奥村家+1の家族法廷 side-燐

 
 
 
 そんなことしないと信じてるよ、と言った雪男の声は途轍もなく低く、それこそ這うように燐の神経を逆撫でていった。
「……」
 気まずいメシだったな、と思う。
 黙ってもぐもぐ食べる姿は変わらなかったけど、味わうよりもとにかく口に詰めているという感じで、米粒一つ残さない空の茶碗は今度の意地はこっちだと示しているようでもあった。
 食う意地と食わない意地で、不満を雪男は訴える。
「ったく」
 洗った皿などを水切りカゴに置く。
「八つ当たりすんなよ、ホクロメガネ」
 だってどう考えたって、寝不足やら忙しいのに厄介が増えてキレたという感じだ。そもそもあんな可愛い趣味の髪飾りなど燐は知らないし、本気で燐が手に取ることを考えていること自体に疑問も感じないってのがバカバカしいし、腹立たしい。それに、雪男が寝不足ぎみだったり忙しいのは燐のせいじゃない。本人が勝手に予定をツメツメにしているだけだ、そこへ任務などがぽんと入るのだから、つまりは、自業自得というやつなのだ。
『りん?』
 諄く言ったらお前のせいだろ、落ち着け!と跳び蹴って正気に戻らせてやってやろうかと思う。
『さらあらいおわったのか?』
「……」
 茶碗を拭きながら弁当箱を眺める。兄を信じない弟に詰めてやるもんなんてねえよ、と毒吐いていた。
『なにがだ? りん』
 クロはテーブルから燐の足下に下り、きょとんと見上げてくる。
「知らねーったら知らねーし」
 とか言いながら視界に入るのは多めに焼いておいたアジの干物だ。これが厚みがあり、脂の乗りもよかった。
『りん?』
 貝の出汁がしみこんだ炊き込みご飯が上位ではあるけど、干物のほぐし身とゴマを混ぜて大葉か三つ葉を入れた混ぜご飯は雪男が気に入っていて、弁当にでもした日には塾でもちょっと上機嫌だったりする。布巾に菜箸片手のスタンバイもしてあるけれど、人を、よりによって唯一の兄を疑う奴のためにいそいそと作ってやるっていうのも癪に障る。
「…大体、何が『隠してることはない?』だ」
 思い出しては腹が立つ。なんだあの言い方、兄に向かって最初からまるで説教するみたいに。
「信用のねー顔しやがって…」
 花だの玉だのと光を跳ね返す大小のビーズ(?)が鏤めてある髪留めは女子の鞄のポケットに差してあるのを学校などでよく目にしている。デコラティブであることがまるでステイタスみたいな、あんなカワイーの、なんでそうなるんだよ、つか、寧ろ在るという原因は絶対お前だろ、このドニブメガネ。…とすら今となっては思える。そういや買い込んだ物を片付けていたとき、雪男は生返事で燐の話の半分も聞いていなかった、無表情に任務のことか、あるいはやらしーことでも考えているのかと思ったけど、尋問する言葉を吟味していたんだろうと分かってしまう自分も自分でむしゃくしゃする。
『りん、また、ゆきおにおこられたのか?』
「ちげーよ」
 そういうんじゃない。
 燐の雑な物言いにクロは首を傾ける。とんとシンクに上がって猫特有の見透かすような瞳でじっと見つめてくると、げんきだせよ、と慰める。だからオレは何もしてねーっつの。
 雪男はまるで燐の『知らない』を信じていないようだった、判らないという顔で「判った」と言い、言葉少なに食事を平らげ現在に到っている。
「……」
 すべて雪男のせいだ。燐はカゴの上に布巾を放り投げる。
「よし、クロ。遊ぼーぜ」
 
 移動教室で特進クラスの前を通る、見ないつもりだったのに廊下側のドアは全開なので見えてしまう。雪男は窓際の席で頬杖を突いて窓の外を眺めていた。一応手には読みさしの文庫本があるが、内容も何もどうでもいいような感じで、ただ誰にも話しかけられたくないとそういうオーラを発している。いつもは誰かしら話しかけられたり、特に女子がノートやらを手に困惑と媚びが入り交じった顔で取り巻いていたりするのだが今日は誰もいない。やんわりと排除しているのだろう、雪男は誰かの前に必ず線を引く。
「……」
 邪魔になってきた前髪を扱いてそういや髪留め忘れた、と思う。勝呂が貸してくれたもので、学校でもたまに使っていた。いつだったか連休のあとで朴が、と言って出雲から和紙の貼られたシンプルな髪留めを手渡され、していたら教師に何のお守りだ、と言われたことがある。因みに勝呂も似たようなものをもらったらしい、朴嬢はなかなかおもしろい子なんだな、と思った。ありがたく寮の部屋で使わせてもらっているが、あれをつけたときの雪男はぴたりと動きを止めたものの、何も言わず、聞かずと反応は冷淡なくらいだった。
「あー」知ってんのか、あれは。
 親友の出雲はおっかないが、女子は、男子が髪留めを利用することに対して寛大というか、アリという方向で理解がある。燐の姿もぎょっとされたのもつかの間、ないとなると貸してくれるという親切な女子まで出るようになった。装身具、あるいは女子らしい身だしなみ、そういうアイテムとして彼女たちは可愛らしい小道具を持つ。
 そもそも、女性達が装飾品として持つ物がどこからどうして出てきたんだ?
 勿論持ち込んだのは燐ではない、雪男は燐が落としたと言った、なんだそりゃ?
 とんと、不思議に思いながら階段の一段目に足をかける、上の踊り場から声がした。開け放した窓から風と共に流れてきたのだろう。
「…荷物検査あるかも」
「え、そうなの?」
「先生が言ってた」
 やべえ、今日、ちょうど志摩からエロいの借りたんだ。と、反転しそうになる。とはいえ、大っぴらにあれを隠しに行くわけにはいかない。次の休み時間にでもこっそりとやろう。燐の性知識は実は乏しいというのを知られ、気の毒に思って志摩が大いに頷きながら本やらを勝手に渡してくれたのだ、嬉しいんだか兄弟多いからって進んでると思うなよとやや悔しい部分もあるが、まあ気になるしで、どきどきもしてる。没収されるわけにはいかない、絶対に探される前にどこかに隠しておかなければ。
「他のクラスでもチャームとかキーホルダーとかが無くなってるって噂になってるでしょ?」
 なんだそれ、オレ知らねー。
 燐は首をひねる。学校じゃそんなこと起こっていたのか、塾でも話題にものぼらないし、勝呂達も言っていなかった。正十字学園はセレブな学校でもあるからけしからん奴がやってくるなり、…そういや柄の悪いのもいないでもなかった。
「…え? 奥村くん?」
 と、話し声は急に囁き程度に落とされる。ぴくり、と耳が反応した。
「うん、クリップ持って溜息吐いてた」わたし見ちゃったんだよね、体育の後。
「プレゼントとか?」
「違うと思う。もっと深刻そうな顔してたから…なんか、誰かが嫌がらせとかに入れたよう、な…」
 ただでさえのろく緩んでいた歩調がここでぴたりと止まる。ばっと上を向くが話の主の姿は見えない、学年一番の優等生で、塾での鬼っぷりはともかく、外面は良くて問題を起こすなど聞いたことがない。出来すぎるから妬まれるのか? 雪男が?
「…え、いや…」いやいやとにかくアレはオレじゃないし。
 燐は足下のタイルに目を落とし、弱く頭を振る。
 もし、あのクリップが悪意ある誰かの手によって雪男の身のどこかに付けられていたのだとしたら?
 
 志摩のエロ本は無事で、普段の自分なら興奮しそうなところだけど、どうもそういう気にはなれず、持ち物検査は帰りのHRの前の一斉点検で、学校から寮にデータが持ち出されていないか、というものだった。何でも運動部の名簿と一部の成績が流れたとかなんとか。つまりはターゲットは学内では使用禁止のタブレット端末や保存用のメモリーなんちゃらを持っている生徒に関してだった。ちなみに没収されたのは動画も撮れるデジカメだ、中身をチェックされて返却となるらしい。
 雪男は雪男で学校ではおくびにも出さないのだろうが、タブレット端末を持っていても揃いの階級証で無罪放免なんだろう。燐は安心もし、また釈然としないような曖昧模糊とした気持ちを抱えていた。
 あの髪留めは交番に落とし物として届けられている(多分)。だけど、燐が階段で聞いた噂はいったい何なのか。女子の間で巻き起こる一過性の類いのものなのか、それとも。
 そもそも雪男って、監視するとか言って一緒に暮らしてはいるけれどオレと話す気はあるのか?
―――かっしゃん、からからから…。
 と、そんなところへぐちゃぐちゃにされたジクソーパズルのピースは突然に落ちてきた。結末を埋めるべく。
 
 祓魔は終わったんだけど医工騎士《ドクター》が足りないんだって、と言い捨てて食事もそこそこに雪男はコートを羽織ってドアを飛び出していく。
「万年祓魔師《エクソシスト》不足…」
 燐は湯飲みを手に残像も残されていない廊下を見、息を吐く。連れてけどころではない、しえみのように使い魔を召還して薬草でも出せればいいが、燐が出せるのは青い炎だけだ、てんで役に立たない。
「…ん?」
 でもオレ、燃やし分けできるようになったんじゃね?
 雪男が残した皿からトマトを摘みながら思う、自分の皿をきれいにしたクロがオレも食っていいのか?と問いかけた。
「クロはダメだ、タマネギ入ってっからこれ」
『オレのとくべつだったのか?』
「ああ、まーな。そりゃ変えてるよ。雪男がそーいうの気にするし」
 雪男は養父の獅郎の元使い魔を奥村家のペット扱いしている。ペット扱いというとクロは機嫌を損ねるが、愛玩としてではなく、家族の一員としているのを燐は分かっている。團に適当に報告したとこちらで引き取ると決めたときからもうクロは雪男のなかで家族になっていた。無自覚にも、そうだ。
「雪男ってよー」
 燐は湯飲みを啜りながら口を開く。
「あいつ、ちゃっかりでしっかりなのに抜けてるよな」
 クロはそうなのか?という顔をする。
「カラスってきっと学園内とかの光り物を集めたと思うんだよな、学校じゃそんなのカラスだってわかんねーから、女子なんかの間で変な噂になってんだわ」
 そんでな、と燐は無い知恵を振り絞るようにして捏ねくって考えた話を披露する。
「誰かの髪留めを盗んで、雪男の荷物の中に入れて、罪をなすりつけるの」
 オレは別に濡れ衣とかそんなんいいんだけどよー、とぼそりと続けてから
「雪男だったら、そういうことオレ、許せねえ」
 天井に向かって吐き出す。
「寒気がしたんだよ、廊下で誰かがそれっぽく話してるの聞いてさ」
『ゆきおがわるいことしたことになるのか?』
「うん」
『そうか』
 クロは神妙な顔で尾をぱたりぱたりとテーブルを叩く。
「真犯人はカラスだけど、誰かのキラキラした髪留めがなくなったとすんだろ? そんで雪男がどっからか沸いたキラキラの髪留めを持ってるって、違う物であっても、持ってるってことがヤバイことになるよな」だって、雪男は髪留めなんて使わねーし。
 複雑な感情が入り混ざるような話にクロは判らないという顔をする、話している燐だって分からなくなってきた。要するに、燐が言いたいのは雪男は燐のことばかり心配して怒って、己のことなど微塵も考えていなかったということなのだ。
 学校での雪男の評価はハアよござんしたねとハナクソをほじって聞けそうなくらいには高い、燐の心配など杞憂とばかりに人気は上々、どっこい、裏側には妬み嫉み僻みなんてのが這い回る影の如くにあるはずだ、特進なんて特殊なクラスに身を置いている女子だからこそあそこまで気を回せたのだろう、燐はびっくりして口もきけなかった。
「もし、髪留めがオレじゃなくて、雪男のとこから見つかったら…なんか嫌だった」
 だって、そうだとしたら雪男はわざとそんなものを付けられたことになる。それで罪をなすりつけられたら?
 きっと燐は耐えられない。信用されているだろうけど、傷として確かに残されるものはあるだろう。名誉の問題だ。弟のそれが汚されたことが悔しくて、陥れようとした奴も嗤った奴もぶん殴って、怒鳴りつけて、そうしてさみしく雪男を見るのだ。雪男のことだからなんで兄さんがそこまで怒るんだとか、やりすぎだとか涼しい顔で言うのだろう。自分のことなのにああそういうこともあるんだなあ、なんて暢気に宣いそうでもある、初めて気付いたみたいに。大物で、とんでもない鈍さだ。
「オレやクロが盗んだとか考えるのはムカついたけどよー」
 燐ならまだましだった、少なくとも自分に対しての見知らぬ誰かの恨みなど痛痒はない。
「ほんと、カラスで良かったよ…」
 テーブルに俯せる。
「あいつ、そーいうとこ鈍いし、バカだ」
「心外なんだけど」
 明らかに怒気をふくんで低くなった声に顔を上げる。雪男が入り口のところで腕を組んで立っている。
「げ、雪男」
「そもそも兄さんに言われたくないし、ていうか片付けてもないってどういうこと?」
 雪男はついっと眼鏡を押し上げると冷蔵庫までやってきてがこんとドアを開ける。
「や、いや、早かったな…」
 どこまで聞いていたのだろう、燐はしどろもどろに立ち上がる、一瞥する弟の目は冷ややかだった。
「薬が足りなくなったから取りに来ただけだよ」
「ちょっ、お前、そんなとこに薬入れんなよ」
「シャーレは入れてないじゃない。寒天培地はチルドだし」
「シラスとカマスと肉が入ってんだぞ!」
「無害だよ」
―――ばたん。
 雪男は取り出した二本の試薬瓶のラベルを確認すると、ここは大事というようにお風呂沸かしといてよ、と燐を振り返る。
「あ…ハイ」
 冷蔵庫内がとんでもないことになりかかっているショックを引きずったままこくりと頷いてしまう、燐に倣うようにしてクロもぱたりと尾を揺らした。一時間足らずで終わるから、と寧ろ終わらせてみせると言いたげに残して雪男はすたすたと食堂を後にする。
「あ」
 雪男、と背中に燐は声を掛けた。
「クリップのやつ、ありがとな」
「何が」
 雪男はいまさら蒸し返してくれるなというようにやや不貞腐れた声で言う。
「謝ったことと、オレのこと心配したこと」
「は?」
 雪男は怪訝な顔で燐を振り返る、燐の顔を見ると、別に、当たり前だしと照れを隠すかのように小さく呟いて眼鏡を押し上げる。
「忙しくしてていーぞ。でも今日は早く帰ってこいよ」
「…?」
 言われなくてもと顔が言う。だが、燐の笑顔に釣られたように目元はちょっと和らいでいる。
「兄ちゃんが背中流してやっから」そんで明日の弁当も期待してろ。
「あ、うん」
 ちらと視線を向けた雪男に燐はニッと笑って手を振った、忙しくも堂々とした足取り、ドアが軋んだ音を立てて開き、雪男の気配も足音もその先に飲み込まれて寮の廊下には夜の静けさだけが残された。
「さて」
 燐は腕まくりをする。ツメツメ予定に振り回されて、自分のことにはてんで鈍感で、燐のことでカリカリする、ヤケクソのような『ごめんなさい!』は傑作だ、こんな弟きっとどこを探したっていやしない。そりゃ出来すぎて腹立つこともあるけれど、自慢なんだよ、お前はいつだって。
 

--2012/10/26 掲載