狼か羊か。

 原作がやや重たくなりつつあるので、その影響がでております。そればっかなのが心苦しいです。
 次はアホなのがやりたいです。
 11年の11月に考えたよ、とテキストに痕跡があるので最初の考えとは違ったものになったんじゃないかしら、と。
 ともあれ、デフォルトで静かなりに仲良しなので、兄弟は。
 

【PDF版】狼か羊か。 ※ただいま準備中です。

 
 
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―――イエスは三度目に戻って言われた。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」
 
(三度来りて言ひたまふ『今は眠りて休め、足れり、時きたれり、視よ、人の子は罪人らの手に付《わた》さるるなり。起《た》て、われらは往《ゆ》くべし。視よ、我を売る者ちかづけり』)

(マルコ傳福音書)

 
 
「兄さん、怪我してるなら言ってよ」
 と染み取り用に作った薬剤の瓶を手に怒ったように雪男が言ってきた。
「あ?」
 イモの皮を剥きながら燐は首を傾げる。
「怪我なんかしてねーぞ?」昨日したときお前も気付かなかったじゃねーか。
「じゃあ鼻血? とにかく、血は一度染みついたらなかなか落ちないんだから」
「おかあさんみてぇ…」
「汚したの誰だよ」
 強い口調に気圧される。燐の身に覚えはないが、ぽろりと口から出た。
「う、スミマセン…」
 よろしいとばかりに背中を向けた雪男に思う限りの悪態を込めて舌と尾を振るった。燐は食事を作り、雪男は掃除か洗濯をする。一応家事は当番ということになっているが、どちらかが言ったわけでもなく、二人の生活はそんな風に自然に分担がされるようになっていた。
 燐は昼はジャガイモとベーコンのパスタだぞーと一応言ってくるりと背を向けた。サラダにスープもつける。ジャガイモは大量に剥いて、コロッケのタネを弁当用にも作るつもりだ。箱で安くジャガイモを買えたから燐の知っているイモ料理をやりつくそうと思っている。
「……」
 かたりと音がする。
 剥き終わったジャガイモを水を張った桶の中に転がしてふとテーブルの方を向く、雪男の視線とぶつかった。
「何だよ、もうハラ減ったのか?」メシはまだだぞ。
「兄さんは教会の手伝いでもしょっちゅう寝ていたから覚えてないだろうけど、神父さんは説教でも悪魔と人間を分離したりはしなかった。否定しちゃ祓魔師《エクソシスト》なんて出来ないっていうのもあるんだろうけど、僕にはそれがひっかかってた」
「は?」
 突然何を言い出すんだ、このメガネは。
「聖書にも悪魔は出てくるし、キリストに問うんだ。そして立ち去れと言われる」
 雪男は椅子に横向きになって敢えて厨房内が見えるような格好で座り、テーブルに置いた染み取りであろう瓶を遊びにか回している。
「悪魔は人を惑わす」
「おいおい…解釈とかやめてくれよ」そーゆうのわかんねえし。
 詩篇、箴言、福音書。聖書の構成は知っているつもりだが、旧約のどうのとか新約のあれとか、内容のことについては燐はこれっぽっちも理解できていない。養父が話したいくつかのものと、子供向けの絵本にある話くらいで、諳んじているのは歌といつも口にした文言くらいだ。
「だけど、人を陥れるのは人なんだ」
 完全に無視される。
 というか、聞いてないのだろう、雪男は燐を見てはいるが、正確に言うなら視ているのは燐が纏う雰囲気丸ごとを漫然と眺めているといったようなちょっと外れた見方で、視られている方は半ば無視されているような気にすらなる。
「人間だけが目的もなく同族を殺せる地球上で唯一の生物だといわれている」
「……」
「憎しみなどの感情、戦争、思想、動機は多彩で複雑だけど」
 悲しいようなこと言ってんなあ、と燐はジャガイモを手の中で転がす。
「…あと、自死もか」
 皮を剥く手がぴたりと止まった。
「罪の前に神様や信仰なんて無力なのかもね、人は法で裁くしか方法はないんだ」
 剥きかけたジャガイモを水の中に落とし、数を数える。まだ五個。
「どうしたんだ? 雪男」
 雪男はこのところ、問題集でも教科書でもなく聖書ばかりを読んでいる。それもラテン語版というやつだ。こっちは邦語訳さえ薄い紙に辞書以上に分厚くて読めるかあ!と投げ出してしまいそうになるのに外国語とか雪男はおかしい。
「何か言いたいことでもあんのかよ?」
 悩み事や相談ならいいのだが、説教はゴメン被る。けど弱音も吐かない弟なので口にしながらもちょっとだけ身構えたりする。
「むつかしいことばっか言って頭がどうにかなっちまったか?」
「兄さんじゃあるまいし」
 弟は首を振って大人びた笑顔を見せる。
「ただちょっと考えただけだよ」
 ぴちゃぴちゃ、雪男が振った瓶で液体の跳ねる音がした。
 
 
 
 けんこうしんだん、と理事長はかつてそんな言葉が物質界《アッシャー》にも存在したような、という顔をしてみせた。勿論、わざとである。
「はい」
 奥村雪男は無表情に頷く。こちらは努めて感情を押し殺しているのだ、後見人として厄介になっているとはいえ、この悪魔…もといフェレス卿の前でボロは出したくない。
「春はのらりくらりと躱せましたが、この予定表、来週に健康診断がありますよね?」
「ハイ」要請されちゃいまして。
「……」どこからどうしてだ。
 雪男はそうですかという顔だけをしてみせて続けた。納得はしてない、というか、早く言えよと思っている、こうなるとわかっていれば前もって準備が出来た。殆どの項目はどうにかなるから学校の健康診断ぐらいならと考えてはいたが、今回は項目が増えている。
「予め、医療機関で受けている場合はその結果を提出すればいいとあります。躱せないならばそうしたいのですが、いいですか?」
「いいですが、実費ですよ? 本人が納得するかどう…」
「いえ、そこでなく」
 問題は耳よりも牙よりもあの自由奔放な尾なのだ、興味本位に調べられて弄り回されでもしたらと思うとやはり管轄内のどこかということになる。
「この際、フェレス卿立ち会いでも構いません、どこかの施設なりを紹介していただくなり、あるいは借りられればと」
 祓魔師の称号はそれなりの威光を放ったりもする、医療行為全般ではないが、他者に魔障対策としての接種などが許されており、採血も行える。
「僕が行います、文句はないのでしょう?」
 有無を言わさないつもりで口にした、燐に危険性がなしと判断されれば通常の学園生活及び祓魔師候補生として授業の参加を認めると、理事長兼後見人は言っている。
「それには及びません」
 相手は意地悪く口の端をあげる。
「本部に調べて貰えばいい」
 半眼の目がこちらを試すかのように見詰めていた。燐の悪魔の力が覚醒してから雪男は正十字の医療部門にデータを預けたことがない。驚異的な快復力、特殊な溶液に反応を示す血液、すでにヴァチカンは掌握しているのだろうが、燐の存在は禁忌そのものなので不問の点が多かったし、雪男としても兄についての詳細を紙切れなんかに残しておきたくはなかった。
「……」行きすぎる執着だと笑いたければ笑え。
 フェレス卿は確かな反応を得たというように指を鳴らしてみせる。
「…と、いうのは嘘で、手は打ちましょう。私だってみすみす貴方のお兄さんを切り刻まれてホルマリン漬けにしたくありませんし」
 有能なのだか分からない執事だか護衛じみた燕尾服の男(吸血鬼《ヴァンパイア》かも知れない)がすっと電話を指し出してきた、うやうやしくも盆に載せる意味が分からない。
「ホルマリン漬け…」
 標本ではないか。宗派によってはやりかねられない。
「研究部門ですよ。あそこは詠唱解析から分子レベルまで貪欲ですから、何をされるか分かったものじゃありません」
 項目はなんでしたっけ?と目の前の悪魔は空とぼけたように続ける。理由はどうあれ健康診断なんてのの実施が決定すれば燐はどうしたってクリアするための策を考えなければならない、サボればサボるで本部からケチがつきかねないし、…となるとここに来ることになる。何もかもお見通しだと言わんばかりで、なんだかもうなるべく理事長室なんて避けたいのだけど雪男は諦観と苛立ちの間で立ち尽くしている。
「ひととおりの測定と、血液、胸部レントゲンに触診による問診、心電図もです」
 上半身を晒すくらいなら嫌だけど仕方ないから尾は太腿にでも巻き付けておけと言いたいところだが、心電図の検査機器を思うとそれも無理がありすぎる。
「そうでした、結核に風疹と、あちこちの学校施設で集団感染が見付かったのでしたね」
「…ええ」今更言うな。
 配布用紙にはそう断ってあり、希望者は予防接種も可能となっていた。ニュースに流れるのを確かに見はしたが、不安がる保護者は多かったらしい、求める声に文句を言う気はないがどこのどいつらか知らないが自身の健康管理くらいして欲しいものだ、雪男にとっては迷惑の一言に尽きる。噴出しそうになる不満を払うように小さく咳払いをした。
「奥村君に病などあるはずもないでしょうが」
 と、受話器を手に相手に繋がったのか言葉を切る。通話は短く、私だ、明日の午後には空けておくようにと高圧的な一言であっさり終わらせてしまった。雪男は黙って指示を待つ、これからか明日にでも行けというのだろう、さっさと終わらせたい。
「覚醒してだいぶ経ちました。変調はないとは思いますがこの機会に知っておくのもいいかも知れませんね」
 メフィストは一人言つように言うと音を立てて椅子を回す。
「明日、昼休み中に行ってください。レントゲン検査は無理ですから手配しておきます。それと、放課後には正式な通達が出ると思いますが、塾生の皆さんに任務がきてます」
 机にある便せんを雪男に突きだしてくる。黄ばみのある用紙は愛想のない指令書というよりも私的な手紙にも思え(尤も雪男はヴァチカンからの通達が封書で来るのかもどのような形式かも知らない)、戸惑ったが見れば肉筆の外国語が綴られていた。
「医工部…」
 身体の奥まった部分でぎこちなく歯車が動く音がする。片言だが薬剤に関することが書かれているのが分かった、自分だろうかと瞬時疑い、異変の見出せなかった検査結果が瞼に蘇る。では燐に試せなどまさかそんな―――。
「新薬、ですね」
 お兄さんには恐らく効きませんよ、と雪男の胸の内を見透かしたように嗤って悪魔は便せんを振る。
 
 
 
 消毒液とガーゼ、ピンセットが行儀良く薬便やらに収められて陳列し、僅かばかりのスペースのワゴンの上に無理矢理に置いた用紙には細かな項目が検査項目が薄いインクで印刷されている。全部を埋める必要はないが、何故これまで必要なのだろうと思わないでもないものもあった。
「すっげー機嫌良いな」
「普通だよ」
「嘘吐け」
 兄ちゃんにはお見通しなんだよ、と燐は気持ち胸を反らすようにして言った。ああそう。
「血圧計るから喋らない」
 燐は手応えのないような顔をし、へーいと応え、袖をめくり上げる。
 アテになんないなと、雪男は旧式の測定器を引き寄せて動かしてみた。空気の入りといい反応としては悪くもなく、余り使用されないことが察せられる。この方が実は正確なのだと獅郎が言っていたが、ジョークは深刻な場面であるほど大事と言い張るような大人で、たまに頭から信じてもからかうことがあったため、まちまちだった真実を前に未だ担がれているような気が抜けていない。
「そこまで上げなくても良いんだけど」
 相手は生返事で返し、雪男の手元に興味津々だ。確かに血圧なんて人生で初めてかも知れない、雪男も中学で測定したという記憶がなかった。
―――ぷしゅう。
 心電図とレントゲンを無事に終えた。待ち時間を利用して採血も済ませたから今日中にどこかの臨床検査技師の元に届いているはずで、憂いは取り除かれたことになる。機嫌が良いというより安心だろう、その気の緩みが態度に出ている。
 昼休みに塾へ行き、教員室の机に置いてあった紙切れ一枚と鍵でどこかの検査施設に移動、そこは雪男も訪れたことがない医療センターだった。燐は自分だけそんなことをされることに分かっていないような訝るような顔をしていたが、学校内をパニックに陥らせたいのかと問うと、納得した顔を見せた。とはいえ、そんなのもジェスチャーに思える、雪男の安堵感をまるで判っていない。燐は自分が悪魔であることを隠そうなんて思わないのだろう、覚醒してもなお自分があるがままでいられるなんてどうして思えるのだろう、無根拠な自信の出所が本当に分からない。兄のこうした点が雪男には理解できない。自覚? それこそ疑わしい。そもそも、最初に健康診断の報せを聞いたとき雪男はどうクリアしようかと策を練ろうととしたのを燐はどうしてか参加、あるいは團に言えば何とかするだろうと何も考えていなかった。慌てたらどうなんだよ、と気にして雪男にどうするのかと問う勝呂や三輪が気の毒に思えたくらいだった。
 ほっといて痛い目に遭わせてやらなきゃダメなのか。
 おいおい、どうなんだよそれ。
「昨日、塾で言ってたやつか?」
「え?」
 眼鏡を押し上げる。
「お前、薬学、好きなんだろ?」
「ああ、新薬のこと」
 万能とは言わないまでもいくつかの属性の悪魔に有効とされる魔法薬が出来つつあることを雪男は授業で伝えていた、日本支部にもアンプルが届くことになっており、任務で使用されることが決まっていた。開発途中なのでデータと、日本支部からもいくつかの薬種を求められていた。少量だが祓魔塾の授業でも実験に使うと触れてある、燐はその事を指しているのだった。
「そのうち世界がひっくり返っちまうような薬とか作りそうだよなー」
 けろりと無邪気な子供のように明るく言い放つ。どこかに起こる奇蹟を示す無責任な預言みたいに。
「えっ?」
 口調がなんというか希望というよりも確信めいていて、雪男は瞬時ペンを落としそうになってしまう。燐は目を合わせるとにひひと笑った、『医者になるんだろ』とかつてスゲーを連発した幼少時の記憶と寸分の違いもないような明白さで。そんなの作れるわけないだろ、と返しても笑って流すんだろう、夢からコースアウトしたように祓魔師になったとしても、誰よりも雪男の未来を真っ直ぐに信じている。
「それはいいから黙って」
 血圧正常、心拍数はやや早め。喋るからだ。
「…初めは覚えなきゃいけないことがありすぎておいつかないほどだったけど、知れば知るほど引きつけられたっていうか…しなきゃいけないんだってことを忘れられたんだよね」それほどには嫌いではない。
 しかし、雪男の力で何が出来るのかは判らないままだ。
 もうすぐ終わるから、と雪男は燐の頸動脈の位置に指を当てながら指を立ててみせた。
「薬学って奥が深いんだ」
 時計の針を見詰めながらカウントする。指を打つ力強い感触に呼吸を合わせる気分で一、二、三、四、と不確かなものを積み上げてゆく。
「……」
 早くもなく遅くもなく、自分のものとも一致する。
 顔を上げて兄の首回りの肌に腫れなどがないかを確かめる。秒針が一周したところで離し、頬、額、首筋、腕と、丁寧に傷跡や血痕がないかを確かめた。弛緩しきっていた燐の肌は触れられて起こされたような反応をしてみせる。
「怪我したとか、覚えある?」
「ない」
 雪男の手が離れていくのを引き留めるかのように袖が握られていた。
「もういいけど…どうしたの?」
「怪我なんか、お前のがよく知ってるだろ」
「いつもついて回るわけじゃなし、料理中の切り傷とか火傷とかは分からないよ」
 記入欄を埋める。気にしそうだから言わないけれど身長は変わらずに体重が減っている。鍛えているわけではないが喧嘩の場慣れだけはしているので燐は筋肉が適度についており、弱々しいとかへなちょこな体つきではない。とはいえ、運動部に所属する高校生の平均的なそれと差がないくらいで、厚みも貫禄もまるでなかった。有り余る体力を補うくらいの筋力しかないといえばいいのか、このまま成長するんだろうなとなんとなくだが感じられた。
「ヘマなんかしねえよ」
「ふーん」
 無駄な流血の理由は絶対に言わないわけだ。
「信用ねーな、包丁で切ったりもしねえって」
「うっかり前髪焦がしそうになるけどね」
「あれは勢いが良すぎただけだ。いいか、シャッキリな野菜炒めはああやって強めの火力で全体に火を通すようにがっとやんなきゃダメなんだよ」
 燐は身振り手振りで見えない中華鍋を動かしてみせる、雪男は料理に無意味なパフォーマンスやらアクロバットを望んだことは一度もない。
「とにかく終わり。教室戻っていいよ」
 追い払うような素振りが気に入らなかったのか、目の前の燐は横を向いたまま椅子から立ち上がろうともしなかった。
 ひょこひょこと尾が揺れている。じゃれつくように絡んでくるのは構って貰いたいとのアピールだと雪男は解釈している。聴診器を仕舞い、暫く考えるようにしてから、よくできましたというようにそっと額に口付けた。本当はさり気ないくらいの振る舞いでありたいのだけどとても注意深く、周囲に神経を配っている。塾であろうが学校であろうが応急設備を備えた場所にいつ誰が来るとも限らない。
「お前、俺の血、持ってるだろ」
「採血はしたけど、そのまま検査に出したよ」
 ちらりと見上げてから問うのを、正直に答えた。
「雪男、医者になるって言ったからお医者さんごっことかやったよな」 
「少しだけね」
 素直に頷くと、相手はお前本気でなりきってた、コエーくらい、とぼそりと言う。
「いや、怖くはないでしょ」
 実験動物にでもされるんじゃないかと思われているのか。
 何しろ血は苦手だった、いまでこそ平気でいられるけど現場で卒倒しそうになったことが何度もある。子供のお医者さんごっこなんて高が知れていて、喉を見るとか聴診器モドキで聞こえもしない鼓動を聞くとか、手術だって真似事だ。骨折と心臓病の二つしか病がなかったとも思う。でなければストレスだ、実際の切り傷や擦り傷はとにかく洗ってそこらに生えていた草の汁を傷薬にして絆創膏を貼った。悪化はしなかったが薬草を覚えるまで何事もアロエだった。
「薬学も識れば面白いと思うんだけどなあ…兄さんに分かって貰えなくて残念だ」
「おま、ソレ、本気で言ってんの?」
「どうでしょう?」
「……」
 揶揄ったつもりもないが燐は腕を組みむっつりと黙り込んでしまった。顔つきもやや険しい。
「あれ? どうしたの? 怒ってる?」
 冗談ごかしても、取り合おうとしない。相手は無反応に室内には白けたような空気が漂う。
 おいおい。思わずそんな詠嘆まで出てきそうだった。
 何をそんな理由があってころりと変わってくれるのだろう、いつもなら軽い舌打ちひとつで聞き流すような言葉なのに、何かしらの琴線に触れてしまったらしい。というか刺激か。どこからか余計な知恵でもつけたのかと思いながら兄さんの血は、普通に成分検査するだけで何をしようとも考えてないからと教える。何だよとこちらも責めるように返さないにしろ、言い訳みたいになってしまって、なんとなく実験に失敗したときと似たものを抱く。
「兄さん」
「は?」
 呼びかけは倦んだような声だったかも知れない、相手は明らかに機嫌が悪い、睨め上げるような目つきが分からない奴だとでも言いたげだった。
「怒ってねえよ、なんで怒るんだよ」
「尻尾」
 ぶんぶんと揺れる、緊張したように伸び、力強く動いている。春から目にしているのだから喜色や強い好奇を顕したりしているのと振れ方が違うのが雪男には分かる。指摘されて燐はぱっと尾を掴むと隠すようにして背中に回した。
「…誰かを傷付けるとか、俺はしねえ」
「うん」知ってる。
「だから、血なんか知らねーし、俺は流してない。お前のでもないなら、尚更だ」
 燐のはっきりしないような物言いは何を言われているのかが判らなかった。暫くしてぽかんと口が開く。
「僕の?」
 それはあり得ない。潰れた肉刺もなければ怪我なんて負っていないのだから。
「だって、前に、血がどうとか言ってたじゃねーか。絶対に俺じゃねーし」
「あれはシーツだよ? シャツと、タオルにもついてて…」
 口にした単語にはっと思い当たる。自分が怪我をしたのならば傷口として残るのだから気付くし、自覚もする。しかし、燐に傷が出来る、出血する。どこで? 暗がりじゃどこに血痕が残ったかなんて知りようがない。夢中になって、忍びやかな物音と熱っぽい吐息と胸を締め付けるような声を聞いているから。燐だってそんなのいちいち気にしないだろう、それどころではない状態にさせられているのだから…って、あれ?
「……」
 血って、自分のせいなのか?
「…僕、そんな手荒にしたことあった?」
 頭に浮かび上がると同時に声に出していた、燐は理解に遅れたか、瞬時ぽかんとしてから雪男を正視する。こんなところで何を持ち出してくるんだ、という顔には微かな警戒心も見えた。
「たまには」
 そう燐はそっぽを向いて雑に答えるが、雪男には記憶は遠い。今月など二回くらいしかしていないし、一番近くて一週間前だ。お互いに忙しいというのが理由だったけど、雑魚寝のようにして床に倒れ伏して熟睡したときも二人で足りてないことを自覚しているのに触ろうともしなかった。とにかく眠りたくて、お互いにシワになるとかベッドに行けとかのろのろと言いながら着替えもせずに落ちたのだ。あのときは眠れることは有り難いと同じ感謝を感じていたに違いなかった。
「だから…」
 言いにくそうに口を開きかけていた燐は持て余すようにした手で太腿を叩くと、俺のじゃねえっつの、と吐き捨てる。
「血で、兄さんの何かが変わるでもないんだ」ほんとうに。
「雪男」
 燐は椅子から腰を浮かせ、雪男に手を伸ばしてくる。廊下から女子生徒だろう、足音と笑う声が聞こえてきた。二人は咄嗟に衝立の向こうのドアを見遣った。誰かが入ってくる様子はない、足音はこちらのひそめた息遣いすら気付くこともなく通り過ぎていく。
「僕の方は心配ないよ、何かあるとしたら兄さんの方なのは確かなんだし」
「……」
 雪男の袖を掴もうとしていた燐の腕は落ちていた、疑わしげにちらりと見ると息を吐く。不満はあるが降参してやるとでも言いたげだった、言いたいことがあるなら言えばいいのに。別に敢えて燐が折れるようなところじゃない。器具を仕舞う背後で燐の気配が遠ざかろうとする、壁掛けの時計を見上げるとあと数分で予鈴が鳴る時間になっていた。慌ただしい昼休みになった、燐のおにぎりを食べたとはいえ、あれしきでは腹は保たない。
「もしも何かあったとき、僕の血が兄さんに輸血できて、兄さんの血は僕は貰えない」
 何かってなんだよ、もしもは『いつかそのうち』にもならないんじゃないか、と言いながら思ってしまう。
 雪男の飢えは何をしたって満たされないのかもしれない。
「そういう普通の血を調べて貰うだけだよ」
 燐は振り返って雪男の顔をじっと見詰めるとわかってる、と呟くように答えた。
 
 
 
 
 
 
 静かな湖面を想像する。ときおり風を受けて小さく細波立つだけで、まるで磨いた鏡のように囲まれた緑や、晴れ渡った空を澄みきった色にうつしだしている。そこに偽りは存在しない。
 最初に気付いたのはしえみだった。
「あれ、燐…」
 手を口に当てて驚いたようにぱちぱちと瞬きをする。
「ん?」
「今日、絵を描いたの?」
 そんな授業もあるのかという顔だ。正十字学園高等部に進学し、必修としての科目には美術は消えたが、美術か音楽か、書道かの選択教科がある。…あったはず。勉強などする気のなかった燐は、春に説明されたカリキュラムというものをカリフラワーの仲間くらいにしか受け取っていなかったから曖昧で詳しく説明できない。時間割くらいは知っているが、何がどうだからこうなるなど細かく考えたこともない。そもそもそれを俺に聞くか、と思ったが聞かれたのだから応えてやるべきだろう。特進クラスの他と同じようでいて特殊な授業には呆れていて、印象としてはそちらの方が強いくらいだった。雪男の時間割にぽんと散見する“特講”とかって何?と見えない壁を感じざるを得ない。特進以外の大多数の生徒の普通の授業科目、それだけにしえみの反応は新鮮にも映った。
 は、さておき。
「……。いや?」
 頭に手を当ててとんちでもするように考えてから答える。そして、実際サボってばかりだった中学時代を思い出し、学校生活の経験値からしてもしえみと大差ないかもと思い直した。
「奥村、お前何したんや」
「へっ?」
 何気なく視線を寄せたらしい勝呂が背後の席から少し尖ったような声を上げる。これには驚いた。別に燐は塾の席に着いたばかりでまだ何もしてないし、学校では何もしていない、強いて言うなら掃除当番で…いや、でも何も壊してないし。
「血やないですか、奥村くん、怪我でもしたん?」
「血?」ニーちゃん!
 暢気だったしえみは聞いた途端に顔つきを変え、使い魔を呼ぶ。
「え、どこ? 血?」
 燐はばっと腕を持ち上げて右と左の袖を見る。斜め後ろの席で頬杖をついてこちらを見ている神木出雲の視線と合った。出雲は別にあんたのことなんか気にしてないんだからねとばかりにきゅっとやや短めの眉を窄めるとついっと顔の向きを変える。
「あるじゃない、袖」
「袖。左や」
 つんけんとしているが小声の指摘はきちんと飛んでくる。ほぼ同時に勝呂も口にしたのでどちらに視線を向けたらいいかわからなかった。なので、中間の最後部にちんまりといる宝を見た。相変わらずの無関心さで燐を見ようともしない、相手にしている人形がぱくぱくと口を動かしている。
「気付かんかったん?」
 子猫丸は首を捻り、燐の顔を読み取ったようにして志摩が変態や、と手を振る。
「痛そうなくらいの染み具合やのに」
「や。だって、怪我とかしてねえし…」
 しえみが言ったように左の袖は絵の具でも染みこませたような汚れがある、しかも乾いて変色していた。服やらで見え隠れしたのでは覚束ないが、明かりの下で見れば血痕とすぐにわかる。上着を脱いで見てみるとそちらにはついておらず、だけど裏地には移っているようだった。ぽっちりどころかくっきりべったりと汚しているのをシャツをめくって肘の辺りから捻ったりしてして眺めたりして確かめた。肘から手首にかけて流れ、袖に溜まった感じで少し擦れてもいる、どうも内側、燐の皮膚のどこかからの出血を吸ったようだった。思わず舌打ちが出る、何しろクリーニングから戻ってきたばかりなのだ。
「とにかく、洗ってくる」
「遅ないか」
「それよりほんと怪我してないの?」
 勝呂が突っ込むように言い、後ろからは呆れたように刺してくる。燐は離れていたいような素っ気なさぶりでいながらもこぶりの眉を顰めて、いちばん尤もなことをズバッと示してくる出雲を振り向いた。
「それだ」
 指を鳴らす。肘だろうか、ともかく腕のどこか。確かめるべく上着を机に放り、ネクタイを解きかけてぽかんと横に立って見ているしえみ、の向こうの雪男と目が合った。脇に小箱を抱え、鞄を持った手で丁度ドアを開いたところらしかった。
「……」
 お?
 雪男は無表情に眼鏡を押し上げるとドアを閉め、口元に笑みを浮かべた。なんというか、鞄をごと持ち上げた腕で隠された顔がなんとなく影が濃いようで迫力があったというか、不気味に怖く感じる。
「何をしようとしてるんですか? 奥村君」
「血がついてるっていうから確かめようと…」
「ここで?」
「だって、ゼンは急げって言うだろ?」
「うん、それは違う」
 すたすたと教壇に歩いてきてはごとんと小箱を机に置く。顔つきはにこやかだが声にまるで表情というものがなかった。だから教室の誰も何も言えないのだろうと燐は思う、反論しようとすれば優秀であるところの雪男の静かなる理論攻撃を受けるからだ。リクツを捏ね回し論破して大人を言い負かす雪男を何度か見ているが、それは結構腹を立てているか、どうにも納得が出来ないときかのどちらかで、…まあ、つまりは、ねちこい。悪気があるんだかないんだか、よく舌と頭が回るもんだなと感心するほどで、だからこそ大人ばかりの祓魔師たちの中でやっていけるのだろうと子猫丸が言ったことがある。感情的に理が立つ、とか何とか。出会ってそこそこ、塾生達は雪男のいくらかの性格を飲み込み、空気で機嫌やら調子を読み取れるくらいにはなっている。
 今日の奥村先生は穏やかそうでいて、あまりご機嫌がうるわしくないなと感じたに違いない。兄でもある燐が見るに触れては欲しくないものを抱えているような感じだ、ほっといて欲しいオーラが足下に漂っているような。
「でも、気に…」
 子猫丸がおずおずと手を上げるようにして発言するのを
「大丈夫です」
 きっぱりと、話題ごと断ち切ってしまう。まるでこの教室だけは悪魔やら害を為すものから隔絶されているとでも言いたげな強さだった。相手が悪魔で身内ならではの突き放し方だ、まあ雪男は腹に穴が空こうが治っていくさまを見ているので当然といえば当然なのだろうが、周囲はそう思っていないようだ。気まずそうな咳払いが聞こえた。
「……」
 ぴくりとしえみの肩が動いて机に置かれた掌がきゅっと握られたのがわかる。
「出血が止まっているのなら後にして。もう傷も残ってないんだろ?」
 ちらりと血に汚れた袖口を目にしてから決めつけるみたいに言うと、雪男はさっさと背を向けて授業の準備をし始める。
「兄が失礼しました、席に着いてください」
 帰ってからまたイヤミなんだろうと燐は舌打ちしたいような気分でテキストを開いた。ページにはいつもの如く、果てしない呪文が続いているようで文字の羅列が目の前を通過するばかりだった。けれど、どうして血がついているのか燐も知りたいところだ。丁寧に説かれても内容はふよふよ浮いて尚更、頭に入りそうもない。
「ごめんなさい」
 雪男がでは、と開いたテキストを手に教室内を見渡したところでしえみの消え入りそうな声がした。
「私が、言ったの」
「え?」
 誰が責めるでもないだろうが、双子の視線に堪えるかのように両肩は上がり、顔は俯いていた。雪男もそうだろうが燐だって驚いている、しえみの伝染しそうな緊張感はもとより、その発言に、ていうか詫びるとか。
「燐の袖に…血、が、ついていたから」
「血、ですか」
 雪男は燐を正視する。血が何だというのだ、と問いたげだ。見回してなんだか注目されていることに燐自身が一番びっくりしていたりする、何か変な雰囲気じゃね? え、マズいのかコレ?
「え。や、だから、怪我はしてねーし、何もしたつもりねんだけど」
 慌てて手を振って異変がないことをアピールする、斜め後ろの子猫丸が晴れないような顔で燐を見ていた。
「そんだけの血が何であるかわからんことに不思議がってるんよ。奥村君」
「無自覚としたらニブすぎるしな」
「刺客とか」
 茶々を入れようとしているのか志摩が半笑いで呟くのを勝呂が睨んでいた。雪男は口を開いては言葉に窮しているようで笑うことも出来ず、困惑顔で眼鏡を押し上げる。燐も雪男も謎の出血については大したことないもの、という共通認識がある。だから、見た目が痛々しい(かも知れない)これも自分たちには取り立てて気にすることでもないんだから相手だってそうに違いないと思い込んでいた。
「あの、分かっているとは思うのですが、学校の検診と兄の処遇については関係もないですし、知ってもいる通り、この学園内は結界が施されています」
 雪男なりの解釈はそういうことなのだろう、教室内は双子を置き去りにして見えないどこかへ進もうとしているかのようで、過剰とも思える塾生達の気の回しぶりは燐も首を傾げずにはいられない。
「血については僕も奥村君も分かりませんが」
 雪男は疑わしげに燐を見遣る、彼らに何を吹聴でもしたのかとか詰問されそうだ。だから何もしてないし、言ってもいないし、心当たりもねえし。燐は胸の内で精一杯の抗弁を試みる、残念ながら目の力だけで言葉になっていないのだが。
「このとおり本人はぴんぴんしてますし、日常の範囲の異常なので問題ないと思います」
 日常の異常って、いつも自分が規格外みたいな。
「……」
 勝呂達は燐の変化を心配しているようだ。こちらは至って普通なのだが、悪魔である自分なんかよりも彼らは悪魔について学んでいる、自らの中で何かしら起きつつあるのかも知れないと思うと居心地が悪いようで、燐はいたたまれなくなる。この深刻さは参る。しかもこういった事態でどう対処すればいいか分からなくて困る、ひとり落ち着かなく雪男を見ると弟は腕を組んで息を吐く。
「異常はなしなんだ」
 兄さんの検査結果、異常はないって出たよ、と雪男は説くように繰り返した。
「じゃあ、始めます。前回に引き続き今日も生薬を調合します。器具が少ないので班分けして行いますが、各自手順を覚えておいてください。体表に独特の瘤として現れる寄生型の悪魔の多くは下級ですが、この場合の分離について。最も有効なのは…」
 雪男はなめらかに語り始めたが、空気はどことなくかたく、ぎこちない。
 この微妙な感じはどういうことだろう。
 燐が袖につけた血痕が水面に石を投じて、下方の澱を散らし、濁らせた。気泡を浮き上がらせながら沈んだのはただの石ころでしかないはずだ。小さく、ちょっとしたものの弾みであるはずなのに、大きく揺らいでしまった。みんながそれぞれに何かを隠しているようなそんな気がしてならなかった。
 
 
 
 夜中にメールで叩き起こされた雪男が、朝になって買い忘れたものを数え上げるみたいにして今日から任務で二三日空けるから、と告げた。急なんだなと言えば、まあこんなもんだけど、と疲弊と達観を乗り越えたサラリーマンみたいに応える。平気か俺の弟。
 勝呂はクラスで雪男の不在を知るだろうけど、他は塾で知るのだろうなと空の弁当をぶら下げ、コーヒー牛乳を飲みながら中庭を歩く。今日は京都三人組とは顔を合わせていない、燐は雪男とどたばたと済ませていた健康診断が一年生の普通クラスで実施されていた。
「ゴソウ…だっけか?」
 新薬に関する報告データも持って行くとかとそんなことを仄めかした。
 祓魔塾の薬学の講義で新薬というものを扱った。正十字騎士團が開発したものだ、悪魔相手に使うことこそしなかったが、透明無色の液体は、雪男が告げた溶液を混ぜたりすると驚くような反応を示した。淡々と雪男は説明した、臨床うんたら前であること、検査と同期間の試用であること。火蜥蜴の表皮はバラバラに崩れ、マンドラゴラの上に垂らせばぶくぶくと泡を立てて白い煙となった。雪男はまだ人体に無毒であることが実証されていないから何か問題があればすぐに中止すると諄く繰り返し、扱いは慎重にと注意を促し続けた。曰く、薬と毒は表裏一体であるから、と。きっと雪男はそれに付き添うか手伝うかするのだろう、薬草の中に埋もれて平然としているし魔法薬だのの情報はマメにチェックしているようだし、薬学については奥が深いと言い、燐が理解できず残念とまで宣ったのだから。獅郎がきっかけだったにしても、学究肌なのだから化学式やらには食いつくだろう。
―――これから中庭の散水作業を行います。
 頭上でアナウンスが響く。晴れが続いて地面が乾くことが多いせいなのか、校内でよくスプリンクラーを作動させているのを見かける。そういや雨が降らないなと燐は空を見上げた。
「……」
 と、下げたところで軽やかなポニーテールが左の隅から後方へと遠ざかっていこうとする、制服を着たシュラである。
 咥えたストローからズッズッと音がした。おいおい、と思うがすっかり馴染みきっている、本人は仕事だと言い張るが間違いなくあれは面白がっているんだろう、燐達も女子の制服は着せられた。任務という名目がつけばもはやこの学園では何でもアリだ。
 正面に向き直ろうとしてひゅん、と目の前を通り過ぎていったものがあった。
「っ!?」
 明らかに刃物の切っ先は鼻先ギリギリだった、燐は足と呼吸を止める。
「今すぐ斬り落とせるな」
 鼻につく、侮蔑混じりのせせら笑いが聞こえる。見なくても分かる、燐をとことん毛嫌いしている現聖騎士《パラディン》だ。首元に古代の調理器具みたいな大刀の刃はないが、敢えて数歩を置いた位置に男は立っている。
「やめてください、エンジェル」
「……」
 静かな声と同時に影から姿を見せたメフィストに制されるとあからさまに歪め、この上もない嫌悪を顔に表す。
「お前、真っ白いスーツってどうなの?」
 ぎらりとした敵意を向けられて改めて見返す余裕もなかったが、背後からのシュラの言葉で燐は目を瞠る。エンジェルは長くて重たそうな言ってみれば山桑畑の主にでもなりそうな白いオリジナルの團服を着用していたはずだ、どっこい、居場所を間違えた司会者みたいな白いスーツに身を包んでいる。手にした護身用くらいの短剣は舞踏用のものかと思えるほどの華美さと小ささで、魔剣なのだろうが、どうも浮ついて見える。シュラの言葉は尤もだ。
「学舎というからな、お前の恥ずかしい仮装よりましだ」
 さっと刃を収めて、遠巻きに見詰める女子生徒の視線に笑みで返す。スマートな振る舞いというやつなのだろうがどっちもどっちだと燐は思う。ていうか、わざわざ白スーツで何しに来た?
「勝手をしないようにお願いしますよ。ここは私の学園です」
 メフィストはちらとシュラとエンジェルを見るとひらりとマントを翻して先に廊下を進んで行ってしまう、燐に説明も何もしようとしなかった。燐をいち生徒と見なしての態度だったのかは不明だが、意味ありげに言葉を残されてもいい気はしなかったろう。エンジェルはふん、と一言でその場を片付けてしまうと燐に背を向ける。シュラはじゃ、後でにゃーと気怠い物言いで肩を叩いて過ぎて行った。どこか面倒げでもあったように思う。生徒の数人が妙に目立つ三人の姿を見送って、新しい先生かと話し合っていた。
―――後で。
 結局のところ、情報が少なすぎて任務なんだか何なのだか、腹立たしいような気もするし、何やってんだかなあ、と中途半端な思いしか起こらない。はっきりと大物が現れたとか、敵はこのように迫ってきているとか、どんな危険が想定できるとか、分かり易ければ燐もどうにかしようと考えたりするのだけれど、取り巻く何もかもがユルく、普通すぎて足踏みになる。
 血といい、意味が分からんことが続々だな、と燐は欠伸を噛み殺しながら鍵を差し込み塾への扉を開いた。
「大いなる力は才能も多分に必要だが、努力を惜しまない者に宿ることはない」
 なんの詠唱だ?とまず思った、踏み入れた廊下にまた朗々と響くのはどんだけ高みからなんだよと言いたくなるくらいに傲った台詞だ。
「せいぜい精進することだ」
 濃いほどの気配を孕んだ教室側を見れば、ぽかんとした顔をしている塾生の面々を残して白のあの蚕の妖精みたいな姿の聖騎士が悠然と歩いてくるところだった。なびかせた頭髪も暑苦しい。やっちまった、と誤ったタイミングを悔やむ。一日に二度も見たくない顔だ、しかも禿頭の部下を従えていないらしい。
「やっと来たか、サタンの仔」
「何しに来た」
 関わりたくはないが、争いたいでもない相手だ。聖騎士という冠は伊達でもないだろう、実力者だってことも知っている。が、本部という響きに良い印象はない、燐にとっての正十字騎士團最高機関は仕切られた小部屋から見下ろされるあの法廷の空間だ。誰もが顔の半分を隠し、階段下の者達をまるで見世物みたいにして、淀んで濁った負の感情を容赦なくぶつけてくる。向こうの横柄さにつられ、燐もつい喧嘩腰になる。
「燐、雪ちゃん、平気なの…?」
―――は?
「雪男?」
 しえみは教室に入ろうとせず燐を見ている。エンジェルが燐の代わりに心配することはない、と諭すように応え、燐は黙ってそっちを軽く睨んでから分からないなりに『おう』と返して、彼女に教室へ入るよう促した。
「…えと、燐も早くね」
「おー」
 安心させるように笑ってしえみを見送ってからどういうことだよ、と問い詰めると相手は口元を歪めた。
「何だ、聞いてないのか」
「何を」
 すると相手は眺めるような目つきで燐の頭から足下までを見、そうだろうなと顎を撫でながら一人言ちるように言った。
「日本支部長が許可して弟がお前の検査をしたのだろう? ヴァチカン本部は検査結果の提出を求め、そのための調査諮問となった」それだけだ。
「新薬だかの護送じゃねえのかよ」
「表向きはな。案ずるな、彼の過失ではない」
「……」
 夜中の連絡はつまりは呼び出しだったというわけだ、雪男はいつもと変わらない様子で出て行ったけど、痛くもない腹を探られたりしてるんじゃないのか。知りたいことがあるなら自分を引っ張っていけばいいものをどうしてまどろっこしいことをするんだろう。
「お前の弟は、何もしていないのだろう?」
「普通だよ」
 寧ろ地味に優秀すぎて、大技でしか現場を乗り切っていない燐が霞んでしまえるほどだ。
「文書提出で召喚を免れるのは典礼役くらいのものだろう、仕方あるまい。だから私が直々に出向いてやったのだ。下手なことをすればすぐに首が飛ぶぞ」
 ヴァチカンがわざわざ燐のために聖騎士を寄越してきたりするのか? 解せない。処分を執行すると言えばそれで済む話だ。前に特別任務だとかで雪男がシュラに連れて行かれたことがあったけれど、メフィストの説明はなんとも簡単なもので他の誰か来るとかそんなこともなかった。涼しい顔をしているこの男も何かを隠しているような気がする。
「従順そうな羊が一番厄介だ、羊の毛皮をかぶった狼だからな」群れを喰らう。
「…雪男は俺とは違う。あいつは絶対に裏切るような真似なんかしねえ」
 騙したとしても、だ。ガチガチで頭堅くていつだって獅郎との約束を守るために燐とは正反対の方向を選ぶのだから。
「では牧羊犬というところか?」まあ、一番似ているような気もしなくはないがな。
 そう蔑んだように嗤う相手に唾を吐きかけたくなるのを必死に堪えた。授業だからと吐き捨てるように言って通り過ぎる、クソムカツクこの男を殴りたいけれど、自分の拳の中には雪男の命まであるような気がする。
「殺されないだけましだと思え。温情だ」
 背中に鋭い刃を当てられたようだった。なんとか冷静でいられるのは教室で待っている仲間達が居るからで、歯軋りしても立っていられるし、挑発じみた物言いだって聞き流すことが出来る。
 自分のことはもうどうしようもないくらいまでのことは理解している、だけど、弟は違う。雪男が戻るまでの我慢だ。
 
 
 
 腕時計の針はそのまま日本の時刻を示している。そういや時計も見ていないなと思いながら通話ボタンを押す、メールの返事でなく通話とは雪男としては予想外だった。
「――何?」
 相手はしばらく黙ってから何じゃねえ!と一喝した。
『一時だ、バカ』うん、知ってる。
「だからメールなんじゃない、何してるのこんな時間まで」
 雪男は置き時計を手にしてから机に置き直した、時差は時計半周分、こちらは夜が始まろうとしている。
『メールで起きたんだよ』
 声はフィルターが隔てているような感じはするものの、時差もあるほど遠く離れた場所に相手がいるとは思えないくらいには明瞭に届いた。いやいや、兄さんはメールの着信音くらいじゃ起きないでしょ、そう思うと忍び笑いがこぼれた。
『お前、変なこととかされてねーか? 平気か? …って、しえみが心配してんぞ』
「しえみさんが?」
 燐は、何で言わないんだよ、と責めるように言ってくる、あくまでも自分じゃない誰かのためと口を尖らせた姿が想像できた。間違えたのは自分なのにどうして弟の雪男が怒られなければならないのかと言いたげだ、子供っぽくて本当に変わらない。
『…その、チョウサシモンって何だよ』
 自分のことはついでみたいに言うし。
「あ。バレた?」
『シモンについては俺しか知らねえ。あいつらに言ったって俺のせいにされるだけだし』
「うん、まあそうだね」
『否定しろよ』
 燐の声に混じってぎこちない軋りが聞こえてくる、椅子を後ろに傾けて座っているのか。ということは残しておいた課題消化リストに気付いたんだな、ノートが埋まっていることを密かに祈る。
「別に。何もされてないし、してないよ。兄さんと違って僕の身は清廉潔白だからね、疑惑があるわけでもないし。形式的なものだけで来た意味すらあるのか分からないくらいだった。明日には帰るから」
 いつになく滑らかな舌がそう応える、燐は電話を強く握り締めているのか、ノイズが耳を掻いた。
『…狼でも羊でもねえよな』
「え?」
 何の話だろう。独白みたいに言ったけど、質す隙もなく流し、燐はぶっきらぼうな声で続ける。
『セイレンっつって隠したんだろ、オレだって隠すことなんてねえよ』
「プライバシーのレベルなんだよ、プライベートなところなんて兄さんだって嫌だろ? 第一、僕にはラテン語は書けない」
 雪男にも探ることは出来なかったが、燐のデータは本部というよりも別の部門が求めていたようで、寧ろ行って気が抜けた。上級会議とは全く趣の違う、カウンセラーがいるような質素で清潔な場所で簡単な受け答えをしただけだった。しかも過去の照合がどうとか話しているのをどうにか聞き取れたくらいで、メリットって何だろうと考えずにはいられなかった。自分は任務を置き去りにしてここに居ていいんだろうかと夜には落ち着かなくなって無意味にノートを広げたりした。
『ぷらいばしーってなあ…』
 前に兄さんにはプライバシーも何もないとかなんとかオマエの口が言ったんだぞ、とぶつぶつと文句を零す。声真似までする必要もないのに、そんなことをするから暗い部屋に二人でいるような気がしてしまう。
「食事とか、風呂とか覗かれるのは嫌だろ?」
『風呂はどっちかっつーと問題ある気がすっけど、今日はカレーだ』
 僕はどっちも嫌だよ、と胸の内に毒吐いた。ある程度の監視は仕方ないと諦めているし、油断もしていないが、騎士團の燐に対して脅威とする度合いは処分で片付けられると思われているぶんのゆとりがうっすらと窺えてもいる。その範囲がどこまでとは敢えて言わなかったけれど、頭の中まで覗き込まれるような事態は死んだって避けたいと思う。隠すことは自分を守ることでもあるのに、ナゼそこ威張る。
『覚悟はしてるぞ?』
「何が覚悟だ、分かってないクセに。モルモットだ、バカ」
 バカとはなんだ、と燐は言い返す。と、続けてずっと音がして鈍い打撃音が鼓膜に突き刺してきた。ばったんと堅い何かが破裂したかのようでもあり、思わず電話を遠ざける、これは間違いなく倒れた。
「…っ、兄さん!?」
 衝撃に物も言えないのか、雑音めいた音と微かなクロの鳴き声らしきものがした。やがて呻きが聞こえる、真後ろに倒れたのだろう、後頭部を強か打ったはずで、それでも電話は持っていたのは褒めてやりたい。
『ってぇー…』
 ごとん、と何かを投げ出したかのような、重たい物音。
「何してるのさ」
 呆れた声に燐は、うん、と生返事をする。拙いところを打ったのかも知れない、たんこぶはすぐに消えるだろうが学んだことが都合良く記憶から抹消されてはかなわない。ヘーキ、とクロに向かってか、言葉は続いた。
 雪男は息を吐いてベッドに座り込んだ。左に窓、正面に机。宛がわれた部屋は窓の形といい、修道院で使っていたものと似ていた。違うのは二段ベッドでないこと、獅郎や修道士達が立てる生活の営みの音や声がまるでないこと。もう、過ぎてしまった時間と、遠い場所であること。
「……兄さんのカレーかあ。食べたいなあ」
『フツーのカレーだけどな』うめーけど。
 ホームシックか、なんだかそう思うと恥ずかしい。暇すぎるのもよくない。
『そっちはメシとかどーだったんだよ?』
「心配ないです、お母さん」
 帰って話せばいいことだと思う、だけどいつものように返す。
『…雪男?』
 ほんの少しで良いから、燐に触れたい。
 声だけじゃなくて、顔を見て、なまあたたかい体温を感じたい。
「やっぱり慣れた場所がいいみたいだ」
 風でか窓ガラスがかたりと音を立てる。機械を通しての息遣い、ここにはないもの。掌に感じられもしない熱を掴んで呟いた。
 
 

130701 なおと

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 雪男と燐はまあ團にとっては狼で羊なんだろうと思います。そうだったらな、という希望でもあります。
 実際に脅威ではあるけれど、まだまだなレベル。本当に脅かすほどの存在になるには段取りがまだ原作内では必要で、エピソードもなきゃダメで、物語の核になるためには周囲の準備性と彼ら自身も経験を積まなきゃいけない。そんな気がします。
 あと雪ちゃんの半端さがどうにも動かしにくいなあ、と悩んでしまう。
 まあ要するに心配でしょうがないってことなんですが。ま、そゆことです。
 続きを実は考えているのですが、やれるかなー。