Fの王道

 話を考えると長くなってしまう方向になってきてしまいました。
 掌編の方がみやすいし、サイト向きだし、持って行きたい結末まで進めやすいのですが…すみません。
 やや長いのですが、さらに長い話の序の部分みたいに思っています。
 雪男は燐に矛盾した感情を持っていて、燐の方が真っ直ぐでそれでちょっと引け目とかあるんじゃないかなあって考えてます。
 そんで、関係ないけどビジュアル的に雪ちゃんはしえみとのんびりお茶でも啜り合って欲しい感じ。お似合いっつーか。しえみって燐に似てるような気がします、だから燐としえみは兄妹みたいな微笑ましさを覚えたり。劇場版がまんまそうなんだもん。
 くっそー、映画オリキャラも入れてみたかったぜ…(遅い)。
 

【PDF版】Fの王道

 
 
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 Long is the way
 And hard, that out of hell leads up to Light.
 Gate of adamant,
 Barring us out, prohibit all ingress.
                  ――――――JOHN MILTON,Paradise Lost
 地獄より光明に至る道は
 長くして険しい
 金剛の門は我らを閉ざして
 入るを許さず
 
 はじめ燐が通りかかったとき、その少年は会社帰りといったような格好の女性と話していたように思う。女性は二十代半ばくらいで、おっとと気を引いたのは彼女が派手だったからとか場違いに見えたからとかでもなく、少年の格好が、というか着ているダッフルコートがびっくりするほど似合っていて、青と緑の中間にあるような濃い色といい、デザインも洗練されて格好良く見えたからだ。ただのダッフルじゃなくてどこか外国の私立学校の指定にでもありそうな由緒正しきといった感じで、浮くこともない。つまりは、少年そのものというよりも、ダッフルコートとして燐は彼を覚えていた。歳は燐と同じくらい、顔の造作は整っている方で軽薄な感じもなく、髪型もやや短めでこざっぱりとしていた。だから全体の印象として恬淡としており、嫌みがない。ベンチに座って地面を見詰めながら女性が話すのを逆に鳥でも数えるみたいにして空に視線を向けて聞いていた。
 それが、十一月の終わるくらいのことだった。
 なんてことはない日常の定期的な流れのうちにある一つの出会いである。たとえば学校に行くときにすれ違ういつもの自転車だとか、買い物帰りのスーパーの駐車場で多く遭遇する車だとかと一緒だ。生活区域にあれば、その生活の中の一部ならばある人物としょっしゅう触れるポイントが何かしらあってもおかしくはない。因みに勝呂は日課のジョギングで挨拶を交わす馴染みの婆ちゃんがいる。そもそも寒くなって彼がコートを着なければ燐も恐らく知らないままにいた。そういうことだ、その姿から『コート』あるいは『ダッフル』と名付けられた少年はそれからたびたび燐の視界に登場することになる。
「……」
 あ、まただ、と燐は思ってしゃくっとゴリゴリくん冬季限定味を噛む。
 今日は誰なんだろうな、と思う。彼は燐が気付くたびに話す相手が違う。
 彼と話したことはない、燐が勝手に覚えているだけで喧嘩をするつもりだってないし、不思議に友達になろうとか考えてもいない。そこにたまにある展示物を眺め見る感じだ、本人が知ったらきっと迷惑がるだろうし、誰かと話している様子はなんだかワケアリ風にも見えていたから突っ込むのはきっとよくないと考えていた。が、燐は歩調を緩める。違ったところがひとつ、少年はいつからから切っていないのか髪が伸びていた。年末に見かけたときはどうだったろう、途轍もなく寒い日で、豆乳鍋は大成功というのは覚えているが彼の髪については覚えていない。お坊ちゃんに珍しいなと感じた、何かあったのだろうか、話す相手は今日は二十代前半くらいの大学生といった感じの青年だった。
「どういうことですか?」
 明らかに怒気を含んで大きくなった声が聞こえた。燐は思わずびくっとしてアイスバーを落としそうになる。
「ケンカか…?」
 ゆっくりと振り返り、柵の向こうのベンチを見る。ダッフル少年は燐の視線に気付きもせず、青年に向き合うように立ち、半年も待ったのに、いまさら怖じ気づいたんですか、といかにも挑発するような口調で青年を詰った。
「…ねをおって貰って何だけど…」
「そんなのはどうでもいいんです、貴方自身のことなんだから」
 あ。そうなの。
「…ようは…」
「いりません!」
 びしっとくる。燐はぽかんと若い男二人が向き合うのを見ていた。似ているようでもないから兄弟とか身内ではなさそうで、でも関係性はまるでわからない、だがダッフルは怒っている、のはよくわかる。青年は一方的に怒られているのだ、弁解もせずにただ暗い表情で俯いているところなどまあ、叱られてしかるべきことをしたのだろうというのがうけとれる。青年は自分を正当化させるための開き直り方もしなかったし、言い訳をしようともしなかった。年下に怒られてむっとした様子もなく、寧ろ叱られるのも他人事というようにすら見えた。ひたすらに己が悪いというようにして身を固くして過ぎるのを待っているのが少年には殊更に腹立たしく思われたのだろう、わかりました、と投げ捨てるように言うと、ダッフルは踵を返した。と、そのときになって目が背けられなくなっている燐とダッフルの視線がぶつかる。
「……」
 怒りのオーラは雪男のそれとよく似ていて尾が張りそうになる、ダッフルは少し気まずいような顔をし、歩みを止めるとやがて決然と歩き出す。ざくざくと枯れ葉が踏まれる音が近づいてきた。
「あ、の…」
 同い年くらいだからまだ気安い、見るつもりはなかったと詫びようとすると、視線を向けることなく燐の横を過ぎて行ってしまう。小声の「すいません」が届いたのはその数歩ばかり後ろからだ、こちらこそ、と燐は誰に向けたらいいのか分からなくて持て余す。そしてあいつ、きっと悪い奴じゃないとも思う、声に皮肉なんてまるでなかったし、立ち聞きしていた燐を咎めるようでもなかった、躾に厳しい家で育ったのだろう、そういう気がした。だからこそ彼の怒りは放置しておけないように思えた。ていうか、荒ぶりようがどこか弟に少し似ていたので無視できなかった。
 そして、品質の良いコートはこなれて彼に馴染んでいた。
「コート…、や、あいつ…、俺と同じくらいの…奴って知り合いっすか」
 燐は細いケヤキの近くに設置されているゴミ箱に向かいながら青年に問う、ケヤキは公園を囲む柵の内側に等間隔に植えられていて、その間にベンチと水銀灯がある。公園の中央は円形の水飲みで、ブランコと滑り台と、ジャングルジムが家が二軒ほど建ちそうな区画に閉じ込められている。燐はここには鉄棒がなかったんだなと、記憶にある公園とまるで一致しない風景を見回した。
「んー。本来は僕が依頼者というかで…」
 まったく警戒されることもなく相手から返事が来た。あんなシーンを見られたうえに、いってみれば野次馬で聞いてきただけの他人に首を突っ込んで欲しくないという拒絶はないようだ。それは年下に怒られたダメージのせいなのか。
 イライシャ、と燐はハズレと刻まれたバーを振って繰り返す。ゴミ箱行きは束の間、待ったという形になる。ぐるりと回して導き出された答えは『ダッフルは学生探偵か?』という問いで、たぶんにマンガの影響に他ならない。殺し屋と探偵が出てきていたからこの大学生風の男も実は殺し屋とか、情報提供を生業とする人間だとか物騒なことを考えてしまう。でも依頼者だから、ワケアリな一般市民なのだろう、俺の観察力もなかなかだな、と気持ち誇らしい。
「そう。僕は依頼者で、彼は生ける都市伝説」
 相手は自分に言い聞かせるみたいに言って頷く。
「としでんせつ?」
 探偵説は呆気なく消えた、まったく意味がわからん、と心の中で一人言ちる。確かに一つ二つ変な噂が流行ってはいるけれど。
「ちょっとした請負仕事をしているんだ、僕も半年前に頼んだのだけど都合が悪くなってキャンセルした」
「あー…」
 だからあんなに怒ったのか、と燐は納得する。イケルなんちゃらはともかく、仕事のキャンセルなら早く言えということなのだろう、雪男がそこらへんはたまに静かに機嫌が悪くなっているので理解できなくはない。
「突発的な事故と言えばいいのか、説明するのはとても難しい」
 だけど、と青年は燐を見る。目を合わせると、燐は自分が人生相談に来た迷える子羊のようになったような気がした。
「誰かに話したいとも思っている、特に君みたいな人に」
「俺?」
「償いのようなものかも」
「それなら…」
 まだそう遠くに行っていないだろう。燐が口に出しながら振り返り、ダッフルの背中をやせた木立の間に探そうとするのを相手はいいんだ、と静かに言って止める。怒らせた時点で終わったみたいな、手応えのなさ加減は掛ける言葉さえ見付からない、柔和を通り越して気の弱そうな青年だと燐は改めて感じる。償うなら燐にではないだろうと呆れもした。
「つか、俺に言うことじゃ」
 信じないかも知れないし、笑うかも知れない、と前置きをして青年は腿の上で指を組む。弱そうでいて強引だ。
 思いも寄らない告白を聞いたとその日は帰り道も放心状態のままで、雪男にどう話せばいいのだろうと、それとも言わなくてもいいものなのかとで行き来した。燐が公園で出会った青年は自らを悪魔とひとから生まれたのだと話した。ただ燐と違うのは護られて育っては来なかったということ、彼は護られもしないが襲われもしなかった。両親はおらず、中学を卒業するまで親戚を転々とし、一人で生きてきた。
 燐は何も言えなかった。聞きたいことは山ほど沸いたというのに、言葉にしようとすると単語一つも出てこない。親は人で悪魔であるという話は誰かから聞いてみるとなるほど不思議な話でもある、燐にとっては日常的となったことでも多くのひとは悪魔の存在について詳しく知らないし、そもそも信じない。そうだ、悪魔のことを知らない人間に真面目な面持ちで打ち明けたとしても信じられるかどうか、燐にだって分からない。現に雪男は燐が覚醒して悪魔になってしまったことは事実として受け止めているけれど、その証である青い炎を認めていない。死ねと言っておいて守ると同じ口が言う、余裕ぶっこいているようで実際は今あることに必死に食らいついているような弟だ、わざと厳しくしているような横顔が、自分を抑え込んで敢えて上を向いて相手と話をする仕草が、舐められまいしているのが態度に見えて、燐の中でダッフルの少年が雪男と重なった。真っ向から否定しないだろうが、頑固そうでもある、つくづく雪男寄りの人間とすれば、正直に「実は悪魔でして」と話したところで信じるのか、説得は難しいだろうと予想できる。会話の内容までは知らないから果たしてそんなダッフルはどこに怒ったのだろうか気になるけど、それよりも大人しく、年下に怒られるようなひとが自分と括りにある存在であるということに燐は、正直なところ、半分戸惑い、半分喜んだ。
 
 兄さん、聞いてるの?と雪男が眉間に皺を寄せるとそれまでぼんやりともずくをかき回し続けていた燐は我に返ったようになる。
「今の話聞いてた?」
 訝しんで問うとこくりと頷く。塾で居眠りしているときのような挙動不審さはない。
「なんか、調査」
「うん」
 話は聞いていたようだが、半分判ってないような。
「時間がかかるかも知れない。講師も続けながらだから、生活がバラバラになるわけじゃないけど、覚えておいて」
「なんで」
「ご飯とかあるんだろ。兄さん、言ってたじゃない、無駄になるから言えって」
「あー」うん。
 どこか上の空だ、雪男は首を傾げる。同じテーブルで嬉しげに二本の尾を優雅なリズムで振りながら鱈を食べているクロ《猫又》は食事に夢中で燐の様子には気付いていないようだ。そりゃあ今日の湯豆腐風白菜と鱈のスープは刻み生姜のアクセントがきいてるし、夢中になるのもわからないでもないけれど。食卓では燐はお母さんみたいにてきぱきと骨が残っているから気を付けろとか、食物繊維も摂れとかうるさいし、下手に調味料を足したりして味を変えるとあからさまに拗ねる(黙って食べるのが信条なので滅多にしないけど)から何かしら考え事を抱えているのがわかる。
「雪男」
「なに?」
「しえるくすぴで魔物が出てくる話って知ってるか?」
 雪男は揃えた箸に目を落とし、数コンマほど考える。『し、すぴ』と口調からするイメージでそのココロは、と燐の指し示そうとする単語を推測する。
「シェイクスピアのこと?」
「ともいう」
 燐は重々しいような顔つきで頷いてみせた。ともじゃないし、どう聞いたらそうなるんだか何ですかその文字化けした呪文みたいなのは、とむしろこっちが聞きたい。
「ちょっと知り合った奴が読んでた」
「ふうん…」煮物を口に運ぶ。
 学園内の誰かだろうか、あるいはよく日用品を買うスーパーとか。
「僕、あんまり読んでないし、わからないけど、シェイクスピアの戯曲は亡霊やら妖精とか魔女とか出てたと思うよ」
 雪男の任務についてあれこれ詮索されないのは楽といえば楽だ。燐の話に付き合った方がいいと判断して雪男は記憶の引き出しの中から情報を引き出して続けた。
「確か『テンペスト』では嵐を起こしている、大王烏賊《クラーケン》みたいに」
「イカかー」ギタイとか吐くのか?
「擬体は吐かないし、大味でもないと思うよ」
「つか食いもんじゃねーし。話の中の魔物だろ」
「あ、ちゃんと聞いてたんだ」
「兄ちゃんをバカにすんな」
「バカにしてなんか」
 誤解だ。乱暴な咀嚼で不愉快さを訴える燐に通じはしないだろう。反応が見たいから茶化すし、からかいもするだけだ。
「シェイクスピアの国はオカルトの国とか言われるけれど、当時の思想そのものが悪魔の存在と合致しているのがやっぱり先進的だよ。…まあ純粋なオカルティズムと團の祓魔《エクソシズム》の境界は謎だけど」
 科学がまだ呪術と錬金術と医学と混ざり合い、科学と呼べるものではなかった頃、際どいような電気実験も確かイギリスが多かったような気がする。雪男は昔読んだ本の内容を思い出しながら話すと燐は口をもぐもぐさせながら塾でよりも熱心に耳を傾けた。
「…ていう伝承とかも多く残っていて、実際に團が調査したりしてる。噂なんてどれが真実で、悪魔の関与だって見抜くのは困難だ。目撃すれば判るけど複雑化したらそれも辿りにくくなる。多くは確かに悪魔なんだけど、戸外の不気味な音は実は虫の抜け殻だったとかそうでないこともあって、特に19世紀にあった猟奇事件は犯人の残虐性から悪魔の存在が浮き上がったのだけど…」
 気付けば、いつしか食事を終えて斜め前に茶碗を積んだ燐が雪男の顔を見ている。
「お前、そゆこと何で授業で話さないわけ?」
「雑学みたいなものだからだよ、兄さんや塾生に必要なのは基礎的な知識や力の見極めだったり、基本的な力をつけていくことだ。塾はボランティアじゃないんだよ? 心構えも塾にいる間に叩き込んでおかないと、現場に立てない。祓魔師になんかなれないんだよ」
 燐はじいっと箸が止まったままの雪男を見ると、頬杖をついてちょっと驚いたんだよな、と言う。
「何が」
 熱っぽい語りになってしまったことだろうか、だとしたらなんか嫌だ。それに自分だけがそんな力説をしたところで、いちばん自覚して実戦して欲しい相手に伝わっていなければまったく無意味で虚しいったらない。
「そいつもさ、なんか似たようなこと言ってたなって思って」
「……」
 燐は皿を空にしたクロの頭を撫でている。子猫が元気にごちそうさまと語りかけるのを応えるかのように。
「アウトかセーフ、…じゃねーな、えっと、『ファウルか、フェアか』」
 そうか、そうじゃないかってことだろ?と燐は答え合わせをするように雪男の目を覗き込んでくる。
「読んだ本に載ってたんだと。その、しぇいくすぴあの『ファウルか、フェア』って。だからしぇいくすぴあを読んでいて、…イケてる都市伝説ってのが知り合いにいて、なんかよくわかんねーけど、キャンセルしたから怒られたって」
「そう」
 わかるようでよくわからない話だ。
 燐は何というか、態度が粗暴で言葉遣いも丁寧さが抜け落ちているから誤解されやすく、単細胞で頭に血が上りやすくもあるから素行不良な側の生徒であると思われている。が、雑であることは否めないが面倒見は良い、修道院生活の賜物とも言うべきか生来の性格は素直な質で、わりと公平なものの見方をし、弱っている方に寄り添うというアニマルセラピーを体現しているかのようなお人好しさというか、甘さというか…を持ち合わせている。
「…その人、通りすがりの人なわけ?」
 弱っていたり、困っていたら助けるのが当たり前、悪いことではない。
「まーな」
 ふいに喉から冷たいものが落ちる。まさかヴァチカンからの調査官か? 支部長からそんなことは聞いていない、だけどあの人物は読み切れないだけに信用できない。処分は保留だの何だのと言っておいて抜き打ちということもあり得るのだ。
「オレ、なんか気まずいところに居合わせちまってよ」
 言い訳でもするように口を尖らせて燐は息を吐くと、ちらりと雪男の顔を見ては視線を下にし、言いにくそうに腕を組む。
「…仲違い、とか修羅場みたいな?」
 だったら、まだ誰かのいざこざに巻き込まれてというだけなら安心できる。偶然の第三者が大きな物語に巻き込まれたりすることなど、拗れた話であるほど当事者が望まないはずだ。
「イケテル都市伝説が」
「いや、都市伝説が世間的にイケてるかどうかは別として」それはいいから。
 燐が行き合ったのはいわゆる知人程度の間にあった話の縺れみたいなものなのだろう、片方がシェイクスピアを読んでいる誰かで、キャンセルが原因でもう一人と喧嘩になったかしたらしい、抜き打ち調査なのか、違うのか。その諍いの中身はどうあれ、燐の口から『都市伝説』なんて出るとは雪男は改めて流言飛語の恐ろしさを思い知る。『都市伝説なんだけど』という接頭語を掲げたデマが年の差も男女の別もなく流行っている。聞き流されることなく信じられては相談窓口に人が来るくらいで、まるで質の悪いウィルスだ、すさまじい感染力で、あらゆるメディアに乗って、発した途端に広まる。
 雪男の任務は調査で、まさにそれだった。巷に溢れかえる無数の都市伝説のうちの一つが事件として一人歩きを始めた。
「ある噂に、本当に悪魔が関わっているか調査するのが今回の任務なんだけど…」
 燐は顔を上げてそうなのか、という顔をする。
―――『召還した悪魔と契約すると望みが一つ叶えられる』
―――『場所は北正十字学園町の単館の映画館』
―――『誰かを不幸にすることはおろか、死者と話をすることすら可能で、あの大物政治家もアイドルの誰かも契約したらしい、彼らは富と名声を得た』
 眉唾な話ばかりで踊らされる方がバカらしいことこの上ないが、ひとのほんのちょっとの好奇心とか不安感は悪魔にとっては好餌になる。広がったのも理由があるのだろう、事実として望みが叶った人間がいて、顔と姿を隠して証言しているからだ。雪男は露ほども信じていないが、行方不明者が二人と、相談を受けた祓魔師が一人、死亡していた。
―――『報酬は寿命の一、二年』
 頭の中で警報が鳴っている。
 偶然なのか、それとも。
「兄さん、そのひととはもう会わないで」
「何でだよ」
「危険だからだよ」わからないの?
「でも」
 燐は何か言いたそうにするが、きつい視線に気圧されたか口を噤んでしまう。
「関係ないなら仲良くなろうが兄さんの勝手だけど、同情して変な壺とか手土産に持たされてもかなわないからね。いまは止めて。『カルト集団』とか『都市伝説』とかは何年かの周期で流行るものだけど、…悪魔でなければ行き過ぎた精神性が引き起こしてたりするんだ、兄さんはまだ候補生で、セラピストでもない。第一、そのいざこざを兄さんが丸く収めたりできるの? 僕にだって無理だ。より拗らすのが関の山じゃないの?」
「……」
 ごもっともという顔。しかし、尾が不平不満を訴えるように跳ねている。机を叩いて燐の意識を向かせた。
「僕、もういちいち説明したくないんだけど」
「…わ、わーったよ」
 クロが驚いたように雪男を見てにゃあと鳴いた。因みに雪男は怒ってないし、燐を叱ってもいない。
 
 今日のメニューは豆乳鍋だが、それはどうでもいい話だ。というより、いま持ち出すことではない。
 巻き戻す方が先だ、つまりは昨晩だ。燐は雪男から辞書を借りた。スペルは教えてやるからついでに引けという風にして差し出された辞書にはフェアは公平とか正しいとか、きれいだとか、そういう意味の言葉であり、ファウルは反則な、とか汚い、とか卑劣ななんて意味が並んでいた。野球のルールに置き換えるとわかりやすい。燐はいまのある状況についてフェアかファウルかを考える。雪男に言われたのに破っているのはファウルだと思うけど、悪いことなんて何一つしていないところはフェアではないかと思う、だけどこれは都合の良い言い訳か?
 しかし、知り合った相手がオレと同じで人と悪魔の子だなんて言ったら雪男は機嫌を悪くしただろう、と思うと燐は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。言えばいいのに、隠すことなどないのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。フェアじゃない。燐は溜息を吐く。
「オレ、考えるの向いてねんだけど…」
「僕は考えるのが仕事だったよ」
 燐はベンチの横に座る人物の声を聞いて額に手をやりたくなっている、なんてこったオレ、と胸の内に呟いてもいる。もちろん彼が悪いわけじゃないし、缶コーヒーなんかおごって貰っちゃってる燐の気の弱さの方がいけない。
「悩み事?」
「あ、いや…」
「話して気が済むなら聞くけど。勿論お金も取らないし、怪しげな団体に紹介したりもしない。ちょっとそういったサークルに所属していたことがあるから心得のようなものもあるし、公的機関に強制されても他言は一切しない」
 そんな不健康な顔つきで力強く言われても。
「たいしたことないのに言えないことってあるなと思って」そんだけのことで。
「一つを隠そうとすると秘密は増えていくものだから」
 さらりと言われてぎくりとする。雪男に嘘を吐かないにしても、どんどん言いづらくなるのは燐にだってわかるだけに何気ない言葉は重みがありすぎた。ぎこちなくそうだよなと返すと相手は少し黙ってから教壇の前にいる生徒に向けるかのような口調で「そのひとが大事なんだね」と続けた。
「相手が大切であるほど言えない。言うにはとんでもない勇気が必要になる、言えない理由は一つだよ、嫌われたくないから」
「嫌うっつっても」
 嫌うも何も相手は家族である、だけど雪男に心の底から憎まれて疎まれでもしたら燐は平然としていられる自信がない。というか、覚悟がないのだ、肉親から切り離されることに。離れて暮らすことはあっても、それ以上は我慢できない。オレが死んだら誰があいつに飯を作ってやるんだよ、と思ってもいる。クロはともかく、雪男なら普通に餓死できそうな気が最近はしていて、食事を摂るのを忘れていたと聞いて呆れたこともある。そのくせ寝ぼけたまま声を掛けた燐をベッドに引っ張り込んだりする、自分は安眠枕か何かかと思ったりしたものだ。ほっとくと雪男は食うとか寝るとか任務と呼吸すること以外に無頓着になり、忙しさに実は酔っているんじゃないかと疑ったりもしていた。
「言い換えるなら無視されたくない、ということだよ。快感や幸福感は脳内伝達系物質のエンドルフィンの分泌によるものだ。ひとは発したサインを享受されたがっている、相手の認識の中に自分がいればいいんだ。コミュニケーションのやりとりで脳内は活性化する。そういう生き物だから嫌われてもいいとか自己犠牲的だったりするのはただの押しつけか自己満足で、分泌させるための手段が違うだけだと僕は思う」
「……」
 難しい単語が出ているけれど、だからこそ妙な説得力があるというものだ。そこに有り難い壺とかが出てこないのなら、燐はその言葉を鵜呑みにして良いのかもしれない。
「オレ、これ以上あいつの足引っ張りたくねんだ」
「だったら言わないことも一つの救いだよね」
 救い? そういうものなのか?
「祓魔師《エクソシスト》ってひとがいるだろ? 最近は彼らが登場する映画や本を読んでいた。そうしたらシェイクスピアの言葉は引用されている本があって、今度はそっちを読んでみた。いまはオフィーリアに同情しているところ」
 燐の悩みは終わりとばかりに話は切り替わる。
「はあ…」
 拍子抜かされるというか、初めてのときはダッフルに怒られてしょんぼりしていたのに、まるでめげていない様子に感心する。寒空の下にある顔は生気がないなと思えるほどに青白く痩せているというのに魂が抜けてるといった感じはない。男は燐が何も言っていないのに絵画のモチーフにもなったオフィーリアについてひとしきり講釈をすると、明治の文豪の作品に話を飛ばした。夢について書いた話に出てくる女性のことだ。燐は当然だが作品名を言われても知らないし、読もうとも思っていない。考えるのが仕事と述べたとおりに彼は学者だとかそういった方面の職に就いていたか学生かだったりするのだろう。今日もダッフルはいないな、と日も暮れていないのに空にくっきりと見えている月を見上げた。盆のような形をしており、満月になるんだなと思う。ここで掛け軸の話でも持ちかけられたら困る。いや、断固として断る。…そう決めて三度目だ、生活区域が同一円のなかにある人間にとっては不思議ではない遭遇も、勘弁してくれと思ったりすることはある。燐としては買い物時間は区々であったはずなのに、誰がどうやって狙ってくれるのか。
「あんた…、頭いいんだな」
 説明ははっきり言って燐にはわからない方が多い。多くの聴衆の中のひとりという気分で話させているから気が引ける。
「知ることが、好きなんだ。枠から落ちないようこぼれないようにと必死でもあったけど」
「そんだけ頭良きゃ、祓魔師にだってなれんだろ」
「どうだろう? 色んなことに関する資格を失ってしまったし」
 声は淡々としていて、己の境遇すら顧みている素振りもなく、資格も何も祓魔師に興味がないことだけが燐には判った。こういう人間もいるんだと知ったと同時に、覚醒なんてした自分はそれこそ特殊だったのかも知れないという思いを強めた。そもそも覚醒するとかしないとか、そんなことも雪男から聞けてない。燐は悪魔祓いどころか、悪魔について何も知ってはいないのだ。幽霊一体倒せないわけである。
「でも、悪魔、とか視えたりすんじゃねーの?」
 慎重に問う、男は自嘲するように口元を引き上げた。
「もう視てない」
 制服の内側に隠された尾が感電したように震えた。
「…目が?」
 でも気付くたび手に書物を持ち、読んだ本の話をする。燐は眉根を寄せる。
「『みてない』?」なんだそれ?
「よく知らないけど僕の悪魔として力というのは、そういうものらしくて」
「え…」待て。もうちょっとよく考えるべきだろう、そこ。
 頭良いのにアンタ「らしい」で済ますのかよ、そんな便利な能力なんて聞いたことないぞ。つーかメフィストとか知ってんのか? そういうの。燐の頭の中に疑問符が無秩序に跳びはねるピンポン球の如く駆け回る。
「え?」
「悪魔がいる世界を虚無界《ゲヘナ》と言うのだけど、たぶんその風景とこの世界とで見えるものが重なっているんだと思う」
「…ど、どうして…」
「人も悪魔も等しく同じなんだ」当たり前に溶け込んで、まるで展示された絵みたいに。
 ぽつりと冷たいものが頬を打つ。見えていたはずの月も見えない、空っ風は吹いたけれど誰が呼んだのでもないだろうに芝居の場面転換みたいにぐるりと書き割りが回されて、どこか生ぬるいような風が頬を撫でていって空は厚い雲に覆われていた。
 だから、フェアかファウルか、なのか。
「それが、キャンセルした理由…?」
 男は否定とも肯定ともつかない曖昧な顔で見返しただけだった。
 燐には男の視ている風景が想像も出来ない、こぢんまりとした児童公園の同じベンチに並んで座っているのに、視えるものはまるで違っている。男にとっては合わせ鏡のようにある世界の境界線はないということだ。彼にはフェアもファウルもない。
 ぼたぼたと大粒の雨が地面を濡らし始めて、世界は濁った色になった。
 
 
 
 横断歩道の向こうに目的の書店の看板が見えたところで携帯電話が着信を告げる。正十字学園町の中でもあまり来ない場所だ、出来れば折り返したくない、あと数分待ってもらえたら帰りであったはずなのに。
「はい、奥村」
「お忙しいところ、失礼しますよ、奥村先生」
「フェレス卿…」
 自然と身体が硬くなる。
「興味深い報告が届きました、今回の任務にも関わっています」
 高見の上から物見をしているかのような口調だ、そういう地位にいるのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、一方で相手の反応を窺って楽しんでいるようでもあるので身構えてしまう。
「無茶しないようお兄さんを見張っていてください」
「兄は任務に参加していません」
 ですねえ、と含みをもたせた相づちを相手は返すとお兄さんが勝手にしていることですからね、と続けた。
「兄が何を?」
「何も。ただ普通に学園生活を送っているだけです。そして私の結界を浸食しようとする輩にどうも気に入られてるようです」
「……」
 何をしたんだ、兄さんは。また炎を使ったのか?
 でも燐に関することは不浄王の件から注意深くしている、問題を起こさないよう身体に言い聞かせることもある。唯々諾々とではあるが力不足が身にしみているのもあって従っているし、何かあったときの咎めを管理者の雪男や他の祓魔師が受けることをようやっと覚えて少々の我慢もするようになった。強くて憧れた燐は雪男に弱くなってきている。まるで無理矢理作ったヒエラルキーの下層にくだるように。
「私はアナタに監視役をお願いしましたが、勘違いされないよう、これは確認です」
「確認など無用です、フェレス卿。僕はやるべきことをしているし、兄も理解しているはずです」
「獅郎がいなくなったとはいえ、奥村燐はアナタのものにはなりません」
 雪男の声など届かないとばかりに被せられた言葉は楔となって突き刺さる。なんで、そんなことを急に。雪男の舌は瞬時、凍りつく、反論も疑問も浮かばなければ息も出来なかった。
「貴方方を預かっているのは私です。お兄さんの命を握っているのは正十字騎士團です、努々お忘れなく」
「…わかってます」
 信号が青く光る。通話を終えても足が前に進まなくなっていた。
「…?」
 雪男は目の中に飛び込んできた色合いに意識を奪われる。幼い頃に図鑑で見た、宇宙写真に惑星と大気の層の境としてあった色とそれはよく似ていた。緑と青の中間のような濃い色だ、見開きの頁が紙の質感と共に蘇る。光の折り合い加減が作り出すどこまでも深く、目の覚めるような色に息を飲み、地球である色は全部宇宙にもあるもので、地球から宇宙までは確かにひとつなぎなのだと興奮さえした。それが布地に定着している。着ているのは同い年くらいの少年だった。スポーツでもやっているらしく、荷物は大きめで、横断歩道を雪男とは逆の方向に歩いていた。人の中に埋もれてしまえばわからなくなってしまうが、彼の回りだけ空気が違うような気がした。
「……」
 憑かれている様子もないし、顔つきも至って普通で悪魔がどうとかでもないけど、正十字学園の生徒ではないなとは思った。
―――ヴ…、ヴヴ…。
 手の中で携帯電話が震えている。
「…奥村」
 情報管理部からだった。
「タブレット端末の不具合についてだけど…」
「……」目に青が残っている。宇宙空間に放置されたような色が。
「奥村君?」
 目というか、頭が覚めた。
「あ、すみません」
 新しいものが好きでデジタル方面にも明るいというか、偏った嗜好甚だしい支部長はその導入も早い。というよりも、総本山であるヴァチカンがアーカイヴとセキュリティに最新鋭の技術を率先的に取り入れていたりする。祓魔師達の多くはタブレット端末は支給されたものを使用しているが、雪男はやがて変なソフトを開発してしまうんじゃないかと紫にピンクの水玉に傘マークと犬が描かれたアイコンの自動アップデートを見るたびに思っている。任務についての情報などを確認し、検索にも使い、またスケジュールも入れて多用しているが、そのアイコンだけには触れないでいた。開いたが最後、こちら側のすべてを覗き見られてしまうような気がする。そのタブレットが誤表示をしたままうんともすんとも言わなくなってしまったのは昨夜のことだ、横から覗き込んでいた先輩祓魔師が頑張れと励ましたところで直らないものは直らなかった。
「どうですか?」
 直ったかという意味で雪男は聞いてみる。雑に扱ったつもりはないが、次は気を付けますと思いながら申請し、無事を願っていたのだったが雪男の中では今回の不具合だってその要るんだか要らないんだか判らないアプリケーションのせいではないのかという疑問が拭えない。
「解析に回すことになったから代用の方取りに行ってもらえる?」
「解析?」
 眼鏡を押し上げる、空には白い月がくっきりと見えていた。しかし明日からまた天気は下り坂になるという、降ったりやんだりと忙しい空である。
「あんまり聞かないエラーだから」
「ですよね」
 自分の扱いのせいではない、だからあのアプリでしょう、絶対。と雪男は即座に言いたくなるのをぐっと堪える。
「物理的損傷じゃないと思うんだけどね…爆ぜる音がしたって言ったでしょう?」
 代用品は塾の机に置かれるのではなく、日本支部の備品担当へ行かなければいけないらしい。ならばもっと早く言って欲しい、支部ならすでに寄っていた。しかしいまの任務にタブレットは必要なだけに後回しには出来ない、戻って連絡して段取りを変えねばならなくなった、…ツイてない。クサクサした思いを内側に押し込んで空を仰ぐ。
「奥村君は買い取り前だっけ? バックアップは取ってる?」
「一応」
「調査中…だったよね」
 相手はキーボードでも叩いているらしく、時折声に間が空く。
「はい」
 よく当たる占い、死んだ人と会うことが出来る、願い事がひとつ叶うとか、七不思議の類やら巷間に流れる噂話はいくらもある。人が何かを望むたびどこかで生まれると言ってもいいくらいで、真偽はともかくとしても、悪魔が介在しているパターンというのが多い。放置しておけるほどの下級悪魔なので、わざわざ討伐とまではいかないが相談されればそれなりの対処を促し、これはと判断されると任務として調査に赴き悪魔祓いをすることもある。雪男の受け持ちはそうだ、調査など祓魔任務遂行のための準備みたいなものだった。確認したら悪魔に対し臨機応変に相応しく、祓うべく祓う。祓魔師の優劣は悪魔という驚異に踏み込む一歩をいかに持てるかで決まるのだと雪男は思っている。
「片割れはそっちいるの?」
「兄…ですか?」何で。
「いや、ペアの方」
「あ。えっと、これから合流で…今日は一人で関連施設に行ってます」憑かれた経緯が分からなくて。
 声が少し裏返りそうになるのが自分でもわかる、付け足した言葉も言い訳じみていた。組んだ祓魔師は前職が警察という変わり種(というか、物好きだと言われている)で、称号《マイスター》は詠唱騎士と雪男と同じ医工騎士を持っている。本人が頷いたとはいえ、やはり任せてしまったのは悪かったなと口にすると思ってしまう。
「取り出せたものとで文章化した追加事項をメールしておくから」
「マッピングのログが消えたので、リストの再送もお願いできますか?」
「もう特定できたのか。了解」
 流石早いね、と揶揄するでもない口調で返ってくる。雪男が天才だの何だのと言われているのは最年少で祓魔師認定の試験に合格したからというのでもなく、単に怖いもの知らずだったからで、負けず嫌いというのも大いに貢献しているだけの結果と信じて疑っていない。手を震わせながらも、顔を強張らせながらも、足が竦んでも不格好であっても祓えば安らかになるのだと思えば闘えた。単純な話だ、物心ついたときから視えている不気味なそれが嫌だったから踏み込めたのだ。念願の祓魔師になれて克服できたなんて錯覚だ。雪男を賞賛してくれる言葉なんて怖がりだから周到で用心深いことの裏返しに他ならない。先輩のシュラにはビビリと言われたがその通りで、兄の燐が世界の脅威になり得る存在ということを思い知る以上に本当に怖いことなどなかった。たぶん、知らなかった。自分にとっての世界は安泰で、呆気なく終わってしまうなんて信じてなかったし、予想も何も迫り来ることすら頭でしか判っていなかったのだから。
 誰も自分の足下こそ脆弱だなんて思わないだろう、揺るがない世界なんてない、物事は流動的で対処するためには出来ることをやっていくしかない。
 理念そのままに任務をこなして優秀と言われるなら、自分など押し殺していくらでもやってやる。本当の怖いことは手ぐすね引いて堕ちるのを待っているのだ、本人は無自覚で脳天気でてんでわかっちゃいないけれども。
「…と、違う報告が上がっている。京都の女子高生失踪事件、これも類似しているから添付するよ」
「『導きの塔』絡みで…」
 おや?
「……」
「あ、雪男…」
 と、なぜかその本人が目の前にいる。気まずそうな顔をちらりとするとよお、と開き直るように手を挙げる。
「どうして兄さんがいるんだ」
「どうしてって、買い物」
 眼鏡が変な映像を映し込んだのかと思った、そんなわけはない、誰か説明できそうな人物も同行しておらず怪訝そうな呼びかけが手にした電話から聞こえた。すみません、またあとでこちらからかけ直しますと断って通話を打ち切った。
「ミチビキノトウって、あれだよな」
 占術と宗教と、スピリチュアルとが一緒くたになったような新興団体である。燐が知っているくらいに認知度は高く、かといって他の似たような団体とひとまとめに出来るくらいで異常性が見受けられるとか突出した何かがあるわけでもない。任務に擦る程度に関わっていて、こういったものは都市伝説に信憑性という付加価値を付けるマストアイテムとも言えるのかも知れない。しかし、どうして授業は右から左なのに些細なこういうのをちゃっかり拾ってるのか、地獄耳とは言ったものだ。雪男は息を吐く。
「…兄さんには関係ないよ。そもそもここらへんの店は兄さんとは無縁なものばかりだと思うけど」
「う」
 オフィスビルに挟み込まれるようにして洋書専門に官報や政府刊行物を置くお堅い書店に居酒屋、漢方薬局、骨董店、整骨院と燐が喜びそうな店舗などまるでない。雪男だって時間を作ってわざわざ足を運ぶような場所なのである。
「そ、その、ダッフル、が…」
「『ダッフル』?」
「こないだ話した公園のイケてる都市伝説」
「兄さん」
 イラっとする。
「誰に頼まれもしないことに首突っ込むのはどうかと思うよ」
 何やってんだよ、それはお節介だ。雪男は気持ちを抑えるようにして眼鏡のブリッジを押した。関わった以上ほっとけないからとか言うのだろう、自分のすべきことをせずにどうしてこんな余計なことをしたがるんだ。まるで現実から逃げるように。
「でもよ、もし、その仲違いが悪魔のせいってこともあるかも知れねーし」
 燐はあたふたと続け、そろりと雪男の顔色を窺う。また弱々しいような口調がより苛立ちを募らせる。
 兄さんは僕の所有じゃない、そんなことだって分かっている。兄さんは兄さんのものだ。
「だったらって…」ごめん、雪男。
 謝るのがいっそう腹が立つ。
「いい加減にしろ!」
 ここに八つ当たりは微塵も入っていないはずだ。
 
 雪男とろくに話をしないまま三日が過ぎていた。
 てんで気の合わない兄弟で、意見の食い違いなんてしょっちゅうで、口喧嘩だって当たり前にしていたし、している。だけど今回は燐が全面的に悪い。任務をしくじったわけではないけれど、祓魔塾講師でもある雪男の激昂は尤もで生徒の燐は言い訳の言葉が見付からない。雪男はいつもと変わりなく人当たりもよく、外見は穏やかでやさしい優等生といった感じだが、笑顔の裏で隙もなく怒っており、絶えず高圧電流で取り巻く空気をぱりぱりさせているから雪男に触れようものなら間違いなく感電するだろうことが燐にはわかる。食堂のテーブルには空の弁当箱と夕食不要と書かれたメモだけが残されていた、燐が寝ている間に帰宅し、部屋を出て行く。塾でも何でもない顔で授業を進めていた、しえみにも勝呂達にも気付かれないほどに自然に、よそよそしさもなく雪男は振る舞い、そして忙しげでもあった。燐の詫びを敢えて避けるようにしてせかせかしているのか、それとも本当に忙しいのかはわからない。
―――りーん。
 物思いからはっと覚める、夕食前の食堂で菜箸を手にしたまま振り向けばクロが寒さでか鼻を赤くしている。室内であっても寮は寒い、食堂にストーブを置く許可を求めてメフィストに掛け合っている途中で、二人の部屋には床暖房は当たり前にエアコンなど気の利いた家電などもなく、雪男が買ってきた電気ヒーターがあるきりだった。
―――ゆきだぞ、でかいの。
 夕食後に遊ぼうと言いたいらしい。朝から分厚い雲が空を覆い、雨か雪か降り出しそうではあったが、雪になったのか。
「おー。じゃあゆたんぽするか。今日は湯豆腐だぞー」
―――ゆどうふ!
「とにかく豆腐食うからな、タレが二種類だ」
 白菜は玉で買っているが、魚の白身が少々あるきりで肉もなく、豆腐と言ったらとことん豆腐の鍋なので、味を変える必要がある。今日は燐特製のゴマだれとポン酢だ、雪男は小さい頃から燐の作った醤油だれの方ばかりで食べていた、あれには焦がし醤油を使うのだが今は酒が切れているので焦がし醤油は作れない。見様見真似で作った焦がし醤油を雪男が気に入るとは思わなかったけれど思えば幼い頃から妙に味覚の好みが渋い。誰が最初か覚えていないが何故か修道院では湯豆腐には卵かけご飯だったりしたので、冷蔵庫から卵を取り出す。
―――いっただっきまーす。
「あっちいから気ィつけろよ。残りで炒り豆腐作るから…あ」
 特売ぶんの買い置きが残っていると思ったのだが、勝手に頭の中でそういうことにしていたらしい。
「食い終わったら卵買って来なきゃだ」
 卵を割りながら、ないならないで何も言わずにむすっとした顔で食べるだろう雪男の顔を想像した。別に雪男のために残しておくとか、わざとらしいような気の遣い方はしたくなかった。作っておく常備菜と弁当用の卵がないから買いに行く、それだけだ。それにこの三日買い物に出ても叱られ男とは会わなかったし、ダッフルも見かけなかった、彼らのことは確かに通りかかっただけの燐が口を出すべきではない。
 だけど、あの男は悪魔なんだ。
 普通に生きようとしていた奴がどうして悪魔だからって誰かを怒らせてしまうほどの何かを諦めなくちゃいけないんだ?
 食事を済ませ、クロに留守を頼んで寮を出る。白いものがちらちらと視界を流れており、植え込みや隅にうっすらと積もっている。
「……」
 アスファルトは濡れて、側溝際から白が浸食していた。歩道に足跡をつけながら歩く、吐く息も白く、しんみりした雪景色だというのに、燐は乾いた砂漠の中を歩いているような気がしている。
 答えてくれ、雪男。お前が怒るのもわかる。だけど俺は悪魔だから、頭も悪いしお前とは違うから、どうしたらいいのかわからない。諦めきれないから男は未練にもベンチに何度か来たんだろ、ダッフルのことも怒らせるつもりだってなかった、見えるものすべてが変わってしまった仲間をどうしてやったらいい?
 目薬程度で解決する話ではないのは燐でも分かる。煮え切らない思いを抱えたまま足を動かしていると上着のポケットからぞわぞわした振動が伝わってきた。携帯電話だ、見れば相手は雪男だった。燐が何かを発する前に問われる。
―――『兄さん?』
―――『いまどこいるの?』
 雪男の声は切羽詰まってなじるようでもあった。
「卵買いにスーパーに行くとこ」
―――『聞きたいことがあるからすぐに戻って』
「って、電話じゃ…」
 電話じゃダメなのか、そう問おうとするが耳を引っ掻くような雑音に思わず電話を遠ざけてしまう。
「雪男?」
 ガガッと耳障りな音を響かせると電話は沈黙してしまう。以前、天候不良で電波がおかしくなったという話を聞いたことがあったが雪のせいなのだろうか。燐は電話を見詰め、空を見上げた。雪がやむことなく降っている、携帯電話をポケットにしまいながら視線を上から戻すとすぐ足先に人が立っているのに気付いた。
「わ」誰もいなかったのに。
 慌てて足を止める、電話と小銭を落としそうになる。
「今晩は」
「…あ」
 あの頭の良い叱られ男だ、傘も差さずに立っている。よく見えないが顔色はいっそう悪く見える、コートが雪に濡れているけど寒くはないようで姿勢をぴんと張り、何というか立つ様は規律正しい兵士のようにも思えた。
「オレも、悪魔と人の間に生まれた」
 その前屈みに俯かない顔に向かい燐は、声を振り絞るようにして言った。
 雪男には危険だからと言われたが同じ生活区域の中にあって、会わないなんて無理だ。偶然会えば話だって少しはする、燐は単純に同族がいることを喜んでいたし、悪い奴とも思えなかったから。だがこれが最後だ。
「だから、あんたとダッフルとのことは何とかしたい」
 と、思いに反して口はまるで違うことを述べていた。堂々と。終わった後、やってしまったと即座に背中に冷や汗を感じ、ごめん雪男、と頭の中で謝罪を繰り返している。
「お会いできて光栄です、若君」
 相手は暗い目を瞬かせるとニィと口角を持ち上げ、恭しく頭を下げる。
「申すほどの名は持ちませんが、第三の副官、ベルフェゴールはご存じでしょうか? 我の主にございます」
「え?」
 誰だ、コイツ。真っ先に頭の中に疑問が浮かんだ。咄嗟に身構える、持ち物は小銭と携帯電話と傘、腰を落としはしたが倶利伽羅は持ってきていない。
「貴方は特別なお方だ、どちらでも変わり果てることもない」
「誰だ」
 気の弱い学者といった風貌は燐が公園で初めて会ったそのままで、ただ顔つきと態度だけが豹変していた。自信がなさそうでいてべらべら喋り、顔色も悪く、にこりとはしないけれど雰囲気は柔らかかった。それが短期間の集中トレーニングを経て前線の戦士にでもなったみたいな。相手は大げさに肩を竦めさせると、何も出来ませんよ、と首を振ってみせた。
「今日はご挨拶までに。時が迫っております、貴方様の兄者はまことに厭わしいものをお作りになる」
「…?」
 声だけが、気が抜けるほどに同じだった。身振りといい、教師みたいだったりした話しぶりも違っているのに声だけがざらついてもいないし、芝居じみてもいなければ変な抑揚もない。呼ばれるようにして屯う魍魎の数も変わらない。
「あの希有な一族に接触できたと思ったのですが、残念です」
 雪が降り落ちている、視界を白く引き裂くようにして。
「…お前、どっちなんだ?」
 燐は唾を飲み込むとゆっくりと言った。誰なんだ? どうなっちまったんだ?
「悪魔なのか? ひとなのか?」
―――ある詩人が綴った言葉だ。
「“フェアか、ファウルか”」
 男は嗤う。見えた瞳は真っ暗で吸い込まれそうに玄くて。
 蘇る声、確かその物語は悲劇だとか言っていた。あの日の空の色、ベンチからの景色、ダッフルの後ろ姿、鮮やかに目に映える青。生ける都市伝説。
 寒さが足下から這い上ってくる。
「誰だよ、あんた!」
 ざくりと音がして黒い影が迫ってきた。手が伸びてくる、鋭い刃が降りかかる、脅威が迫ると身体が反応した。
「く、来んな!」
「…君だけがこの世界で異質だった…」
「え…」
 思わず相手を正視する。涙が光ったように見えた、人間らしく、生々しいそれだ。雪が邪魔をするけど錯覚ではない。
「…さん!」
 銃声が聞こえた。
 雪が降っている。震えた唇が動くのを燐は見詰めている。
 ぐにゃりと世界にひずみが出来て、そこから悪魔というやつは来ているのかも知れないと燐は思っていた。閉じようのない、深い深い穴のようなもので、誰もが怖がりながら先を探ろうとする。上か下かも幅さえわからない場所をひたすらに歩みを進めていると地面が口を開き、大きな舌が足を舐め取る。魍魎が飛び、妖鳥が歌う。これまで輪郭がはっきりしていたものが突然形を崩し、意志を持ち始めたように蠢き、唸りをあげる。燐の知っている虚無界というのはそういうどろどろしたような空間だった。男の見ているというこの世に似せた偽りの世界で、二つが重なったあやふやな景色の中で、自分は弾かれもせずありのままに立っていられたことを知る。
 声は届かなかった。
「兄さん!」
 雪男が撃つ、青年は倒れる。
 燐の懐に凭れるかのように、音もなく。
 今日はこれにて、と濁った声の誰かが告げた。
―――…ウシテ、…イラレル…?
 雪男が駆けつけてくる、後をついてきた祓魔師が何かを言った。
 肩に、髪に、腕に雪が降る。青年を受け止めた燐は、凍り付いたように固まったまま動けない。
―――どうして君は、存在《い》られるの…?
 
 燐を、めちゃくちゃ大事にしてやる。
 雪男に手を引かれながらごめんな、雪男、卵ねんだ、湯豆腐なんだけど、とぼそりぼそりと詫びを言う燐の言葉に頷きながら決めていた。
「あのひと、無戸籍だったんだ。だから照合も遅れた」
「……」
 連れて帰ったらすぐに風呂に湯を張り、燐を引っ張って入った。燐は大人しく、文句も言わずされるがままになっている。クロがぴょこんぴょこんと不安げな顔で燐の回りを跳ねていた。
「一般女性と悪魔との間に生まれてて、力がはっきり覚醒したのは別の悪魔と契約してからだったみたいだ」
 隠さずに知り得た情報はすべて教えるつもりだ。燐はざぶざぶと二度湯を掛けられると、雪男の手から桶を奪い、自分で冷えた体を濡らす。
「調査していて嫌な感じは何となくしていた。だけど予感でしかないから兄さんには言わなかった、僕のミスだ」
 始まりは相談窓口にかかってきた一本の電話だった。北正十字学園町の小さな映画館に人に会いにゆくと言って出かけた友人が連絡が取れなくなった、行こうとしたけれど黒い靄みたいなものが邪魔をして行けない、調べて欲しいというものだった。奇しくもそこは『契約すれば寿命年数と引き替えに願いを叶えてくれるこの世のものでない何かがいる』という噂の場所だった。黒い靄のようなものは魍魎だろう、数が多いため不穏なものとして視認されたのだ。下級悪魔を祓い、様子を見るために相談を受けた祓魔師が派遣され、数日後、遺体で発見された。報告書は途中まで記入されており、『導きの塔』の名があった。行方不明者はこの団体のモバイル会員に登録しており、有料サービスで配信される占いの読者だった。
 燐の肩に崩れて落ちた男は一週間前にすでに事切れていた。燐と出会ったときにはもう彼は悪魔に体を支配されていたことになる。だが、生前と変わらぬ自我があり、コンビニなどで目撃証言も取れている。彼は誰かを損ねることもしなければ、瘴気も発せず退学届けを出し、預金口座の解約など粛々と生前の始末をしている。その一つとして燐が聞いた『キャンセル』というのがあるのだろう。
「だから話して」
 燐は表情こそ崩すことはなかったが、顔色も悪く、小さく右手を震わせたままだった。ショックが大きかったのだろうと同行した祓魔師は必要な聞き取りを終えるとすぐに燐を解放したけど、たぶん燐は何かを吹き込まれている。悪魔か、彼かに、それこそ呪詛に近い言葉を。
 見れば分かる。
「どうして契約したのかまでは分からないけど、彼は被害者だ。結界のせいで悪魔は契約しなければ物質界《アッシャー》に在られないくらいに力の制限はされていた。姿も現さない以上、特定することは出来ないけど」
 フェレス卿は、結界を浸食しようとする輩に燐が気に入られているらしいと言っていた。燐を利用しようとしたのだろうか、それとも取り込もうとしていたのか。すんでのところで断ち切れたはいいが、あれで祓えたとは思えない。
「ただ、話を聞いただけだ」
 燐は雪男に向かって湯を飛ばす。べるなんちゃらって言って。
「…うん」
 雪男は体を洗う手を止めて燐を振り返る。燐は雪男に背を向けて湯船に浸かったまま天井を仰いでいた。
「頭すげー良かった、缶コーヒーおごってもらって、カウンセラーみたいなこともしたけど壺は売らなかった」
 空元気と思えるような声を風呂場に響かせる。
「ダッフルに半年前に頼んだことをキャンセルしなきゃなんなくなって、それが悪魔になっちまったからなんて理由で、雪男に余計だって言われても俺、どうにかしてやりたかったんだ」
「僕は祓魔師だ。ひとや物質界に害悪をなす悪魔を祓うことが仕事だ、もちろん兄さんも例外じゃない。…だけど、彼のことは不幸だと思う。理不尽だって一方で怒ってる」
 しばらく黙ってから燐は呟くように言う。
「怒ってんのか」
「うん。誰かさんのせいで色々とね」
 泡を流して湯に浸かる、ぼやけた視界の中、燐は尾も体も伸ばしだらりとしていた。
「怒ってばっかだな」
「……」だから誰のせいだと。
 寮に着いた頃には小降りになっていたが雪はもうやんだだろうか、辺りが深海みたいに静かで、燐は雪男が頬を叩くまで惚けた顔をしていた。ゆるゆると雪男を見返して冷たいと言った、どうしてだとか、何があったとか脳天気な問いは出てこない。不浄王のときとは大違いだ、寧ろ獅郎を亡くしたときと似ている。行動パターンはこれから後先考えなしに突っ走るか、自暴自棄に走るか、どちらも燐なので走ることには変わらない。考えたって思考することに訓練されているわけでなし、馬鹿力と料理の腕のくらいしか取り柄もないのだ、行き着くところは堂々巡りで、それは本人も分かっているはずだ。方向も分からず迷走、いまの燐はそんな風に見えている。
「怒るとお腹減るんだ、僕は先に出るよ」震えが止まるまで入ってて。
「卵ねーぞ」
 ぶすくれたような声で燐が返してくる。ぺちぺちと音がして尾が湯の面を叩いていた。
「わかってるよ」
「雪男」
「ん?」
「ごめんな」
 雪男が出て行くと慌ただしく桶を蹴る音が聞こえ、シャワーの音が響いてきた。水道代がもったいないと思えるくらいでもうどうしようもないな、と雪男は眼鏡を拭きながら息を吐く。燐はストレスの殺し方をあまり知らない、感情にまかせて生きていくタイプだから、処し方を覚えようともしないのだ。
「ほんとバカ…」
 クロが問いたそうな顔で浴場のドアの前に座っている。燐を気にしてうろうろしていたのだろうか。
「ごめん、クロ。兄さんを一人にしてやってくれないかな」
 クロはぴんと二本の尾を張らすと、そうか、と言うように短く鳴き雪男の後についてくる。兄よりよっぽど物わかりが良い。
 部屋のヒーターをつけてから食堂に来ると雪男のぶんの湯豆腐が残されてあった。暖めている間も体温がこそぎ取られそうに寒い、ガスコンロに手をかざした。中央は青く外側は赤い、青い炎は温度が高く、メールに気がついて読んでいるとすぐに鍋から湯気が出てきた。たれは二種類で、小鉢の中をクロがじいいっと見詰めている。
「あれ、クロも食べるの?」
 首を振ったところを見るとそうではないらしい。クロはちらと外を見る。窓に目を向ければガラス面のようになっており、雪男の顔を映すが、雪が降っているのがわかる。静かでしんしんと寒いわけだ。
「外?」
 猫はこたつで丸くはならないのか。それはそれで衝撃だ。
「いいけど…もう遅いよ?」
 にゃあ、と力強く返す声はいま遊ばなくていつ遊ぶのだと訴えかけるようでもある。我先にと食堂を駆け出すクロの後を箸を手にしたままついて歩いた。雪男に叱る気はなかった、子供の頃、燐が不格好な雪兎や小さな雪だるまを運んできてくれたにも関わらず発熱したまま外へ出て、戻されても出たいと駄々を捏ねてさんざん獅郎達の手を焼かせた記憶があるからだ。雪はそれほどに魅力的な遊び道具だった。
「雪男?」
 振り向くと燐がタオルを頭から掛け、怪訝な顔をしている。
「どこ行くんだ?」
「クロが外に出たいって」
 暗闇の先に待機しているだろうクロがにゃあにゃあと燐に説明する、燐は、ふむふむと頷くとそうなのか?と雪男の顔を見た。
「え、何?」
「雪の夜には猫又会議をするんだと」
「……」なにそれ、知らない。
 雪男は黙って廊下の先にいるクロを見る。クロは勇者さながらに四肢を構え胸を張って立っている。猫又会議とは初耳だ、神使も祭日には集まったりするらしいからそんなこともあるかも知れないが。
「俺が出してくる、お前はメシ戻れ」
 燐は雪男の肩を叩くと、廊下の奥に消えていった。目の周りは少し赤いようでもあったけど湯上がりのほかほかした顔つきだった。
 そして、食堂に戻った雪男が湯豆腐を食べているとどこに隠してあったのか無言で温泉卵が突き出された。顔を上げる、燐はきんぴらと唐辛子入りの蒟蒻の含め煮をごんごんと置き、正面の椅子に座りながら焦がし醤油はないと告げる。
「酒がないから作れない」それと、と横を向いて続ける。
「クロが、ちゃんと仲直りしろって」
「うん」
 雪男が怒っているのは、遣り切れなくなるような燐に近いようで遠い境遇の彼の身の上でなく、燐だった。尤も雪男の怒りなんて燐に関わる方向でしかなくなっている。男の覚醒が遅かったと知って自分もそんな風になる可能性があるのかとちらと考えはしたが、無視した。獅郎との約束がある限り、苦しみ喘いだって貫き通さねばならないのだ、考えてはいけない。調査を続け、肉薄していくに連れて深入りすれば燐が傷を負うことになると判っていた。その場の感情だけに流されて、後先を全く考えないことは良く言えば柔軟、悪く言えば、竹篦返しという代償を無視する傍迷惑な愚者に尽きる。こっちの方がよっぽど目を離すわけにはいかない。
「行方不明者が発見されたって。魔障を受けているそうだから、契約の手引きをしている人間がいるんだ」
「まだかかるのか?」
「調査は続くけど、僕は報告書を出して終わり」
 燐には言えない。メールは支部長からで、死亡した祓魔師の自宅から青年を悪魔とひとの間の子だから毒殺した、と書いた遺書が発見されたとあった。通報で彼が生きていたことを知り、調査も出来なかった、己の罪を暴かれてしまう前に死を選ぶと。青い夜の経験者だ、燐を憎んでいただろう、雪男のことだって快く思っていなかったはずだ。そういうわけですので、とフェレス卿は絵文字満載のメッセージを続けた。奥村先生はこの任務から外しておきます、途中ですが報告書はしっかり記入して提出するようお願いしますね☆
「そか」
 燐は自分の手元を見詰めてから口を開く。
「…叱ら…あのひと、虚無界と物質界の風景が重なって見えてたんだって。ひとも悪魔ももう同じように見えてたかも知んね、ひでー世界だよな、そんなのを見続けて生きてくんならせめて、物質界の窓口は開けときたかったんだ、ダッフルは話せば分かるんじゃないかって、勝手に思って…」
 身勝手でご都合で、頭の痛いばかりの兄だが、かといって塩垂れている姿をずっと見ていたいわけじゃない。特に食事中に。
「似たようなことはこれからもあるのかも知れない」
 燐は寒そうに身体を縮める。大人しく雪男の説教を聞こうと観念しているのだろう。
「僕、弱くてグズグズな兄さんは見たくない」
 つまり、全身で雪男に甘えて凭れかかるような兄なら撃ち抜くということだ、と言うと燐はひょいと姿勢を伸ばし、居住まいを正した。埃を被ってそのへんに転がっていた兄の沽券とやらを思い出したようだ。軽く空咳までする。
「懲りなくてもいいよ、懲りろって言ったって兄さんは聞かないんだろうし、だけど耐性はつけて」
「……」
「誰かを助けたいなら、自分を守って」
 燐は雪男を見返し、すんと鼻を啜る。
「方法は僕が教えるから」湯豆腐食べる?
「わかった」汁だけ。
 とかしおらしいことを言って燐は雪男が差し出した豆腐にぱくつき、あちいと舌を出した。
 
「…じゃあ、仲直りしようか」と食事を終えた雪男が言った。
 湯上がりとはいえ、外は雪が降っていて部屋の暖房器具といったらヒーターひとつしかない。簡素な部屋には慣れているが寒いものは寒い。燐は雪男をちらりと見上げる、同時に顔が火照ったようになるのも感じる。雪男とは親密な行為をするようになっていたけど、いつだって燐が言うか、言わされていた。どう受け取ればいいのか。雪男は至って普通に情緒もへったくれもないような顔をしていた。
「……」
 ちっともあったまっていない部屋でまず気付いたのは燐の机の上だ。
「…すみません」
 素直に謝罪が口から出る。
「もういいよ」
 とはいえ、クイと眼鏡を上げるだけで課題はいつもの通りのまま減らすことはしない。先生は厳しい。『仲直り』ってこーいうこと、ですよね、と思いながら燐は頭髪を扱くと雑に椅子に座った。
「やる順番は好きに変えていいよ」
「るせえ」
 テキストを開いて鉛筆を握る。
「慰めようとしろよ、メガネ」
 雪男は雪男で燐のぼやきなど黙殺して夜勉とばかりにパソコンの電源ボタンを押している。やだもうこの弟。
「なら、課題の前と後とどっちがいい?」
 思い出したように言い、にこりと笑みを向ける。
「……」
 けっと吐き出し手が止まる。一番上にあったのは報告書の写しだ、寿命何年かと引き替えに願いを叶えてくれるという噂とその取引が出来るといわれる場所、叱られ男の正面写真、悪魔の名前が並んでいる。ダッフルは全く関係ないらしいことに少しほっとする。
「俺にだって頭良いトモダチくらいいるってお前に言いたかった、からよ…」
「僕じゃ不満というわけ」
「つーか、お前に自慢できるとこいっこもねえし…」
「死線ぎりぎりだけど生きてるってとこは自慢して良いと思うよ?」
「突っかかんなよ。そりゃカタブツのお前が兄ちゃんは心配…」
「そこ問題ないから」
 見たという証拠に紙片を雪男に突きつけてやった、わかってるわかってるわかってる。でも止まらない、悪魔だから諦めなきゃいけないことが増えるのか? 戸籍に載ることも許されないのか?
「…兄さん」
「っ、一緒に任務やったりしてねーし。つか雪ちゃん、俺以外で満足すんの? 付き合うの結構タイヘンだろ」お前遅いし、しつこいし。
「それ兄さんだろ」しつこくさせるのはどっちだ。
 雪男は紙片を掴んだ手ごと引き寄せると燐を腿の上に座らせる。抱きつくと雪男はあったかかった。
「…ち、撃ち抜くんじゃねーの?」
「こういうのは別」
 弟の役目だからね、と結構真面目な顔で言う。弟よ、やっぱり兄はお前が分からない。そんなんだから燐は泣けてどうしようもなくなるのだ。
「お前のこと大事なんだねって言った、生きてて良かったと思えることなんかなかったかも知れない、俺は変な輪っかつけられて、鬼みたいな弟が見張ってるけど、信じてくれる奴もいるし、死ななかった」
 手の甲でごしごしと目を擦りながら言った。報告書の写しは床に落ちて、凍えた空気に氷結したみたいになっている。襲われることもなかった代わりに誰からも守られなかった、初めて会えたのに、残酷な終わりしかなかった、救いなんて欠片もない。
「それは…」
 雪男は燐を抱き返して背中を優しく撫でる。まだ処分が保留中だからだとか言うんだろう、でも燐は生かされてるにしろ、ここにいる。
―――どうして、存在《い》られる?
 そんなの知らない。
 なにがいいの、どこがダメなの? 境界線はどこなんだ?
「雪男」
 頭の中をぐるぐる回る、考えたって燐にはわからない、そうしているうちに日は昇るし、日は沈む。好きに生きろときっと獅郎なら言うのだろう、どうすればいいのかとか、いいのか悪いのか答えてもくれない親父だ、だけど雪男が感じられる場所に残してくれた。
 サタンの仔だって、聖騎士《パラディン》の息子だって、無力なのだ。
「あのひとが、不幸なのは、僕たちじゃなかったってことだ」
 燐は雪男に押しつけた頭を頷かせる。胸がざわざわする、静かすぎることが怖くてたまらない。
「っ、雪男…」
「理不尽で、すごく残念だ」
 だから回り巡って雪男が怒る。
 フェアでファウル。
 なんだ、燐の存在そのものだ。
 
 

130104   なおと

 
 
 
*****
 フェアかファウルか。
 間違いなく某作家氏のあれです。
 読みながら、燐っていうか奥村兄弟って團にとっていわばそうだよなって思ったので。いや、オマージュっす。話は全然違うんだけど、形式とかそういうのもうっかり似てるの?って思って読まれてしまったりしたら愛読する方から関わるすべての方々に土下座するしかないので。ちなみにこの台詞は舞台で仁王と柳生も歌ってますね☆
 奥村家の台所は勝手事情により動物性タンパクよりも植物性タンパクを多く摂取させています。燐が面白がってちょこちょこ工夫しているんじゃないかなと。こいつら高校生だし絶対に牛肉好きなんだろうなあ、と思うのでたまにはビーフをプレゼントして差し上げたい…。
 それにしても書くのにひと月かかりましたよ…なかを埋めるのに時間かかりすぎた、そしてどっと疲れた…。
 

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