Imply My Reply

 十年後くらいの捏造話です。
 燐は別に海外とか日本とかあまり興味ないと思うんですが、反面すごく些細なきっかけで急に思い立って、飛び出していってしまいそうな印象があります。興味ないというか、日本も海外も違いを感じてなさそうと言うか。
 一方の雪男はむしろ行きたい場所なんてのは山のようにあるんだけど、仕事やら自分の生活やらいろんなことを考えて、行けるのに行っても良いのに、行かなかったりしそうです。燐とはむしろ一緒に行きたいのかも。なので、兄があっさり行ったりすると、雪男とのことや、これまでの生活を簡単に手放してしまえるのが、ものすごくらしいと思いながら、静かに怒ってたりすると思います。

 

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 Imply My Reply
 
 
 
 
 真っ黒な夜空に数え切れないほどの星が瞬いている。ついこの間見上げた星空と違うなと思った。季節、時間、そして場所によって見える星空が違う、そう話した弟の言葉が実感出来たような気がした。
 ふぅん、とその時は聞き流した。だが、意外に覚えているものらしい。
 ――アイツが言ったことだからかな。
 その彼は今頃どうしているだろう。
「相変わらず予定ギチギチにしてんのかな」
 メガネを押し上げながら、眉根を寄せて細々とスケジュールを手帳に書き込んでいる雪男の姿を思い出して、奥村燐はくすりと笑った。
 ぱち、と燃えている薪が弾ける。
 虫の音が静かな夜の森に響いていく。同行者である祓魔師がたてる寝息。微かに吹く風が燐の髪をなぶって通り過ぎる。何もない、静かな時間だ。
 ――会いてーな。
 ふと、こんな瞬間に雪男を思い出す。ただ互いの温もりと存在を感じながら、黙って一緒に星空を眺めたい。
 だが、出来ない。
「任務だもんな」
 小さく呟いて溜め息を吐く。
 ――怒ってるんだろうな。
 この任務に出て、そろそろ半年が経とうとしている。
 ぽつぽつと携帯から短いメールを送るのだが、一度も返事が来たことがない。
 メールに関して言えば、燐も雪男もどちらかと言えば無精な方だ。未だにスマートフォンですらない携帯では電話をかけるのも金が掛かる。仕方なくメールの使い方を覚えては送っているのだが、その兄の苦労も弟にとっては怒りを和らげる効果を持っていないらしい。
 燐は今『祓魔師』兼『巡回説教師』の老爺と一緒にあちこちを回っている。ここ数日はヨーロッパの片田舎を外れた山中で毎日野営している。二ヶ月前はアラブだかどっかの砂漠で、日避けの布を頭から被って暑さにウンザリしながらラクダの背中に揺られていた。
 こんなことになっているきっかけは、いつも通りメフィストだった。
 同期の祓魔塾の面々に遅れること数年。二十歳をすぎて何とか上二級の認定試験に受かり、それなりに任務をこなしていた燐は、日本支部の中庭に呼び出された。
 正十字騎士團の中で最年長、かつ騎士團内で最も世界中を回っている團員が助手を探していると聞かされた。募集の条件は『頑丈であること』、『細かいことにこだわらないこと』の二条。
「いかがです?」
 相変わらずふざけたピエロのような格好をした男に聞かれた当初は、正直まったく興味がなかった。任務もそこそこ上手く行っていたし、雪男との関係も相変わらず他愛もない喧嘩と仲直りを繰り返して、それでも仲良くやっている。任務で雪男と一緒になれば、それなりに互いの背中を任せてこなすことも出来るようになってきた。
 言ってみれば『ノリにノっている』。そう言う時期だったのだ。
 だが、その助手を求めていると言う男に会って、考えが揺らいだ。
 ――あのじーさん、なんか頼りねーんだよな。
 しわしわのよぼよぼで、寝てるんじゃないかと疑いたくなるような目つきの、背の小さな老爺だった。燐の前でくしゃみをして、入れ歯が一瞬口から飛び出した。これで世界中を回ってるなんて、なんの冗談かと思った。
 仮に本当だとしても、車や飛行機を使った楽な旅行じゃないのかと思った。
「彼なのですが、いかかですか」
 それに、傍若無人、勝手気ままのメフィストが、ふにゅ、とよく判らない声を出して入れ歯を口に押し込んでいる男に、常らしくなく丁寧な口を利いているのも気になった。
「野宿は平気?」
 宮野と名乗った老人が、ぶぅ、とハンカチで洟をかんで一言発した。
「のじゅく?」
 燐がきょとんとして聞くのに、くしゃくしゃに畳まれた布をもそもそと仕舞いながら、うん、と老人が頷く。
「金がないからね。野宿ばかりよ」
「じーさんが?」
 思わず聞き返してしまった。ナントカの氷水、と呟いたら、年寄りの冷や水だとメフィストにつっこまれた。今考えるとどちらも相当に『シツレイ』である。まぁ、言い始めた燐が偉そうに言えた義理ではないが。
「放浪は男のロマンでしょ」
 メフィストと燐の言葉など気にもせずにそう言って、ふひゃ、と笑った顔が人の良さそうな笑みで、燐は思わず『やる』と答えてしまっていた。
 一方。雪男はその決断を喜ばなかった。と言うか、怒った。もの凄く。もう二十歳を越えた男兄弟が、数年振りに掴み合いのケンカになって、燐がその任務に行くか行かないかで平行線のまま言い合いをした。そのまま気まずい夕食を食べて、腹の虫が治まらなかった雪男に一晩中泣かされることになった。だが、燐も既に意地になっていて、譲らないまま意識を失った。
 翌朝起きた時には、雪男はいなかった。本当なら燐と行くはずだった任務に黙って出かけたらしい。自分もそのまま、老人に同行する任務の準備をして寮を出た。
 結局それ以来一度も会ってないし、一度も電話していないし、メールも返ってこない。
「手紙、読んだかな」
 出てくるときに謝罪の言葉と、拙いながら自分が任務を受けようと思った経緯を書いた手紙を置いてきた。だが、意外と頑固なアイツはもしかしたら読んでないかもしれない。
「ホームシック?」
 宮野が寝ぼけたような声で聞いてきた。火の番の交替だ。宿や屋根のある所にいるならしないが、野宿の場合は用心して二人で火を見ておくことにしている。悪魔に用心するというよりも、飢えて人を恐れなくなった夜行性の動物のためだ。
「ちげーよ。じゃ、俺寝るな」
 何とか笑うと、地面に毛布を一枚敷いただけの寝床にごろりと横になる。一緒について来ると聞かなかったクロが丸まって、ぷすー、と寝息を立てていた。同行の老人は人の考えを読む。正確には人の表情から判るらしいが、燐にとってみれば超能力と変わらない。どのみち今の気持ちを知られたくなくて顔を火から背けた。わざとゆっくり深呼吸を繰り返して、草と土の匂いを胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。
 大丈夫だ。
 いつもは考えていないが、ずっと傍にいると思っていた存在がいないことを思い出して、胸がちくりとするだけだ。
 
 
 
「それでは皆さん、共に祈りましょう」
 宮野の言葉に続き、人々の静かな祈りの言葉が晴れた夕暮れの空に抜けていく。空に浮かぶ雲の端が赤く染まっていた。すぐ近くに聳える山肌も夕日に照らされて赤くなっている。教会もない、山の麓にへばりつくような小さな村だ。高山に強いヤギと羊、そして自給のためだけのような小さな畑を耕して暮らしているらしい。昼頃に村に入った宮野と燐は、一晩の宿を請うた代わりに夕方の礼拝を執り行っている。村の広場に人が集まっただけで、香炉も聖体拝領も、聖歌隊もオルガンもない。だが、祈祷を唱和する声だけでも辺りに厳かな雰囲気が漂った。燐は古いがよく手入れされた大きな聖書を抱えなおす。この村の村長が貸してくれたもので、豪華な装飾が表紙に始まり、全てのページに亘って施されている。それだけに物凄く重たい。
 宮野老人の肩書きの一つである『巡回説教師』は、あちこちの、それこそ教会もないような小さな村を回って、請われれば礼拝を行う。
 それと同時に、もう一つの肩書きである『祓魔師』としての依頼も受ける。依頼の度合いとしては、祓魔師のほうが圧倒的に多い。そんな彼に同行している燐の役目は、主に荷物持ちと食事の用意と祓魔の助手。そしてごくたまに礼拝の助手も務めている。
「歌いましょう」
 出だしが少しつまずいたが、やがて老若男女の混声で、朗々と歌い上げられる賛美歌になった。宮野が喋る言葉は当然ながら日本語ではない。礼拝は特別な日でなければほぼ手順が決まっている。さっぱり判らない燐でも何とか礼拝の手伝いが出来ているのは、幼い頃に覚えた経験で何となく察しているのと、会衆の行動で判断しているだけだ。
 ただのヨボヨボジジィだと思ってたのに。
 そんな燐の読みは完全に外れた。
 初っ端に額にあげた老眼鏡を忘れて、メガネ、メガネとコントのように探し回るのを見てしまった燐にしてみれば、危なっかしいから面倒を見てやろう、とそんな気持ちだった。加えて、彼の『放浪は男のロマン』と言う言葉に惹かれた、と言うのもある。
 だが、いざ旅が始まると燐よりもよっぽど健脚だった。早足でどんどん歩いて行くので、気を抜いたら燐ですら置いて行かれそうになる。この任務では天気に関わらず、朝から晩までほぼ毎日移動する。ごくたまに町や村に泊まった時は、地元の人がついでだからと善意で近くの村まで馬車や車に乗せてくれることもあるが、基本は歩きだ。
 そんな旅を飽きずに続ける老人は、体力が凄いだけではない。世界中を歩き回っていると言う言葉は大げさでもなんでもなくて、燐には到底理解できない言葉をあちこちで喋った。
 おまけに最新型だと言うスマートフォンと、良く判らないゴツイ携帯を使いこなす。
「あちこち行くからね、その国の格安SIMに入れ替えて、無料で映像通話出来るアプリを使えば、経費節約になるってものだよ。と言ってもよっぽど頼りになるのはこの衛星電話の方だけどね」
 そう宮野が言ったが、何を喋っているのかさっぱりだった。
 燐など事務を手伝ってくれる團員に頼んで、携帯電話を海外仕様の料金プランとやらに変えてもらう位しか出来てない。それも電波が入る場所の方がよほど少なくて、たまに雪男にメールを出す以外はほとんど使っていない。
 そんな調子で、この半年老人には驚かされっぱなしだ。宮野の面倒を見るどころか、ほぼ面倒を見てもらっている状態だった。
「休憩しようか?」
「おー」
 礼拝が終わり、人々が家に帰っていく。彼らを見送ると、一軒の家の前に置かれた長いすに二人で腰を下ろした。ふと見上げた空は薄い青で随分高く見える。遠くには薄く緑だか茶色がかった山脈が聳えていた。
 どこかで時間を潰していたらしいクロが、身軽に燐に飛び乗ってくる。昼寝をしていたのか、よく日に当たった匂いがした。
「やぁ、お帰り。クロ」
『ただいま!』
 宮野の呼びかけに、クロがなぁん、と嬉しそうに鳴く。世界中を飛びまわっていた宮野は、クロについては知っていたらしいが、実際に見たのは今回が初めてだった。クロも任務が始まった当初は様子を伺っていたが、今ではすっかり慣れてしまって、時々彼の膝の上で甘えていることもある。
「村長さんの所で厄介になれそうだよ」
「そっか」
 まともな食事と寝床は久しぶりだ。厩の藁山の上でも、今の燐にとっては五つ星ホテル並みの贅沢に思える。外で寝るとなれば食事も手持ちの穀物と干し肉か、魚など狩りをして食事をする位で、腕の振るいようがない。せめて米か麦、そして味噌か醤油があれば良いのだが。塩と胡椒だけの味付けは飽きてきたところだ。
 町や村では教会や修道院に受け入れる余裕があれば泊めてもらうし、なければ納屋や厩などの隅に泊めさせてもらう。民家のある所に辿り着かなければ、当然野宿だ。雨の中火を熾すことも出来ずに木の根元で夜を明かすのも、川や泉で洗濯、水浴びをする生活にも、不精髭が伸び放題の自分の顔にももう慣れた。
「秋も随分過ぎたねぇ。この辺りは随分北だからすぐに雪が降るよ」
 宮野がぽつりと洩らす。燐はふぅん、と返す。
 生まれ育った町と正十字学園町、そして任務で行った先の景色と点でしか場所を知らない燐には、風景を見ただけでは日本と世界の差も判らない。ましてや今自分が居る場所が地図で言ったらどの辺りにあるのか、正十字学園町と比べてどの位の位置にあるのかすら、比べることが出来ない。確かに毎日が随分冷え込んできたと思いながら、久しぶりに髭を剃った顎をぽりぽりと掻く。礼拝前に流石に身だしなみを整えた方が良いのでは? と村長に言われて、髭を剃ったのだ。
 ヒゲがねーなんて、どれくらいぶりだ? 髪もそろそろ結べそうなほどだ。
 任務が始まったのが春先。それ以降燐にとっては全てが初めて尽くしで新鮮だった。
「アマゾンは面白かったけどな」
 燐の言葉に宮野がふひゃ、と笑った。
 いざ出発、と鍵を使って出たのが、ブラジル支部。そこからあれよと言う間に車に乗せられ、気がつくと小さな小船の上にいた。アマゾン川の上流へ遡ること一週間。密林の奥地に居る部族を訪ねた。時計も電子機器もない生活だったし、言葉も通じない場所で戸惑ったが調理や力仕事を手伝う内にあっという間に慣れた。
「祓魔の依頼だったんだけどねぇ」
「悪かったって」
 宮野の言葉にがりがりと頭を掻く。助手をするはずが、生活に馴染みすぎて仕事をすっかり忘れてしまった。燐が子供たちと暢気に釣りをしている内に依頼は終わってしまい、結局どんな悪魔で、宮野がどうやって祓魔を行ったのか、燐は知らないままだ。
 それからいくつもの国に行った。満足に寝る場所もないような大きな貨物船に乗りこんで海を渡ったし、国境を越える手続きをする場所すらない、小さな村々も回った。
 当初はクロを連れていろんな国に行くのは大丈夫なのだろうか、と心配したが、人間が手続きをしている間に、彼の方は勝手に国を越えていた。見られても「猫か」と誰も気にしないので、便利と言えば便利だ。
 宮野とは結構気が合っていると思う。雪男とも、祓魔塾の誰とも、そしてメフィストやシュラとも違う。醐醍院とも違う。奇妙な居心地よさを感じる。
「中東とか大丈夫かと思ったけど」
「確かに僕はキリスト教の司祭出身だし、いまでも二足の草鞋だけどね。そう言う国では、わざわざ司祭ってのを前面に出さないのよ。騎士團の証明書の方をそっとね」
 ふひふひ、とおかしそうに笑う。
 服装も普通の格好だ。祓魔師のコートは一応持ってはいるが、荷物の奥底に眠っている。専ら使うのは祓魔師としての証明書と階級証くらいだ。宮野も特別司祭や祓魔師と判る格好をしていない。外見だけなら世界中を放浪する、酔狂な祖父と孫と言う感じだ。一度も使ったことがなかったパスポートも入国、出国のスタンプを押してもらうページがすっかり足りなくなって、折りたたみ式の紙がいつの間にか糊付けで足されていた。
「お陰で何処の国でも歓迎されちゃうから便利だよね」
「砂漠でテトリスとかに遭ったじゃねーか」
「テロリストだよ」
 燐の言い間違いは相変わらずで、宮野も何故か気楽にツッコんで来る。
「あん時わざと捕まったろ」
 奥地にある小さな村で祓魔の依頼を受けた。その村までの道中で、盗賊と化した某宗派のテロリスト達に襲われた。宮野が人質にならなければ、燐はその場で暴れて倒していただろう。
「彼らのしていることはね、確かに人道的には許されないことも多いけれどね。でも、彼らがそうなったのにもちゃんと理由があるのよ」
 ぐるりと取り囲まれて、荷物をひっくり返された。中から宮野の司祭服や肩掛け、十字架が見つかった時には、テロリスト達の集団は騒然となった。額にマシンガンの銃口を突きつけられたまま、普段の調子のまま平然と話す――祓魔の依頼を受けたのだと話したと後で聞いた――宮野にハラハラした。燐たちを取り囲む人垣が酷く殺気立っていたからだ。
「でもちゃんと話したら判ってもらえたでしょ」
「俺の寿命が縮んだよ」
 最終的には何故か物凄く仲良くなって、歓待を受けた上に村の近くまで装甲車で送ってもらった。
「そう? 僕ワリと何度かああ言う場面に遭ったことあるんだ」
 普通はそんな目に何度も遭うことはなかろう。
「しれっと言うなよ……」
 豪胆なのかそうでないのか。この飄々とした雰囲気に驚くばかりだ。燐たちに対して最後には笑顔を向けてくれた人々は、大人の男もかなりの数居たが、小学生から中学生くらいの少年がそれ以上に多かった。彼らの年頃の時は、まだ自分がサタンの子だと知らなかった時期だ。有り余る力を持て余して、やることなすこと全てが上手く行かないことで拗ねて、やがて希望も前向きな気持ちを持つことも諦めていた。そんな自分と同じ年頃の少年たちが銃を持って自分の生死を賭けて信念を――往々にして教典の間違った解釈によるらしい――守ろうとしていると思うと、何故だか切なくなった。自分と彼らと、どちらが不幸だろう? 判らない。だけれど、何故だか自分はそう言うことを知るために居るのだと、そんなことを思った。
 ――雪男。
 今、この瞬間に雪男に話を聞いてもらいたかった。たどたどしくて、行ったり来たりの要領を得ない話だろうけれど。お前は文句を言ったり、ツッコミを入れたりしながら、それでもきっと聞いてくれるんだろう。
 ――お前にスッゲー会いたい。
 居ないものは求めてもしょうがない。一つ頭を振って気持ちを切り替える。無理矢理でも、考えない方がまだいい。
「で、次はどこだっけ」
 朝早くに電話が掛かって来て、祓魔の依頼を受けたらしい。
「東欧。ロシアに近い方かな」
 宮野がタブレット端末で地図を見せてくる。正十字騎士團仕様の地図ソフトだ。衛星写真から起こしたかなり精密なもので、縮小拡大の動きも滑らかだし、拡大すれば細い路地や一軒ごとの家まで判る。もちろん最新の衛星写真と表示を切り替えることも出来る。
「えーと、どこだったかな」
 宮野はぺろりと親指を舐めると、タブレット端末の画面を横になぞる。時々出る癖で、どうも本のページを捲る動作とごちゃごちゃになっているらしい。
「ああ。ここ」
 ごしごしと残った指の跡を袖で拭くと、がくがくと画面が揺れてぴたりと止まった。黒海に面した場所に『オデッサ』と言う文字が見える。そこから西北に若干上がった場所にメフィストの顔をデフォルメしたピンの画像が刺さっていた。
「もしかしたら結構大掛かりになっちゃうかもね」
 中級か上級かな、と宮野が呟く。
「アンタがそー言うなら、結構ヤバイかもな」
 燐が溜め息を吐く。宮野は詠唱騎士《アリア》だ。だが、称号《マイスター》を持たずとも何でも出来る。医工騎士《ドクター》の知識もあるし、剣も銃も扱える人だ。
「そんだけ出来て、なんで称号持ってねーんだよ」
 燐が尋ねたことがある。いつだったか、やはり祓魔の依頼を受けた村で、ほんの一瞬気を抜いたところを悪魔に攻撃された。内臓を損傷するようなみっともない傷を負って見たのは、強い悪魔の力に惹かれた魍魎を見えないほどの鋭い剣さばきで疾風のように斬り捨てながら、激しく動いても少しも乱れない力強い声で詠唱する宮野の姿だった。そして、意外と治りが遅い怪我へ実に手際の良い手当てを受けた。
「だって、仕事が増えて面倒でしょ」
 手製の軟膏だとかを塗りながら、ふにゃ、と老爺は笑った。
「僕、結構気に入ってるんだよね。巡回説教師《サーキット・ライダー》」
 ロマンあるでしょ、と背の小さな老人が笑うので、燐も何となく良いなと頷いてしまった。
「じゃぁ、僕が引退したら君に譲るよ」
 いや、いらねーから。即座に断ったが、燐の迷いを読んだかのように、宮野はふぅん? と意味ありげな顔で笑った。
 
 
 
「うわ、くっせ」
「いやぁ、酷いねぇ」
 燐と宮野は充満した腐臭に眉を顰めて互いの顔を見た。燐の顔は「ここイヤだ」と言う主張をはっきり表していただろう。宮野は意地悪をするようにくすりと笑って、崩れた屋敷の中へ足を進めた。仕方なく燐も後をついていく。
 依頼を受けた村とその周辺では、ここ数日で家畜がバタバタと疫病で倒れる現象が続いているそうだ。詳しく聞いたところ不可解な兆候は夏頃からあったらしい。曰く作物がさっぱり育たない。気候は例年と変わらず安定していたにも関わらずだ。
 それがここへ来て爆発的に疫病が流行り、村人の朧気な不安が一気に現実化したらしい。人々はパニックに陥っており、事情を聞いてまわる傍ら彼らから祈祷や礼拝を何度も頼まれて、燐と宮野の二人はてんてこ舞いだった。
 村々で対応しながら、二人は被害の中心と思われる村を訪ねた。燐が悪魔の気配を察知して古い屋敷に辿り着いたのがたった今。屋根も上階のフロアも崩れ落ちた廃墟の奥で、燐と宮野は床に転がる大量の動物の死体と、茶色く変色した液体で描かれた巨大な紋章を見て唖然とした。
「困った子たちだねぇ」
 宮野が溜め息を吐いた。原因は廃屋に忍び込んだ若者による、素人知識で行われた悪魔召喚だった。
「最近増えてるらしいのよ。悪魔崇拝《サタニズム》。これもネットの弊害かなぁ。それとも退廃主義ってやつ? 嘆かわしいよねぇ」
 宮野は床に描かれたいい加減な魔法円と、召喚のためと思われる供物――こちらも根拠のないお粗末過ぎるものだったらしい――を見て深い溜め息と共に首を振った。
 偶然にも悪魔を実際に呼び出してしまい、従わせるはずの悪魔に逆に捕らわれた若者は得体の知れない物質でぐるぐる巻きにされて屋敷の隅っこに転がされていた。生気を失い大分衰弱していたが、目立った怪我はなく生きてはいた。憑依するつもりだったのかもしれない。宮野が聖水と祈祷で簡易的に悪魔から若者たちを切り離すと、途端に牛の頭をした大きな身体の悪魔が湧いて出た。思わず見上げるくらいの大きさだ。クロも巨大化して威嚇するように牙を剥いた。
「ああ、こりゃぁ、大分難儀だねぇ」
 宮野がしれっと呟いた。
「それならもうちょっとそれらしく言えよ」
 燐が倶利伽羅で下級悪魔の群れを斬り倒しながら文句を言った。古く朽ちた屋敷だ。元が何に使われていたのか判らないが、相当に大きい部屋の半分以上を、巨大な悪魔が塞いでいる。この状況でどうしてそんなに落ち着いていられるのだろう。
「まぁ、慌てても仕方ないし」
 いつの間にか両手に銃を持ち歳を感じさせない勢いで走り出したかと思うと、がががが、と銃撃の音が連なって聞こえるほどの速さで引き金を引いた。だが、口調だけは場違いなほどにのんびりしている。燐の魔剣、クロの攻撃に宮野の銃弾で祓われ追い詰められた下級悪魔が、一箇所に集まるとぶわりと盛り上がって、自分たちを飲み込んでしまいそうな大群で襲い掛かって来る。その向こうには中級クラスと言うよりも、ほぼ上級と言った方が良いようなかなり力の強い悪魔が居る。そんな緊迫した場面なのに、詠唱ですらのんびりしている。致死節の最後の言葉を唱えると共に、雲か霞のようだった悪魔の群れが消えた。
「焦ったって良いことないよ~」
 汗一つ掻いていない老人を前に、燐は荒く乱れた息を整えながら額から流れ落ちる汗を袖で拭った。
「なんで汗掻いてねーんだよ」
「僕年寄りだし?」
「よくゆーぜ」
 燐と同じくらい走り回って、両手に銃を持ってどかどかと気前良く撃っていたではないか。オマケに詠唱しながらだ。本当は年寄りと言うのはウソで、実は凄く若いのではないかと時々疑ってしまう。
 ――オノレ人間ゴトキガ。
 地の底から響いてくるような低い声がする。老爺が余りに暢気なものだから、燐も一瞬忘れていた。ごお、と風鳴りがして巨大な気配が近付く。咄嗟に燐が宮野を抱えて横に飛んだ。燐の髪の毛を薄く薙いで鋭い爪を持った大きな手が頭上を通り過ぎる。ごろごろとそのまま床を転がった。
『りん!』
 クロも飛び退って悪魔が振り回す腕を避けながら、こちらを心配するような声を上げた。
「おー、大丈夫だ」
 跳ね起きながら返事をする。
「もうちょっと頑張ったら、援護が来るから」
 やれやれ、と宮野は燐が差し出した手に掴まって立ち上がると埃を払った。
「毎度思うけど、悪魔が喋ってんの日本語に聞こえるんだよな」
「その人の主言語に応じて聞こえるの。悪魔は便利だよねぇ。僕凄い勉強したのに」
 やんなっちゃう、と見もしないで銃を撃って再び群がり始めた下級悪魔を撃った。老人にはどのように聞こえているのか、いずれ聞いてみたい。しわくちゃな顔で笑うので、燐もずりぃよな、と笑いながら降魔剣を振るう。最近やっと仕舞っておけるようになったしっぽがしたん、と床を叩いた。剣を抜くとどうしてもしっぽも出て来てしまう。
 なにか判らない言葉を悪魔が吠えた。ごう、と大きな炎があがる。燐のような青い炎ではない。真っ赤な業火だ。放棄された後に誰かが持ち込んだとおぼしきテーブルや荷物が燃え上がる。焦げたような不快な臭いは、動物の死体だろう。それだけでは済まず、石造りの屋敷から飛び出して周りの枯れ果てた木々に火が燃え移った。
「なんか、そろそろヤバそうだぞ、じーさん」
「ありゃぁ、応援間に合わないかもねぇ」
 全く深刻なようには聞こえない口調で呟いた宮野は、ごそごそと胸ポケットを探ると、白いチョークを取り出す。
「暫く頼むね」
 そう燐に言うと、おもむろに床に魔法円を書き始めた。
「おう、任しとけ!」
『おれもやるぞ!』
 クロがしたん、としっぽで床を叩いた。
 彼がやろうとしているのは防御か何かの魔法円だろう。自分たちを襲ってこようとする悪魔の手を倶利伽羅で斬り払う。注意を燐に引きつけるのならお手の物だ。相変わらず衰えることを知らない身の軽さを存分に使って、部屋中をあちこちへ飛びまわり、悪魔を翻弄する。
 ――コザカシイマネヲ。
 悪魔の轟くような声がビリビリと体に伝わってくる。だからと言って引く気はない。
「来いよ、ウシ野郎。薄く削いですき焼きにしてやる」
「それ不味そう」
 魔法円を書いている宮野がくすりと笑った。
 何時だったか観た映画で拳法の使い手が敵を挑発する時にしていたみたいに、ちょいちょい、と手で手招きをした。思ったとおり悪魔は物凄く腹を立てたらしい。牛の頭をもつ悪魔が怒りで吼えて、体を取り巻くように炎が燃え盛る。
 もう一つ言葉にならない雄叫びを上げたかと思うと、体を取り巻いていた炎が竜巻のように渦を巻いて立ち上がって、意思を持った生き物のように突進して来た。燐が刀を構えて迎え撃つ。
 が、降魔剣が切り裂いた炎はそのまま二本に分かれてぐるりと空へ巻き上がる。渦を巻く炎に埃が一緒に吹き上げられた。宙でぐるりと円を描くと、更に勢いを増した竜巻が空から雪崩落ちて来た。
 避けきれない。それだけではない。後ろに護ったつもりの宮野も助けられない。流石に不味い。頭は煩いほどに忙しく回るが、肝心の身体が動かなかった。すぐ目の前まで炎の竜巻が迫っている。前髪が焦げてしまいそうに熱い。
「水精《ナイアス》」
 声がしたかと思うと、ざば、と大きなバケツをひっくり返したような水が空から降ってくる。たちまち悪魔がつけた火が消えた。女性の姿をした悪魔がひゅるりと広い空間を一回り飛んだと思うと、燐の目の前でうふふ、とからかうように笑って消えた。
 ――今のは……? 一つは宮野の声だ。もう一つは……。
「遅くなりました」
 少し硬い、几帳面な声。声の方に振り向く。祓魔師のコートを着た一団が壊れかけた扉から入ってきた。ざっと見ただけでもいろいろな国の團員が混ざっている。彼らは打ち合わせたように素早く展開すると、詠唱と使い魔を呼び出した。その前に陣取った竜騎士がライフルのレバーを操作して初弾を送り込むと、流れるような動きで構えて引き金を次々に引いた。悪魔がその場に釘付けにされたように固まって、それでもなお自由を取り戻さんと体を捻ろうとする。ごう、ぐおう、と漏れる唸り声が詠唱と相まって不協和音を生み出した。
「ああ、ご苦労様。遠くまでごめんね」
「いえ、フェレス卿から鍵を一時的に貸与されましたので」
 宮野と話している祓魔師は、応援に駆けつけた祓魔師たちと比べても少し背が高い。短くそろえた黒髪。腰の後ろにつけたホルスターには二丁の拳銃。腰の左側には膝まで届く大きな道具入れがついたベルト。
「雪男!」
 思わず呼びかけた。その声にこちらに背を向けていた男が振り向いて、醒めた眼差しで燐の顔を認めるとまた宮野との話に戻る。
「ちょ……おい!」
 視線が逸れたのが気に食わなくて、乱暴に雪男の肩を掴んだ。
「打ち合わせ中なので」
 言葉に温度があるとすれば、雪男の言葉は凍りつきそうに冷たかった。燐が初めて祓魔塾に行った時も素っ気ない口調だった。だが、ここまではっきり拒絶の色は出ていなかった。他に喧嘩した時だってそうだ。燐の背中を不安が冷たい手でひやりと撫で下ろす。
『ゆきお、きげんわるそうだぞ』
 クロがじり、と後退りする。
「終わったら兄ちゃんお前に話があるからな!」
 雪男の目の下がピクリと動いた。氷のような顔に加えて物凄く怒っている空気を纏って、横目で睨みつけて来る。
「絶対、絶対逃げんなよ!」
 弟の雰囲気に押されて、震えそうな声を抑えてあえて乱暴に言い放つ。
「判ったよ」
 雪男は溜め息を一つ吐くと、渋々と答えた。
「で、作戦は?」
 とっとと終わらせよーぜ、と拳をもう片方の掌に打ち付けると、雪男が心底嫌そうな顔をして睨み、ぱっと視線を外す。宮野がそんな双子を見てふひ、と笑った。雪男は気持ちを切り替えるように小さく溜め息を吐くと、平坦な調子で喋り始める。
「炎の悪魔ですから、基本は水で対抗します」
 火に対抗できる属性は水。基本に忠実とも言える。燐も納得して頷く。
「後は唯一の天敵と言っても良い存在を召喚します」
「ああ」
 宮野が何か思い当たったように頷いた。
「流石、奥村君。あの短時間でよく調べたね」
 宮野が凄い! と子供のようにキラキラした顔で感心するのに、雪男は居心地悪そうに礼だか謙遜だかわからない言葉を口ごもった。
「え? 天敵? そんなもん居るのか」
 燐の経験と知識では思いもよらない。大抵は祓魔対象の悪魔に対し、強い魔元素を持つ使い魔や武器で威力を殺ぐ。その辺りはチームを組んだ祓魔師達にほぼ任せっきりだ。たいてい自分は好き勝手に斬りまくる。最後は燐が力づくで圧し斬って終わりだ。
「いい加減に召喚された悪魔でも、物質界《アッシャー》に結構長く居るでしょ? えっと、何ヶ月?」
 宮野がひぃ、ふう、と指を折って数える。
「話聞いたくらいじゃ三ヶ月? それに魔障を色々起こしてるからね。こちらでの力も相当強くなっていると見たほうが良いと思うんだ。地道に力を殺いで行くんじゃ、僕たちのほうがもたない。だから、天敵を召喚して、一気にカタをつけるの。時には効率も考えないとね」
 宮野は静かに噛んで含めるように話す。これまでの全てにおいてそうだった。燐がたまにしっぽを仕舞うのを忘れてふらふらしている時も、しっぽを出していることの危険性を話すときも、けして怒鳴ったりしない。宮野が怒ったところを見たことがなかった。その彼は雪男の方に向き直って尋ねる。
「でも、力は足りるの? 君も手騎士じゃないでしょう?」
「それを言うなら貴方もそうでしょう? 僕以外は全員手騎士の称号を持った人たちを集めました。正十字騎士團の中でもかなりの力量の人たちです。それからこの地方について知識がある人も」
「抜かりなしだねー。僕もう年寄りだからお手柔らかに頼むよ」
 雪男に老人がにやりと笑って見せた。二人のやり取りをみて、何故か燐の身体の奥から震えが広がっていく。祓魔がこれから始まることに興奮していた。
「よし。俺は何すればいい?」
 勢い込んで尋ねた。
 
「頼んだよ」
 宮野はあっさりと自分の命を燐に委ねた。他の人たちも宮野が信用するなら、と燐に任せることにした。ただ、雪男だけは相変わらず燐を見ない。必要以上の話をしようともしない。
 ちぇ。心の中で舌打ちをする。怒っているのは判る。だが、あんな目で見ることはないだろうに。
 だが、自分たちも今は一応大人だし、プロの祓魔師だ。昔なら任務中だろうがなんだろうが、我慢ならなければその場で弟にケンカを吹っかけていたが、今はそんなことはしない。
「こっちだ、ウシヤロー!」
 雄叫びを上げて悪魔に斬りかかる。赤い炎と自分の青い炎がぶつかり合ってちぎれた小さな火があちこちに飛んだ。燐は雪男たちが『天敵』を召喚するまでの囮だ。呼び出すためにはそれなりの魔法円が必要だし、召喚のための詠唱と儀式が必要となり、必然とそれは時間がかかる。それまで彼らを守り、出来れば悪魔の力を少しでも殺いでおきたい。
 今まで知りもしなかった方法。知りもしなかった世界。自分の居た世界がどれだけ小さかったか。雪男が居ないことへの寂しさを感じる一方で、新しいことを知っていくことは正直楽しかった。雪男とこの興奮を分け合えたら一番良いのに。だが、今の所雪男には完全に拒絶されている。
 覚えてろよ、インケン眼鏡。
 勢いをつけて走ると、詰み上げられた石壁を蹴って宙に飛び上がる。燐のブーツに踏み躙られて、壁に塗られていた壁材がぱらぱらと剥がれ落ちた。ぶお、と煩い蝿でも追い払うように振られた腕に倶利伽羅で斬り付ける。手応えがあって、体が落下する勢いの中で悪魔の腕の肉が切れた残像を見た気がした。自分の目を疑って悪魔の方に気を取られていたら、床に転がっていた瓦礫の上に足が乗ってしまう。斜めに落ちた勢いで瓦礫が横滑りして、体勢が崩れた。
 入れ代わりにクロが悪魔に爪を立てようと飛びあがる。悪魔の意識がクロの方に向く。
 うぉぉ! と叫びながら悪魔が、クロともども燐を跳ね飛ばそうと腕を振り回して来る。燐は迫ってくる風を感じながら、咄嗟に地面に手を突いて身体を前に転がす。間一髪のところで腕が今まで身体のあった空間を薙いだ。ぶぉん、と腕が振られる音とその後に走る衝撃が燐の体に叩きつけられる。地面にそのまま縫い付けられてしまいそうな勢いに逆らいながら、何とか立ち上がろうとする。
 ちらりと後ろを見れば、雪男たちが魔法円の中で召喚の儀式を行っている。魔法円がぼんやりと輝いてきていた。
 ――もう少し。
 足に力を溜めて飛び上がり、腕を振り抜いた悪魔に斬りかかる。敵も燐の動きを読んで、身体の反対側へ回っていた手を返すように振ってこようとする。その腕に斬りつけた。降魔剣で腕にダメージを食らって雄叫びを上げる。どう、と腕から体液が散った。悪魔の体液が雪男たちにかかると魔障を受けることになる。召喚は体力を使う。魔障も体力をどんどん奪っていく。
 それはダメだ。
 とっさに自分の炎を飛ばして飛沫を燃やし尽くす。今では随分と炎も自在に操れるようになってきた。
「マッチ要らずだねぇ」
 などと野営の間は宮野には重宝がられた。
「もういっちょ」
 悪魔に斬りつけようと刀を振りかぶって飛び上がる。途端に背後から強烈な圧迫感を感じた。寒気がぞわりと背中に走る。
 ――くる!
 悪魔だ。とんでもなく力の強い悪魔だ。目の前のウシの頭をした悪魔も相当に力が強い。だが、それよりも格段に強い。だが、恐怖で動けなくなるほどじゃない。
「来たれ」
 祓魔師達の声が一同に唱和した。気軽に扉を開けてひょいと出てきたような唐突さで、いきなり真っ白い光があたりを満たした。思わず眩む目を背けて、強い射光を遮った腕の下から何事かと覗く。眩しい光の中心部に、もやもやと人の形が見えた。
 それまで燐と立ち会っていた悪魔が吠え懸かる。光に包まれた何か[#「何か」に傍点]が、おお、と辺りを揺するような低い声を放った。もう勝負は決まったようなものだ。悪魔が完全に引けている。耳を打つ雄叫びだけは大きく勇ましいが、さっきから縫い付けられてしまったかのように一歩も動けていない。
 光が一段と眩しくなったかと思うと、ウシ頭の悪魔をいきなり光が包み込んだ。そのまま光がどんどん強くなる。
「なんだ、これ……!」
『まぶしいぞ!』
 クロの声がした。
「直接見ちゃダメだ!」
 誰かの切羽詰った叫び声に腕で顔を守るように交差させると目を瞑った。
 どん、と大きな破裂音がして、急にあたりが静かになった。瞑っていても感じていた眩しさも和らいだらしい。恐る恐る目を開けると、そこには悪魔も光を纏った存在も綺麗にいなくなっていた。
 クロはと見れば、恐る恐る隅から姿を現す。どうやらあの光はクロとも相性が悪いらしい。小さくなって物陰に隠れていたようだ。
「上手く行ったみたいだね」
 宮野がやれやれ、と溜め息を吐きながらその場に座り込んだ。
「ジーさん、大丈夫かよ?」
「だめ。僕もう年寄りだもの」
 宮野がふひ、と口を歪ませる。
「よくゆーぜ。あんだけ暴れて悪魔召喚しといてさ。ホントは年寄りとか嘘じゃねーの?」
「正真正銘の年寄りだよぅ」
 ひどいなぁ、と宮野が本気で傷ついた顔をして見せた。
 
 
 
 後片付けも一段落すると、弛緩した雰囲気が流れる。燐は一つ深呼吸して腹を決めると、雪男に近付いていった。
「よー」
 なんと声を掛けて良いやら。声がらしくなく震えた。だが、無視もイヤだ。最初に燐を見たときの、あの冷たい眼差しには流石に肝が冷えた。燐の呼びかけには答えず、雪男はぎろりと兄を睨み付ける。
「あ、えーと……、げ、元気だったか?」
 ち、と舌打ちをした雪男は、挨拶に上げた燐の手をぎりぎりと音がしそうなほどきつく掴むと、そのままずるずると燐を引きずって歩き出す。
「ちょ……、おい!」
 宮野や他の祓魔師達が呆然と見送る中、雪男は慌しく手近の扉から鍵を使って日本支部へ通り抜けた。突然帰ってきた彼に声を掛ける團員の声も完全に無視している。乱暴に戸を閉じて、金属の擦れ合う音を立てながら弟は慌しく片手で鍵を探る。雪男が答える素振りもなかったので、燐がとりあえず誤魔化すように笑ってみた。
 それも終わらぬ内に鍵を開けると、懐かしの寮へ燐を引っ張り込む。奥村兄弟以外の住人もなく、彼らが退去しても取り壊されることもなく放置されると知って、双子は祓魔師となってからも正十字学園高等部、旧男子寮に暮らし続けている。メフィストには嫌な顔をされているが、本気で追い出そうとしてこないので、了解だと受け取った。バタン、と雪男の後ろで扉が大きな音を立てて閉まるのを聞きながら、深呼吸をした。懐かしい匂いがする。
 ぼんやりと部屋を見回していた燐の後ろ髪を、雪男が乱暴に掴んで真正面から睨みつけて来る。
「バカアニキ」
 射すような目付きで怒っているのに、同時に泣きそうで、それなのに別の欲も宿っている。脅すような声音もそんな顔してたら全然迫力ねーっての。
「うっせ」
 からかうように口にした文句も途中で、雪男が噛み付くように口が塞がれた。ずっと触れたかった感触に燐も存分に答える。そのまま靴を脱ぐのももどかしく、縺れるように慌しく部屋に雪崩れ込んだ。寝床に向かう足が互いに絡まって、一緒に床に倒れ込む。いてぇ、と零して目を開ければ、目の前に恋しい顔があった。
「頑固者」
「石アタマ」
 あれだけ触れたいと思っていた顔だ。どちらからともなく頬に触れる。雪男の手が震えている。自分の手も負けないくらい震えていた。
「あっさり行きやがって」
「メールの返事くらい寄越せよ」
 これ以上ないと言わんばかりにきつく相手の体を抱いた。相手の体温と匂いに、自分の気持ちと感覚が追い上げられていく。離したくない。離されたくない。
 雪男の少し荒い息遣いが耳をなぞって首元に落ちる。燐も雪男の首に顔を埋める。
 ふとした瞬間にこの存在を思い出していた。ずっと会いたかった。傍に居ないことがどれだけ寂しかったか。身体に圧し掛かって来る重みすら愛おしい。
「僕の気も知らないで……」
 燐の髪の毛が乱暴に梳かれる。
「判ってる」
 そう、きっと目の前の弟もこんな気持ちだったに違いない。細かい所は違うかもしれない。それでも、誰より近くて、誰より大事な人の不在が辛かったのは一緒だ。
「簡単に言ってくれるよ」
「本当だって。俺もそうだった」
 感情の箍が外れそうなのを堪えようと怖い顔で黙り込んだ雪男に、燐は言い聞かせるように繰り返した。
「ごめんな」
 そっと唇を寄せる。眼鏡を取り上げて何度も優しく雪男の顔にキスを繰り返す。ありったけの想いを込めて。伝われ、と思う。俺もお前にずっと会いたかったし、触りたかった。雪男と離れて二年も海外を回る任務なんて大したことないと思っていた。それがどうだ。ことあるごとにお前のことばかり思っていた。こんなこと予想外だ。
「それじゃ足りない」
 掠れた声が静かに落ちて来て燐の背中を駆け下りる。見れば今にも頭から飲み込んでしまいそうな顔をした雪男が自分を見つめている。俺も、と燐も小さく笑って答えた。
 
 
 
 ゆさゆさと身体を揺さぶられて、眠りが破られる。
「ゆきお……?」
 完全に覚醒しないままにぼんやりと呟く。じんわりと身体の感覚がはっきりしてきて、隣にある体温を感じる。閉じた瞼越しでも明るさを感じた。
「もうちょっと」
 起こそうとするのを押さえつけようと、力を入れて雪男の身体を腕で抱き寄せる。一瞬燐を揺するのが止まったが、またしつこく身体を揺さぶられた。
「なんだよー。任務終わったんだから休みだろ? もうちょっとゆっくり寝てようぜ」
 ぎゅ、と腕に力を入れる。触れ合う素肌が気持ちいい。あんまりしつこいとイタズラするからな。そろりと雪男の足の間に手を伸ばす。ぴくりと腕の中の身体が震えた。
「や……」
 雪男が小さな声を洩らす。思わずと言った調子にムラムラと劣情が湧き上がって来る。眠いのにイタズラもしたいって随分欲張りだよな、と思いながら手遊びがエスカレートした。引き離そうとしてか、燐の肩を余計に揺さぶる。なんだよ、と思いながら目の前にある脇腹にキスをした。
「えーと、楽しそうなとこ悪いんだけど、起きてくれるかな?」
 明らかに雪男ではない声に、一気に眠気が噴き飛ぶ。
「うわぁっ! ちょっ……、じーさんっ!」
 慌てて跳ね起きれば、宮野がちょっと困ったような、面白がるような顔をして立っていた。
『りん、おきたか?』
 クロが足元に座っている。
「い……いつから……?」
 他人に言い訳のしようのない所を見られたことはない。燐と雪男のことを薄々感付いているらしい人は居るが、こちらがおおっぴらにしたこともないので、向こうも黙ってくれている。こんなことは初めてなので、言い訳もとっさに出てこない。
「んー、結構前から?」
 では、燐を揺さぶっていた手は雪男ではないことになる。隣に寝ているはずの弟を振り向けば、手で顔を隠している。手から覗く顔が真っ赤になっていた。雪男の身体に散る朱い痕に気付いて、燐も慌てて毛布を引き上げる。自分も相当凄いことになっているはずだ。
「じゃ、行こうか」
 きょとん、と燐が見返すと、宮野はふにゃ、と笑った。隣で雪男が飛び起きたらしい。背中の空気が動いて、ぎしりと寝床が軋んだ音を立てた。
「僕の助手は二年でしょ。えーと……ちょっとまって」
 宮野が荷物からタブレット端末を取り出すと、また指をぺろりと舐めて画面を滑らせる。ちらりと横目で見ると、雪男は宮野の行動になんとも言えない顔をしていた。
「そうそう。次は北欧で依頼があるんだ」
 画面を見せたかと思うと、老人とは思えない力強さで腕を引っ張った。素っ裸のままだと気がついて慌てて毛布を引っ掴む。片手を掴まれているので、隠せてるんだか隠せてないんだか、わからない状態だ。
「ちょ、にいさ……!」
 一枚しかない覆いを奪われて雪男が動揺した声を上げる。
『りん、またにんむか? おれもいくぞ!』
「あいてー! クロ、爪」
 裸の肩に飛び乗ったクロが、落とされまいと軽く爪を立てた。
「まっ……、ふく! 服着させろよ!」
「あー、向こうで調達してあげるよ」
 燐の言葉に構わず、宮野は寮の部屋に何処だかの鍵を差し込んで捻った。ばたん、と開けた扉の向こうは真っ白だった。しかも夜だ。白と黒の景色が広がっている。
「寒ーーーっ!」
 ひょう、と雪を巻き上げて突風が部屋に吹き込んで来た。図らずも燐と雪男は同時に叫んだ。
「行くよ」
 ぐい、と引っ張られて足を扉の向こうに一歩踏み出した。さく、と音がしてずぶ、と足が沈む。後から凍るような冷たさが這い上がって来た。吹きつける風が身を切るように冷たい。空から降って、地面からも吹き上げられる雪がバチバチと身体に当たって痛かった。思わず出てきた扉の方を振り返る。まだ片足が戸口にかかっている。
 慌てて下着を着けただけの雪男が怒ったような顔をして見ていた。宮野は来い、と言うように手をちょいちょいと引っ張る。
 まだだ。待ってくれ。
「雪男」
「バカ兄」
 雪男は低い声で言うと、服と靴をぼすんと燐に叩きつけた。
「雪男……、俺……」
 ばさばさと服が顔にかかって足元に落ちる。辛うじてそれだけが口から出た。もっと何か安心するようなことを言ってやりたい。
「一人で突っ走らない。拾い食いしない。判った?」
「おま……」
 雪男がしょうがない、と呆れたような顔で溜め息を吐いた。いつもの、冷静で燐を窘めるときの顔だ。
「ちゃんと無事に帰ってくること」
「絶対帰るから!」
 その言葉に雪男の顔がくにゃりと歪んだ。
「絶対帰ってくるから! 待ってろ!」
 片手で毛布を抑えながら、地面に散らばった服を何とかかき集めて、燐は笑った。
 
「じーさん、ちょっと待て! ソーグーのハイゼンをよーきゅーする!」
 扉が閉まる瞬間に燐が怒鳴る声が聞こえた。
「待遇の改善だろ、要求くらい漢字で言えっての」
 無愛想な音を立てて閉まった扉に、雪男は鼻を一つ啜ってごつん、と蹴りを入れた。
 絶対帰る。双子の兄が洩らした言葉は、この世で最も頼もしく、最も信用ならない言葉だ。心の半分はそのことに怒っているのに、もう半分はその言葉をもう信じてしまっている。
 ――バカ兄。
 また、内容など全くない、独り言のようなメールを送ってくるだろう。今度は返事をしてやろうか。
 いや、やっぱり返事なんてしてやらない。
 少しは自分の不在を寂しく思えばいいのだ。自分がそうであるのと同じように。
 次に会ったら、僕の想いの丈を思い知らせてあげるから。
 
 
 
 

―― end せんり 20140820

 
 
 
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 巡回説教師は本来、アメリカは西部開拓時代に馬であちこちの町を回るプロテスタントの『牧師』さんのことです。なので、正確には『神父』さんはそう言うことをしないようなのですが、原作があんまり(どの宗派とか)その辺りをはっきりさせていないので、これ幸い(をい)と色々捏造しました。