手紙

 ネタを転がしといたまま、二日で書きました(懺悔)。
 すごく変な書き方になってしまいました、読みにくい、たいへんに読みにくい。自分でもなんか変…という気がしていたのだから当たり前です、すみません。
 奥村ツインズはいろんな小さなことがまだ赦せないくらいの子供であって欲しいです。大人並みの物わかりの良さはまだまだ不要ではないかと。だけど雪男は、そうした考え方について行かなきゃってところ、ありますですね。組織を形成する一人として、おそらく周囲はもう一人前と見なしてるんだろうけど。でも、一部割り切れないままであって欲しいです。
 

【PDF版】手紙

 
 
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 小学校の時、歴史に名が残っている過去の人に手紙を書くという自由課題が出たことがあった。
 祓魔塾に通い始めて半年くらい経っていたと思う、物心がついていた時分から悪魔が見える自分は兄さんのことは神父さんからは聞く以前に、兄さんとの違いはいやというほど分かっていたから、僕はある人物に手紙を書いた。そのひとについて知りたかったし、ずっと聞きたいことがあったからだ。
 
 拝啓、
 初めて手紙を書きます。
 
 僕はあなたに聞きたいことがあるのです。
 
 
 隣町から兄と正十字学園町に帰る。
 この町の図書館は二年前に改築され、所蔵冊数が倍以上になった。雪男は広いそこを多く利用したし、すぐ近くにある病院は騎士團御用達といえるような側面を持っていたので、体が丈夫になっても通うように行った、だからよく知っている。隣町といっても歩ける距離ではなく、十五分ほど電車に揺られる。図書館は最寄り駅から徒歩五分、病院は徒歩でも行けるがやや遠く、巡回バスを利用する。駅を挟んで商店街と学校、北西から大きな川が流れて町を貫いている。いまでこそ穏やかな川面で光を跳ね返しているがその昔は暴れ川だったらしい。
―――ガタン、ガタン…。
 高架からはふいと正十字学園の建物の頂が見え隠れした。西日が差し込む電車はラッシュ前ということもあり、混み合うわけでもなく立っている人がちらほらといるくらいだった。その茜色の日差しを受けながら隣でつり革を持った燐がくあと欠伸をする。
「ねみー…」
 雪男は活字を追っていた目線を兄に転じる。視線に気付いたか、燐は雪男に目を向けた。
「何だよ?」
 なんでもないよと口ごもるように返した。変な感じがした、こんなこと前にもあった。強引に燐の手を引いて駅まで連れてきて、それを黙って後悔している。燐は何も言わないけれど、それだけに雪男が胸の内に隠していることを感じ取っているような気がして―――。
「あ」
 本のページをめくることで思い出した、車内の様相も去年のときとまるで同じなのだ、錯覚するくらいに。今日は買い出しというまるで外出の理由は違うけど、こんなだった。栞代わりのレシートがきっかけってなんだよとも冷静に自分に突っ込めるが、もう一年ともまだ一年とも思うあたり、心残りになっているのかもなあと思う。
 僕もまだまだだ。
 もっと早く対処できれば、きっとあの人とも会わずに済んだだろうに。
―――八つ当たりだった。
 雪男は活字に目を落とし、自嘲とも苦笑ともつかない溜息を小さく吐いた。
 
 
 病院に駆けつけると受付の奥まった待合用の長椅子で兄さんが肩を落として座っているのが見えた。なんだか取り残されているようで、不安がよぎった。
「兄さん」
「あ、雪男」
 ぎこちなく笑う。
「どうしたの? 何があったのさ」びっくりしたよ。
 兄さんが修道院に電話をしてきたのは一時間前で、受け取れたのは僕だけだった。神父《とう》さんは長友さんを連れて任務に行っており、僕は昇級試験に向けて勉強していたのだ。受話器から発される言葉は短く、どこか落ち着いていない様子で、ひどく遠い場所から聞くような感じがしていた。
「…兄さん?」
「あ、うん…」
 兄さんは人生と倫理性がテーマの重たい長編映画を観させられたような顔をしている。これから自分はこの感想を原稿用紙三枚に書かなければいけないのかとそんなやや落胆と呆然とが混じった鈍い動作は、少しだけ兄さんかららしさを奪っていた。僕は元気づけるように声を明るくして言った。
「大丈夫だよ、兄さんのせいじゃない」
「でもよ、…」
 悪魔が死神もないのだけど、色を失い固まったままの、それこそ死神と会ったような暗い顔だ。落ち着け、と自分に言い聞かせる。悪魔に接触したのか、それとも覚醒してしまったか。
「説明聞いてくる」待ってて。
 誰か事情が分かる人間はいないか、受話器から『目の前で爺さんが倒れて、ジジィが必要かも知れない』なんて聞いたときには冷水を浴びせられたような思いがした、一歩歩くたびに心臓が跳ね上がって、仕舞いには着地点の感覚すら判らなくなるほどで、呪文のように冷静になれと呟いた。最悪の想像を頭から追い払う、違う、團から連絡だってない、いまは。…っていまはじゃない。
 丁度良く、看護師さんが通りかかり、捕まえることにする。話によってはすぐに神父さんに連絡し、対処しなければならない。目の前の患者も大事だけど適切な処置を必要とする魔障者も大事だ。兄さんには見えないようにしてバッジと階級証を見せるとすぐさまナースセンターへ連れて行ってくれた。ナースセンターかよ、と思ったけど、ナースセンターでいいらしい、薄いカーテンの仕切り越しに設けてくれた簡易な面会所で医師《せんせい》から話が聞けた。顔と体がふっくらした男性医師は眼鏡の縁をあげると笑い、違いますよと言った。それを聞いて僕はありがとうございますと言いそうになった。
「はあ…」
 力が抜ける、歩けば上着に剥き出しのまま右に銃、左にはマガジンとで、がちゃがちゃと小銭とでケンカしたような音を立てている。
「もう平気だって、兄さん」
「ほんとか?」
 小さな声で問うのを頷いて応える。
「発作に興奮だとかは関係ないみたい、いまはすっかり落ち着いて寝てるって」
 兄さんの代わりに医師から詳しく聞いたと説明した。持病の発作だという。その発作はいつ出てもおかしくないそうで、だからこそ入院しているのであり、目の当たりにした兄さんはまるで罪がないことだ、と慰めるように。しかも医師は任務で来たことがある僕の顔を覚えているとも言った、話も丁寧だったし、祓魔師《エクソシスト》に協力的なひとなのだろうなと思う。医療関係者には祓魔師に否定的な考えを持った人もいる。
 更に驚いたことに一緒にいた看護師さんによれば、兄さんは月に一度か二度は病院に来ていたというのだ。夏に道で行き会ったという老女を背負ってきたのがきっかけだそうで主にその老女の送り迎えをしており、ひょいと寄る談話室で馴染みも増えていたという。やるじゃないかと思うと同時に、この二、三ヶ月でぐんと跳ね上がった煮物やら総菜の味つけも納得できるような気がした。水臭いと思ったけど、僕にも兄さんにも神父さんたちに言わないようなことは増えた、どうして話してくれないんだと聞いたら照れくさいってきっと答えるんだろう。
 誰も乗せていない車いすが目の前を通った。若い医師が足早に通り過ぎていく、研修医だろう、白衣でなければ患者と見間違えてしまいそうだ。
 入院設備のある大きな病院だ、救急外来もあって、脳外科に有名な医師がいると聞いたことがある。通院外来の受付時間は終わっているのか入り口を入ってすぐの待合所は人が思うほど多くなく、診察待ちの何人かと、入院患者を見舞う人たちが通り過ぎたりするくらいだった。鈍い唸りに目を遣れば、エレベーターホールの矢印の向こう、壁を背に自動販売機が順番待ちというように二台並んでいた。受付の向かいは医局、漢方処方は違うと貼り紙がしてある。当たり前に広い、総合受付はわかりやすいけれど検査室など導線なしには見付けられそうもない。
「……」
 ここに彼女は入院してるのかと思う。
 あの人は見舞いには来るのだろうか、嫌いではないけど思い出すとこつりと胸に硬い物が落ちたようになる。
 強くて厳しい人で、騎士《ナイト》と詠唱騎士《アリア》の称号《マイスター》を持っていた。無表情に悪魔を斬り、悪魔に憑かれた人を汚穢でも見るような目で見た、零落れてもああはなりたくねえな、と吐き捨てた言葉を覚えている。驕ったところがあり、いつだって悪魔を見下していた、物質界《アッシャー》が上位で、虚無界《ゲヘナ》が下位なんて僕には思えない。もともと単独で行動するきらいがあったが、ある任務で単身で行動を起こし、大事故を招いた、慢心のせいだ。祓魔師になりたての一人娘がこの事故で大怪我を負った、彼女は父親の独走をいつも諫めていた、候補生だった僕の相手を良くしてくれた優しいひとだった。娘が寝込んだままでもそれでも考え方を変えることはなかった、祓魔師であり続けているだけ、卑怯でもない。だけど、理解できない。自分にとっては扉一枚で繋がっているような世界なのに。手を伸ばせば、皮膚の下に同じ血が流れる、唯一の存在に触れられるのに。
 だから、会いたくない。
 特にここで、兄さんがいる状態では。
「ガクガクしたからジジィの出番かと思った…」
 はあ、と長い溜息を吐きながら頭を抱える。兄さんは怪我は満載だが病知らずなので、なにを気兼ねしてか病院には殆ど寄りつかなかった。行ったら回復中の誰かに悪い影響でもあると思っているのだろうか(あながち間違いでもないが)。ありとあらゆる病、症例、悪魔の魔障との違い、兄さんは創作物の中でしか悪魔を知らない。
「…うん」
 僕も祓えるよ、とは言わなかった。この病院にも祓えるひとはいるんだ、だってここの倉庫には聖水の備蓄があるし、ワクチンも置いてある。僕はね、兄さん、去年、祓魔師の認定試験に受かったんだよと、言ったって兄さんのことだからすげえなー、と返してちょっと眩しそうに僕を見て終わりそうだ、お祝いにお前の食いたいもん作ってやるよ、なんて台詞がついてくるくらいだろう。
「あー、焦った。焦って、ばあちゃん帰しちまった」
 間に合うかなと腰を浮かす兄さんを無理だよと諭す。
「一時間は経ってるんだから、もう家に着いてるよ」
「でも巡回バスっての、家の前までは行かないんだぜ?」
 兄さんは横に置いていた鞄を掴むと僕を見る、視線が少しだけ上に行ってから安定する、また伸びやがったと目が非難するようだった。身長に差がつくのは僕のせいじゃない、勉強は努力だけど。
 電車に駅があるようにバスにもバス停なる停留所がある。そこから家まで距離があるのか問うと不貞腐れたように知らねえ、と返ってくる。呆れたのと、あまりにも兄さんがいつもの兄さんで可笑しくなった。いまさらに緩んだのかも知れない、兄さんが不機嫌になるのが分かったけど止められなかった。よかった、もしやと思ったけど、悪魔を視たわけでも、憑かれた人間に会ったでもなかった。
「そんなに心配なら寄ってから帰る?」
 ほっとしてる、だから笑ってしまう。来るとき神父さんに連絡するかしないか迷ったことも、ちょっと銃の装填を確認する手が震えていたこともばからしいってことがうれしい。
「何でそんな笑うんだよ、チクショー。寄らねーで帰るよ! 帰る!」
「大声出さない」
 と、ふんと勢いよく立ち上がった兄さんは足を踏み出すと思いきや僕の手に鞄を持たせ、踵を反転させる。
「どうしたの?」
「トイレ」
 あ、そう。
 あっち、ちょっと遠いからと兄さんは急ぐ様子もなく歩いて行く。奥の談話室からだろう、子どもの笑い声が微かだけど聞こえてきた。マークからして近いのは真反対の左突き当たりの非常階段そばのじゃないのかと思いながら待つ間、ポケットから単語帳を取り出し、僕は昇級試験の勉強を続けることにする。
 
 
「あれ?」
 ふと頭を上げる。会計待ちもなく、待合所のざわつきはいよいよ消え、風景はほんの少し寂しくなっていた。処方薬のパネル表示は番号が二つしか点っておらず、開いている受付は一つだけで『本日の受付は終了しました、一般外来の方は救急受付へ』という札が立っている。じゃああの一つはどんな受付をするために開けてあるのか。…なんて疑問はともかく、受付の上にある壁掛け時計を見上げる。あれから十五分近く経つのに兄さんはまだ戻らない、トイレの使用に審査があるのでもあるまいし、遅いにもほどがある。まさか迷いはしないだろうけど、うろうろしているのなら連れ戻さなければならない、椅子から立ち上がった。兄さんの鞄は拍子抜けするほどに軽かった。
 とりあえず兄さんが向かったトイレを目指すことにする。待合所の延長のようなエレベーターホールがあって突き当たりはガラス張りの中庭のようなものになっていて左は医務員専用とある、右に進むとすぐ左に曲がり、食堂やら売店、談話室、A棟、B棟、地下駐車場、そんな表示が見える。右は食堂、売店とB棟らしい。道なりに進むと突き当たりにまた表示が見えた。廊下は長い、こっちのトイレは確かに遠い。迷うひとが多いのだろう、青と緑のテープでレントゲン、造影室と床に貼ってある。白いテープも同じように貼ってあるけど、こちらは何も書いてない。リハビリルームとか、浴室とか、あるいは心療内科とかかも知れない。
「…あ」
 トイレの表示が見えるようになって同時に白いテープの行き着く場所も分かる。奥まっててちょっと大変かもという感想を抱きながら僕には縁遠いだろう科を背に歩く。と、また角だ。ここでクランクとはどういう構造なんだとうんざりする思いで進むとすぐさま知っている声が飛んできた。
「何やってんだ!」
 同時にどこか冷たいような湿った空気が足下を撫でる。魍魎《コールタール》が鼻先を通っていった。
「……」
 悪魔?
 ともかく、兄さんが早まってなければいい。音を立てないように廊下を走った。白いテープが導いたのはとてもデリケートな分野の一つだ。まだその辺りの責任能力がない子どもが立ち入るには勇気がいる。
「ほっとけよ。お前なんかに分かるか!」
「わかんねーって言ってるだろ」
 いいから兄さん、黙ってくれないか。
「見てたんだろ、オレがせこせこと綿棒で擦って出すのを」
「あ? 知らねーよ」
 ヒステリックに甲高い男の声に兄さんのぶっきら棒な声が応える。
「どうにかなりそうだよ…なんで、なんでっ出来ないんだ!」
 それは、その領域は…。
「知らない!」
 勘弁してください!
 女性の叫びだった、男に負けないほどの悲痛とも思える声はクランクの廊下が吸収するようになっているのか余韻も残らず消える。
「まるで動かないって言われたじゃない…」
 飛び出した僕と合った目は狼狽えて泳いでいた。察しの悪い兄さんにも分かっただろうか、単にやわらかい印象の大人しそうな女性がびっくりするような声を上げたと言うことにしか頭が回っていないような気がする。
「そんなの言いがかりだ!」恥をかかせたいのか!
「そんなことあるわけないじゃない!」
―――う。
 話し声で想像はしたけれど身体は硬くなり、僕は気まずくそっと辺りを見回す。流れる空気は重く、どこかかさついてどんよりしている。T路になった廊下を左はトイレ、婦人科外来だ。間違えていない。右はレントゲン室、X線、造影室と並び、そしてどん詰まりが立ち入り禁止となっている。位置からして救急外来とつながるのだろう。あの時、右の食堂や談話室に迷えば良かったと軽く後悔した。
 婦人科外来、という言葉にぴんとくる。言い争う内容といい夫婦で医者にかかるような問題というのは思いつくのは一つしかない。
「兄さん」
 失礼しましたと、退散するのが良いだろう。兄さんの手を掴む。
「八つ当たりすんなよ、どうして責めたりするんだ」
「兄さん!」
 余計なこと言わないでくれ。
 トイレの前の廊下には長椅子が並んでおり、凭れるように座り込んでいる女性と入り口で兄さんと睨み合う三十そこそこの男性の姿があった。シワのないスーツに頭髪も整い、身なりはきちんとしているのだが、気が立っているのだろう、憔悴した顔つきは目だけが怒りで充血し、痛々しいようで目を合わせるのもつらい。
「うるさい!」
 ごおぉ、と低く風がうなる音を聞いた。はっとする。
「……あ、なた…?」
「さ…、に、に、げ…」
 正面の虚空に焦点を合わせていた男性の顔つきが苦しげに歪んだかと思うとざっと豹変する。耳が尖り上がり、目尻は下がったが充血したまま目玉がぎょろりと突き出ていた。口の端が裂けたかのように広がる、細長い舌が這い出た。唾液がつっと滴り落ちた。
「なっ…! どうした?」
 兄さんが咄嗟に悪魔に憑依された男の肩を掴もうとする。まずい、割り込むように腕を出した。
「うるせえ!」
「痛っ!」
 強い力で払われる。爪はまだ人間のものだった、それでも手の甲に掻かれた線に血が浮いた。おそらく下級悪魔だろう、男性のひととしての形を保っているし、影響力もまだ弱い。
「雪男!」
 兄さんを遠ざけて対処しなければ、ここで誰かを思い浮かべちゃ駄目だ、ひっそりと音すら飲み込んでしまうような場所だ、助けは来ない。多少の怒鳴り声がしたとしてもナイーブな諍いと取られてしまうだろう、厄介だ。
「興奮しすぎて取り乱しているみたいだ、冷静になれば…」
 憑依だなんて言えない、視えない兄さんたちには凶悪な顔つきが錯乱でもしているかに映るのだろう、魍魎が吸い寄られるように集まってくる。
「暴れたらどーすんだ」
「どうにかする。奥さんを連れて逃げて、兄さん!」
「できるか!」
 兄さんに魔障なんかそれこそ覚醒への呼び水みたいなものじゃないか。
「僕の方が説得は得意だっつってんだろ! より興奮させてどうすんだよ、聞けよ!」
 兄さんが現場にいる悪魔祓いは困難な任務より輪を掛けて緊張する、なりふりかまっていられない。
「早く!」
「う、わ、わかった!」
 兄さんが女性の手を引き、ばたばたと廊下を走っていく。バカヤロウ、なんで目の前の診察室でもレントゲン室にでも飛び込まない?と思ったが、レントゲン室やらは常時技師が詰めているのかもわからないし、婦人科外来など僕だって背後から猛火が襲ったりしない限り入るのに躊躇するだろう、引き返すのはまっとうだ。走って兄さんのことだから助けを呼ぶ、遠く長い道筋で誰かを捜して…でもないな、武器を探してきて突っ込んでくるのと半分か。その前になんとしても祓わなければ。
「…っ」
 いつの間にか廊下が濡れている?
 悪魔はにたあと笑う、充血していた目が真っ黒になっていた、まるで目玉を取り出して闇でも詰めたように。銃を向けるとかくんと片膝が落ちる。けらけらとさざめくような笑い声がした。兄さんに会うためなので私服で祓魔師の装備じゃない、聖水を持ち込めなかったのが悔やまれた。
 無数の手が滴りから生え、足に腕に絡んでくる。
「くそっ」
 腕や足が引っ張られ、狙いが定まらない。もし、突き当たりのドアから人が出てきたらことだ、汗が噴き出る。
 男が纏う魍魎の数は徐々に増えゆく。彼は喉を引きつらせるように笑い、甲高い声でうるさいを連呼した。
 
 
 ぐらりと動いた標的に合わせて力一杯で銃を撃つ。
 連射は禁物と思っていたから、銃弾が標的をかすっただけで正面のドアに流れたときは心臓が止まるかと思った。幸いに聖水弾が突き通っただろう婦人科外来はしんとしている。銃弾は被弾すると聖水が弾け、悪魔に限っては有効とされるものだ、だが人にダメージがないわけではない。
 どうにか詠唱で防ぎながら詰めていたけど、焦るほどに時間の間隔は長くなる、しかも相手には詠唱が効いているのか、人と悪魔の間を行ったり来たりしていた。
「……」でも、基本詠唱だぞ?
―――ギィッ。
 突然、背後のドアから硬く金属が軋る音がした。外気が流れ込み、一緒に煙草の匂いもした。
「誰ですか?」避難してください。
 なるべく慎重に言う、相手が驚きと恐怖でその場に固まってしまわないように注意を払ったつもりだ。この病院には悪魔が見える人間が多いはずで、そういうこともあって團も援助し、また利用するのだと聞いている。理解はさておき。
「久しぶりだなぁ、天才少年」
 アルコールで焼けたような塩辛声は、変に間延びしたところが感じ悪く耳に届いた。
「あなたは…」
「振り向くんじゃねえよう、援護しろや。こっちは手ぶらだからなぁ」
 と、立ち入り禁止のドアからのっそり現れた私服姿の祓魔師は念仏のように詠唱をし始める。下級悪魔相手にわざと間違えそうな気もしなくはなかったが、悪魔は相応しい詠唱に襲いかかる力もなかったか、苦しむように身悶えするとやがて大人しくなり、ばたりと倒れた。
「『…の肢体を捧げ、穢れと不法のしもべとなりて不法にいたりし如く、今その肢体を捧げ、義のしもべとなりて潔《きよ》きに到れ』」
 断末魔の声を上げ、闇は飛散する。それでもつかつかと歩み寄り、ダメ出しとばかりに足で蹴ろうとするの体をわざと前につき出し、遮るようにした。そのまま頭を下げる。
「すみません、ありがとうございました」
「甘ぇーよ、秘蔵っ子」
 足をゆっくりと戻しながら、鼻であしらうように突っ返されて終わりだ、事実だから文句は言えない。すぐさま膝を折り、倒れた男性を診た。多少の魔障はあるが無事だ、気を失っている。
「雪男!」
「兄さん」
 兄さんは案の定、女性を誰かに預けて加勢しに来たようだった。どこから借りたのか竹箒を持っている。平気だったか、と心配げに僕の顔をのぞき込むと、手品のように現れた人物を無言で見遣る、訝っているようだ。
「ガキが顔突っ込むんじゃねえ」
 そのひとはこんな顔かと言いたげに憑かれていた男性を冷たく見下ろし、やがて値踏みするような目を兄さんに向ける。
「は?」
 兄さんはぽかんとする、ぴたりと手が止まった。
「こっちは寒ぃ思いで我慢してたってのに」そこまで聞いていたのか。
 まさかドアの向こうで意地悪くにやにやして聞き耳立てていたのではないだろうな、ありそうでムカッとする。
「…兄に悪意も他意もありません」
 男性を長椅子に寝かせながら気がつけば口を挟んでいた。
「ただ配慮がなかっただけです」
「おい? ちょっ、雪男…」
 兄さんを制止し、大先輩であるその人を見た。
 僕はこの人が嫌いではないけど許せないのだ、娘の将来を奪ってもなお強がりでもなく涼しい顔をして、己が優位であると誇示しつつけるさまが。見苦しく、滑稽なようで不快だった。自分が変わらなければ、確固たる意思を持ち続ければ何もなかったように戻れるとまるで宗教みたいに信じ込んで、取り返しのつかないことを無視し続けて。僕には理解できない、何でもかんでも年齢という理由をつけて流してしまうなら人生に厚みなんかなくたっていい。
「あなた!」
 奥さんである女性から言われてだろう、廊下から人が駆けつけてきた。婦人科外来からも様子を見に来たらしい看護師と医師が全く分からないという顔をして小さな穴のあいたドアとこちらを見ている。
「俊憲さんっ、俊憲さん!」
 青ざめた顔で、膝立ちになって男性の手を握る奥さんに説明は無理と悟ったのだろう、突っ立っている兄さんがどうしたのかと説明を求められている。兄さんは救いを求めるようにこちらをちらりと見たが、僕が無視したので諦めたのか、たどたどしく経緯を説明し始めた。後で修正してやるからいくらでもいまは喋ってて、と心の中で頼む。
「砂原さん」
 僕は、兄さんが悪魔であることを知っていても、いざ覚醒したときの準備が出来ているとは言えない。兄さんがどうなるのかも分からないし、決めてはいるけど神父さんに言われたことをなぞるようにシミュレートするだけで、実際にどういう行動を執るか想像もつかないで、むしろ、上手く振る舞えるだろうかなんて考えたりもしている。
 手のひらには得体知れない不安と恐怖がある。
「人は、何のために生きていると思いますか?」
「自分のためだろ」
「違いますよ。誰かのためです」
 静かな寝息を立てている男性を見下ろす。品の良い身なりの人はプライドも高く、そして脆い、だけど、同情の余地はあると思う。自分を取り囲む城壁が崩れ、弱くも悪魔に憑かれたのは残念だとしても、あれを受け止めてスルーするのはかなりの剛胆さと大らかさが必要だろう、落ち込んでしかるべきことだ。
「社会でもいい、誰か、何者かのために、背を押されるようにして生きているんです」
 己の身を守りながら堅く生きていく。
「…たいていの人は」
 僕も、兄さんや神父さんのために生きている。
「……」
 自分のためだけど、自分を固めて支える人たちだから。
「香苗さんもあなたのためにいまも生きてるんだと思います」
「…結婚するほど好きなんだから赤ちゃん欲しいって思うのも当たり前だろ」
 兄さんの声が聞こえる。遠い誰かに静かに訴えかけるような、どこか怒っているような口ぶりだった。
「子どもにとっても母ちゃんにそういう風に思われるのってすっげえ嬉しいことなんだぞ」
 どこをどうしたらまたそんな話になってしまうのか。
 
 
 兄さんは最寄り駅に向かうバスの中で遠ざかる病院の白い壁を見詰めながら、談話室で将棋を何度も教えてくれようとしては言い争い、ケンカばかりしていたというお爺さんと顔を合わせるたびに蜜柑をやら飴を呉れたお婆さんの話をした。
 談話室はちょっとした集会場代わりになっていて、ヒマを持て余した元気な入院患者はよく集まったそうだ。
「あの爺さん、いなくなってたってのがなあ…」
「あ、…うん」
 唐突でびっくりして、相づちが遅れてしまった。兄さんは気にとめる風でもなく“ハイケツショウ”ってなんだ?と呟く。目下試験勉強中なので暗記した言葉が口から出そうになる、中毒症状を引き起こす感染症。生体内の病原体が血液内に入り込むことで発症、エンドトキシンによって誘発されるショックはサイトカインが分泌され、血圧が低下し、やがて多臓器不全に陥る。
「帰ってから調べたら?」
 気のない、そうだなーの返事。
「やっぱさー。ビョーキに縁のないオレはこんなとこ来ててよかったのかな…」
 兄さんは何気なくも小さく言う。先刻のことに加え、目の前で老人が発作を起こして机に突っ伏したということもまだ頭に残っているのだろう、病院のありきたりで当たり前のことはきっとその外側で暮らしているひとにとっては、どこか遠いことで皮膚で感じ取ることが容易ではない。祓魔の現場と同じだ、跳ね返ってくるものも多い、実体験に勝るものはないのだ。
「兄さん…」
「ほんと、合わないっつーか」
 なにそのネガティブ、なに言っちゃってんの。送り迎えという目的にしろ、いまさらで僕は呆れたように言ってやる。ていうか呆れているし。
「何言ってるのさ」
 兄さんが鬼みたいに頑丈なのは仕方ないとしてもね、と続けると、鬼とはなんだよという顔をした。めちゃくちゃ強いってことだよ、と教えるとすぐさま納得した顔になる。
「教会みたいに遍く開かれてる場所なんだよ、病院は。必要としないならそれに越したことはないんだろうけど」
「アマネク?」
「みんなにひろく」言い換える。だいいち、と続けながら相手の疎らに伸びてしまいぼさっとしがちな髪を払う。切れよこれ。
「怪我をしない兄さんなんて僕には想像できないし、眠り込んだらもしかしたらどんだけ寝るんだよって脳波くらい調べるため…ぶち込んだりするかもね」
「ぶち…やめろよ?」
 払われた髪を整えるようにしながら、兄さんは口を尖らせる。
「するわけないじゃない」可能性ってだけで。
 生きることと死ぬことが繰り返される場所で兄さんは母さんのことを思ったのだろうか。それとも僕や、神父さんや修道院のみんなのことだろうか。
「…雪男?」
「ん?」
 坂道の途中の赤信号でバスが止まる。うーんうーん、と車体は重たげにエンジンの音を立てたかと思うとぴたっと静かになった。標識に車線指示と正十字学園までの距離が出ている。
「お前、オレのために生きてるのか?」
「どうだろう?」
「じゃあ誰のためなんだよ」
「将来結婚するかも知れないひととか…」
「あーっそ」
 間延びするその言葉の間に込められている思いが分からない、どうでもいいようで、そうでないような。たったひとりの兄弟のために生きるなんて重たくて恥ずかしいこと死んでも口にはしないけど訊いてみたかった、「そうだよ、兄さんは違うの?」。
 どんな反応をするか、いっそ問い詰めたいような気になるけど、思いとは裏腹に口から出る言葉はきれいなカーブを描いて落ちた。
「兄さんは僕のために生きるっていうの?」有り難いけど勘弁して欲しいなあ。
「バーカ、オレだって将来結婚して、子供作って、そいつらのために生きんだよ」
「幸せだといいけど」
 ほんとに。
「幸せに決まってんだろ!」
 そんな未来ってあるんだろうか、僕は笑いながら考えていた。
 兄さんは悪魔で、神父さんはいつか兄さんに施された封印が解けるのではないかと心配している。兄さんが悪魔として、サタンの子として覚醒してしまったら、僕らが考えたちっぽけな未来など粉々に砕けてしまうのだろう。
 信号が変わり、重たい排気音とともに車体が坂を上る。もう日は傾いて、西の空全体が朱く染まっている。兄さんは今日のメシ、何かなあと言った。僕らを乗せたバスはしばらく平坦に進んでいたがやがて転がり落ちるよう坂を下り、またちょっと上がって駅に着いた。
 
 
 拝啓
 
 初めて手紙を書きます。
 僕はあなたに聞きたいことがあるのです。
 
 あなたは、お兄さんのことが好きですか?
 お兄さんの弟であることは苦しくなかったのですか?
 
 どうして喧嘩しても援助し続けることができたのですか?
 
 どうすれば僕らの時間を時間をつないでいられるか、わかりますか。
 
 どうしたら僕は兄さんの弟のままでいられるでしょうか。
 
 テオドルス・ファン・ゴッホへ
 
 
 テオドルスはテオドールとも読み、その人物は“テオ”という愛称で呼ばれた世界的に有名な画家、ゴッホの弟だ。
 ゴッホは生きている間、一枚しか絵が売れず、毎月の生活費は画商で理解者でもある弟が送っていた。画材もすべて頼まれるまま用意し、彼はゴッホの画家としての生活を支え続けた。
 雪男は風邪で休んで、手紙を提出できないまま燐が持ってきたプリントと、テストとドリルとで評価のAをもらった。授業のことは覚えている、『誰だよそいつ』と鼻と上唇の間に鉛筆を挟みながら聞き取りにくい声で言った兄の顔すら思い出せる。だけど届けられなかった手紙については、恥ずかしく思って隠したことまでは記憶にあるのに、細かい内容すら忘れてしまっていた。
 誰にも生きるよすがを奪う権利なんてないんだと、この春まで雪男は固く信じていた。まるで果たされる約束のようにして、兄の世界に青が現れる前、背後に残酷な現実が忍び寄るそのときまで。
「……」
 空が、高かったのを覚えている。
 高架から見る夕暮れは不安になるくらいに朱くて、だけど美しかった。
 
 

120202 なおと
(120205)加筆修正

 
 
 ゴッホの死後、テオが母親に宛てた書簡に『僕はどうしても兄さんの弟でしかないのです』という言葉があったのを知って。
 兄の死後、一年も経たずテオは亡くなります。ふたりの墓は、テオの妻ヨーによって埋葬し直され、隣同士に並んでいるそうです。また、ゴッホの死の直前までの謎めいたエピソードについての思考プロセスは柄刀一著作のミステリー「『ひまわり』の黄色い囁き」オシです(※あくまでも物語はフィクションですが)。
 婦人科外来については未経験の分野なので聞いた話からとか情報をベースに想像でしか書けないのですが、老いることの対称として存在する課題のひとつだと思うので。子どもはいまも昔も得難い宝です。