ピグマリオン

 途中に出てくる『ビー玉を口に入れたまま喋る』というのは、『マイ・フェア・レディ』と『英国王のスピーチ』でもやっていてね、あの訓練は一般的なものだったのかと言う話を、自分が如何にオードリー・ヘップバーン好きか、と言う話と合わせて、なおとくんにものすごく熱く語ってしまい、『ぜひそのビー玉のとこをやれ』とリクエストを頂き、この話になりました。
 いやぁ、そうしたらコスプレっぽいパラレルを書くはずが、なぜかこんな形に…。おかしいな。
 山猫軒の記述は、なおとくんが書いてくれました。ありがとうございます。
 

【PDF版】ピグマリオン

 
 
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【ピグマリオン効果】親や教師の子供に対する期待が生み出す、子供をその期待通りに成長させる効果。ギリシア神話のピグマリオン王にちなむ。――広辞苑
 
 
 歩き疲れて、とうとう歩みを止める。疲労から奥村雪男は一つ、深い溜め息を吐いた。こめかみから流れてきた汗を拭う。
 山道を歩くためのブーツを履いているとは言え、数時間ぶっ続けで歩けば足も相当に疲れる。それに祓魔師の長くて重たいコート、祓魔用の銃を二丁、換えの弾倉《マガジン》、魔除薬《ワクチン》やその他薬、道具などを納めたポケット。万が一の場合の祓魔道具や非常食、水を入れた装備のカバン。それだけ身につけていれば、相当な負荷になるだろう。噴き出す汗と、体を動かし続けた暑さに耐えかねて緩めた襟元を、風が吹き抜けて少し生き返ったような気持ちになる。
「どーした?」
 兄である奥村燐は、疲れたのか?とからかうように笑う。くそ、相変わらず無駄に元気だ。だいたい笑ってる場合か。
「ちょっと一旦止まろう」
「何だよ、だらしねーな」
「道に迷ってんだよ!」
 燐の暢気な言葉に、思わず怒鳴る。
「だいたい、兄さんが一人でどんどん先に行くからだろ!見てみろよ、他の人たちともはぐれたじゃないか!」
 とある山に入った登山客、猟師、山菜採り、キノコ狩りなどに出かけた人々が次々と迷い、悪魔に遭遇する事例が発生した。
 保護された被害者は、一様に放心状態にあってうわごとを口走る。その内容も要領を得ず、困っていたところに比較的正気を保った状態の人が保護された。
 その人の話の拠ると、比較的登りやすい山で、十分慣れていたのに突然迷ってしまったらしい。ほぼ全域を把握しているはずなのに、知っている場所が見当たらない。難儀していると、一軒家を見つけた。最近誰かが移ってきたと言う話は聞いていないはずだと思いながらも、そこは迷ってもいるし、困っているし、疲れてもいる。藁にもすがる思いでその家に行くと、最初は食べ物や水を提供された。居心地の良い家で助かったと安堵したが、暇乞いをしようとすると引き止められた。あまりに何度も引き止められるので、恐ろしくなったその人は窓を突き破って、這々の体で逃げ出してきたのだと言う。
 依頼を受けて、悪魔の仕業と結論づけた正十字騎士團は、そこそこの規模の祓魔隊を派遣した。燐たち候補生《エクスワイア》はその助手で駆り出された、と言うワケだ。
 ところが、いざ山に入った隊は、歯が抜け落ちるようにボロボロと迷いはぐれる者が続出した。雪男が引率していた候補生たちも、知らない間に本隊とはぐれ、ついに奥村兄弟も他の生徒たちとバラバラになってしまい、もう訳の分からない場所にいる。
 携帯を見ても電波は圏外。コンパスを見ると針が定まらず、ぐるぐると無駄に回り続けている。これ以上進むと、悪魔に遭遇する以前に遭難してしまいそうだ。
 この現状が、兄が勝手にどんどん進んだせいなのか、山に現れる悪魔のせいなのか判断できない。雪男が思うに、完全に負の相乗効果ってヤツだと思う。
「雪男!見ろよ」
 燐がウキウキした口調で雪男の注意を引く。少しは自分のせいだって自覚してくれよ…。
 燐の指さす方を見ると、山小屋にしては立派すぎる煉瓦造りの家があった。
 いや、ちょっと待て。そんな家あったか?一瞬目を逸らしたけど、それまでちゃんと視界に入っていたはずの場所だ。
「兄さん、それだよ」
「おう、ちょーど良いから休ましてもらおーぜ」
 いや、そうじゃない。
「じゃなくて!その家だよ」
 燐がきょとんとした顔をする。おい、忘れてんじゃねぇ。
「僕らの任務!」
「そうだっけ?」
 まるで屈託がない。僕ら一体何のために来たと思ってるんだよ。
「なら、ちょーどいーじゃねーか。行ってみようぜ」
「ちょっと…!」
 止める暇もあればこそ、燐はさっさと家屋に向かっていた。雪男が追ってステップに足を掛けた時には、すでに扉を開けて、半分中に体を入れていた。
「兄さん!」
 いきなり飛び込んで行くなんて、なに考えてるんだ!悪魔の口に自ら飛び込んでいくようなものじゃないか。
 ホルスターから銃を抜くと、一見したところ豪華な作りの入り口を見回す。こんなことをして良いのか、自信がない。だが、状況を打開する為には、どうしようもない。ためらわずに、扉に向かって引き金を引いた。
 扉のガラスが砕け散り、取っ手の金具がひしゃげ、木片を撒き散らしながら穴が開いた。それまで刷りガラスの向こうに見えていたはずの部屋の明かりが消えて、真っ暗になる。雪男は扉を蹴り開けて中へ飛び込んだ。
 
―――二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲を担いで、白熊のやうな犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云ひながら、あるいてをりました。
 宮沢賢治の『注文の多い料理店』の書き出しは、このように始まります。
 狩りの収穫はナシ、空腹になる、引き返そうかと話していたところに二人はやがて注文の多い西洋料理店『山猫軒』に辿り着きます。案内人さえまごついて消え、猟犬もめまいを起こして斃れて、どれだけ深いかもわからないほどの山奥の、ざわざわ鳴る芒のなかで。
 彼らはどのような選択をしたか。
 いずれにしろ、物語というものは、語られるものやことがなければ成立しないものです。
 同様に、悪魔とて惑わす人心やらがなくては出現した甲斐もなく、上級ほど人に取り憑きたがるもので、それほどに人が好きなのかと問われればそうだが何か?と返されるのかも知れません。
 さて、いま私たちは、祓魔任務中に仲間ともはぐれ、討伐対象である敵の本陣に着いた奥村兄弟を見ています。
 騙されると知って進む足と、知らないで前に進める足は一体どちらがより、重いのでしょう?
 彼らは、待たれている。
 
「あれ?」
 雪男は思わず目を瞬いた。ぴかぴかに磨きあげられた焦げ茶の木材が基調の、重厚な作りの豪華な部屋だ。
 銃を構えたまま、油断なく部屋の中を見回す。ソファ、ローテーブル、サイドボード、部屋の片隅にはピアノ、どっしりした執務机、そして火の入った暖炉。部屋はほんのりと暖かかった。
 二階が吹き抜けの回廊になった壁には、天井までの書架が設えられており、ぎっしりと本、そして人の頭の模型が詰め込まれている。そこへ通じる螺旋階段が部屋の中に設えられているのは初めて見た。家具はしっかりした造りで、ゴテゴテした飾りはないが、シンプルで使いやすそうと表現するのがふさわしいものばかりだ。
 その中でひときわ目を引くのが、大きな百合の花が開いたようなホーンが天井に延びる、蓄音機だ。そもそもレコードプレイヤーはおろか、レコードも見たことがない。流石に雪男も知識でしか知らなかった。
「ここは…」
 どこだ?
 想像もしていなかった光景の出現に戸惑う。銃を手に部屋をぐるりと見回す。と、部屋に出入り口とおぼしき両開きの扉とは別に、もう一つ片開きの扉があった。続き部屋でもあるのだろうか。そこから、しゃがれたような、呻き声のような声が聞こえてくる。
「なんだ…」
 密やかに近づいて、扉を乱暴に蹴り開けた。
「に…さん…?」
 燐は胸と背中をまっすぐに支える、拘束具のついたような椅子に座り、正面の机に置かれた筒のようなものに向かって『あめんぼあかいなあいうえお』とウンザリしたような顔でしゃべり掛けていた。筒は大きな回転胴につながっていて、低い音を立てて回る筒にぐるりと紙が巻かれている。燐が一言言う度に、紙の上に延びたインク付きの針が左右に振れて、紙の上に乱れた波を書いていく。
 燐は部屋に飛び込んできた雪男を睨みつけると、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がり、顔を真っ赤に染めて怒鳴った。
「おいっ!じょーだんじゃねー!かれこれ三日もぼ…ぼおんだのいんぷれっしょんだの。もうヤメだ!」
「えーと…ぼおん…?母音のこと?」
 辛うじて出た言葉も、即座に言い返される。
「ボインだろうが、ペチャパイだろうがかんけーねーよ!」
 そっちじゃない、とツッコむ間も与えず、燐が続ける。
「お前がマトモな祓魔師にしてやるっつーから、なけなしの金持って習いに来てやったのによ!悪魔を倒す技なんか一つも出てこねーし、やってらんねーよ!」
 手に触れた本をそのまま振りあげて床に叩きつける。
 何となく状況が飲み込めてきた。何らかの世界と言うか、舞台を作り上げて、誘い込んだ人間にその中で役者でもやらせたいのだろう。こんなことをさせて、悪魔が何を見たいのか判らないが…。
 ともあれ、今一番の関心ごとはそれじゃない。目の前の兄は果たして、本当の兄だろうか?
「…にいさん…?」
「あんだよ?雪男」
 伺うような呼びかけへの応えに、当然のように自分の名前が呼ばれる。
「よかった、僕が判るんだ」
「ったりまえだろ?お前は俺のおとーと!俺はお前の兄ちゃん。変わるわけねーだろ?」
 燐がしっかりしろよ、と言わんばかりに軽く雪男の頬を叩く。ほっと安堵の溜め息が出た。
「よかった…」
 頬に触れる兄の手に自分の手を重ねる。暖かくて力強い手。この手が自分の傍にあることが一番だ。手のひらに唇を寄せた。
「なんだ、兄ちゃんに甘えてーのか?」
「ずいぶん心配させてくれたからね」
「なんだ、それ」
 体を引き寄せる。雪男の肩口に頭を乗せる燐の髪に手を滑らせて、顎をそっと撫でた。からかうように燐が見上げてくる。ちらりと牙を覗かせる口元へ顔を寄せた。
「…ばっ…、こんなとこで…」
 音声の振動を拾って波形を記録する装置が、記録紙を巻いた胴をゴロゴロと音を立てて回り続ける。紙の上には、二人の会話が左右に振れた波になって何重にも描かれていた。
「…兄さんだってちゃんと確かめたい」
 体の奥から湧き出てくる衝動に衝き動かされるように、燐の体を掻き抱いて、するりと背中を撫で下ろした。背中に回された兄の腕が、縋るように雪男のコートを掴む。
「あっ!」
 突然燐が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
「俺…、なんでここいるんだっけ?」
「…随分今更だね」
 何を言い出すのか。思わず声が尖る。
「…もしかして、気づいてなかったの?」
 おー、と答えながら、燐が記憶を探るように遠くを見つめる。
「メシでも食えるかと思ってさ、ウチ入ったろ?」
「僕が止めたのに、さっさと行っちゃったね。って言うか、人様の家にご飯目当てで…」
「気が付いたらここにいたんだよな」
 雪男は少し失望したように溜め息を吐く。ちぇ、お預けだ。しかし冷静に考えれば、ここは悪魔の手の中だ。こんな所で無防備にもコトに及ぼうなんて、僕も瘴気だか何かに当てられていたのかも知れない。後で念のために魔除薬を打っておくことにしよう。
 狭くて暗い小部屋から、暖炉のある部屋に移動する。悪魔の意図が判らないけれど、それでも何も好き好んで狭苦しい所にいる必要もない。
「そうなると、少し問題だね」
 雪男の言葉に燐が、なにが?と言う顔をする。
「僕らはおそらく、山の中から動いてもないだろうね。あの家に入った時点で、僕らは悪魔の手の中に飛び込んでしまった。この家そのものが悪魔なのか、悪魔が作り出した空間なのか…」
 燐は部屋の中を改めて興味深げにぐるりと見回している。棚だのその辺に乱雑に置いてある奇妙な機械やらを触っては、いきなり動き出して慌てて手を引っ込めたりしている。今は蓄音機のホーンを覗き込んでいる。顔がいきなり飲み込まれても知らないからな。
「お、チョコレート」
「食べないの。悪魔の手の内に居るんだよ」
 ちぇ、と舌打ちする。
「腹減ってんだよ」
 しっぽがびたんびたん、と機嫌悪そうに床を叩いた。
「大体ここが悪魔の腹ン中なら、とっくに食われてんだろ?」
 燐の言い分を聞いて、雪男はソファに深く座り込んで考え込む。
「確かにその通りかもね…。でも…」
 燐がチョコレートを掴むと、止める間もなくひょい、と口に放り込んでしまった。
「うん、旨い」
「ちょっと!何があるかも判らないのに!」
 食うか?と銀色のトレイに乗せられたチョコレートを差し出してくる。要らないよ、とはねつけた瞬間に、腹の虫がぐぅ、と鳴った。
「おまえもハラ減ってんじゃん」
 ほら、とトレイを軽く振る。
「食わしてやろうか?」
 にやっと笑いながら燐がチョコレートの粒をくわえた。
「ちょ…。兄さん。酔っぱらってるの?」
 そりゃこんな状況じゃなかったら、是非ともお願いした…、じゃない。酒の入ったチョコレートでも食べたんじゃないだろうか。
「別に酒入ってなかったぞ。それにしてもよー。メシどーすんだよ」
 どさり、と座り心地の良いソファに座り込んで、だらしなく足を放り出しながら、これっぽっちでハラの足しになるか、とぶつくさ文句をいう。
「それより先にここから出なきゃ」
「いつまで掛かんだよ。んなに待てねーよ。腹が減っては兜の緒を締めよ!」
「それを言うなら、腹が減っては戦は出来ぬ、でしょ」
 意味わかんないし。ことわざもきちんと言えないのかよ。
「それそれ。だから、先にメシ!」
 びたびたびた、としっぽが主張するように床を叩く。
「ったって、何食べるのさ」
「台所になんかあんだろ」
「…何で出来てるかも判らない物を食べるの?」
 燐のいらだちと空腹は極限まで来ているようだ。
「マトモなもんかも知れねーだろ?」
 とにかく見てくる!と走り出して行く。
「…まったく。これだ」
 天井を仰いで一つ溜め息を吐く。仕方ない、と兄の後を追いかけようと腰を上げると、ばたばたと足音がして燐が部屋に飛び込んできた。
「どうしたの、兄さん」
「台所、どこだ?」
 知らんがな。思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
 
 
 
「兄さん」
 呼び掛けながら、肩を揺する。あ?と寝ぼけた声で、燐がふにゃん、と頭を起こした。
「あれ?おれ…」
「見張りが気持ちよさそうに寝ててどうするのさ」
「ワリーワリー」
 暢気に大きな欠伸を洩らしながら、悪びれた様子もない。まったく、肝の太いことだ。僕なんかうつらうつらしただけで、とても休めたものじゃなかったのに。兄の態度は腹の立つことも多いが、いっそ気持ち良いほど状況を素直に受け入れているので、逆に有り難い時もある。ま、礼なんて言わないけどね。
 昨日は結局台所が見つからなかった。
 恐らく悪魔がこの場を作り上げる元になった世界に、台所が出てこなかったのかも知れない。仕方なく雪男が持っていた非常携行食のスナックと水で済ませた。これっぽっちじゃ足りねー、と燐がぶつくさ文句を言うのには心底同感だったが、危険は冒せないと無視した。
 台所を探すついでに他の部屋を見て回り、屋敷と言うほどではないが、それでもそこそこの広さを持った四階建ての長方形をした家だと言うことが判った。二階には吹き抜けになった部屋の、回廊部分に通じる扉が一つ、主寝室に客間と思われる、重厚で広い部屋が奇妙な間を置いて二つ。三階には女性か子供向けの清楚な雰囲気の部屋が一つ。四階にはもう少し小さくて質素な部屋が三つ並んでいた。
「部屋の間取りが、家の大きさと全くあってない」
「変な家だよな」
 兄弟は納得行かない、と言う表情で互いに顔を見合わせた。
 窓から外を覗くと、左右、通りを挟んだ反対側に似たような家が立ち並ぶ、住宅街だと判った。だが通りには人も車も通っていなかった。一応外にも出てみたが、しんと静まり返っていて、人の気配も、生きているものの気配もない。流石に薄気味悪くなって、早々に元の家に戻ってきた。
「人がいねーっておかしいぞ」
 燐の言うとおり、ここを作り上げた悪魔は非常に奇妙だ。こんな本や模型の小道具は本物と見紛う程きちんとしているのに、奥村兄弟以外の人間が出てこない。部屋の間取りも判らないのか、どうでも良いのかいい加減な感じだ。
 雪男は暫く考え込んで、言いにくそうに口を開く。
「悪魔の好物は絶望、怒り、恨み、嫉妬、争い、歪んだ願望…。こういう場を作ったのは、この中でそんな負の感情の幕間劇を演じるのを期待してるってとこじゃないかな」
「俺たちにケンカでもしろってか?」
 やるか?とニヤリと笑う燐に、やだよ、と雪男は肩を竦めた。
「でも、こんな家とか外の景色とか作らなくてもいーんじゃねえ?」
「何にもないのも味気ないってことなのかな。それでも凝っているようでいて、中途半端だ。たぶん悪魔が知っている知識じゃなくて、恐らく僕らの頭の中から引っ張り出してるんだろうな。だから、きっとこの家は、僕か兄さんが知ってる童話か小説かなにかの世界なんだろうと思う」
 じゃぁ、お前だ。燐がびしりと雪男に指を突きつけた。
「俺、こんな家が出てくる童話も小説もしらねーよ」
 その夜は主寝室で交代で眠った。夜中に交代して以降朝までは燐が見張るはずだったが、気がつけば一緒に眠り込んでいた、と言うわけだ。
 携行食料と水で朝食を済ませた後、雪男は暖炉のある部屋のあちこちを詳しく見て回る。書架に並んだ本は、ありとあらゆる言語、文法や言語学、音声学に関するものだと判った。また一部医学書もあった。一緒に棚に飾られている頭部を縦半分に割った模型。部屋にあった発音記号と思しき記号を書いた紙、さまざまな大きさの音叉が並んだ棚。蓄音機が三つも四つもあるのは、音楽を聴くためではあるまい。
「音声学か…」
 ならば。ふと思い当たる作品が思い浮かんだ。
「もしかしたら…」
 部屋の隅に置いてあった箱の中身と、その傍に投げ出されていた本の著者名を見て、推測が確信に変わる。
 雪男はだらりとソファに行儀悪く寝そべっている燐に声をかけた。
「にいさん、ちょっと手を貸して欲しいんだ」
「…もう一度言ってくんない?」
 ぱっと顔を輝かせてソファに勢い良く起き上がりながら、ねだる。しっぽがぱたぱたと揺れて物凄く機嫌が良いのが丸判りだ。ああ、もう。こんな時に。
「手を貸してくれ。兄さんの力が必要だ」
「しかたねー弟だ」
 どん、と自分の胸を威勢よく叩く。ほんと、頼むよ。兄さんに掛かってるんだ。さっき見つけた箱と、数枚の紙を片手に燐をソファに座らせた。
「じゃ、兄さん口開けて」
「…おい」
「口開けて」
 しぶしぶ大きく開けた燐の口の中に、片手に持った箱からビー玉を次々と入れる。
「…むっつ、と。じゃ、これ読んで」
 くぐもった声で読めるわけねーだろ!と言う抗議が返ってくる。当然だと思う。本来この方法ははっきり喋れるようになるための訓練に使うからだ。だが今は違う目的に使おうとしている。
「はい、やってみて」
 あにゃ、うにゃ、はがが、と言う声とともに、口の中でビー玉がかちゃかちゃと鳴る。
「うり《ムリ》っ!えいえーお《できねーよ》っ!」
「大丈夫だよ。続けて」
「う!」
 燐が突然切羽詰った声を上げた。
「どうしたの?」
 慌てた様子で、うえ、とビー玉を吐き出す。
「一個飲み込んだ!」
「問題ない。はい、もう一回口開けて」
「あのなぁ…」
「兄さんの力が必要なんだ」
「…だまされねーぞ」
 その言葉を無視して、ビー玉をムリヤリ詰め込む。
「兄さん。良く聞いてくれ」
「?」
 顔を近づけて小さな声で囁く。
「ここは悪魔の腹の中だ。だからいつまでもは居られない。これはここから出るために必要なんだ。悪魔に聞かれたくない」
 燐が手にした紙切れをじっと見つめる。
「ここを作り上げた悪魔がなんなのか、大体判ったと思うんだ」
「おええ、えんうあ?」
 紙に書かれたので全部か?と聞きたいのだろう。
「全部を一度に書くのは危険だ。一度に暗記するのも。だから、やつに聞こえないように、少しずつ覚えてもらいたいんだ」
 不安そうな表情を浮かべる兄の頬に優しく触れる。
「長くとどまれば、僕らの身体が危ない。こいつは…」
 紙の上の言葉をとん、とつつく。
「兄さんの力があればかなりの効果が期待できる。だから、お願いだ」
 真剣な顔で、こくり、と頷いた燐は、あにゃ、うにゃ、とくぐもった声で詠唱の一説を暗記を始めた。
 
「なぁ、雪男」
「どうしたの」
 ソファに座った燐が、複雑な顔をしながら下腹を擦る。
「あのビー玉、どーなっちまうんだ?」
 結構デカかったぞ。
「ここに居る僕らが本体じゃなければ、元に戻れば残ってないんじゃないかな。じゃなければ、今日戻ってたくさんご飯食べとけば、明日辺り出てくるんじゃない?」
 燐が嫌そうな顔をする。
「他人事だと思いやがって。どっちなんだよ?」
「さて、どっちでしょう?」
「どっちでしょーじゃねーよ!」
「なら、腹殴って吐かせてあげようか?」
「ばっ…、バカ!ンなことしたら、暗記したのまで出ちまうだろ!」
 慌てた様子で、雪男から身体を離す。
「ま、明日出てきたら、流さないでちゃんと拾っといてね」
「拾っといてね、じゃねーよ!この、ドSメガネ」
 ぶちぶちと文句を言う燐を他所に、雪男は銃に装填された弾倉で残弾を確認する。聖銀弾の弾倉はあと二つ。装備品として用意されたカバンの中には、CC《ダブルC》濃度の聖水手榴弾が二つ。兄さんの降魔剣がこの空間で効果があるか判らない。
 詠唱が効かなかったら…。
 ふとした不安が押し寄せてくる。だが、その時はその時だ。
「じゃ、行くよ?」
「お、おう…」
 珍しく歯切れが悪い。
「まさか緊張してるの?」
「ふ…、ふざけんな。無茶ぶり…じゃなくて。ムシャ…?」
「武者震い?」
「それ」
 にや、と笑ってみせる燐の口元に、軽く口付ける。
「とっとと済ませて、帰ろーぜ」
「ん。そうだね」
 二人で顔を見合わせると、詠唱を始める。最初の一区切りまでは何の反応もなかったが、二区切り目になると、地響きとともにぐらぐらと家が揺れ始めた。
 当たりだ。
 驚いて辺りを見回す兄を励ますように頷いて、詠唱を続ける。揺れが激しくて、立っていられない。
 びしり、と大きな音がして、二人の足元に亀裂が走った。詠唱を止めずにいると、見る間に亀裂が大きくなり、部屋全体が真っ二つに割れる。それぞれの部屋の残骸に、双子が独りずつ取り残されて遠ざかっていく。
 兄さん!
 部屋がふわりと浮いたかと思うと、均衡を崩してボロボロと崩れていく。天井やランプ、部屋中にあった機械や本がバラバラと雪男に降りかかってくる。思わず頭を腕で庇った。途端に床が抜けて、身体が真っ暗な虚空に放り出された。耳の周りで空気を切る音がする。体中が落ちていく感覚を覚える。周りを見回しても、何も見えない。いつまで落ちていくのかも判らない。詠唱を途切れさせてはいけないのは判っている。だが、思わず叫び声が出た。
 はっと我に返ると、いつの間にか落下は止まっていた。底に着いたと言う感覚ではなく、虚空に浮かんでいるようだ。
「ここは…」
「私の贈り物は気に入らなかったかな?奥村雪男」
 大きな石臼がゴロゴロと回っているような低い声が辺りに響く。
「お前…、オセだな」
「ほう」
 感心したような声が響いて、暗闇から大きな豹がゆったりと優雅な足取りで進み出てきた。体の周りがぼんやりと光って、黄色の毛皮に黒い梅花状の斑紋がよく見えた。ソロモンの霊七十二人の内の一人で、人を望みの姿に変えたり、人に狂気と妄想を植え付ける悪魔だ。
「いつから気付いていた?」
「お前は自分の知らない物は再現出来ないんだろ?だから大部分は僕の頭の中にある知識を使うしかなかった」
 先ほどまでの部屋は『マイ・フェア・レディ』の映画で舞台で、主人公の一人である音声学者『ヘンリー・ヒギンズ教授』の家だ。映画で出てこない部屋は再現出来ない。だからあんなおかしな間取りだったのだ。
「そうだ、ピグマリオン効果だ」
 ぼそりと呟く。中学生の時の授業で教師が洩らした一言だ。何のことか判らなくて色々調べた覚えがある。元々の戯曲が映画化されたと判って、興が乗って図書館で映画を視聴させて貰ったのだった。
「壊してしまって良かったのか?」
 低い声で豹が笑いながら、徐々に形を変えていく。『豹のごとくあらわれ、人間を装う』と言われた悪魔の通りだ。その姿がぼんやりと人の形を取り始める。
「ふざけるなっ!」
 悪魔の言葉に乗ってはいけない。冷静さを欠いてはいけない。祓魔師の基本を忘れて思わず声を荒げる。
「ナニ怒ってんだよ、雪男」
 悪魔は燐の姿になっていた。怒りで頭の芯がかっと燃えるように熱くなる。正十字学園のブレザーにズボン。シャツは裾がだらしなくズボンの外に出て、緩めた第一ボタンの下に、ネクタイがぶら下がっている。足下は膝下までの編み上げブーツ。ついさっきまで一緒にいた兄、そのものだった。
 にやりと兄の顔で笑いながら、するりとネクタイを外す。
「俺をお前の望むように、変えることも出来たんだぞ?」
「やめ…っ」
 いつの間にか、双子の片割れが雪男の目の前に立っている。そっと両手が雪男の体に回された。
「ずっと、あそこで二人だけで暮らすことも出来たんだ…」
「ちが…」
 燐の姿をした悪魔が首筋、耳元をくすぐるように囁きかける。魅入られたように雪男は身動き出来なかった。
「俺…、ちゃんと知ってるぞ…。お前がナニを望んでるか」
 切ないまなざし。少し掠れたような声で雪男の肩口に顔を寄せて囁く。目が離せなかった。
「お前の望み、叶えてやるよ」
 燐が唇を雪男のそれに寄せながら呟いた。
「…消えろ、オセ」
 ぼそりと呟いて、雪男は悪魔のこめかみを打ち抜いた。豹の姿に戻った悪魔が、叫び声を上げながらのたうち回る。
「お前…、兄の姿にも躊躇わんとは…」
「この程度の幻覚で、僕を騙せると思ったか?みくびるな、クソが」
 立て続けに引き金を引く。堪えきれなくなったのか、オセが一際大きな叫び声を上げた。そこを狙い澄ましたかのように、青い炎が走る。真っ暗な空間を横一文字に切り裂いて、炎に包まれた兄が飛び込んできた。燐が飛び込んできた方は真っ白、だが、雪男の居る方は真っ暗で光すらも飲み込んでしまうかのようだ。正反対の色の空間が現れ、その中で豹と、青い炎の兄の姿だけが光を発している。
「雪男っ!無事か!」
 雪男と対峙する豹を見ると、迷うことなく降魔剣を振りかざして走り込んでいく。炎を纏った剣で胴を切り裂こうと横に薙いだ。傷を負ったはずの悪魔はそれでも難なく避ける。我に返った雪男が聖水手榴弾を投げつけて、銃で撃ち抜く。転がったオセに降り注いで、身の毛もよだつような絶叫が上がった。
「また相見えようぞ」
 分が悪いと悟ったか、ゆらゆらと豹の体が揺れたかと思うと、かき消すように居なくなった。それが合図だったのか、周囲がボロボロと崩れてまばゆい光が差し込んでくる。目を焼きそうな眩しさに思わず目を背けた。
『ピグマリオンのようにガラティアを手に入れられたかも知れん機会を、自分で潰したのだ』
 目を閉じて庇っていても、強烈な光が襲いかかってくるようだった。光の中から声が聞こえたような気がする。
 雪男はそれを鼻で笑い飛ばした。あの映画の知識を選んだのは、お前の失敗だ。
 キプロス島のピグマリオン王は自分が作った像に恋をし、アフロディテがそれに命を与え妻として娶らせた。ガラティアと名付けられた妻はピグマリオンに『私の掟となってください』と請う。
 だけど、あの映画は自分に逆らわないパートナーを作り上げる話なんかじゃない。
 上流階級の話し方を習いたいイライザと、花売り娘を貴婦人に育て上げて上流階級にどこまで通じるかを実験したかったヒギンズ教授。最初は上手くいかなかったけれども、投げ出さなかった教授との間に信頼関係が出来たからこそ、イライザもその期待に応えようとした。
 だからこそ、僕は兄さんを変えようとは思わない。既に神父《とう》さんが兄さんを人間らしく育って欲しいと期待を掛けてるからだ。兄さんもそのことは判っているし、それに応えようとしている。だから、僕にとって兄さんは兄さんのままで良いんだ。
 嘲るような笑い声が辺りに響いたような気がした。
 その声に雪男も、これって惚れた弱みってやつかな、と雪男は自嘲気味に笑った。自分の理想の兄さんなんてそんなものはない。
 
 

–end
せんり

 
 
 ※ 『ピグマリオン効果』については、ジョージ・バーナード・ショーが作った戯曲、『ピグマリオン』が元になっていると考えられる研究結果があるそうです。この戯曲が、ご存知の方も多い『マイ・フェア・レディ』の原作です。