ときのみぎわ

 なんちゃってパラレルです。
 いや寧ろ近未来の嘘話、かなあ。
 

【PDF版】ときのみぎわ

 
 
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 物事の何か一つを受け入れることは、その連続性にも従うということと同義だ。
 半永久的な約束をした。
 僕はこの時間から離脱することが出来ない。
 そしてそれは望んでいることでもある。
 
 
 あたし、深雪。
 研究所の中で、装置に眠るお父さんと一緒に暮らしています。
 元製薬会社の土地だったのを、海外の研究所とすごいお金持ちの人が共同出資で研究施設として引き継いだそうだけど、とにかく分野が深すぎて分からないのが正直なところ。ここに生まれて、住んでいてても、忙しそうに常に稼働しているってことしか知らない。ここについて知っているのはバイオに特化していることと、人を未来に届ける装置があるということ。何でも膨大なアーカイブはアジア随一なんだとか。
 バイオの研究棟は博士に危ないから入っちゃいけないって言われている、だからあたしが行くのは図書室か、お父さんの装置だった。
 お父さんは、あたしが生まれる前から装置に入っている。
 大きな卵のようなカプセルの中に、ぽっかりと浮かんでいる。装置の正面には大きめの砂時計、ありえないほどゆっくりとした時間を刻んでいて、それがお父さんの時間だと教えられた。中の砂が落ちきれば自動で回転する仕組みになっているけど、細い砂の線はいつだって砂粒の一つ一つが止まっているように見えて、落ちきるのを見たことがない。ちゃんと落ちているのに、わからない。それほどにお父さんの時間は遅い。
「……」
 真空に近い状態で椅子に座るようにして足を折り曲げて、自然に落ちた腕、やや俯いているように前傾した首、人間が自然に取る体勢だそうで、口元からは吐息が漏れそうで、目は薄く開いているように見えなくもなかった。短い髪とか意思が強そうな眉とかかっこいいし、やさしげな顔立ちだとは思うけど、ちょっと翳があるのは装置に入っている自分を自覚している証拠だとあたしは思っている。生きているからゆっくりだけど瞼を動かしたりすることもある、そういうのが眠るというよりもまるで何かを一心に祈っているようにいつも見えていた。首の後ろに生命維持のためのコードが伸びていて、モニターは絶えずバイタルサインを示している。背は研究室の誰よりも高いと思う、肩幅もあって、優秀でとてもやさしい人だよ、と教えられていた。深雪のことをとても心配している、とも。
 だけど、あたしは声を聞いたことも、抱かれたこともないから『お父さん』はよく分からない。小さい頃はなんとも思わなかったけど飾られているみたいで、本当にお父さんなのかなあって思うこともある。研究所のみんなや他の子たちの方がよっぽど家族で、特に、お父さんでお母さんなのは博士だもの。素敵だなあとは思うから憧れるお兄さんという方がきっと正しいと思う。
 図書室で本を借りた後、お父さんのところに行った。博士との約束は病気や用事があるとき以外は毎日お父さんと会うことで、これをしなければメイに怒られる。メイは博士が管理するAIで、あたしの相手もしてくれる。主な仕事はお父さんがいる装置のセキュリティ、だからごくたまに来る見学者が来るとあたしはほったらかしで、お喋りも出来ない。機械なのだけど見学者にはぴりぴりするみたい。
 卵の中のお父さんを見上げていたら、アラームが鳴って来訪者を告げてきた。この棟は敷地内でも奥まったところにあって、しかも隣が畑だったりするからなんというか、意外と入り口は暢気な感じになっている。棟の入り口、数歩で装置のある部屋のドア、パスコードや認証はその二回、だからドアの外にいる人の声もよく聞こえる。
「あー、着いたとこ。…え? 平気だよ」
 カツン。
 一つ目のドアが開いて、廊下に固い足音が響いた。
「…ああ。ありがとな、出雲。朴ちゃんにもそう言っといて」
 携帯電話の使用は禁止です、と静かに諫める声がした、メイだ。カクカクした女性の声で、初めて聞く人は大抵ビックリする。
「雪男は?」
 即座に返される。メイの声に怯んでもいない、通話は終えたようだけど他の部屋から誰が出る様子もなく、棟の中はひっそりしていた。何の用だろう? でも“ゆきお”って。
 直進して下さい、突き当たりを右に折れて五メートルですと、ぽんと、ナビゲートを告げる音声がしてびくりとなった。右折して五メートルってお父さんの装置で、ここ…。
 忙しげな足音が近寄る、がつっと音がして、ドアノブとドアが軋んだ音を立てる。メイが取りなすように認証します、入館証をスキャンするか、パスコードを入力してください、と言っていた。舌打ち。そして「雪男のヤロウ…」という悪態。
 あたしは本を抱き締めたままお父さんを見上げてドアを見ていた。
 認証しました、ロックを解除します。
「雪男!」
 よほど慌てたのか、つんのめるようにしてドアから姿を現したのは二十代の男の人で見たことのある格好をしていた、正十字騎士団の制服だ。神父さんと似て十字をどこかに携え、バッジをつけている。
「……」
 展示物というわけでもないからすぐに壁寄りの装置は分かるはずで、男の人はそちらに目を向けると呆然と装置を見上げ、驚きと悲しみが混ざったような顔になる。
「ゆきお…」
 よろよろと目の前に立ち、力が抜けたように座り込んでしまう。装置を見上げて、俯いて小さく、なんでだよ、と呟いた。切り刻まれたような痛みが伝わるようですごく慰めたくなった。あたしが謝ることではないけど、だけど、可哀想。
「あの」
 初めてなんだけど、細長い物を肩に掛けたこの姿がどこか懐かしい。
「お父さんの、知り合いですか…」
 のろりと顔を上げてから男の人はあれ、という顔をする。
「ゆき…って誰っ!?」
 

「…おじいちゃん」
「じいちゃんじゃねえよ」
 博士は学会に飛んでいて、説明ができるのはメイしかいない。資料棚を探し回って集められるものを集めたら部屋の中はとんでもないことになった、勉強がイヤになるのはこんなときだと思うくらい。
 メイはかみ砕くという言葉を知らない、分かるのは、あたしの出自とおじい…燐ちゃんのことだ。
「っていうか、燐ちゃん、なんでお母さんのこと知らないの? 核を提供したんでしょ?」
「だって、俺、難しいことわかんねえし! 凍ってたし! 核を食う悪魔の蟲って何だよって感じだったし! フツーじゃ祓えねんだぞ?」
「祓魔師《エクソシスト》の仕事なんて知らないってば!」
 ですから、と割り入るようにしてメイが音声を発してくる。
 奥村燐氏の核を胚に入れ、誕生したのが個体名『李花』嬢です。性別は女性、染色体の変位については母胎の優位性が発現したものと思われます、名を付けたのが雪男氏です、すももの花という意味になります。李花嬢は幼くして事故で亡くなりました。遺族の強い希望と雪男氏の承諾により、李花嬢から得た卵細胞に雪男氏の精子を受精させ、誕生したのが個体名『深雪』、あなたです。
 それは知ってる。そんなのはあたしは物心つく前から知っているし、だから装置の中の『雪男』さんのこともお父さんだって分かっている。だけど燐ちゃんは納得いかないみたいでオモチャみたいにしてあたしの頭を撫でながら雪男の子ども…とどこかショックを受けたように呟いていた。初めて会ったのに燐ちゃんは、もうずっと前から知っているような気がして、あたしはすぐに大好きになったけど。
「お父さんがお父さんなのは悪魔の力が出ないためだよ、あたし算数はまだ算数だけどレトロウィルスとかは勉強したもん。そういうのが必要だったって。お母さんのおばあちゃんがどうしてもってお願いしたんだって」
 燐ちゃんは困った顔とか可愛い、お父さんの双子のお兄さんだからおじさんなんだけどとてもおじさんとは思えない。世代ではおじいちゃんということになるけど、それは本人が嫌がった、何度か治療のための冷凍睡眠をしているから燐ちゃんはミズミズしい二十八歳だ。
「イデンシドウニュウとか意味わかんねえ。そもそも小学生がレトロウィルスの勉強とか…」九歳っての嘘だろ…。
「だって、それがあたしの仕事だもん」嘘じゃない。
 確かに、同い年の子のような無邪気さはないし、勉強は偏っているかも知れない。
 冷凍睡眠を許可される方がよっぽどだよ、と言い返したかったけどやめた。治療のための冷凍睡眠は限られていて、審査がとても厳しい。重い病気はもとより、危険度がかなり高い仕事に就いていたり、希有な技術を持ったりしたものでなければならないと言われている。
「でも、お前そんなの…」
「シンケンサイバン中の子もいるよ」
「それはヘビー…」がくんと燐ちゃんは頭を垂れる。
 すっごく優しいんだなと思う、この研究室内ではあらゆる事情を持ち込まれて、子どもが生まれる。病気とか悪魔とか。だからというわけでもないけれどあたしは少しずつだけど勉強している。
「実験だよ。だけど、いっぱいいるじゃない。ここで生まれたら不幸ってわけでもないもの、コセキもあるし、健康で、痛い思いなんてしたことないし、怖いこともされない。知らないことはいっぱいあるよ、将来は学者になりたいって思ってるよ」
「……」
「お父さんとかお母さんのことも教えて貰えたからあたしは幸せだし、燐ちゃんもいるし」
 すると燐ちゃんは泣きそうな顔になる。目を真っ赤にして鼻からぐずっと音を立てる、ただでさえ学生のお兄さんみたいなのに、深雪は大人だなあ、と言ったきりしょんぼりしてしまった。あたしは焦ってメイがなんとかしてくれないかと、縋るようにモニターを見てしまう、メイは何も言わなかった。機械はたまに機械であることがずるいと思う。燐ちゃんが悲しそうなのはどうしてだかすごくイヤだ。
「だけど、こうした研究所《とこ》がないと子供は生まれなくなっちまってんだよな…」
 メイが、そうです、とこれまたカクカクした声で言った。母胎から消失するなど自然分娩による出産率は著しく低下し、現在に至ります。
 燐ちゃんはモニターを振り返って力なく頷いた。
「…俺、何にも教えて貰えなかった…」
「……」
 燐ちゃんはあたしを見て、おいでおいでするように腕を持ち上げるときゅっと手を握る。あたたかく、力強さのなかにこれまでに感じたことのない親しみがこもっていた。手にもホクロあんだな、と小さく笑うと膝の上に抱きあげてくれる。
「ムカつこうが生意気だろうが、子どもは宝だ」
 すごくやさしくてあったかいだけにモニターを見てしまう。どうしてメイは言わないんだろう、燐ちゃんにとってとても大事なことなのに。
「俺の核、人のためになるんならやるって言ったら、雪男は猛反対して、喧嘩して。それでもあいつ、普通だった。…普通だと俺が思ってただけだったんだけど」
「燐ちゃん」
 泣きそうだ、どうしよう、燐ちゃんに泣いて欲しくない。
「コンビニ行くみたいにいきなりいなくなった。あっさり全部捨てて、上層部《うえ》も捜査させてくんねーし、自分で探すしかなくて、保険会社の通知で生きてるのが分かって、同僚の奴に調べて貰って…」
 淡々と言っているけど、かなり落ち込んでいるんだと判ってしまう。たぶん口にすることでより沈んじゃっているんだろう、頭を撫でたくなる。お父さんはどうして燐ちゃんを一人ぼっちにしたんだろう。
「本気で怒ったと思ったんだ。…だから雪男に会って、話をしたかったけど」
「……」
 博士も、お父さんが装置にいる理由を知らない。
 ここは特別な場所だと教えられる。命や記憶を継いでいくための研究をしているところと施設内を案内され、そこで育てられるからそういうものだって覚えていく。学校や外に出てちょっと違うのかなと思う。
「話だけじゃなくて」
 雪男と、もっと色んなことしたかったんだよ、と燐ちゃんは続ける。きしきしと痛い、つらい気持ちが流れ込んでくるようだった。
「…燐ちゃん、寂しい? 悲しいの?」ごめんね。
「なんでお前が謝るんだよ」
 そうです、深雪に非は見当たりません、とメイが言う。奥村燐氏は、悔しがっているのです。
「『くやしい』?」
「……」
 燐ちゃんはモニターを無言で見ると、躊躇うように空咳をして、うん、まあそうだ、と頷く。
「『くやしい』って、悲しくて痛いこと?」
「え?」
 悔しいという感情は、思いや願い通りにならない何かの物事を残念に感じ、諦めきれずいることで起こります。苛立ちを覚えたり、腹立たしく思うのです。はずかしめなどを受け、同種の感情を覚えた場合でも用います。
 メイの声が諭すようにやさしく室内に落ちる、燐ちゃんは何も言わずそれだ、というように頷いてくれる。
「『…くやしい』」そうなんだ。
 知らなかった。そういうの、研究所の内側じゃ分からなかった。
 この場所は、あたし達は、誰かの深い悲しみとか悔しさから離されている。
「っ!」
「深雪?」
 お父さんのバカ、なんで起きないの?
 いま初めて本気で思った、燐ちゃんが迎えに来てくれたんだよってどうしても言いたくて、燐ちゃんの膝から降りて、部屋を出ようとした。メイがどこへ、と先生のような口調で問う。
「お父さんを叱るの!」
 認められません。いつもはたまに息抜きでもしなさいとかなのに、今日に限って反対のことを言う。
「深雪」
 足下はひんやりして、とげとげしたものが柔らかく肌を刺した。
 ここのアーカイブは膨大で豊富。あたしは記録の方だろう、だけどお父さんはどうして装置に入ったのか知らない、もしかしたら、燐ちゃんの命を継いでいった子たちに何かあったらいちばんに傍に駈け寄っていくためなのかも知れないと裸足で夜の芝生を駆けながら思った。
 
 
「『起きない』」
 燐ちゃんは、感情もなく繰り返してからお父さんを見上げた。
 博士のチームの研究員である埜末さんはこくりと頷く。埜末さんはチームのお姉さんみたいな存在で、鈴みたいな声をしているのに歌うのがかなり苦手だった。事故で下半身が動かなくなってしまった弟の優吾さんと暮らしていて、二人ともとっても面白い。
「覚醒プログラムに切り替えてありますが、本人の意思であるのか雪男さんは目覚めません」
 と、燐ちゃんの顔を見、目をぱちぱちさせると宥めるように続けた。
「あ、元々覚醒には一週間から一ヶ月と個人差が出ますので」
 よっぽど悲しそうな顔をしたのだろうなと後ろで見ながら思った。
「数値的な異常はなく、彼の目には深雪ちゃんと、お兄さんが視認できているはずです。ただ、体内時間を遅らせていたぶん脳内での処理が上手くできていないのかも」
「……」
「いずれ目が覚めたら検査などをして、データの上書き研修、トレーニング後、問題がなければ第二シークエンスに移行します。準備期間は三年の予定です」
 こうしたことを徐々にスパンを長くし、雪男氏には永年渡航をしてもらいます。とメイが続ける、燐ちゃんは小さく弱く頷いた。
 時空のねじれを利用したとする物理的な時間渡航とはやや理論が異なり、この装置は時間を超える術というよりも、如何に動体の持つ時計を鈍化させるかというという点に重きを置いています。あらゆる生命体は、細胞分裂の回数、早さにおいて不可逆なものとして、これを止めることは出来ません。動的流動を可能な限りで留めさせるには、現段階において一時的な冬眠状態にする方法が用いられていますが、低体温維持による脳内ホルモンの分泌異常、細胞の壊死などの理由から長期は不可能、冷凍睡眠が必ずしも万能ではないのは明らかなことです。現在、再生治療など…、メイが来館者用の説明に入る。燐ちゃんは真空パックのまま目が覚めないってことなんだよな、と被せるように言った。金属の玉でも投げつけられたときの、重いような、きんと響くような空気が砂時計にぶつかる。
「八年です」
 そして、やわらかく跳ね返ってくる。
「運用テストを含めるとそれ以上にもなります。惑星の…、いえ、樹木の一生からすれば蜉蝣のそれよりもずっと短い時間です。この世界で大きく変わったこともあれば、何一つ変わらないこともあります」
 埜末さんは、いつもとは違う強さが感じられる口調で続けた。
「航時実証機ですから、何かしらの不具合が見付かり次第、装置は停止させます。ですが、開発した我々としては、一年でも長く繋いでいきたいと思っています」
「こう、じ…」
 どこか放心したように燐ちゃんが言うのを、メイの案内もなく目の前を駆けていった影が素早い跳び蹴りで遮った。
―――ごっ!
「『航時実証機』だ、アホ!」
「燐ちゃん!」
 後ろからのアタックに燐ちゃんは腰を撫でさすりながら、ちょっとむっとした顔をして葉太を見ている。この悪ガキがと思っているんだろう、それは正しい。葉太ははす向かいに住む幼なじみだ。お兄さんと十歳も年が離れているから甘やかされてこの施設の小さな王様みたいになっちゃっている。あたしと同い年なのにてんで子どもっぽいし、いまだって空気読んでないし。しかも今の跳び蹴りは、まんま日曜朝のヒーローの決め技であるハリセンサンダーキックだ。
「葉太くん…」
 埜末さんが目を覆うのを、遅れてメイが、見学者一名、と告げる。もう入ってるよ、と天井に向けて言うと、ドアから入ってきたのは葉太のお父さんだった。
「葉太!」
 お父さんがすみません、と困ったように腕を引くのも構わず葉太は燐ちゃんを向く。
「お前、深雪の何だ?」
「…家族」
 燐ちゃんは目をぱちくりさせると葉太を見詰め、父親みたいなもん、と続けた。
「あ、深雪ちゃんの…」
 葉太のお父さんは職業柄身体はがっちりして強そうだけれど、気はとても弱いくらいに優しいというか、ゆったりしていて、とても穏やかだ。
「嘘だ! 深雪の親父は装置だからな!」
 葉太は腕を引かれながらも力一杯でお父さんの装置を指差す。
「あ? 嘘じゃねーよ」
 葉太の言葉のどれかにかちんと来たのか、燐ちゃんの態度はションボリ気味から一転、やや首が傾いて、ガラが悪くなる。
「お前こそ深雪の何だ?」
 燐ちゃんが訊くのを無視し、すみません、お邪魔しましてと詫びながらお父さんに横抱えされた葉太は藻掻きながらも燐ちゃんに噛みつかんばかりの勢いで言った。ふざけんなよ! 葉太こそだよ。
「深雪はお前には渡さねーからな!」
 え?
「……」
 思わず燐ちゃんと顔を見合わせてしまう。燐ちゃんはあたしの反応を見てそれこそ絶望したかのような顔になっていたけど、すぐさま額に血管を浮き上がらせて怒鳴った。
「待てコラァ!」
 うわん、と室内に響く。
「クソガキ! それはこっちの台詞だ!」
 燐ちゃんは葉太達が出て行ったドアに向かってわめき立てる。
「深雪は渡さねえ!」
 宥めても、すかしても燐ちゃんの怒りはなかなか収まらなくて、報告を受けた博士は笑っていたとメイが教えてくれた。
 
 
 深雪は、と燐ちゃんは料理の本を見ながらちょっと難しい顔をする。燐ちゃんはとても料理が上手だけど、冷凍睡眠のせいで勉強しなくちゃ追いつかないことも多かった。一緒に学校に行く? って訊いたら葉太がいるから嫌だって。かわいいと思うけど子どもだ。
「雪男が嫌いなのか?」
「燐ちゃん、お仕事は?」
 最近買い換えた眼鏡は燐ちゃんが選んでくれたもので、気に入っているけれどたまに左側のつるに当たってるところが痛む。位置をずらしながら顔を上げた、燐ちゃんは見詰められるとぐっと詰まる。
「ゆ、雪男が、目ェ覚ますまでは、休む…」
 任務依頼の入電を十七回受け取りましたと、メイが突っ込む。祓魔師はとっても忙しいはずだ、ペンを置いて見直すと、カウンターの椅子に座る燐ちゃんは下手くそな口笛を吹いている。まったく。
「一緒に住めるようになったし、お父さんはどこにも行かないよ?」
「み、深雪の弁当も、あるし…」
 ごにょごにょと言い訳がましい。
「土曜日はクラブの合同練習。いつもは給食だって」
 燐ちゃんてば大きな弟みたいだ、これじゃあ、葉太と変わらない。
「地鎮祭のお仕事も断るし」
「や、それは、だな…」
「葉太のお父さんのお仕事、人柱だよ」
「え」
 燐ちゃんは瞬きをし、それからそうなのか、と呟くように言う。
「人柱のひとはきちんと地下に潜って仕事するのに」
 人柱は、土地と契約のために捧げられる生きた贄、と言われている。古くから伝わる仕事で、地鎮祭から建物の完成までずっと地下室に籠もる。狭く暗い場所に誰とも喋らず数ヶ月から数年を過ごすという厳しいお仕事だ。なるのも大変、それでもなっちゃう葉太のお父さんはすごい。きっと葉太のために頑張ったんだろうな。
「…あの親父さん、でかい仕事したのか?」
「? でかいって、籠もってるのが長いってこと?」
 燐ちゃんはこくりと頷く、その顔を見ていると仕事しなよと言っておいて燐ちゃんには何年もかかるようなそんなに長い任務に行って欲しくないなあと思ってしまう。
「寺の本堂とか」
「橋だったよ、二年前の八月に終わったやつが一番長かったと思うけど」
 谷間に架かる道路だったけど四年くらいは籠もっていたと思う。あとは半年くらいの規模の小さめのものだ。燐ちゃんは腕を組んで視点を一点に定め、考えているようだった。
「やる気になった?」
 あー、まあな、と生返事だ。溜息が出る。
 人柱のお仕事は話を聞くだけで息が詰まりそうになる。願掛けみたいなもん、と燐ちゃんは言うけど人柱がいるといないのとでは大きく違って、橋とかビルとか大きな建築物を建てる場合は必ずいたし、仕事ぶりはニュースにもなるくらいだった。建物が完成すると出てくるけど、そこに絶対に必要になるのが祓魔師だった。人柱は魔障者ではないため、入るときと出るときに籠もり部屋から現れやすいという悪魔が分からない、その対処と警護をするために立ち会う。もちろん、どこからか出てくるという悪魔を祓うのが本来の仕事だけど、神社の神主さんと十字架を持った祓魔師が並ぶのはずっと前からのしきたりとはいえ首を傾げずにはいられない。この国だからこそでも、そういうもんだと何度も参加しながら不思議にも思わないのが燐ちゃんだと思う。そう言うと、燐ちゃんはむうと口を尖らせる。
「雪男そっくり…」
「うるさいな」
 そんなに似てないもん、と否定すると笑う。そういうときの顔とかドキっとするから困る、やさしいだけじゃなくてずっと見透かして深いところにお父さんの面影を探しているような切なさもあるから。
「でもよ、深雪は…なんつーか、雪男が起きなくてほっとしてるような顔してるだろ?」兄ちゃんは心配なんだよ。
 ここはおじさんだ。燐ちゃんは毎日弟に会いに行って、そうして目覚めないことにがっかりして帰ってくる。メイが慰めるように瞼が開き、景色を視認しているはずです、と言うけれど、そのパーセンテージは低いままだった。
「……」
 鋭いなあ。
「…燐ちゃんは、『お前なんか知らないよ』って言われないかとか考えないの?」
 燐ちゃんは半拍くらいおいてからそういや記憶飛ぶこともあるんだっけ? と何てことない顔で言う。説明を聞いただろうのに判らないフリなのかなあ。
「おと…雪ちゃんは、かっこいいと思うけど」ずれたような眼鏡もステキだし。
 なんとなく眼鏡を押し上げて、ノートにぐりぐりと螺旋を書く。
「怖いのか?」
「自慢だよ、燐ちゃんだってそうでしょ?」
 ぬっと手が伸びてきてわしわしと両手で髪をくしゃくしゃにされる。深雪はすっげー可愛いし、頭もいいし、あいつびっくりすんぞ、と燐ちゃんはにっと歯を見せて笑った。
「心配すんな。お前雪男のこと、すぐ好きになる」絶対。
「う、うん」
「記憶なんてお構いなしに、雪男は一発だぞ。あいつ、素直じゃねえだけから」
「…うん」
 でもね、燐ちゃん。
 あたしは燐ちゃんの遺伝情報を持っていないの。お父さんと殆ど一緒で、まるでお父さんのクローンなんだよ。起きなきゃいけないのにお父さんが目覚めないのはだからじゃないかなって思うんだ。
 お父さんとの思い出もない、声も知らない。誰だって訊かれたら、あたしはきっと縮こまって答えられないような気がする。
 
 
 深い闇の中に、まるで浮き立つ小さな気泡のように淡い光が流れ込んでくる。
 光の滴だ。
 ずっと暗い海の底に沈んでいるような気がしていた。
 そこで浅い眠りを貪っているような。
 微睡んでいたいような、でもこうしているのも勿体ない、目を覚まさなきゃとどっちつかずな状態で光を思う。
 次のあれが瞼を掠めたら、ゆびさきに触れたら。
 決めかねているのは光と共に注がれる記憶に身を委ねていたいからだと気付く。
 滑らかな、一筋の光跡。ゆらゆらと揺れて、流れる。
 弾けて蘇り、留まらずに、流れる。
 白尽くしの無機質な研究室で僕は誰かと話している。
―――天罰だって構わない。
 神の奇蹟も威光もクソ喰らえだ、と口にしないけど不届きなことを平然と考えている自分がいる。裏切られた? では、何か期待をしたのか?
 誰かは重々しく頷き、仕方がないとかどうしようもないとかそんなような言葉を口にする。
―――いいんです。
 僕は首を横に振る。
―――人のためとか、誰かを助けるとか、大切な人を守るとか、僕には二次的なものでしかなく、本当のところ皆の幸いなんてこれっぽっちも考えてないんです。
 相手は黙っている、若いのか老けているのかも分からない、痩身の人影を相手にいったい僕は何を喋っているのだろう。
―――だから僕にうってつけなんです。そんなエゴでガチガチになった人間なら誰も不憫だなんて思わないでしょう?
―――倫理とか道徳とか、僕には無意味だ。
 だから感傷でもないんですよ、と僕は偽善的な笑顔を浮かべる。だけど相手はそれを鵜呑みにはしない、静かに胸の前で指を組む。彼は手強く、恐ろしく切れ、自分よりも優秀なのだと知っている。
 そう、忘れちゃいけない。
 深いところにある感情を、誰にも触れさせない、侵させたりなどしない。
―――彼を愛している。
 目覚めなければ。
 その時が来た。
 重い身体を持ち上げ、流れを捕まえるのだ。
 
 でも、あれは何だ?
 
 
 
 燐の携帯電話が着信を告げる。
 休暇届にミスがあったとかどやされるのはうんざりだと思ったが相手はかけがえのない弟の、自分にとっても手中の珠の如くいとしくも大事な娘で、分身だ。
「お父さんが、起きたの」
 と震える声で深雪が告げた。まだ語尾に幼さを残している声はかちんこちんと固くなっていた。助けて、と、少女の声はそう続きそうだった。
 燐の頭の危険信号が点滅する。何かが、集中しろ、と喝を呉れたような気がした。
 
 
 『航時実証機』は、施設でも長く続いているプロジェクトの一つだ。被験者は奥村雪男、審査をクリアし、国が認め、本人も承諾してこの時のゆりかごの中にいる。
 二十年前、自分の子の一人が妻の中に不完全なままあると医師に言われたとき、この胚を持ったまま、いや、誕生するそのときまで時間に待ったをかけていたいと志願を本気で考えた。ようやく授かることができた子どもだった。長男の誕生とともにその細胞を摘出し、人工臓器内で時間を掛けて育てる。その子は消失していない。補助があるとはいえ、費用はかかる。この実証機の被験者には国からの保険と保障、また、時を超えたあとの生活をまかなえる分だけの報酬もあると聞いていた。
 しかし、申請することも出来なかった。組み立てられる装置は稼働すら危うく思え、ただの暗く不気味な洞穴のようで、自分には異国の棺桶にすら見えた。この世界に深淵という場所があるならそのひとつは紛れもなくあのカプセルではないかと考えたほどだ。
 未来に送られることのリスク、生きた標本に与えられる名誉はなく、ほの暗い不安が押し寄せる。
 運送会社を辞めて、人柱になったのは被験者決定の報が届いた直後だ。人柱は他の職業より過酷なぶん、保障も厚く、収入も違う。社会的信用もあったし、何より五年以上籠もることは禁じられていた。
 施設内の住宅棟にも志願者はいたらしいが、誰もが通らなかったことにこわばりを解き、周囲の空気はふわっと軽くなったような気がしていた。未来に希望を求める気持ちが強い者が集まったのがこの施設なのだ、他の場所で匙を投げられ、それでも諦めきれずにやってくる。宗教に似ていると誰かが言ったが、そうかも知れない。教祖は最先端のバイオ技術と膨大な情報量と生かす知恵といったところだろう。
「……」
 そうしたことも踏まえて今回の実証機には期待がかかっている。
「桐島は初めてか?」
 三ヶ月前にビルの仕事を終えた後輩が遊びに来ていた。息子から彼が起きそうだと興奮した連絡が届き、では元祓魔師の目覚めを我々がと駆けつけたのだ。いつもは仕事の始めと終わりに祓魔師が付き添う、なので、人柱は悪魔の巣窟だという場所から魔障知らずで過ごせ、帰ってくる。
 入館証を受け取り、装置のある棟に向かう。桐島は息子の話を聞くとふいに無口になった、棟に近付き、緊張しだしたのかも知れない。陽気で快活、どんな職でもやれそうだが、高収入であることと家業に就きたくなかったという理由で人柱になった男だった。
「ああ、一応、聞こうか」
 メイが入館の確認をする。
「お前、前後で禊はしたよな?」
 装置までは遠くない、棟の入り口を入ればもう装置のある部屋のドアは開いていた。すでに息子や研究員、氏の娘、また、燐という若い男性もいるのだろう。状況は籠もりを終えた自分たちの仕事に似ているのでからかうように口にしていた。
「…ストめ…」
「桐島?」
 低く呟くや否やドアに向かい突進する、メイが走らないで下さい、と二度警告する。
「おっさ…」
 息子の葉太が悲鳴に似た声を上げる。どうしちゃったんだよ!
 続いて響いた破壊音に耳を塞ぐ。
「…っ、桐島!」
「うるせえ!」
 装置正面に位置した砂時計が割れた、すでに装置から伸びたコードが火花を散らしており、近くのタンクから液体窒素らしいものがぽたりぽたりと落ちて床に黒い焦げ痕を残していた。誰もが驚愕と怯えが入り交じった顔で桐島を凝視している。
「何するんですか!」あんた誰だ!
 止めようとした研究員が腕のひと払いで一メートルほど飛んだ。一瞬のことだった。
「桐し…」
「触んな。見えてねんだろ」
 背後から肩を掴まれる。若い男の声が続く、奥村燐氏だ。
「あ、悪魔か…?」
 答えも聞かず、身体を後ろに押し戻すようにすると緊急用避難指示やって、とメイに向けてか言う。桐島は素手で近くの装置の側面を叩いている、己の手が傷付いても構わず、その音が室内にこだまし、高らかな警報とで目眩がしそうだ。くるりと振り向いたがべったりとした闇が覆った暗い顔にしか見えず、焦点の合っていない目と猛獣のような鈍いようでいて鋭い動きが身を竦ませた。
「燐、燐ちゃ…」
「行くな、深雪!」
 誰よりも雪男氏のカプセルに近いのは彼の娘の深雪と葉太で、葉太は男らしく、深雪を背後に庇っているようだった。二人に駈け寄りたいが「いいから任せろ」との一言と刀で遮られてしまう。自分よりも背も低く小柄に見えるのに力がある、彼が壁としてびくともしないことに驚いた。
「しかし、奥村さん!」
「退出! さあ、俺が相手だ、キリシマ。深雪の毛一本でも切ってみろ、ただじゃおかねえ」
 刀袋を捨て、鞘から刀身を抜くとふっと青い炎が浮き上がる。
「お前、ずりい!」
 葉太が叫ぶ。なんだよその青いの!
「ずるくねえ!」
 それでも彼は葉太の声が震えていることに気付いているのだろうか。はっと装置のカプセルに異常があるのに気付く、ひびが入って煤で塗られたように全面が真っ黒になっているのだ。
「雪男と、そのガキのぶんもついでにぶん殴ってやっから」
 燐氏は桐島の初手の攻撃を左手で受ける。そのまま締め上げ、桐島は足で頭で燐氏を退けようとする。どこから出しているのかさえ分からない濁った声で桐島は罵りを繰り返していた。
「葉太、深雪、振り返らず逃げろよ」抑えてっから。
 燐氏は刀を持ったまま腕をぐるぐると回す。そのときになって警報の音が消え、メイが刀剣は禁じられています、通報はしました、と告げているのを知った。こんな非常時に的外れだ。それまでどうしろというのだろう。なんとか二人の横をすり抜けた葉太が深雪ちゃんの手を引いて転がるように駆けてくる、もう少し、と思って手を伸ばすと―――
「あっ…」
 深雪ちゃんが躓いてしまう、悲鳴に近い声と、眼鏡が落ちる音がした。
「深雪!」
 力が緩んだか、桐島が飛び退る。燐氏は切っ先を向けながら素早く深雪ちゃんの前に立つ。十分な間合いだった、桐島は確か空手の有段者だ。彼が悪魔に憑かれているのは――悔しいことに――この状況で分かったが、そのまま悪魔の持つ力となるのだろうか。腫れ上がった右腕はすでに骨折でもしていて感覚もないだろうが、それは常人である場合の話だ。
「う、動けな…」
 渾身の力で葉太を突き飛ばしたのだろう、何をされたか分からないような顔で葉太が転がり出てきた。
「深雪!」葉太は引き抜けたが、深雪ちゃんには届かない。
「くっ…」
「燐ちゃん、ごめ…」
 少女の涙声、悪魔の哄笑、気にすんなって、と若い祓魔師は涼しい声を響かせる。
「雑魚《ザコ》だし」
「このクソ祓魔師が…」
―――かん、と甲高い音がする。
「兄さん、刀仕舞って」
 細かな飛沫が煙幕のように室内に広がる。呻きと、あちぃ! という声がしたかと思うと、張りのある声が続く。
「二重詠唱」
 びくっと燐氏の尾が跳ね上がった。
「兄さんは詩篇、十九」
 
 
「え、しへん…?」
 鞘はあっちに、刀身は抜き出してある、炎は隠しようもない。問題は燐が刀を抜いた途端、高濃度の聖水の雨が頭上から降らないことだったが、ないことに実はほっとしていた。たまに消火剤と同様、スプリンクラーから聖水が吹き出るところがある。…なのにやっぱり浴びた、顔やらがぴりぴりする。
「銃刀類厳禁!」装置が壊れるだろ!
 説教するときと同じ声だ、相手がイラっとしてるのが分かる。
「でももう、タマゴとか砂時計とか割れちまってんぞ?」
「いいから。大聖堂で聞いてた歌だよ、早く!」タマゴってなんだよ。
 悪魔は突然の聖水に跪いたようだが、それは驚いただけのことですぐにゆらりと身体を起こした。燐がちょっと痛いくらいならば聖水も中級くらいの悪魔には効かない。祓えるのは呼ばれて出てくる魍魎《コールタール》くらいだ、確かに深雪に集ろうとしていた魍魎は消えた。が、魔障が心配だ。
「…誰だァ…?」
「黙れ」
 燐の知らないうちに小さい魔法円を用意していたらしい、一人言つように召喚呪を唱えると卵形状のカプセルから悪魔に小さな光が跡を引きながら襲いかかり、絡まった。
「早く!」
 慌てて鞘を拾うものの、仕舞えない。
「兄さん!」
「仕舞えるか!」
「周囲を見て。刀を振り回して良い場所じゃない、詠《うた》って」
 深雪が視界の隅で小さくなっている。装置に繋がっているだろうタンクの管から煙を纏った滴が垂れており、焦げ痕を床に作っていた。そこから小鬼《ホブコブリン》まで出てくる。
「くそっ!」
 横様に払って小鬼を分断し、刀身を鞘に収めた。
「か、神は! 神はみそ…」
 燐は言われるまま、ただ従うしかない。ちなみに詩篇? 十九ってどれ? と思っているから当てずっぽうで正しいのかも分からない。何しろ昇級試験に二度続けて落ちている、実力は十分にあるが筆記で上級にあがれないでいるのだ。
「天だろ!」
 言われて歌を思い出した。
「天は、御神の栄光を語り、空は…」
「…うぐっ…」
「神言い給わく、末の世に至りて、我が霊を凡ての人に注がん。汝らの…」
 脳内に歌が鳴り響く。つられないよう慎重に唱えていると、悪魔は身悶えし、終わらないうちに気を失ってぱたりと倒れた。
「を、示す…?」早い。
 燐は首を傾げて横に立った男を見る。痩せた感じはするが、記憶のままにある弟の雪男だった。雪男は視線を無視し、男を見詰めながら詠唱を続けている。
「…すべての主の御名を呼び、頼みん者は救われん」
 と、俄に背後がざわつき、正十字騎士團の制服を着た二人連れが入ってきた。
「連行して下さい、祓えてはいません。彼自身が緊縛したものと思われます」
 祓魔師は、燐と雪男を見ておやという顔をしたが何も言わず、処理をするからと周囲に指示を与える。埜末女史がすぐ修理をしたい、と年嵩の方に訴えていた。聖水散布は最低限に、何か違う方法があればそちらでお願いできないでしょうか? 彼女にはぼこぼこわき出る魍魎が分からないらしい、当たり前だが幸いだ。
「たいした人だなあ…」
 運ばれていく男と女史にともつかない感想が聞こえる。
「あそこの人柱さんの知り合いらしいからな」
「人柱?」あ。
 燐が親指で示すと面識があるのか雪男は、葉太の父親に頭を下げる。燐は埃を払いながら深雪に駈け寄った。
「深雪、平気か?」
 怖い思いをさせてしまった、任務に行きたくなかったのは悪魔の血や体液やらで汚れたまま深雪に触りたくなかったからだ。手をごしごしと服に擦りつけた。これで抱き締めた瞬間、嫌がられたり、変な匂いがするとでも言われたら立ち直れない。
「う、うん…」
「触んな」
 クソガキが割り込んできた、保護者はどうしたと思えば、事情聴取とばかりに後から来た祓魔師に脇を固められ説明を求められていた。
「……」
 深雪は涙目のまま呆けたように燐と葉太の二人を過ぎた一人の男を見ている。目の端を拭うと誰の手も借りようとせず埃を払い、身を繕ってはさっと燐の横に隠れようとする。
「深雪?」
「なっ! おま…」
 ようたくんうるさい、か細い声で言う、見えないけれどガキの頭に刺さったものが見えたような気がした。燐はでかしたと思うが、でも俺も眼中にないんじゃないか?とも思う。
 雪男は深雪の視線に気付いていただろう、それどころか目が合った途端、外すことも出来ずロックオンされた状態だったようで、びりびりっと緊張が伝わるのが分かる。いや、これは深雪の方か。
「…の、深雪、ちゃん…?」
 そういや眼鏡あるなあ、と燐は思う。表さない感情を示すのに都合の良いアイテムで、どこにでもスペアという信条はまったく変わっていないようだ。雪男はきっと眼鏡を押し上げ、意を決したというふうに口元を一文字に結ぶと歩み寄ってきた。
「初めまして。怪我はない?」
「……」
 そういや燐は初対面でも彼女にそんな言葉は掛けてない、任務での寝床は修道院が多かったから子どもには慣れていて緊張はまったくなかった。子猫丸の子どもに泣かれたのはショックだったけど(いまでも会うと泣かれるし、登られる)。
 深雪は燐の裾を掴むと小さくこくりと頷いてから首を横に振った。そういや怖がっていた、そんな臆病なところが雪男とよく似ている。黙って見ているとやがて聞こえないほどの声で言う。
「深雪、で、いいです…」
 雪男はちょっと笑うと、視線を合わせるように腰を屈める。
「深雪は、兄さんのこと好き?」
 ぱっと自分を見上げ、こくりと頷く。
「はい」
 いいのかよと思ったがそれでも雪男は満足そうだった。
「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる?」
「……」
 少女の目はぱちくりと瞬きをし、それから雪男を凝《じ》っと捕らえた。
「もちろん、です」約束するよ!
 世話を任されるかのような親子にしては微妙な会話を続ける雪男と深雪を見、立ち尽くしているままの葉太を見る、先刻のうるさいが響いているのか、それとも見守っているのか。
「心の準備も…慣れるとか難しいだろうし、納得もしてないかも知れない、僕のことお父さんって無理に思わなくていい」
「おい、雪男」
 兄さんは黙って、と言われてしまう。張り詰めた声に圧されてすいませんとつい返す、斜め下にざまあと言いたげな憎らしい顔が見えた。拳骨を落としたいところだがぐっと堪える。
「僕も兄さんが好きだから、兄さんの好きな者同士ってところから仲良くなれないかな?」
「雪男…」
「あ。一部嫌いなところもあります」
 雪男は燐を見ず払うように手を振る。
「あたしもそうかも」
「……」えええええ。
 燐は言葉も出ない、それはない。ていうか、深雪まで同意ってなにこの親子。
「それでも傍にいたいんだ」
「うん」
 深雪はやっぱりという風ににこりと笑った。それも、燐には引き出せないような笑顔だ。その一言で意思疎通できたような清々しささえある。親密さがなんか悔しい。
「で、深雪」
 雪男は立ち上がると腕を組んで笑顔を見せる、任務や塾でよく浮かべていた笑みで反射的に燐はぎくりとする。
「この横の少年は誰かな?」
 
 
 燐は携帯電話を持ったまま壁に向かって顔を顰める。
「なんで家に入れて貰えねーの…?」
 通話は切れていた、雪男はだよねえ、と乾いた笑いで答えた。
「もう十二時過ぎてるものなあ」
「お前、アレないの? ここで使える便利鍵とか!」
「諦めてよ」
 雪男は息を吐いてベンチから立ち上がると、ここは厳しいからと燐の腕を引く。
「椅子で寝るよりましだろ?」
「……」
 ガラス窓に自分たちの姿が映る、それほどに辺りは暗い。人の気配も消え、建物は機械の低音の唸りだけがどこかから漏れて聞こえるくらいで、どこもかしこもひっそりとしていた。悪魔騒ぎのあと、深雪たちはちょっとした診察をしてから解放されたが二人は祓魔処理に報告、雪男の検査も加わって研究室に足止めされていた。
「だから訪問者用の宿泊施設がついてる」
「どうせ病院みたいなもんだろ?」
 燐は腕を引かれながら雪男の態度に冷淡さを感じていた。もっと構ってやらないのか、とか電話でも良いから話しかけろと何度も思った。今日は忙しかったけど、それでも彼女を気遣う時間はあったはずだ。燐は何度も携帯電話を見詰めたし、メールだってした、返事は簡単だったけど、届く先で寂しがって泣いてないか気になって仕方がなかった。
 家には馴染みの家政婦と研究員が付き添っているそうだが、それでも今日は慣れている孤独ではないはずだ。居てやりたい親心をいうものを雪男はきっと装置のタマゴの中に置き忘れている。
「雪男」
「ん?」
 渡り廊下を歩きつつ、雪男が平然としているからつい咎めるようになってしまう。
「…深雪は一人なんだぞ?」
「生まれたときからずっと一人だよ」
 雪男は廊下の先を見詰めながら答える。窓から差し込む鈍い月明かりに、弟の顔は青白く見えた。
「久しぶりだよね、兄さん。死んでなくて何よりだ」
「お前もな」
 ひねくれた言い回しも変わることなく、燐は軽いムカつきを覚える。話はそっちじゃない。
「博士は誰なんだろう? 兄さんは会った? 説明は聞いてる?」
「あ、いや、学会だとかで…」話をするどころか姿を見てもいない。
 『博士は誰』とか『説明』とか、どうも違和を感じるキーワードのような気がする。説明と言われても必要ないからといい加減に省いたり、聞き流してしまったのだが真面目に聞くべきだったか。しかし、分子生理学だの、免疫だのの他に、更なる時間的閉局なんちゃらやら相対性理論なんてやられたら、それこそ頭がショートしてしまう。
「僕、李花嬢とは数えるほどしか会ってないんだよね」
「え?」
 昨日あったことのように雪男は言う、燐は顔を上げるが弟は視線を向けることもなく、窓に映る横顔しか見えなかった。
「それでも、あのときお婆さんに縋られて、僕は頷いてしまった。それから失敗しても成功しても後悔し続けたんだ。兄さんみたいに潔くなれなかった、僕には資格なんて持てないのに深雪は力強く成長してくれた」
「……」
 自然に足が止まる。
「父親だからなんて気軽に言えるもんか、ほっといた僕が出来る事なんて世間並みにあるわけないんだ」
 まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
「…なら、父親二人でいいじゃねえか」
「深雪は立派な女性だよ」
 看破されたもんなあ、と雪男は頭を掻く。燐には分からない。確かに深雪は賢いし、年のわりにしっかりしすぎている。尤も男はガキ臭いのがなかなか抜けきらないものだが、深雪だけでなく、少女は心の成熟が早い、一足飛びに『女』になってしまったら変な虫がとはらはらしてしまう。違うのか。
「でも、寂しがるし、昔のお前みたいに頭でっかちのガッチガチだ」
「なんだよそれ」
「気持ちとか、そういうの、ついてってねえっつの!」
 兄さんに心の襞とか感情の機微を言われるとはねえ、と物凄くおざなりに返されてしまう、肘でも足でもヤキを入れてやりたくなる。
「そもそも兄さん、馴れ馴れしすぎだし」
「何が」
「深雪に一緒に風呂に入ろうとか言ったりしてないだろうね?」
「桶やら石鹸やら投げられた」
 雪男はデリカシーないなと軽蔑を含んだような眼差しを向ける。実はメイに同じことを言われていた、二段で受けると結構来る。だって家族だぞ? 小学校に入ったらもう風呂は駄目なのか? 世の父親の味わう寂しさって早くない?…早いな。
「…ただ、葉太は認めねえ」それだけだ。
「うん、そうだ」
 そこはあっさり肯首する。
「……」
 しかも、とても自然だった。
 何だ、こいつちゃんとどころか自分以上にすごく深雪のことを考えているし、深い愛情を持っている。雪男はきっと燐の知らない様々なことを知っており、覚悟をして出てきたのだ。たぶん。嬉しいし、バカだなという思いが溢れてきて燐は雪男に手を伸ばした。
「雪男の、歯ぁ食いしばってすっげ拙い顔しながらたたかうの、好きだぞ」
 撫でると雪男はこの年で、とうんざりしたような顔をする。当たり前だけど変わってねーのなとははっと笑うと、はあ、と大きく息を吐かれる。
「兄さんが締まりなさ過ぎなんだよ」昔っから。
 燐の手からそっと逃れて歩き出す、建物が変わると足音が静かな廊下にいまの時間を刻むみたいに響いた。砂時計の砂が音も立てずに落ちていく、止まることはない。
「あれ、俺、かっこよくなかった?」
「え? 中一級さんの詠唱が? 可愛いったらないよ」
 鼻であしらうどころか、まるきり相手にしていない物言いだ。目下の燐の階級《ポジション》が雪男には気に入らないらしい、期待しないとか散々言っておいて期待してるのやめろ。
「…ほんと、可愛い」
 何を思ってか、虚空に向けて詠うように繰り返す。
「試験は、その、筆記で…。俺が正しいって思うと、なんか違うっていうか、や、実力は十分にあるし、チーム戦も結構やれるんだけど…やっぱ、書くって頭が拒否して、…えっと…」
「はいはい」
 エレベーターで階を上がると、壁なども学校から生活区へといった印象になる。雪男は呆れた顔をするがしどろもどろが何も言えなくなってくると笑いだす、ダメなとこ全然変わってないんだ。失礼すぎる。
「お前な、そこは忘れていいとこだぞ? ハゲてーのか?」
「無理だね」
 雪男は更に笑い飛ばす。
「忘れたって、僕は兄さんを好きになるって決めてたから」
 詰まる、怒れもしない。そして、熱くなるのは簡単だ、こんな奴なのに。
「根は深いんだ」
 だったら何で勝手にいなくなったんだよ、このドS野郎が。
「痛っ!」ちょっ蹴らないでよ。
「うるせえ! 俺はSでもMッ気もねえ!」
 雪男は意味不明だという顔をする、それがまた憎たらしい。燐の中は深雪のように思慕と恐れやら怯えとが波状となって渦になって、そんな表層にすまし顔の恋慕だけが浮いている。
 
 
 宛がわれた部屋はツインのビジネスホテルといった感じの殺風景なものだったが、突き当たりは窓で、畳と座椅子があった。見れば雪男の検査結果が壁際の机の上に置かれてもいる。雪男は一瞥すると、脳波は異常ないよ、と燐に教える。ソウデスカ、と燐は肩の刀ごとばたんと手近なベッドに倒れた。
「兄さん、風呂」
「雪男、なんで装置なんて入ったんだよ。そんな嫌だったのかよ」
 真っ直ぐに斬り込んでくる、そう遅くもなく詰問されるのは分かってはいたが、拗ねたように言われるとは予想外だ。雪男としては殴られるかするだろうと思っていた、何一つ燐に言わず、彼が恐れていることを実行したのだから。
「未来に進みたかったんだよ」
「……」
 雪男は上着のボタンを外し、燐の横に腰を下ろす。兄はごろりと背を向け、離れろと足の裏で腰を蹴って合図する。
「クローン技術もそうだけど兄さんと結婚できるまで」
 無理だ、バカ、とくぐもった声で突っ返された。
「かもしれないけど、時間に抗って超えて、それだけ本気だってこと示さないと神様も根負けしないと思うから」
「……」
 燐は、のろりと起き上がる。
 何かを言おうとして口を噤むと雪男をぎゅっと抱く。
「ほんのちょっと未来《さき》を知りたいだけなんだ」
 分かった、とだけ言う。湿っているようにも聞こえたけど、聞き違いかも知れない。燐は詫びも求めないし、雪男が決めたことに文句も言わない。記憶にある感触と照合させたいのか、ふと確かめるように匂いを嗅ぎ、唇を額や瞼に押しつけ、耳の後ろや頬や首筋を舐める。雪男は気まずいような歯痒いような心地になり、仕舞いには慌てた。
「ちょ、僕を食べる気?」止めてよね。
 嬉しいというのは内緒だ。それ以上に悟られたくない、身体が火照っている。
「雪男」
「うん」
 肌に噛みつくようにしながら膝の上に跨って座ると落ち着くのか、ふいに力を抜く。愛しい身体は時間を経っても知っている居場所をすぐさま理解するようだった。
「いくつになった?」
「二十七…じゃないな、八だ」
 装置の中では一年にも満たない時間しか経過していない。雪男の身体はスキップしたようであり、しかし気分は浦島太郎のようでもある。兄さんは?と問うと同じだと言われる。
「待ってたんだ」なんて。
「…探して、待ってた」
 当たり前だろと続けられそうで、照れるというか、困る。燐の言葉は口から出任せだろうに、お前の欲しい言葉などお見通しだと揶揄されたとしても、こんなに近いし、久しぶりなのだから力も入ってしまうというものだ。
「雪男?」
「頼むから見るな…」鈍るし。
 燐はそっかー、と、けらけら笑う。くそ。
「結婚とか言う割には放置してくれたよな」
「だから、兄さんなら根性で見付け出してくれるかと」
 掬い上げた指先にキスをする。
「……」
 もっと早く見付けたかった、と燐は呟く。だけど兄にはこれが精一杯だった、分かっている。監視されながら徹底的にコントロールされた情報下で出来ることは少ないだろう。今回のことだって、露見《バレ》ている可能性もあったのだから相当に運が良い。
「褒めて喝采したいところだけど」
「何だよ?」
 燐が目を合わせてくる、尾がひょこひょこと左右に揺れて床を叩いた。
「…キスの仕方も忘れたかも」
 焦がれた。
 この体温と匂いと、声に感触に。
 雪男は回した腕を燐の腰にまで手を落とすと戯けてみせる。
「思い出させてやる」
「うん」手間掛けるね。
 まったくだ、と笑う燐の声がくすぐったく耳朶に響く。言えないし、言わないで、嘘を通そうと思う。自分の身体に突然発現した謎の物体はゆっくりと増殖を続けており、検査の結果はやはり芳しくない。
「…雪男?」どした?
 兄さんの犬歯の尖り具合も変わらない、当たり前だ。
「兄さんは、上」
「は?」
 ごぼりごぼりと気泡を吐き出すような音が聞こえる、上昇して泡は海流に乗る。兄さんはそちらへあちらへ首を倒して、あ、と短い声を上げる。追い縋るみたいに。
「僕はそのずっと深い層でゆっくり流れるんだ」
「お前、集中しろ!」
 尾が不満を露わにシーツを打つ。本人がびっくりするくらいにいい音がした。
 
 
 僕が乗る時の船は、不安定で危うい。
 未練たらたらで躊躇うばかり、冒険小説のヒーローとはほど遠いけれど、辿り着く先は変えないし、間違えないつもりだ。
 どんな形であれ、この世界に存在する限り彼の細胞に寄り添うこと、僕の願いはそれだけだから。
 
 
 

120602 なおと

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 あとがきです。
 どうもすみません(三平か←先代の方)。
 あるSFの短編のパラレルっぽくしたかったのですが、奥村兄弟の大事でおいしい設定部分を削らなきゃいけないことになってしまうことに気付き、また、元ネタが記憶とは大違いということもあり、全く違う創作ネタみたいになりました。ならばと好きな小説から借りた設定ドン盛りです。オマージュ。オマージュ。
 しかもストーリーの中では触れていませんがいろいろと設定があります、三親等まで遺伝子情報のやり取りは法的に可能になっているとか、ヒトクローンの認められる範囲とその親権、病院併設の研究施設が多く、居住区を用意しているとか。や、決めなきゃいけないような気がしたので考えたのですよ…(出してないから意味がないともいえる)。
 深雪ちゃんは雪男似の色白でやせ形の子をイメージしました、眼鏡っこ。おませさん。幼なじみの葉太にとってはお姫様です、我が儘も振り回される覚悟も実はあるくらいに。ちなみに李花ちゃんは燐似の小柄な子ということにしてます(出してないけど)。喜怒哀楽がはっきりした、前向きで朝ドラの主役みたいな子かなと。
 そんなときに『ips細胞でヒトの肝臓できました』のニュースが…。