな所にいるんだっけ。ならもっと言おうか。鬼火や火の玉なんて、もう誰も恐れちゃいない。リンかメタンガスに静電気が引火しただけだと説明できる存在になったんだ」
 雪男は眼鏡を一つ押し上げると、手をゆっくりと男に向かって差し伸べる。そして、中指と親指を合わせた。その指に怯えるように男が小さくなる。容赦なんてしてやらない。
「所詮は燃やすものがなくなるか、水をかければ消えてしまう程度のものでしかない――、こんなふうに」
 男の姿を捻り潰すように指を翳すと、勿体ぶってぱちん、と指を鳴らした。
 世界が暗転した。
 
 
 
「雪男!」
 ごつん、と頭に拳骨があたる。痛みで視界が急に晴れる。
「にいさん……?」
 目の前で思いっきり心配そうな顔をしていたのが、ほっと安堵の顔に変わった。はて、僕は今まで何をしていたんだっけ。
「やっと正気に戻ったか、このムッツリメガネ」
 うって変わって拗ねるような口調で文句を言う兄の頬が赤くなっている意味が判らなくて、自分の格好を見回して驚く。いつのまに帰っていたのか、彼らが暮らす寮の玄関で、入り口を入ってすぐの床の上に二人して倒れ込んでいる。強引に足を割って圧し掛かったのが、兄の足が雪男の腹を押し返そうとしていることから判る。さらには無理矢理に燐のシャツを脱がせたらしく、だらしなく卑猥な感じで前が肌蹴ている。自分の片手は兄の腕を押さえつけて、もう片方はシャツが捲れた兄の脇腹に押し当てられて、まるっきり襲い掛かったみたいだ。
 何故こんな体勢になっているのか、さっぱり判らない。
 周りを見てみると、玄関の戸は半分開きっぱなし、買い物の袋が床に投げ出されている。そういや、玉子買ってなかったっけ……?
 ざっと血の気が引く。なんで意識を失ってたのか、そこからして不明だ。だがそれ以上に正気を失った間に何をどれだけやらかしてしまったのか……。知りたいけれど知りたくない。まずはこの姿勢から脱しようと、身体を引き起こす。
「こら」
 燐が雪男の腰に足を巻きつけて、身体を引き戻す。
「兄さん」
「お前、こんな状態でホーチすんな」
 燐が腰を押し付けてくると、互いに兆しているのが判る。ちょっと合意かどうか疑わしい体勢にちょっとどころじゃなく凹みそうなのに、兄がからかうような動きをしてくるのが少しばかり腹立たしい。ついでに、冷たい床につけていた膝が痛い。
「僕……、なにした?」
「覚えてねーの?」
 綺麗さっぱり。そう言うと燐が口を尖らせて、覚えとけよ、と言って軽く頭を拳骨で叩いた。
「変な光が俺たち掠めたのは?」
「そこは覚えてる」
 兄が雪男の前髪を優しく掻きあげて、頭を撫でるのに任せながら記憶を辿る。耐え難いほど変な感触を覚えたはずだが、今となってはそれがどんなものだったかも思い出せない。そしてそこから綺麗に記憶が途切れている。何かあったような微かな違和感があるが、追いかけようとした所で煙のように消え失せてしまった。
「お前、自分で顔引っ掻きそうなくらい擦ってて、ビビッた。でも少ししたらぴたっと止まって」
 その後はなにを聞いてもだんまりで、そのくせ兄の手を掴んでとっとと寮へ帰って来たらしい。玄関を突き飛ばされるように入ると、文句を言う間もなく唇を奪われ、あれよという間に押し倒されたそうだ。性急なわりに顔に表情がなかったのにさすがにおかしいと気付いて、軽く頭を殴ったところで雪男が正気に戻ったということのようだ。足先の違和感に気付いてみれば、二人とも片方ずつ靴が引っ掛かったままだった。
「ちょっとくらい無理矢理なのも嫌いじゃねーけど」
 すっかりその気の眼差しで見つめてくる。何てこと言うんだ。自分の頬を撫でる腕には、薄赤く手の痕が見えた。そして肩にも一つ赤い痕が覗く。すぐに消えてしまうと判っていても、意識のない内にそんなことをしたなんて、自分が空恐ろしい。一方でちょっとばかりその時の兄さんの反応が見たかったと惜しがっている自分に気付いて、慌てて自分自身を叱る。
「……ごめん」
 しょぼくれた雪男に、燐が「ばーか」と笑って頭を抱き寄せる。
「ヘーキだ。俺はお前だったら何でも大丈夫だから」
 好きにしていいんだぞ、と雪男の頭を掻き抱くと耳に囁いた。そんな風に言われて、嬉しいやら余計に罪悪感が募るやらでどっと力が抜けて兄に縋る。腕を回した背中は、冷え切った床に寝ていたせいか、冷たくなっていた。少しでも自分の熱で温めたくて、強く抱きしめる。ふと顔を埋めた胸元から兄の体臭がして、襲い掛かりそうになった失態から押し留めようとする理性がどこかへ押し流していきそうだ。
「にいさ……」
「ちょっと待て」
 燐が鹿爪らしい顔をして雪男を止める。こんな中断は酷だ。きっと不満げな顔をしたんだろう。兄がむい、と頬を抓り上げた。
「判ってるから、買い物仕舞わせろよ」
 俺だって我慢できねーし、とぶっきらぼうに言う。だが、冬だと言ってもやはり買ったものを玄関先に放っておくわけには行かない。それに尋ねてくる人もほとんどいないとは言え、こんな玄関先なんて誰に見られるか判ったものじゃない。なにより、邪魔されたくない。だから、と兄が言葉を続けた。
「いいか、逃げんなよ」
 スイッチを入れてしまったらしい。こうなったら兄が満足するまでは晩御飯も出ないだろう。
「逃げないよ」
「絶対だな? ぜってー逃げんなよ!」
 色っぽくもなく、ケンカでも挑むような勢いで釘を指すと、燐ががさがさとビニール袋をかき集めて食堂に飛び込んでいく。その様子が兄らしくて、中断されて不満なのに思わず笑ってしまう。仕方ない、責任は取らねば。なんて尤もらしいことを思うが、自分も変にスイッチが入ったままだ。
 燐の後を追って食堂へ行こうとした雪男の前を、ぽわん、とぼんやり光るものが横切った。ふわふわと飛んでは、ぴたりと止まって上下に軽く揺れている。
「鬼火……」
 ぼそりと呟くと、そうだと肯定するように光が揺れた。人を迷わせる悪魔だと言われており、力は弱い。でも思い惑い、良くない方へ傾いてしまいそうになっている人間の背中をちょいと押す程度なら十分だろう。雪男の気持ちがざわつく。その感情の正体が掴めない。だが、いい感情ではないのは確かだ。
 表現しにくいが、消えたと思った燃えさしに火が一瞬だけぱっと燃え上がったような気がした。
「……」
 雪男は何故だかそれに向かって手を伸ばし、親指と中指をくっつけた。そんな祓魔方法など習った覚えはない。聖書の一説を唱えれば一瞬で掻き消えてしまう。だけれど、今はそうするのが正しいような気がした。
「消えろ」
 ぱちん、と指を鳴らすと、ふいと鬼火が跡形もなく消えた。自分の中のぐずぐずしたような感情も跡形もなく消え去る。
 食堂の奥から燐が買い物を取り出して冷蔵庫や冷凍庫にしまっていく音が聞こえた。その聞きなれた日常の音にほう、と溜め息を洩らした。
 

――end
せんり