黒バス_08

 
 
※赤黒です。
※続き物です。
※捏造部分過多です。
 
 あってもなくてもいいこれまでのあらすじ↓
 WC後、駅で黒子が洛山メンバーズの目の前で階段から落ちて記憶を失いました。
 現在、(赤司さんがゆくゆくのこと射程内にて)赤司家別宅に居候中。  
 
 

【PDF版】<<※作製は未定です>>

 
  
 
 
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 綺羅とノンフィクション
 
 
 
_04
 
  
 物事が思わぬ方向に進んだとはいえ、脳内はそれでも動くもので、あらゆる情報を処理し、身体を機能させる。
「学力…」
 教科書を手に黒子テツヤはごくりと唾を飲み込んだ。
「記憶が戻るならそれ以上いいことはないが、戻らないならば今の生活を維持する努力はするべきだろう?」
 正論は強い、とりあえず世間的には。
「……」
 テツヤの社会復帰に向けて、課題があった。必要の水準維持、あるいは進級するための勉強だ。
 国営放送が午後のプログラムに高校講座なるものを放送している、学校のと教科書違う! と頭を抱え蒼白になりながらも赤司の助けを借りて彼はテキストと取っ組み合っている。つくづくこれは切実な問題だと悟ったらしい。もしやと思っていたが、医師の言うとおり、全生活史記憶の喪失となると知っていることは本当にばらばらで、国語は強いが、物理はからきし、数学の四則、数式は口を突いて出るのに意味が分からないといった付け焼き刃がまる見えな知識が朧気ながら分かっていた。通院もしているのでその成果も出やすいのかと赤司は勝手に思っている。まるで抜け落ちているところは軽く浚えばマスターし、…というか何とかなった。中学の総復習となる高校入試の過去問をクリアして、現在の学年でうっかり躓いているところだ。
「赤司さん、この問題解けますか?」
「ん」
 本から目を離して正面を向けば、テレビ画面も出演者が代わり、太陽熱について可視光線だのが語られている。いつの間にか番組は変わっていたらしい。赤司は代理訪問をさせられたり、家の用事はあっても課題があるでもなく、これといってすることがなかったので外せない時以外は家で彼の勉強に付き合った。入院中にテツヤが読んでいた本を読み、そうでなければどうでもいい洋書を読んでいた。目の前に教師がいると張り合いもあるらしく、テツヤはせっせと問題を片付けている。静かで居心地の良い時間だったと思う、音声はほとんど出さず、字幕表示にしていたから気付かなかった。
「数学?」
「はい。二次関数です」
 固まったままでいたのは解法のとっかかりが掴めなくてあちこちを彷徨っていたからなのだろう、声は平坦だが顔つきは切羽詰まっている。
「ただの数Ⅰだろう? そんな世界の難問と戦うような顔をしなくても」
「僕は、数学が苦手みたいです」
 言い訳みたいに悄然と呟く。
「違うな。数式化するのに慣れてないだけだ」
 バスケットコートで彼が描くパスコースは関数と物理法則で導けるものだ、脳は動体の移動に高度な計算を処理していると言われているのだが、青峰はそんなことも知らずボールを操るし、目の前の男は計算しても出せないようなパスを通してくる。存在感を消したぶん、問答無用で通します、というようなそんな気迫すらあったのだ。
「でも、公式で求めてどうにかグラフにすると変な図になります」もはや三次関数です。
 が、ここでは立ち止まっている。
 一次関数はそうでもなかったのにと考えながら問題に目を落とし、ノートを見る。二次関数はX軸を対照とした相似曲線を描く、なるほどテツヤが求めた解答だと、一点の座標がとんでもない位置になる。計算式を遡っていってああここかと間違えた部分を直すわけにはいかない、本人が違っている部分に気付かなければ意味がない。腕を組んでから、では始めから、とテキストの頁を戻った。
「う」
「頑張れ」
 恨めしげに赤司を一瞥し、正解が憎いですとぼやいてテキストを引き寄せる。手元に置いてあった携帯電話が震えた。誠凜に行ってからメンバーとメールのやりとりを始めるようになったらしい。とはいえ、部内で飼われている子犬、テツヤ2号の話で終わるそうなのだが。
「……」
 和らいだ顔つき、戻して再開する。
「返事は?」
「後にします」
 現国では単語の理解は正確だし、恐ろしいほどの漢字の知識量だとも言えた、つまりはバランスが悪すぎるのだ。記憶力はいい方で、教科によっても興味がないと抜け落ちて残念な結果をもたらす。しかも本人に自覚がなかった。人の頭など自分の都合でしか働きはしないのだと頬杖をつきながら赤司は一つの解答を得たような気がしている。
「中学の頃は、もっとシンプルで、明快なものだと思っていた」
「数学ですか?」
「自分が執着するすべてのこと」
「……」
 ノートにペンを立てたままそれは世界レベルではないかと沈黙で問う(たのだと解釈する)。
「大それたものでもないんだ」
 本を閉じて置いた。テツヤはそうですか、と素っ気なく言って数式の続きを書く。
「…僕は自分の出来ることと出来ないことが分かっても執着していたものすら知りません。君と一緒に過ごした過去の時間も忘れました、申し訳なく思っています」
「済んだことだし、お前は悪くもない」
 手は止まったものの、顔は上がらずにペンは進み出す。式に数字が代入されて方程式がたち、解が導き出される。投げ出さずに丁寧にほぐしていけば正しい答えが出る。そのまま黙って設問を続けていって、すぐに躓いた箇所での間違いに気付く。解けた、と息を吐いてペンを手放した。伸びをするように両手を背中側に引き、背を反らせた、覗き込むと正解になっていた。
「…赤司さん、あの」
「僕を覚えていてくれ」
 ノートを見ながらぽつりと出た一言にテツヤは束の間、硬直する。咀嚼するまでの時間を措いてから
「は?」
 やや尖った声を発した。構わず繋いだ。
「お前の」
「赤司さ…」
「この座標に」
———パチッ。
 空気を裂くようにして音声が飛んでくる。高すぎることもなく、ただ機器類を通じてすら鋭い一手だ。テツヤは発した方を振り返ってから力を抜いた。点けたままのテレビからだった。将棋のタイトル戦のワンシーンだった、名勝負と呼ばれる対局の封じ手までを浚った解説が流れている。プロ棋士のやりとりは伯仲し、優勢劣勢の差も見出しがたく長引いたのは知っている。かなり縺れ込んだらしいが、ここまでとは思わなかった、結果も分かっているのに思わず大盤に気を取られているとテツヤは小さく何かを言う。見えはしたが、こちらの耳には届かない。どうしてとかそんな諦めみたいな形に唇が動いたと思う。
「信用ないですね」信用してくれって言ったのに。
「そういう意味じゃない」
 声が震えているように聞こえた。俯いた顔からの感情が赤司には読み取れなかった。薄めたような笑み、眉を顰めて悲しいような、不服げな顔、ああ、自分の考えを伝えようとして必死な顔つきになることも多かった。誠凜に連れて行って神経もやや緩んだようにはなったとは思うが、どれも似たような顔つきばかり、そうでなければここではないどこか遠い場所を見ているような。
「覚えていると思います」
 テツヤは赤司を見据え、続けた。
「忘れたくなんてありません。なんかいまかちんと来ました」
 区切ったひと呼吸の間に彼はほんのり沸いた怒りを鎮めたらしい、困って弱ってばかりだった彼のこんな表情を見るのは久しぶりだ。相手は目が合うと改めて自分自身が抱いた感情に訝るような顔をする。『かちんとくる』などどこに置き忘れていたのだとでもいうように。そしてふいに口を塞いで、自身の頬をぱちんと叩く。
「テツヤ?」
 忘れたくて忘れたわけじゃないと言おうとしていたんじゃないのか? 心ないのはこちらの方だ。
 記憶を失うということを赤司は感情面で理解できていない。焦燥、無気力感。途方に暮れて立ち尽くすのだろう、取り乱したり、過去形を押しつけられたりして憂鬱になるかも知れない、不安で疑心暗鬼になるんじゃないか、攻撃的になるのではないかと、それくらいしか想像できない。そんなことに彼の時間を浪費させたいとは思わなかったから、沈んでしまうなら引き上げる覚悟で黒子の家に頭を下げた。あたたかでふわっとした印象の彼の母親の顔が悲しくくもったのも覚えている、赤司は麗らかな陽だまりに寒気を投げ入れてしまったような罪悪感にとらわれ、暫く頭を上げることが出来なかった。
「すまない。配慮が…」
「君たちのこと忘れた分際で何言ってるんでしょう…、僕」失言でした。
 失言も何も貫かれてこっちが動けない。
「ただ、赤司さんがいるから助かるし、いまの僕は救われているのを知ってて欲しくて」
「……」
 周囲の駒すべてを封じられた王将の気分を見たような気がした。
 理不尽に階段から突き落とされて記憶を奪われてもテツヤは怒らない、なのに赤司に信用されないと知るとむっとする。彼にとって記憶はあれば便利な道具みたいで、そんなはずないだろうと判っていながらもどくどくと波打つ鼓動が止められない。軋んだり跳ねたり忙しいことこの上もない。
「しょうがないというか、自分に落胆したりすることもあるんですけど、何故か悲しくもなかったんです。惜しんではいます、けれど落ち着いてるんですよ。どうしてかって、それは赤司さんや両親やチームメイトの皆さんがいるからで、忘れたけど自分の過去《これまで》に支えられたんだと思いました」
 テツヤは問題を解きながらぼんやりと悟ったのだと言った。それは違う、きっと誠凜に顔を出したくらいからずっと考えていて、数学は二の次だったのだ。己の内面に向き合っていて数式が疎かになったというわけで、何というか彼らしい。
「僕の生きた歴史は消えているけど、字が書けて、二次関数に悩むことができる。知っていることはあるんです。それって、経験したことや感じたことが僕自身に染みこんでいるということでしょう?」
「…かもしれない」
 前向きでひたむきで、頑固で。
「きっとバスケも、苦しかったり、楽しかったことも取り出せられないだけで僕の奥にみんな溶けているんです」
 強がっているように見えてならない、だけど彼が言うからそういうことなのだ。
「記憶は一生戻らないこともあると聞いた」
 テツヤは少し誇らしげに笑う。こっちがもどかしく下心を持て余している気持ちなんて知るどころか軽く越えて。
「ですね。でも誰かに作られるよりマシですよ。ないならないで作り直しです」さいわいなことに僕には両親も、君たちもいますから。
 
 
 
 朝、廊下で会った赤司さんに挨拶をしたら物足りなそうな顔をされた。
「散髪?」
 相手は腕を組み、重々しく頷いてみせる。
「そう。散髪」
 そんなわけでまたしても自分は車上の人になった。散髪料を払う隙がない散髪を終えたら買い物だと言われる。買い物と言われても欲しい物がない、適当なコーヒーショップででも待ってますと言ったら、バニラシェイクでも飲んでいろと街道沿いのバーガーショップに連れて行かれた。道路を挟んで向かいは大型の書店だった、両方を見て慌てて財布の中身を確かめた。
「代金なら預かっております」
「!」
 声に振り向けば斜め後ろに運転手の人が立っている。びっくりしてあかあかあかと早口言葉でつっかえるような感じになった。いつの間に車は? そもそもどうして赤司さんと一緒ではないのですか。運転手の人は自分の中の狼狽えぶりを意に介する様子もなく依田と名乗り、にこりと笑った。
「その、自分で払いますので、どうぞ。赤司さんに付き添って下さい」存分に。
 跳ね上がる心臓を鎮めながら言った。
「致しかねます」
 冗談でも聞き流しているみたいにさらっと口にするが即答というか、にべもない。依田さんは諭すようにゆっくりと続けた。
「征十郎様は、日課を楽しみにしてますからね」
「日課、ですか」
 ひとりで行う何かなのだろうか。
「依田はこの四月から征十郎様付きなのですが、生憎東京の家を離れてしまいましたから仕事という仕事もなかったのです」
「そうなんですか」
 赤司さんの家は広いけれどあまり人がいない、ハウスキーパーとして働く人は見かけるけれど挨拶くらいしかしないし、赤司さんの身内という人は声と後ろ姿しか見たことがなかった。なのでつい依田運転手を正視してしまう、彼は人間らしいというか、親しみを持って赤司さんや僕に接してくれていると思う。
「ですから黒子様がいらして助かっています」
「はあ…」
 とりあえず入り口でぼさっとしているのも悪いので中に入る。暖気が上部から落ちてきた、そうと分からない程度の音楽が流れる店内は広い方で、書棚もさほど高くない、駅から離れているのに思うより利用する人は多かった。制服姿の人を引き連れるなど目立つかと考えるが、ちらりと視線を向けはするものの誰も気にする素振りを見せず、殆どの人が雑誌や本と向き合っていた。
「理由がなくなってしまうと手が寂しがります」
 それはつまり乗せるべき人間がいないと折角の腕を発揮できずに鈍るということだろうか。運転手として雇用されているのならやはり運転技術を生かしたいだろう、たとえば渋滞回避とか、ヘアピンカーブの華麗な左折とか隘路での見事なすれ違いとか(恐らく)。
「朝、黒子様の寝癖を直すことでだいぶ一日が違いますし、今日もこれからお送りする場所があるのですが、この時間を過ごされることでかなりほぐれると思うのです」
 依田さんは話せば気さくだった、赤司さんが第一であるというのもなんとなく分かった、童顔に見えるけれど三十代くらいだろうか。新刊の単行本が平積みにされたコーナーを素通りするのを不審がりもせずに黙ってついて歩くと、文庫本のコーナーを眺めるのを少し離れたところに立って見ていた。それにしても寝癖って。切られた髪に思わず手が行く。
「あの」
 レジに行こうとして足を止める。彼との待ち合わせの時間までまだ時間はある、思い切って訊いてみた。
「彼のことを知りたいので赤司さんについて教えてもらえませんか?」
 依田さんは柔和な笑みを浮かべ、静かに首を横に振った。
「致しかねます」
 きっぱりとしていたからそれ以上何も言うことが出来なかった。にこやかに断るとは流石だと思う、主家の話などおいそれと出来るわけでもなし、少しでもと思ったけど甘かった。だから、戻ってそれを見付けたときはどきりというよりもぎくりとした。
「…え」
 思わず辺りを見回す。この家にはきちんとしたセキュリティシステムがあるとは思うけれど防犯カメラの類は見たことがない。
「え?」
 ネット用のパソコンは赤司さんのものを借りている。ノートタイプで、いつでも移動できるように電源を落として書斎と覚しい部屋の机の上に置いてある。
 午後の時間は長くて、勉強をする気にもならない。思い立ってこれで先日行われたウィンターカップの動画を見ようとした、けれど手が止まった。開くと赤司さんが使ったままになっていて、そこに見慣れない言葉が並んでいたからだ。よく見れば机とパソコンの間に法律事務所の名刺が挟まっている、画面とで見てはならないものを見てしまったような気がして慌てて閉じた。
———『…って、それをオレに報告してどうするよ?』
「クラスメイトでチームメイトの相談に乗って下さい」
———『明らかに人選違うだろ』
「ですよね、高校生に法律とか自筆証明遺言とかおかしいですよね…」
 と、携帯電話の向こうの火神くんはそりゃそーだろ、と些か投げ遣りな口調で言った。ずずずと何かを啜る音が聞こえる。
———『赤司って、結構面倒なんだな』
 多少の同情はあるかも知れないけれどその口ぶりでは彼の性格に問題があるように聞こえてしまう。でも頷く。手の中でこつんとストラップが当たった音がした。他人の物みたいに思えた携帯電話も操作を覚えたら簡単に使うようになっている、勉強だとか勉強だとか情報過多でパンクしそうになったりするのに適応してしまうことの早さに呆れもした。
「そうみたいです」
———『お前も思い出してねーんだろ?』
 よく他人のことまで気を回せるものだと言いたげだ。
「忘れたままですが、過去は自分の中にあるんだと思わなきゃやってられません」
 相手はまーな、そうだよなあ、としんみりした声で言う。一応は怪我をして記憶を失って同情しているとそういう風に取れる、けど誰より問題にしていないように見えるのも確かで、それは薄情だとも思えなかった。
———『けど、なんつーかハサミだったし』
 かさかさと乾いた音、思い出すにしてもいきなりにハサミとは奇妙な話だ。
「ハサミ?」なんですかそれ。
 時折咀嚼音を交えながら火神くんは、赤司さんとの衝撃的な初対面について話した。どうしてそんな場所にハサミが出てこれるのか、しかもそこで髪を切るって、と冷静に考えてみても不穏すぎるエピソードだ。受け入れられた過去の自分に驚く。一方で病院で目覚めたときに感じた彼の印象とも合致するような気もして、唾を飲み込んだきり何も言えなくなってしまう。彼は限りなく親切で、独特の雰囲気と思い切り以前のもっと踏み越えられる押しの強さを持ち合わせていた。だから岩倉さんのことも腑に落ちて、そうか、といまさらに思い知る。自分は彼についてはものすごく大事な何かまで失ってしまったのだと。
———『危ねーけど、当たり前に信用はしてたんだよな。とにかくキセキとか赤司のこともよく知ってた』
「だからそれがまるっとないんですよ…」
 これは手痛い。
 ふーん、と火神くんは僕の記憶については本当にさほど重要でもないみたいな風に応える。案外、一番記憶が戻ることを根拠もなく確信しているのかもしれない。しかも無自覚に。
———『お前、面倒臭ぇの割とヘーキだろ。あいつが怒るとか困るとかどーでもいいけどよ、バスケやれねーのは嫌だからそのユイゴンとか気が済むまで頭突っ込めばいんじゃね?』
「平気じゃありませんし、頭突っ込んでいい話でもないと思います」
 彼は感じたとおりに直情というか、気持ちいいくらいに事情を斟酌だとかを蹴飛ばすひとだ。良くも悪くもあるけど、悪気はまるでないのは知っている。
———『ならなんで電話してくんだよ』
「……」
 それもそうだ。
 そんな彼だから自分は電話をした。寝癖はともかく他人の家の事情なんてデリケートな話題を敢えて振って、これでやはり無理ですという答えはありえない。
———『じゃー切んぞ。そろそろ親来る時間だし』
「あ。はい」
 ボタンを押してもう一度、パソコンを見に行く。開けばバックライトが光り、画面が浮き上がる。赤司さんが何を求めようとしていたのかは分からない、ただ検索キーワードが画面の上部に残っている。
「『遺言』、『無効』」
 物語にありがちな話だと莫大な遺産がどうとか謎めいた人物の登場も盛り込んでそれこそドラマティックな事件やらに発展するのだけれど、自分の求めるものはそのフィクションの中にはない、地に足を着けて考えるべきだろう。
「…風花のうちに、煮え切らす」
 切るのだ。
 
 
 
 赤司さんは将棋が好きだ。
 実は囲碁もいける方だとか誰から手ほどきを受けたとか、そういったことは口にはしないけれどふいに空気が動いてテレビ画面を見詰めているのに気付く。新聞を見たら一年の総括としてタイトル戦のダイジェストがあるらしい、それから放送は高校講座ではなくて小学生の将棋トーナメント大会となっている。どうせ音声はないのだからとわざと消さずにいたら案の定、諸々の用を済ませてやってきた赤司さんは画面を向いたままになった。
「…八飛で詰めろ」
 目だけで赤司さんを見た。発した言葉にも気付いていないらしく浮世離れしたような存在感がぽつんとある印象だ、集中している。
———『2八飛』
 字幕にそう表示された。無意識だろう、図形でも描くように小さく人差し指を動かしている。
「七1…」
 顔を上げたところで将棋盤を間に向き合った少年達が頭を下げるのが見えた。どちらが勝ったのか分からない、穴熊ってどんな熊だか解説の字幕がそもそも自分には理解不明だったけれど、一手で流れを変えた後手の少年が勝ったらしい。
「惨敗だよ、慢心が招いた黒星だな」
 ジャケットらしきものを腕に掛けたまま腕を組む。
「負けてよかったですね」
 答え合わせを終えて、こちらもほっとする。自分で設定した時間内にどうにか終えることが出来た。
「手厳しいな」
「連勝連覇の最年少の新人王候補だって大きく煽られていたんですよ。将棋のことはさっぱりですが、負け知らずって恐ろしいような気がしたんです」
 赤司さんは無表情にこちらを見返すだけで何も言わなかった。言ってはなんだけれどふてぶてしい態度と顔立ちもよかったのでへし折ってやりたく思う挑戦者の気持ちに傾いてしまっていたかもしれない。けれど、テレビに映る二人は子供に似つかわしくない険しい表情をしている。
「トーナメント戦は勝ち星をあげなきゃ続かないよ?」
 ですが、とノート類をまとめながら続ける。赤司さんは立ったままだ。佇まいとかではない、違和を感じた。
「転ばないと痛みを知らないままですよ。転んでおくのも成長を手助けすると思うんですけど」
 ぱっと見鼻持ちならないようにも思えた敗者の少年も、眼鏡の奥の目を扱くさまが微笑ましくも見えていた。赤司さんは盤面解説をじっと見てから自滅だ、と吐き捨てるように呟いた。痛手を引きずるような負け方だったのだろうか。そう思うと、少年の元へ肩を叩きに駆けつけたいような気にもなる。
「…負けとか、失敗とかすべてが悪いんでしょうか」
 自分にとって記憶がなくなったことは、マイナスなんだろうか。誤解答の座標みたいに。
「想像したところで実感はしないし、経験に勝るものはないと思います。すべてが体験できるわけではないけれど、…少なくとも失ってしまった僕は不安が拭えなくて、とにかくいろんなことをかき集めなければと思ってます。思い出したくない痛みだって残っている方が空の手を持て余すよりもましなような気もします。それに生物の自己防衛する機能は本能ではありますけど、実際に傷付かないと自分の中の防御装置は正常に働かないんじゃないでしょうか」
 と、立ち上がって彼の左の頬骨のあたりが赤くなっているのに気付いた。
「……」
 テレビ画面の中の蒼白顔の少年は項垂れ、より小さく見える。勝者の方が納得していないのか考え込むような顔つきで盤上を見詰めたままだ。
「これからも厳しい世界で勝負し続けるのなら、無意味に勝ち続けるより装置を正常化させた方がいいです。彼は強くなる手段をひとつ、手に入れたと思いますし…まあ、リアルに怪我がない方がいいに越したことないですけど」僕が言いたいのはメンタルな方で。
 赤司さんは目線をテレビ画面に向けたまま感情のこもらない声でそうだな、と応えた。
「その顔の擦り傷は何ですか?」
「擦った」
 ですよね。切って擦り傷にはならないですからね、小学生だって知ってます。
 まるで頓着する素振りも見せない。ちょっとした擦り傷くらいならすぐ治るし、女性や人形でもないのだから自分だって放置するだろうし、むしろ気にしてくださいと進言しようなんて思わない。本心を言わないなんて言っておいて彼はフィジカルな意味の保身ということについて考えているのだろうか。
「僕が訊きたいのはそこじゃありません。君の場合は立場が違うというか…」
 赤司さんは傷の辺りを軽く撫でると切れたワイヤーが掠っただけと詰まらなさそうに言う。そのワイヤーは切れやすいものなのだろうか、そもそも、ロボットじゃあるまいし、擦過傷がきちんと出来る人なんだと当たり前のことを思ってしまった。
「『名人を相手に、香を引いて勝つ』ようになるかも知れない」
「え?」
 そういう負け方もあるんだな、とこちらを見る。
「譬えだよ」
 意味が分からない、というか聞いてない。けれど一方でこれが彼なのだと知っているような気もする。
「さて。天気が崩れるらしいから早く出かけよう」
 さっぱりとテレビを消し、手を引っ張る。割と真剣に観ていたのにまとめはその謎の一言ですかと言う気にもならなかった。せめて後で名人云々の言葉を調べてみよう。
「どこへ」
「神田神保町。ずっとお前が探している本を探しに」
「……」
 赤司さんの装置は正常に働いているのだろうか。本当に、己の価値も飲み込んでいるはずなのに彼は自身にはてんで興味がない。
 
 
 
 大晦日までは良かった。
 黒子家を訪れたり、古書街を散策したり、帝光時代のメンバーとも会った。記憶を失ったテツヤを前にして誰もがどういう顔をしていいのか分からないという風だった。思うよりもショックだったらしい、事実を知っても受け入れがたいようで動揺はそれぞれの行動に出ていた。まるで同じ顔の別人を見ているようで不思議な気分だと黄瀬は呟いた。笑えないと青峰は唾を吐き捨て、緑間は不愉快そうに眼鏡を押し上げた。何でも受け止めると宣言した誠凜の監督の方がよほど胆力がある。しかし、このメンバーは彼の親に次いで深い喪失感を味わったのではないかと赤司は思う。中学の三年間はボールを追い掛けていた時間が長いぶん濃かった、唐突になかったことにされたら呆然とするだろう。まるで気にもしていないような様子だった紫原すら段ボールひと箱ぶんの菓子を送りつけてきた。
 そして、年が明けた。
 正月三日、味も素っ気もなければ面白くもなんともない。恙無い日々ではあるが、赤司は機械的に動いて、事務的に受け答えをしていた。挨拶回りは家の恒例行事だ、父は約束は守る。中学は卒業し、試合も終わった、異論はなかった。以前のようにタイムテーブルを組んで徹底管理されないだけましだ。
「……」
 東京に向かい高速に乗ったところで雨粒がぽつぽつと窓を打つ。南の空に晴れ間が見えるが風は強く、予報通りとはいかないらしい。
 もし洛山高校がオールジャパンに出場していたら今頃はこんなところにはいない。けれど早い時点で不参加が決定しており、大学チームの練習相手として体育館をあけるのみ、用がなければ好都合とばかりに話は決められていた。どうして南座の吉例顔見世の席まで押さえられていたのか解せないが(試合中だったので事なきを得た)、テツヤのことがあっても別宅の使用などは許可されたものの、赤司家における絶対は絶対だった。
 赤司は窓の外の景色を見る。右側はまず下り車線が疎らに車を通すだけでフェンスの向こうは京浜工業地帯といわれる工場群が明かりを灯し、稼働していた。煙こそあがっていないが、人の営みを支えるために盆暮れ正月もない場所はある。
「到着時刻が予定よりも遅くなりますが」
 運転手が気遣うように話しかけてくる。彼は運転手と秘書のような役割まで担っている、ついでに言えば口が固くて気後れする客人にだって寛げるような車内空間を提供する話術だってある。テツヤがそうだ、何で懐柔されたのか運転するのが彼だと知ると態度は少しばかり軟化する。
「…わかった」
 一月になった、テツヤの様子は相変わらずで、周囲の方が焦れ始めていた。もういっそ転校その他の手続きまでしていいくらいに戻れば彼が居る毎日は満ち足りたものだが、こんな煮え切らないような空を見ているような気分にもなる。記憶が戻るは催眠療法の結果だったり、自然発生的なものだったりらしい、何がきっかけになるかは分からない。喪くてもいいと思う自分と、ないままなのかと残念がる自分に気付いたりする。
———ヴ…
 内ポケットの携帯電話が震える。取り出して見るとテツヤからだった。
 溜息が出る。自分はここまで自制心がなかったのかとこのところよく実感する。堪え性のなくなった己を事故前のテツヤなら問答無用で退けることが出来ただろう、しかし今は違う。きっとぽかんと受け止め、それから見知らぬ他人でも相手にするような冷えた眼差しで見るのだろうと想像できた。近いとこんなに飢えやすくなるなんて誤算だ、落ち着くものとばかり思っていた。
「征十郎様」
 呼ばれて視線をフロントミラーに移す。
「少しお休みになっていただけますか?」
 耳を疑う、そんなことを言われたのは初めてだ。小さな噴出音がして、がくんと車体全体がしゃっくりでもしたように動いた。口を開けば舌を噛みそうになる、何だと言おうとしたが出ない。抜かった。指先を動かしたつもりだが感覚がない。
 では、お待ち下さい———。
 ふいに視界は黒く閉ざされて、頭の中は白濁する。
 無音なのに対流があるのを知っている。蠢くものの気配、うっそりと暗くて、ひんやりしてまるで息苦しい水の底だ。
 完全にしてやられたと思っても遅い、意識は深い穴に落ちた。
  
———サアァァァァ…
  
 あれは法事のときのことだった。
 外は陰鬱な雨が降っていて、自分は目の前で親族が牽制し合うように歓談するのを見ていた。遠回しな言い争いだ、複数の声を聞き分けたりすることは出来ないけれど誰もが似たり寄ったりの話をしていたと思う。父親は息子がバスケに夢中になっていることに興味を示さない、大いにやれと一方の親族は盛り立て、俎上の魚である自分は座っているだけだ。彼らにとっては赤司という盤石の組織にあって己の社会的地位と生活水準を保っていけるよう立ち回り方を読み、統率者候補の将来的な姿を目で量る格好の場所で、つまりは自分を見定めている。彼らが望む答えを見付け出し口にするのは何ほどのことでもないが、指折り回数を数えられるだけ自分はまだ慣れていないのだと感じていた。
 雨は音もなく降っている。薄汚れたような空色で、気紛れに吹く風は温かった。
 別室に居るという大伯父に挨拶して来いと言われ、赤司は一人下がって廊下に出る。細長い坪庭を囲むように座敷が設えられ、廊下はすべて庭が眺められるようになっており、中央に渡り廊下がある、ぴったりと閉ざされた襖からはひそひそと同じように法事で訪れたらしい人たちの話し声が漏れ聞こえていた。
 大伯父は親族の一人で、実のところ自分との血のつながりも詳しくは知らない。ただいつも質素な身なりで、静かに碁を打っているような人だった。波風も立たず、なだらかな坂をのぼり、自分の身の丈にあった人生を着々と歩んで老いるといった人の生き方を彼に見せて貰っていると赤司は思っている。滅多に顔を会わすこともなかったが、息が詰まらずに一緒にいられる人だから久しぶりに会えるのは嬉しかった。
「失礼します。征十郎です」
 障子越しに声を掛けると返事がない。開ければ真新しい詰め将棋の本が座卓に置いてあり、湯飲みに残った茶もある、廊下から辺りを見回してみた。手洗いにでも行ったのだろうか。
「…伯父さん?」
 庭には椿と南天に水のない蹲踞がある。変わらない風景を眺めて踵を返そうとした、はっと立ち止まる。渡り廊下の向こう、手品のように庭に現れ出た大伯父の姿があった。小柄だが矍鑠としており、とても戦前生まれだとは思えない。番傘を畳んで脇に立てかけ、服の滴を払いながら廊下を歩いてくる。
「やあ、征十郎くん、こんにちは」
 慌てて頭を下げた。相手はやわらかな笑みを浮かべると猫が鳴いていてね、と言い訳のように教えてくれた。
「ここはよく猫を見かけるから…」
 節くれだった手はよく使い込まれた年月を刻んで、碁石を持たせると途端に神経が行き渡りぴんと張ったようになった。しかし座敷の卓上にあったのは将棋の本だ、両方を嗜むのかと知る。
「だいぶ具合が悪そうだね」
「え?」
「会長や皆さんには伝えておくから帰りなさい」
 有無を言わさず、座卓の上にある本を押しつけられ背中を押された。赤司はぽかんとする。具合なんて悪くもなかったし、親族に対する受け答えさえ頭の中に用意してこれからに臨もうとしていた。
「あの」
「兵法は升田に問うのが一番だ。山門にタクシーを呼んでおこう。そこまでは頑張れるね?」
 逆らうとか拒む隙も与えられずそのまま内玄関を追い出され、騙されたような気分で石畳を歩いた。升田とは誰だ? それに自分が参列せず帰るなど父はなんと思うだろう、部下達に示しがつかない、自己管理くらいしろと小言を食らうことになりかねない。大伯父がうまく取りなしてくれたとしても点数評価からすれば減点になるに違いない。余計な気遣いだなと思わず呟いていた。
「……」
 釣り鐘堂を右に見て砂利敷き、石畳の境内を抜けて石段、山門までの直線は銀杏並木になっている。
 あ、と思う。
 少年が門に近い銀杏の根元のところにしゃがんでいる。肩には公営図書館の名前が入ったナイロン製のトートバッグ、青い傘を差していた。一つ二つ年下か、同じくらいの年だろうか、どうしたんだろう、なんとなく足がそちらへと向いた。
「ちょっ、痛い痛い痛い」怖がらないでください。
 なに相手に敬語を使っているんだろう。見たところ人は彼一人しかいない、銀杏の影に隠れているのかと赤司は回り込むようにして近付いていった。
「……」小さな頭、滴を受けてしっとりと濡れた頭髪の下に子猫?
 赤司が顔を覗かせると、少年はぎょっとした顔をして立ち上がり、肩から傘を落とした。胸に抱かれた子猫は彼の身体というか服に爪を立ててしがみつき、潰れたような声で恐らく叫んでいる。
「どうしたんだ?」
 傘を差し掛けた。
「たぶん、親猫とはぐれちゃったんじゃないかと思います」
 少年は赤司を見返し、気後れしたように応える。よく見ようと伸ばしかけた手が思わず引っ込んでしまう。子猫はやせ細り、左目に目やにがこびりついて半分以上開いていなかった。雨に濡れてべったりとした烏色の体毛は棘のような形になってびくりびくりと引きつるように動いて、極度の興奮状態がさせるのか、この世の生きものでないようにも思えた。
「ぼくが通りかかったときには根っこのところに爪を引っかけてしまったまま動けなくなっていたんです」
「……」
 すこし考える。この寺院の辺りは緑も多く、猫が多い。本堂や墓所は猫や烏などの野獣除けを施しているけれど釣り鐘のところで日向ぼっこしているのを見たことがある。更にその裏手から入った小さな神社は近所の遊び場でもあるらしく、遊具もあり、子供たちのはしゃぐ声もよく聞こえる。
「きっとここまで誰かが連れてきてしまったんだろうな。雨宿りにもちょうどいいし、もっと釣り鐘の方に近いところなら親も見付かると思う」
 少年はびっくりしたように赤司を見るとぺこりと頭を下げて砂利を踏みしめて行った。山門の中を窺うようにビニール傘をさした制服姿の男がやって来る、赤司は名前を告げ、男が運転するタクシーに乗った。
 掌を見詰める。雨に濡れているのにそこだけが妙にあたたかくなっている。
 やわらかそうな髪だった、自分の言葉にぱあっと顔を明るくしてそっと子猫を抱き締めるように抱え直し笑う。あ、と思い出したように言ってポケットから飴を取り出す。
———お礼です。ありがとうございました。
「…あまい」
 自分は何もしてない、子猫をその場所に置いたとして親猫に会えるとは限らない。ただ彼に傘を差し掛けただけだ。濡れないよう小さな命を守ろうとする少年に。
 仄暗い底から、晴れ渡って澄んだ空を見たような気がして、濁らせたくなくて。
 
 
 
 
 
 

141101 なおと

 
 
 
 

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 なんとなくですが二人の思考プロセスみたいなのは似通ってそうだなあと思いました。
 互いにこいつたまに電波、と面食らうみたいな。余所から見たらオマエラがだよって突っ込めそうな。
 いまの黒子さんは一般論しか言っていないつもりですが、ある意味記憶のリセット状態って恐ろしいなと思いました。
失敗が許されない生き方を強要された赤司さんに対して忖度って言葉ってなんでしたっけとばかりに
失敗の定義付けと意義を何気なく問うちゃったり。
(記憶があってもやりそうではある)
 ともあれ、大事なことはメモにする、これ大事です。
 赤司さん、メモされたい人。
 
 『名人に〜』は升田幸三の名言から引いています。
 自身が勝負から避けたい方なので、勝負を生業とするひとの在り方は格好いいなあと思ったりします。
 なのでこの言葉は、痺れる。
 そして電脳VSプロ棋士の戦いは一勝でも多くひとに勝って欲しいと願うのです。人生はバグとの勝負(かもしれない)。