花覚ましの雨

 『花覚ましの雨』って本当にそんな言葉があるのか、と思って調べてみたのですが、見つからなかった。あれはお天気アナウンサーの造語だったのだろうか。それとも自分が知らない(調べきれなかった?)だけで、そう言う言葉があるのかも知れません。
 この言葉を聞いたときにぱっと情景が浮かんでしまったので、頑張ってみました。最後の方はぬるいですが、ちっとだけ大人な方に傾いています。
 
 ちなみに、携帯の電話帳から電話を掛けたのに、全然違う知らない人の携帯に掛かった、と言うのは友人の体験談です。それ以来再現していないそうですが、曰く、「何を言ってるかわからねーと思うが、俺も何をされたのか判らなかった…(ガクブル)」と言う気持ちだったそうです。
 

【PDF版】花覚ましの雨

 
 
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 携帯電話が電子音を鳴らす。何かの曲ではなく、ひどくシンプルな音だ。
「メールだ」
 雪男は机の上にあれこれと広げた本を持ち上げたり、レジュメなどの紙の束を避けたりして発信源を探る。
 かなりあちこちを探して、机の右手にどかんと積み上げた本の上で、携帯を見つけた。誰かと思えば、燐からだ。
「兄さんからなんて珍しいな」
 メールも打たないでもないが、用事は短く電話をかけてくることの方が多い。回りくどいこと、面倒なことは嫌いという兄らしくて、雪男もそんな兄からの電話は好きだった。
 だから、何事かと思う。本文を見て、更にハテナマークが頭の周りに飛び散った。
 『マシ』
 マシ?
 何が何に比べてマシなのか。
 それとも『マジ』と言いたいのか。だが、何に対してマジなのか。確認なんだろうか。
 考えていても仕方がない。雪男は早速兄に電話をかけた。だが、どうしたことか兄が全くつかまらない。
「なんだよ」
 五回目の留守電話サービスのメッセージを聞いて、いささか腹立たしく呟く。謎のメッセージを送ったことにも気が付いていないのだろうか。雪男としては、兄の送ってきた『マシ』の正解が何なのか、気になって仕方がない。少しずつ進めていた悪魔薬学の論文をまとめて仕舞わなければならないのに、兄のメールを見てからと言うもの、ちっとも進まない。
「早く帰ってくればいいのに」
 それよりも、早く電話に出ろ。
 必要以上に強い力でボタンを押して電話を切ると、素早くメールを打つ。
『マシってなんのこと?』
 しかし、待てど暮らせど返答がない。電話すら掛かってこない。
 実験結果をまとめたレジュメをパラパラとめくる。自分でやった実験だから、改めて見なくても判っている。が、論文に書こうと思った箇所も文字もなかなか頭に入ってこない。
 珍しく任務も何も入っていない土曜日のことだ。燐は霧隠シュラとの魔剣の特訓に朝から出かけている。しかし、今の時間はもう終わっている頃で、多分夕飯の買い物にでも行っているはずだ。
「タイムセールの時間だっけ」
 実験結果の紙の束を、机の左側にややヤケクソ気味に放る。そこには似たような紙の束が十あまりも積み上がっている。へろりと端に引っかかった紙束が重みでバサバサと音を立てて、開いたまま放り出された本の上に落ちた。
 良く買い出しに利用するスーパーの、夕方のタイムセールの様相と言ったら、それは恐ろしいものだ。鬼気迫る奥様方にもみくちゃにされながら、店員が値引きシールを貼るやいなや、品物がかっさらうように無くなっていく。手に持っても買い物かごに入れるまでは、安心できない。手に持ったそのものを取っていく、豪の者もいるからだ。
 一度雪男がなんとか取ったお一人様二点までの格安卵を引ったくられて、さすがに文句を言おうとしたことがあった。ところが相手は雪男が口を開く前に「取ってくれてありがと」という台詞とともに、ぎろりと凶暴な目つきで雪男を黙らせたのだ。それを聞いた燐は『タチの悪さは上級悪魔なみだからな』と判ったような判らないような例えで慰めてくれたが、それから数日は、あの恐ろしい目つきを思い出すと背筋にぞっと悪寒が走った。
「兄さん、大丈夫かな」
 頬杖をつきながらぼそりと呟く。兄のことだ、大丈夫に決まっている。料理に関してだけは常識的な力を発揮できるんだから。
 だが、なんだか判らないメールも、電話に出ないのも気にかかった。
 ぱちん、と机の前の窓が鳴った。そちらに目を向けると、さっきまで真っ青な空を見せていたのが、一転黒い雲が広がっている。冬の寒さも抜けて、暖房を入れなくてもいい季節になってきた。暖かい日差しの匂いが嬉しくて、換気に開けていた窓に水滴がついている。あ、と思った時にはざぁっ、と音を立てて雨が降ってきた。
「うわ、資料が…っ!」
 慌てて窓を閉めにかかる。燐の机の前の窓を閉めて、はたと洗濯物を屋上に干していたことを思い出す。ばたばたと駆け上がってしっとり濡れた洗濯物を取り込んだ。雪男の足元を、クロが体を震わせて水気を飛ばしながら、にゃぁにゃぁ、と何か訴えるようにまとわりついた。
「うわ、クロ!ちょっと危ないからやめて。すぐに拭いてあげるから」
 両手いっぱいに洗濯物を抱えて、見えにくい足元のクロを蹴らないように何とか避ける。それでもクロはにゃー、と鳴き続ける。
「つっかえが外れたこと?ゴメンって」
 クロが屋上に出ている間は、扉につっかえを挟んで出入り出来るようにしている。今日はそれがいつの間にか外れてしまい、締め出してしまったような格好になってしまったようだ。しかし、万が一風でつっかえが外れてしまったとしても、クロなら非常階段から下に降りることも出来る。厳密には締め出したわけではないのだが、そこはやはり謝らねばならないだろうと雪男は思った。
 ちがうよ、と言うようににゃーぁ、と鳴いた。じゃぁ、なんだろう?首を傾げながら、足元のクロを避けつつ歩く。
「あれ。兄さん、傘持って出たっけ…」
 洗濯物を部屋の前の廊下に張った洗濯紐に掛けながら洩らした呟きに、なぁー、とクロが鳴く。持って行かなかった、と聞こえたような気がした。なんだか謂れのない焦燥感を覚える。
「迎えに行かなきゃ」
 洗濯物を干し、クロをざっとタオルで拭いた雪男は傘を手にバタバタと寮を走り出る。
 スーパーの前で待ってるかな。肩にはいつもの刀袋。手にはスーパーの袋を提げて、参ったなぁ、と空を見上げる燐が見えたような気がした。歩調がついつい早足になる。運動靴にチノパンツ。長袖の丸首シャツにカーディガン。さっきまではそれで十分暖かかった。だが、今はざぁと音を立てて降る雨で少し気温が下がったような気がする。雨が傘の柄を持つ手を濡らして、風を切って歩くとひやりとした。
 それでもずいぶん暖かくなったなぁ。雨に煙る静かな住宅街を通り抜けながら、ぼんやりと思った。
「いない…?」
 いつものスーパーをぐるりと一周する。タイムセール開催中、と言う店内アナウンスが流れるが、商品の置いてあったワゴンやショーケースはからっぽだ。既に戦いは終わってしまったらしい。夕飯の買出しに来ていた奥様方もとうに帰途についたのだろう。閑散とした店内がなんだかうら寂しかった。
 商品の並んだ棚の間を見て回るが、兄の姿はない。
「すれ違っちゃったかな…」
 ありあとござーしたー、と舌足らずのバイト君の声が雪男を店から追い出す。
「っとに、どーしちゃったんだよ」
 普段遠慮なんてしないくせに、なんでこんな時に『傘持ってきて』とか言わないかな。来た道を帰りながら、一くさり文句を言う。荷物を抱えて、ずぶ濡れになりながら走って帰る燐の姿が浮かぶ。ありそうでずいぶんとリアルに想像できる。でも、さっき通ってきた道では誰ともすれ違わなかったはずだ。
 ポケットに突っ込んできた携帯を確認する。デジタル表示の時計が点滅を繰り返すだけで、着信もメールもない。がらんとした画面がワケもなく腹立たしい。
「ちぇ、電話くらいしろよ。バカ兄」
 ワケの判らないメールを送ってきて、電話にも出やしない。雪男は道の途中にある神社の前で足を止めた。こんもりとした鎮守の森が雨を遮っている。雨模様の夕暮れに一足先に社が闇に沈んでいた。
 兄の番号を呼び出しながら、一本だけ植わった立派な桜の木を見上げる。黒い枝が曇り空にもくっきりと突き刺すように伸びていた。
 呼び出し音が途切れる。燐が出たのだ。
「もしもし、兄さん?」
 少しぶっきら棒に呼びかける。
『え?』
 電話の向こうで、低い声が驚いたような声を出した。燐の声ではなかった。
「え?あれ?兄さん?」
 慌てた雪男も他に聞きようがなくて、思わず繰り返す。
『え?えー?えーと、誰?』
 躊躇ったような声が聞こえる。どうした?と電話の向こうから、やたらとうるさい何かの音楽と人のざわめき、そして友人らしき声が聞こえた。いや、なんかしらねーヤツ。と電話に出た相手が答える。雪男は思わず通話画面を見た。表示は燐の番号が映し出されている。
『もしもーし?アンタ誰ー?』
 苛立ったような声が受話器から漏れてくる。
「あの、それ奥村燐の携帯じゃ…」
『は?ちげーよ』
 ぶつん、と無愛想な音を立てて通話が切れた。
「どういうこと…?」
 想像もしなかった事態に思考が止まる。震える手で発信履歴を見る。『兄』の文字と番号が一番上に表示される。その下は数日前に掛けた番号が表示されている。つい最前に掛けた番号が燐の携帯で間違いない。つまり、燐が出なければおかしいはずなのだ。
 携帯をどこかで落としたのだろうか?考えにくいが、誰かに絡まれて携帯を盗られたのか。
 一つ深呼吸をすると、もう一度燐の番号に掛ける。同じ相手が出たら、事情を説明するしかない。しかし電話はつながらなかった。正確には、規定の回数コールをして、そのまま留守番電話サービスへと繋がってしまったのだ。さっきの相手すらも電話に出ない。
 余計に頭が混乱する。
 三度留守番電話サービスのアナウンスを聞いて、雪男は諦めて携帯を切った。
 厚く垂れ込めた雨雲の向こうで、日が落ちてきたのだろう。周りが一気に薄暗くなってくる。またほんの少しだけ気温が下がったような気がした。
 雪男は傘を開いてとぼとぼと帰り道を歩き始める。何ともいえない脱力感があった。
 なんなんだ。なんなんだろう、一体。
 腹が立つような、もうどうでもいい、と投げやりになるような。
 なんなんだよ。
 闇に沈んでいく道を、力なく歩いた。
「ただいま…」
 ぼそりと呟く。雪男の後ろでがちゃりと派手な音を立てて玄関の扉が閉まった。
 とっとっと、とクロが走り出てきてちょこんと床に座ると、なぁん、と鳴いた。同時にぱたぱたと言う音が響く。
「おー、雪男。お前どこ行ってたんだよ?」
 ひょこっと顔を出した燐は、やはり雨に降られたらしい。中途半端に裸でタオルが首に掛かっていた。
「あーあ、ずぶ濡れじゃねーか。お前傘持ってるクセになんで濡れてんだよ」
 頭から足まで縦に半分濡れている。傘を差してはいたが、ただ広げて持っていただけで、確かに雨を防ごうと言う持ち方ではなかった。と言うより雨も何もかもがどうでもいい、そんな気持ちで帰ってきたのだ。しょーがねーな、と笑う燐に思わず怒鳴る。
「兄さんこそ、なにしてたんだよ!」
「何って、特訓行って買い物してたんだよ」
 ぶっきら棒に答える。別に悪いことしてないのに、なんで怒られるんだ、と言う不満がありありとしている。ああ、そうだ。雪男は急に色々なことがはっきりしだしたような気がした。
 自分は何をしていたんだろう。
「…ごめん、なんかちょっと変なことがあってさ」
「ちょっと待ってろ、タオル持ってきてやっから」
 奥へ駆け出そうとする燐の手を思わず掴む。
「おい、雪男…!」
 そのまま抱き寄せて肩口に顔を埋める。燐の体がびくりと震えた。兄の暖かさに安心して、改めて肩に力が入っていたことに気がつく。
「うわっ、お前冷てぇ!」
 自分ひとりで勝手に心配して、走り回って、よく判らない現象に遭遇して、混乱しただけなのだ。まったく、今日の僕はなんだかおかしい。寝ぼけてでも居たのだろうか。
「おい、風邪引くぞ?」
 燐がごしごしと雪男の髪の毛を拭く。
「ごめん」
「…いーって」
 早く体拭け、と燐がくしゃりと頭を撫でた。
 
 流れた湯の音が止むと、風呂場の窓に雨粒が当たる音がする。まだ雨は降っているらしい。
「なんだソレ」
 いっそ面倒だとそのまま二人で風呂に直行した。温かい湯船に浸かるとかじかんだ体が解れていく気がした。暖かくなったとは言え、雨に濡れれば体も冷える。ほう、と安堵の溜め息を吐いた雪男は、ばしゃりとお湯を掛けてくる兄に仕返しをしながら、一連の顛末を話した。その感想が『なんだソレ』である。
「イミわかんねー」
「僕もわかんないよ」
 指についたしずくをぼやけて見えない兄に飛ばす。
「俺メールしてねーぞ」
「そっからかよ」
 雪男はどっと力が抜けていくのを感じる。
「そのあと兄さんに電話したのに、全然出ないし。だから、『マシってなんのこと?』ってメールしたのに返事もないし」
「で、急に雨降ったから、俺迎えに出てくれたって?」
 ニヤリと笑う燐の言葉に、雪男は思わず俯く。恥ずかしくてしょうがなかった。
「…心配になったんだからしょーがないだろ」
 言い訳してみるが、よく考えれば全然筋が通らない。なぜ自分が急にそんなことをしたのかすらも、今はもう判らなかった。でもその時は迎えに行かなくては、とそう思ってしまったのだ。
「で、スーパーまで行ったんだけど、いなくてさ。で、兄さんに電話を掛けたら全然知らない人が出たんだ」
「打ち間違えたんじゃねーの?」
「登録してある電話帳から掛けたんだよ。いつも兄さんに繋がる番号だし。間違えるわけない」
「ふぅーん」
「向こうもビックリしてた…、と思う…」
「まぁ、いきなり知らねーヤツから掛かってくりゃ、驚くだろ」
 うん、としか答えられない。
「んで、ぶんむくれて帰ってきたワケだ」
 ばしゃん、と燐が湯を掛けてくる。ぶくぶくと雪男は鼻の上まで湯に沈む。
「珍しーな。お前がそんなに混乱してんの見たことねー」
 ばしゃばしゃと湯を掛けながら笑う燐に、もう言ってくれるな、と思う。改めて自分の空回り振りが恥ずかしい。このまま少しお湯の中に潜ってても良いだろうか。
 と、おでこに柔らかいものが触れた。
「?」
 目の前に兄の顔がある。少し照れたように目を逸らして『ありがとな』と呟く。もうなんだかそれだけで、意味の判らない今日の出来事も、不安も苛立ちも全部消えてしまう。そっと手を伸ばして燐の体を引き寄せると、燐の顔にキスの雨を降らせる。
「…お前、まだ混乱してんのか…?」
 からかうような声で、燐が囁く。
「うん、なんかそうみたい」
 くすりと笑って、雪男は燐に口付けた。
 さぁ、と雨の音が強く聞こえたような気がした。ふと、神社で見た桜の枝のあちこちに、ふっくりと蕾が膨らんできているのを思い出した。もうすぐ薄紅色の花を咲かせるだろう。意外と冷静に変なとこ見てたんだなぁと思う。
「ねぇ。桜が咲いたらお花見しに行こう」
 ああ、と燐が溜め息のような返事をする。
「…そうだな、弁当持って行こうぜ」
「うん。楽しみだ」
 ばか、集中しろ、と燐の尻尾が優しく頬を叩く。
 この不思議な形をした町が、桜の花の色に染まるのは不思議な光景だ。まだちょっと冷たくて、それでもずいぶんと暖かくなった雨が、硬く眠りについていた花を優しく肩を叩いて起こしているような気がした。
 
 

–end
せんり