夢の箱

 わー!振り切れすぎたー!と本人は思っております。記述ほとんど(?)ないので、しれっと普通の所で載せようとしてますが。
 多分鉄板の、俺さえいなければ…的なヤツです。燐は直感が第一のヒトなので、後から「あれ?」って自覚することがあると思います。すごく簡単に言ってたけど、実はそう簡単じゃないんじゃね?とか。本編でもこれからずっと考えて行かなきゃいけないことが色々でてくるんじゃないのかなと。雪男とは両極ですね、きっと。彼の場合は、最初にありとあらゆる可能性を考えて、考え抜いてくるので、いざ聞かれた時にはもう覚悟が決まってる感じがします。
 

【PDF版】夢の箱

 
 
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 任務の真っ最中だった。
 随分昔に放棄されたらしい廃墟―かなり古い時代の洋風の建物だと、雪男が言っていた―で、中級の悪魔を祓う任務だった。前方の敵に集中していた祓魔師たちの背後から、悪魔が出た。後ろからも来るぞ、と注意したのだが、候補生《エクスワイア》如きの意見は腹立たしいことに無視された。
 無視されたからと言って、ソウデスカと仲間を見殺しに出来るわけがない。そんなこと、当たり前だ。
 だから、時間稼ぎのつもりで、後から出てきたトカゲみたいな姿の大きな悪魔に飛び蹴りを食らわしてやった。
 その後、どうなったのだかはっきり覚えていない。
 蹴った身体が急にぐらりと傾いた。視界がちょっと横になったから、それは確かだと思う。多分悪魔が倒れたか、蹴りを入れられて身体を捩ったかしたんだろう。それに自分が巻き込まれた。
 そこから、なんかやたら時間がゆっくりになったような気がした。
 自分を呼ぶ声がした。塾生のみんな、そして悲鳴のような雪男の声。時間が止まったように、雪男の酷く慌てた顔だけが妙にはっきりと目に映った。
 ああ。
 俺はお前にそんな顔をさせたいんじゃないのに。
 お前が幸せで、笑っていてくれたら、それでいいんだ。
 俺の大事な、たった一人の弟。
 ひじが硬いものに当たって突き破る感覚があった。扉に嵌っていたガラスだろう。弟の手がもどかしいくらいにゆっくりと自分に差し伸べられる。届いたか届かないかの所で、身体に衝撃が走って、視界が真っ暗になった。
 
 
 は、と目を覚ます。頬が痛い。目の前に焦点が合って、やっとぼんやりとしていた格子柄が石畳だとわかった。
「どこだ…、ここ…」
 がばりと身体を起こして、身体を見てみるが、ケガは治ってしまったようだ。制服のあちこちがかぎ裂きになったり、破れたりして赤茶色の染みがついていたので、ケガをしたのだと判る程度だ。
 頭をめぐらせて周りをみる。正十字学園町の見慣れた街角のようだった。
 だが、暫く見回してみて、あれ、と思った。良く知っているような感じなのに、違和感がある。はっきりとドコ、とは言いがたい。だが、気がついてしまったら、その町並みの違和感の方が、あれよと言う間に大きくなっていく。
「…ここって、ドコだ…?」
 燐はそろりと立ち上がった。
 洋風と和風の建築様式が混ざったような、少し古い雰囲気の凝った装飾がついた建物だ。モルタル、漆喰、レンガ造りの壁に、屋根の先端が反り返った瓦葺の屋根がついていたりする。洋風でありながら、中国やアジア圏の文化が混ざったようなビルが建ち並んだ町並みだった。低い建物でも五階以上。高ければ十階以上はあるだろう。だろう、というのは、数えられたのは十階辺りまでで、それ以上は薄い靄に包まれたのか、低い位置まで雲が垂れ下がっているのか、煙って真っ白だったからだ。その向こうから光が照らしているのだろう。靄だか雲だか判らないものに遮られていながら、目映いほどの光に照らされて視界は開けていた。辺りに人の気配はなく、痛いほどの静寂が辺りを満たしている。
「うへ、すンげー静か…」
 あちこちを見回しながら、燐は適当に足を踏み出した。こういう判らない所に来たら、雪男はきっとあちこち様子を見たり、迷ったりしないようにあれこれ考えて動くだろう。
 だが、結局最後はどう歩こうが行き着くべきところに行き着くのがオチ。ならば、好き勝手に歩けばいい。それが燐の持論だ。
 その持論に従って足の赴くままに、懐かしいような、知らないような通りを歩き始める。
「あれ、なんの店だ?」
 漢字読めねー…、と自嘲気味に呟いた。見たことのない文字がずらりと並んでいる。漢字なのだろうと思うが、左半分にも、右半分にも―上下とか、辛うじて幾つかの部分に分かれそうだ、と言うのは判る―見覚えのない形が並んでいる。そこに例えばアルファベットや、数字のように違う文字が並んでいたとしても、見分けがつかないのだから、見当もつけられない。
 一軒家のような背の低い建物が見当たらない。だが、ビルの一階は必ず店舗が入っているらしい。その内の何軒かは、歩道に向けて扉が開放されていた。それなのに、人の気配がない。
 片側二車線の車道には、車の通りが全くなかった。道端の所々にバス停と思しき簡易な屋根が掛かって、ベンチが設えられているが、そこで待っている人影もない。
「なんだここ…」
 流石に尋常ではない、と気づいた燐は焦りを覚えた。
「道聞こーにも、誰もいねーし」
 その言葉が聞こえたように、行く手に一軒の店が現れる。大きな日よけ布が斜めに張り出て、濃い影になった軒先に出した台に大小さまざまな箱が並べられている。その後ろに店主と思しき男が居た。少し小太りで口の周りに髭を蓄えている、優しげな顔をした男だ。箱を一つ一つ手にとって、丁寧に布で拭いていた。
 ラッキー、と呟いた燐が足早に店に近付く。
「スンマセン。ここ、ドコっスか?」
「おや、珍しいお客さんだ」
 燐の声に手を止めて顔を上げると、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「大方迷い込んだんだろう?」
 言い当てられて燐は素直に頷いた。
「スゲーな、おっさん。何で判った?」
「アンタみたいなのはすぐ判る。なに、すぐに帰れる。心配はいらんよ。茶でも入れてやろう」
 男は店先にある椅子を『座れ』と言うように指差すと、店の奥に消えた。燐は店主が去った後を追うように店の中を覗き込んだが、真っ暗で何も見えなかった。外が明るすぎたせいだろうか。一つ溜め息を吐いて、燐は示された椅子にどっかりと腰を下ろした。ぼんやりとそのまま町並みを眺める。
「ほれ、飲みなさい」
 暫くすると、カップを手に戻ってきた店主が、一つを燐に差し出した。無骨なマグカップからは湯気が立っている。香りからするに、ミルクティのようだ。ふうふうといい加減に吹いて、一口啜ると熱が喉から胃に落ちて、そのまま体中に広がっていくような気がした。思わず、ほぅ、と深い安堵の溜め息を吐いて、ここは若干寒いのだ、と気がつく。ここに迷い込む前は初秋と言いながら、夏の盛りのように暑い場所にいたのに。店主はそんな燐の様子をみて、小さく笑っただけで何も言わず、自分の分のミルクティをゆっくりと味わっていた。
「おっさん、この店の名前なんて読むんだ?」
 燐が頭上の日よけ布を見ながら尋ねる。布の裏側から、見たことのない文字が逆さに透けて見えた。
「『えふぇめえる』」
「えふぇめーる?」
 きょとんと聞き返す燐に、男は小さく笑ってそのまま何も答えずに、木箱をずっと磨いていた。
 台の上に並べられた大小の木箱には、凝った模様が彫られている。所々金属などが象嵌されたものもある。店主はその一つ一つを取って、ツヤ出しの油を塗って磨いているのだった。油を塗られた箱は、深い茶色の肌をつやつやと輝かせた。燐はその手元を魅入られたように見つめた。
「なぁ、ここ何の店?それ、オルゴール?」
 燐の矢継ぎ早の質問に、店主がくすりと笑って小さな箱を手渡す。数センチ四方の立方体で、ちょこんと燐の手のひらの上に乗っかった。
「へぇ、キレーなもんだな」
 ツヤのあるこげ茶色の塊を、目の高さでためつすがめつ一頻りひっくり返すと、耳の傍で箱を振った。
「エライ軽いな。オルゴールじゃねーか」
 ころりと手の中で転がすと、静かにふたが開いた。深い色合いの赤い布が内側に丁寧に貼ってある。
「空っぽじゃん」
 だが、その空っぽの空間に釘付けになったように目が離せなかった。
「これは夢の箱だ」
 男の低い声が心地よく流れ込んでくるようだった。同時に頭の芯が痺れたようになる。身体が重くなって動かすのも億劫だ。
「ゆめのはこ…?」
 怪しい呂律で、少しでも意識をはっきりさせようと喋る。
 ――そう、望む夢を見せてくれる箱だ――
 望む夢?
 俺の望む夢ってなんだ?
 だんだんと頭が重く鈍くなってくる。周りの状況もなんだか目に入らない。起きているはずだと思うのに。指一本動かそうにもなかなか力が入らない。そんな状況で『望む夢』と言う言葉だけがはっきりと、まるで頭の中に刻み込まれたようにそこにあった。
 ふと、雪男の笑い顔が浮かんだ。
 俺は、お前が幸せで笑ってるならそれでいいんだ。
 じゃぁ、雪男の幸せって…?
 
 
「にいさん!起きろよ!」
 肩を揺すられて、はっと目を覚ます。
「もう。こんな時期に公園なんかで寝るなよ。風邪引くだろ?」
 紫色の夕焼けに照らされて、呆れたような顔つきで雪男が覗き込んでいた。燐は寝転がっていたベンチから身体を起こすと、一つ欠伸をした。
「おれ…、何してたんだっけ…」
「呆れた。どっかに記憶でも落としてきたの」
 さぁ、帰ろう、と促す雪男の姿に違和感を覚える。
「あれ?お前なんで制服違うんだよ」
 真っ黒な詰め襟。襟と身頃、袖の縁に飾りがついている。見たことのない制服だ。そう言う自分は丸首シャツにフードつきのトレーナー、ジーンズと中学時代とあまり変わらない格好だ。
「違いやしないよ。僕の高校の制服じゃないか」
 何言ってるんだ、と不思議そうな顔の雪男に、燐の方が慌てる。そんなはずはない。
「だって、お前。正十字学園に入っただろ?首席でさ」
「正十字学園…ってドコ?」
「え…?」
 ひたり、と雪男が心配そうな顔で額に手を当ててくる。
「兄さん、やっぱり熱でもあるんじゃないの?」
「ウルセー。俺は悪魔なんだから、風邪なんてひくワケねーだろ」
 額に触れた手のひらは、知っている通りの感触と温かさを持っていた。自分なんかに優しく触れて、色んな反応を引き出して、おかしくさせるその手だ。つい最近の記憶が甦ってきて、どきんと心臓が一つ鳴った。だが、すぐに我に返る。何考えてんだ、俺は。思わず手を払い除けた。
「…兄さん。幾ら周りにそんな風に呼ばれてたからって、自分からそんなこと言わないでよ。兄さんは兄さんだ。悪魔なんかであるはずないだろ」
 心配そうな顔をする雪男の言葉に、思わず目を見張った。
「な…に、言って…。俺ほら、耳尖ってっし。牙もあるしよ、しっぽだって…」
 自分の後ろで揺れるいつもの感覚がなくて、思わず腰に手をやる。自分の感情を自分以上に素直に表す、細長い存在がそこにはなかった。
「どこにあるって?」
 同じように燐の腰を覗き込む。
「いやいや、ちょっと待て。マジだって。俺悪魔として覚醒したろ?んで、お前が祓魔師《エクソシスト》で」
「なに?夢の続き?」
 雪男が堪え切れない、と言わんばかりに吹き出して、一頻り大笑いする。
「ごめんごめん。悪魔やエクソシストなんて、作り話じゃないか」
 俺は呆然としていたのだろう。
「さ、帰ろうよ。僕お腹空いた」
 笑いながらカバンを肩に担ぎなおした雪男を見つめて、燐は何故かほっとしていた。
「なぁ、雪男…」
「ん?」
 前を歩く弟が足を止めて、促すように燐の顔を見た。
「お前…、医者になんのか?」
「うん。そのつもりだよ」
「そっか…」
 どうしたの?と問う顔に、暫く逡巡してぼそりと呟いた。
「ジ…、と…、と…さんは…?」
 藤本獅郎を親父《ジジィ》と呼んでいたが、素直になれない照れ隠しだった。なんと呼んでいいか判らず、適当な言い方になってしまう。
「神父《とう》さん?なんで?」
 雪男はまったく判らない、と言わんばかりに首を傾げている。
「その…元気か?」
「なに言ってるんだよ。元気も何も、今朝一緒にご飯食べたろ」
 少し疑わしい顔つきになった。燐の何かを推し量ろうとする顔だ。
「まさか…」
「ケンカじゃねーよ!してねーって。マジで」
「どれ」
 雪男が燐の手をとって、拳を確認する。
「どこかケガは?」
「してねーって、しつけーな。信用しろよ」
 叱るように自分を見つめてくる雪男の視線にたじろぐ。
「…判ったよ」
 雪男は溜め息を一つ吐きながら燐の手を離すと、踵を返して歩き始めた。何となく、その仕草に燐は落ち着かなくもあり、ほっとするような気分でもあった。
 ――距離が少し遠い…。
 ふと、腑に落ちる。
 そうか、これが『望む夢』なんだな。俺は悪魔じゃなくて、だから雪男は医者を目指してるし、親父《ジジィ》も生きてる。それを望んでたんだ。
 雪男に触られるのは嫌いではない。
 むしろ好きだ。ただ触るだけじゃない、それ以上のことも。
 男同士の上に、兄弟で。罪深いことこの上ないけれど、それならそもそも、自分が悪魔であること以上に罪深いことなんてあるのだろうか。
 しかも、そんな関係を結んだ上に、雪男は自分を好きだと言ってくれた。いつからあったのかわからない、この気持ちに相手が応えてくれる。それ以上に嬉しいことがあるだろうか?想い想われて、身体を繋いで満たされることが嬉しいのと同時に罪深さも感じていたけれど、それが却って快楽を煽るようでもう止まれなかった。一回踏み外したら、もう後は何度踏み外しても同じなんて、我ながら酷い理屈だ。
 でも、俺が悪魔じゃなかったら?
 こんな気持ちも、一線を越えることもなかったんじゃないか?
 俺が悪魔でなければ。
 最初の一歩から間違ってたのかも知れない。
「お前さ…。幸せか?」
 ぶらぶらと雪男の数歩後を歩きながら尋ねる。
「?本当にどうしたのさ」
「いーから、答えろよ」
「?うん、幸せだよ?」
 そうだよな。それで良いんだよな。
 俺は、お前が幸せなら、それでいいんだ。
「兄さん?」
 こちらを振り向いた雪男の眉間から、一条の光が射す。
「雪男、どうした…」
 夕日を背に浴びて、顔の見えない雪男の身体に、穴が立て続けに開く。その穴から、燐を突き刺すように目映い光が入り込んできた。
「ゆ…、雪男っ!」
 開いた穴に引っ掛けるように指が出たかと思うと、後ろの風景ごと雪男を真っ二つに引き千切った。強烈な光が溢れ出て、まぶしさに思わず目を瞑った。
 
 
 
「…兄さん。目を開けて」
 頬を優しく叩かれて眼を開けると、酷く切羽詰ったような顔をした弟が覗き込んでいた。
「ゆきお…」
 名前を呼ばれて、泣き出しそうな顔になった。
「あれ…」
 辺りを見回す。噴水を中心に丸い広場のような所に居た。そこから放射状に脇道が伸びている。しかも、噴水の水が掛かるヘリに寝転がっていたらしい。制服がびっしょり濡れていた。
「心配したよ。悪魔に蹴り入れた兄さんが扉に突っ込んだは良いけど、どっかへんな所に繋がったみたいで、探しに来るのに手間取ったんだ」
「ここ、どこだ?」
「さぁ?フェレス卿が言うには、鍵があちこちを繋げてるせいで出来る、ひずみだってことだけど」
 人の悪そうな笑みを浮かべて『いわゆる、別の世界と言うわけです☆』なんてほざきやがった、と弟が忌々しげに吐き捨てた。
「アノヤロ、いー加減だなー…」
「まったくだよ」
 燐はぼんやりとする頭を振りながら、起き直ってそのまま噴水のヘリに腰掛けた。相変わらずしんと静かで、人の気配がない場所だった。
「店がねー…」
「店?」
「ああ。木の綺麗な箱を並べた店でさ。望む夢を見せてくれるって…」
「望む…夢?」
 雪男がしゃがみこんで、燐の体をあちこち調べている。兄の言葉を聞き咎めて嫌そうな顔をした。その弟の姿をぼんやりと見る。
「お前、祓魔師のカッコだ…」
「なに言ってるんだよ。当たり前だろ?」
 腕をあちこちへ動かさせたり、ぐるりと回したりさせていた雪男は、手を放し際にぺちんと軽く手の甲を叩いた。他愛もない仕草なのに、たったそれだけで、いつもの雪男だと判る。
 さっきのは、俺の夢だったんだな…。
「お前…、幸せか?」
 ぼそりと呟く。
 俺はお前が幸せなら、それでいいんだ。
「このバカ兄!」
 ごすん、と鈍い音がしたかと想うと、頭頂部に激痛が走る。思わず、ぃってー!と喚きながら頭を抱えた。
「あにすんだ!」
「それはこっちの台詞だよ!『望む夢』?いったいどんな夢見たのさ。今の僕が幸せじゃないとでも?」
 雪男は泣きそうな顔をしていた。
 俺は…。
「そうじゃねーよ!ただ…」
「ただ、何?」
 仁王立ちになった雪男は腕を組んで、鋭い目付きで燐を見下ろしてくる。すべてを聞くまで追及の手を緩める気はない、と態度と口調ではっきりと宣言していた。
「…俺は…。俺はさ」
 ためらいながら、小さな声で切り出した。
「俺が何者だろーが、逃げねーで立ち向かってやろうって思ってた。親父のことも。お前が祓魔師になったことも…」
 少し雪男が落ち着かなくなったような気がする。気まずそうに視線を逸らした。
「だけど…。お前とこうなってさ。兄弟で男同士で…」
「嫌になったの?」
 雪男が遮った。
「違う!俺は嬉しかった。だけど、お前は…?本当に幸せなのか?俺が悪魔じゃなかったら、医者を目指してたはずだろ?祓魔師になって良かったのかよ?」
 一番なりたかった夢を、俺が諦めさせたのではないか。雪男は何にだってなれる。俺はそれを応援したいし、その夢が叶うならできることは何だってしてやりたい。だけど、本当はその俺が可能性を奪ってしまったんじゃないか。雪男と一緒に居る、それが嬉しかった。だが、ふと本当にコレで良いのか、と言う思いが常に心の片隅にあった。まるで冷たい刃が喉元に突きつけられていて、目を背けようと、けしてその存在を忘れることが出来ないように。
「だから、俺は…っ!」
 言い終わる前に、再び鈍い音がして、頭に激痛が走る。いってーな!と怒鳴る前に、雪男がこめかみを拳骨でぐりぐりと押した。
「イデデデデっ!放せよっ!イテーっての!」
 ふ、と溜め息と共に、雪男の手が燐の頬に触れる。
「バカだな、兄さん」
 泣きそうな顔をして、燐を抱き寄せた。
「僕は強くなりたくて、望んで祓魔師になったんだ。勝手に僕の幸せを決めるなよ」
 燐の体を抱く手に力が篭る。その手がわずかに震えていた。そろそろと手を雪男の背中に回す。
「それに僕は兄さんを手放す気なんてない。兄さんが嫌がっても、知らない」
 もうその言葉だけで良いと思った。
「俺も。お前が嫌っつっても、離してやんねーから」
 カクゴしろ。雪男がうん、と呟いて互いの体が離れてしまうのを嫌がるように、さらに抱き寄せた。しがみついている祓魔師のコートから、微かな硝煙の匂いと雪男の体臭がした。
「…兄弟揃って、バカだな」
 うん、と吐息のような答えが首筋に落ちた。
「…なぁ、雪男。そろそろ離せって」
「…」
 雪男の背中を宥めるように叩く。
「なんだよ、兄ちゃんどこにも行かねーから。離せって」
 苦しいっつーの。
「の割には、しっぽが離してくれてないけど…」
 雪男が足に絡みついたしっぽを指摘すると、じれったそうに頬に口付ける。
「バカ、こんなとこで…」
 他に人の姿が見えないとはいえ、一応街中だ。確かめるように体中を撫でる雪男の手を、手としっぽで思わず叩く。
「早く帰ろーぜ」
「やだ」
「やだとかゆーな。だいたい…、こんなトコじゃ落ち着かねーしよ」
 外でとかイヤだぞ。んな恥ずかしいこと出来るか、と雪男の身体を掴んで引き剥がしに掛かる。
「帰ったら事情聴取とか、報告書とかで忙しくなる…」
 縋るような目で覗き込んでくる。ちぇ、結局俺はこの目に弱いんだ。だがしかし。ここでしょうがないなと許したら、そのままこの場でコトに及びそうな勢いだ。燐も半分くらい満更でもないような気持ちだったが、役目を放棄しそうな理性をかき集めて、押し流されそうになる自分に、ちょっと待て、と歯止めをかけた。アニキとしてもマズイって。
「じゃぁ、どっかその辺の路地…」
 首筋を啄ばみながら、弟が掠れた声で囁いた。
「アホか!結局外じゃねーか!」
 ぺしん、としっぽで頬を張る。
「判った」
 叩かれた勢いでずれたメガネを直すと、苛立ったように呟いた雪男は燐の手首を掴んで引きずるようにして歩き出す。
「おい!お前どこに行くつもりなんだよ!」
 石畳の道を蹴りつけるように足早に歩いて、雪男はとある建物の前で立ち止まる。道から二、三段上がった階段の上には、金色をして凝った飾り枠のついた両開きの扉があった。入り口の上にはアーチ型の小さな布の屋根が突き出していて、相変わらず判らない言葉が書いてある。その扉を押して、雪男は中に入って行く。手を掴まれている燐も仕方なく後に続いた。
「おい、雪男。どこだよ、ここ」
 中は落ち着いた雰囲気の広い空間で、あちこちに観葉植物と肘掛け椅子、ローテーブルが配置してある。一角にはカウンターがあり、その奥には小さな四角い棚がずらりと並んでいた。埃、チリ一つ落ちておらず、綺麗に磨き上げられている。人が一人もいないのだけが異常だ。
「ホテルだよ」
 燐の顔をちらりとも見ずに、雪男が答える。相変わらず手を握ったまま、木製の大きな階段を昇り始めた。
「ホテル!?お前、あの文字読めんのか?スゲーな!」
「いや、勘」
「勘!?」
 驚いて口も利けないまま、雪男に引きずられるように二階に上がると、左右に廊下が伸びていた。両側には金色のドアノブがついた、こげ茶色の扉がずらりと並んでいる。雪男は勝手知ったると言わんばかりにその内の一つに近づくと、扉を押し開いて燐を引きずり込む。その勢いのまま、兄の身体をベッドの上に放り投げた。背中から柔らかく落ちたマットレスが、体重で派手に軋んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 雪男は無言で燐にのしかかってくる。
「お前、目がマジでこえー…」
「…これ以上焦らされるとか、ムリ」
 待てよ、と喚いて雪男を引き剥がそうとする燐の腕を、易々と押さえつけて深く口付けてくる。首を振って逃れようとする顎を掴まれて、舌が差し込まれた。
「ちょ…、勝手に入り込んで…っ、いーのかよっ!」
 存分に嬲られて口が離れると、足りなくなった空気を吸い込みながら燐は抗議した。ホテルの部屋に入るには、それなりに手順が必要なことくらい燐だって知っている。
「いーんじゃない?」
 首筋を強く吸い上げながら、どうでも良さそうに雪男が返した。
「おまえ、そんないーかげんな…」
「兄さんこそ、今更往生際悪いよ」
 いつの間にか緩められたネクタイが引き抜かれる。雪男がそれを後ろ手に放ると、抵抗するように身を捩りながら布切れが滑り落ちていった。弟の手が燐のシャツのボタンを外そうとしながら、もう片方の手で自分の腰に回したベルトと祓魔師のコートを脱ごうと躍起になっていた。
「わーってるよ…」
 一つ溜め息を吐いて、なかなか外れない道具入れのベルトを緩めた。
「ただ、途中で追い出されたりしたらイヤだから、…心配なだけだ」
「きっと大丈夫だよ」
「いー加減だな…」
 他のことなんてどうでもいいよ、と呟いて、雪男の手がわき腹を這い回る。鎖骨を強く吸い上げられて、刺激に身体が思わず震えた。きっと赤い痕を残しただろう。
 
 
 いささか覚束ない足取りで建物の外に出る。それまでと変わらず明るかった。まるで時間でも止まったようだ。ここには、夕方とか夜の時間帯は存在するんだろうか?
 考えてみれば、何の匂いもしない。自分たち以外に匂いを発するものがなければ、そんなものだろうか。随分前のように感じるが、不思議な店で飲んだ紅茶は、ちゃんと匂いがしていたような気がする。艶出しの油も甘いような香りがしていた記憶がある。今はそう言った町全体に漂う匂いすらも感じられなかった。
「ここは…、どこなんだろうな?」
「さぁ。どこでもあり、どこでもなし。でも、どうやら人の気持ちに反応するみたいだ」
 雪男が白い靄で蓋をされた空を見上げる。先ほどまでの情事の跡など微塵も感じられない。
 ちぇ、俺またへんな気分になってきたってのに…。だが、幾らなんでも流石に度が過ぎてる。思い切るようにふるふると頭を振って、邪な気持ちを追い出すと燐も空を見上げる。
 雨が降ったり、雪が降ったりするのだろうか。そもそも、この靄は晴れることがあるんだろうか?
「さっきのホテルも、勘、と言うより、僕の希望が現れたみたいだ」
「あんなスゲーとこ?お前あんな高そうなとこ泊まったことあんのかよ?」
 任務で何回かね。事も無げに言う雪男においていかれたような気がして憎たらしい。
 部屋の中はいっそ『暗い』『陰気』と言ってしまいそうなくらいどっしりした雰囲気で、木のこげ茶色、壁紙やカーテンなどは暗い色調で統一されていた。あんな部屋に本当に泊まろうとしたら、目が飛び出るような金額を請求されることになるだろうと言うことくらい、燐にも辛うじて判る。
 他に適切な宿泊施設や部屋がなかった、と言う可能性もあるが、雪男はそれだけ遇される力を持った存在なのだと思うと、アニキとしてどーよ?と悔しいという気持ちが沸いて来る。それだけに早く目の前の存在に、頼ってもらえるようになりたかった。がむしゃらに『俺を頼れ、信用しろ』と言えば良いワケではないことも理解している。それに、雪男が望んだ道に一緒にいるなら、それこそ対等だと認められたかった。
「帰るか」
 雪男が、そうだね、と微笑む。その表情が自分だけに向けられている。身体を繋げていた時とはまた違う、満たされた気持ちが湧き上がってくる。
 二人で一緒に居る、それでいいのだ、とそう思えた。
 帰り道など知らないはずなのに、どっちとも聞かず、どこへとも聞かずに、同時に同じ方向へ足を踏み出す。不思議なほど燐の心が落ち着いていた。なんだか雪男の考えることが全て判るようだ。それはここだからだろうか?
 ――望みの夢が見たくなったら、またおいで――
 ふと、あの店主の声がしたような気がした。
 こねーよ。
 燐はふ、と鼻で笑った。
 アイツが俺と一緒に居ることを望んでくれたんだ。それだけでいい。他の夢なんて要らないから。
 

–end
せんり