さいきょうまおうのはなし。2

 続きです。
 獅郎は雪男に最低限のことは教えられたけど、教え足りないことはたくさんあったと思います。それとも見守っていようと思って言わなかったのかも。そうして伝えられなかった言葉や思いは、姐さんであるシュラが二人と接するようになってこんなんだろうなと察するようになって、大事なことでもあるから気付かせようとしたり教えてやりそうな気がします。基本放任ですが。
 雪男と燐は二人だけになって初めて普通の親の姿としての獅郎の姿に気付いたりしたらいいなあ、と。雪男なんかは一で十を理解するような子だから、頑固だし、頭のがっちがちなところは言ったってなかなかなあと獅郎パパは本にぐりぐり書いたりしてたらいい。
 そしてハセガワは頭のいい人はテキストに書き込むタイプだと思っています。
 

【PDF版】さいきょうまおうのはなし。2 ※ただいま準備中です。

 
 
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   私は、すこし考えてから答えた。
  「満州にいるころはね、死ぬことがひどくこわかった。けれども、日本にきてから、正直いって、死ぬということがどんなことなのか、わからなくなったんだ。見当もつかなくなったんだ。」
  「それはお前が、戦争している日本にいるからだよ。」と飛田はいった。「死ぬってことはな、こっちからちかよればちかよるほど、こわくなくなるものなんだ。これからは銃後もどうなるか、わからんからな。もし機会があったら、目をつぶってちかよってみろ。死ぬことが本当にこわくなくなったら、世のなかにはこわいものなんか、一つだってありゃしないぜ」

 
「『じゅうご』」
「え?」
「『じゅうご』って何だ?」
 胡座を掻いたうえに、古い装丁本を広げて兄さんは呟くように言う。数学の問題に飽きて、というか解く手掛かりを見付けられなかったのだろう、僕が無造作に置いていた本の束からわかりそうな本を引っ張り出して眺めていた。
「これがいちばん漢字が少ない」
 バザーにでも出し損ねたらしい文学全集の一冊だ、全巻が揃ったものでもなかったけれど、修道院にあるだけ僕も読んでいた。
「あれ?」長友さん、間違えたのかな?
「お前、ジジィの遺品とかってどんだけ持ってきたわけ?」
 僕が不思議そうな顔をするのを兄さんは呆れて言った。少し尖った耳にシャーペンが差してある、もう勉強はお仕舞いとでもいいたげに。
 実力テストの一日目を終えて、僕は兄さんに明日のテスト勉強をさせながら昨日引き取ってきた神父さんの遺品の残りを片付けていた。近所から鼠が出たとの情報があり、修道院で教会を含めて鼠捕り大作戦を決行、捜索をしていたら見付かったのだという。兄さんに言わず、僕が一人で取りに行ったのだけどこれが思う以上に重く、軽く後悔した。祓魔に関するようなものが殆どだったので段ボールごと塾の教員室に持ち込み、ざっと見て関係なさそうなものは紙袋に詰め込んで寮に持ってきた。
「…雪男、二年前に読んだんだ」
 兄さんは頁をぱらぱらとやりながら詰まらなさそうな声を出す。
「は?」
「書き込みしてあんぞ」
 と、言って兄さんはこちらに小説の最終頁を突き出してきた。
「うわ」そんな図書委員みたいな…。
 しかも鉛筆でなくインク字だ、書いたのは万年筆らしい。
「お前、本ばっか読んでたもんなあ」
「読んだりしたけど、その頃は祓魔師の勉強ばっかりだったよ」
 二年前は認定試験に受かった年で、過去の報告書の束や薬学やら悪魔学のテキストばかりと取っ組み合い、読んだ本は寧ろ少ない、息抜きというよりも部屋でのカモフラージュみたいなものだった。兄さんが明けても暮れても喧嘩と怪我を盛りだくさんに不貞腐れたような顔で毎日を送っていた頃だ。
「雪男、『じゅうご』」
「銃の後ろ、だから戦場の後方。戦いに直接的には参加しない人たちのこと」
 あー、と兄さんは微妙な声を上げる。
「終わった後じゃないのか」
「うん。そういや今日のテストにもあったね」覚えているなんて感心だ。
「国語って、このときのだれそれの思いを述べよとかおかしくね?」そんなん俺が知るかよ!
「……」
 僕は手を止めて兄さんを見る。兄さんは勉強を再開させるつもりはないらしく、うがあと罪もない本に向かって怒っている。僕だってそれは情景描写についての引っかけ問題だとは思った設問ではあったけど、兄さんの喚きはどうしたって八つ当たりだ。と、兄さんは本を投げ出すでもなく何かを探すみたいにして頁をめくっている。
「『合格記念』」
「ん?」
「そ、『装填ミス。やはり暗所に弱い』」
「え?」
「たい、えっと、『体液に足を取られ、派手に転ぶ。メガネは吹っ飛んだがケガはナシ』」
「ちょっ…」
 ごろりと転がって読み上げる。どういうことだ? それは小説しか載っていないはずで、しかも兄さんの声は明らかに面白がっている。
「雪男、大活躍だな!」
 兄さんは肩を震わせながらものすごく意地の悪い笑みが浮かんだ目で僕を見ている。兄さんのベッドで丸くなっていたクロが耳を立て興味深そうに寄ってきていた。
「な、なんだよ、それ?」
「まーまー、雪男くん。誰しも失敗はあるものだから…」
「兄さんに言われたくないよ!」
 どたどたと歩み寄って本を取り上げようとするとするりと逃げる。右に転がって本を下に俯けになって背を向け、肩を揺らすとくすぐったいとげらげら笑う。ぐるぐる足下で転がってけれども本を離そうとしない、このやろう、意地でも奪ってやる。クロが面白がって僕と兄さんの間をぽんぽんと飛んだ。
「本が壊れるだろ!」
「お前が言うなよ」
 くっそ。
「…あ」
 言ったそばから小さくみしりという音が綴じのところから聞こえた。注意が逸れた兄さんの肩口を引き寄せると首を捻るようにして兄さんから噛みつくように口を塞いできた。
「…っ」
 始めから、分かっていたように。目を合わせてお約束、とくすりと笑うと、啄むように繰り返し、やがて抱きつく。
「ん」
 ちょっと、クロがいるんだけど、と僕は思うけどまあいいかと顎を支えて舌を絡めながら本を手離した兄さんにしがみつかれる。
「お前、幸せもんだなあ」兄さんは歯を見せて笑う。
「そう?」
 僕は出し抜かれたような気がしてるんだけど、まあ本は取り返せたし、クロはクロで僕らのことなど興味がないのか広げた紙袋の中に収まっているし。
「愛されまくり」俺とジジイだけど。
「兄さんもだろ」
 そっくり返すと兄さんはびくんと尾を突っ張らせる。
「そ、それ、雪男のこと書き込んであって、そんで下に線も引いてあんぞ」
 何を照れてるんだ。
「確かに神父さんはテキストに書き込む方だったけど…」
 床に座り直して本を開く。兄さんは立ち上がると机に向かうでもなくむしろちらと気を持たせるような目で僕を見る。兄さんの言ったとおり本文中に波線やらが引いてあり、余白の上下左右あちこちに悪戯書きのような書き込みがあった。数字と式は調合薬の配合だと分かる。僕や兄さんのおざなりのような報告書は見付かっていたけど神父さんが残した記録は團が回収してしまったし、教本やアルバムくらいしかないと思っていたのに。
「な?」
「ほんとだ」
 苦く笑って頁をめくる。
 兄さんが読んだ小説は頁の始めの方で、そう長いものではない。内容はたしか違う国から日本に来た学生の話で、戦争という遠い時代でありながら主人公は十代のいくつも変わらない年齢だったから、僕はひどく詰まるような気持ちになりながら頁をめくり、読んだ後も理解できるような出来ないような複雑な思いを持ったまま数日を過ごしたように思う。
「線が引っ張ってある」
 兄さんが読んでいたらしい部分はすぐに見付かった。
 主人公の青年と友人が語るシーン。
 彼は精神を病んでいるとされ、病院に連れて行かれる。僕には窮屈な世界から彼が弾かれたような気がしてならず、彼がそれを悦んでいるのがつらかった。
 結びはこんな一文だ。
―――『もはや私は、他の狂者たちとくらべて、どこかちがったところがあるであろうか。』
 僕の記憶にはない、波線がそこには引かれている。
 
 
 机の横に置いた段ボールにシュラさんが躓いた。
「いてっ!」
 酒精を残しているんだか、午後だというのに危うげな足取りというのが悪い。僕は気持ちを込めず機械的にああすみません、と謝った。
「何だよ、ビビリのかよ。私物をこんなとこ置くな」
 日誌を渡しながら笑顔で訂正する。
「僕はビビリじゃありません」
「…ふん、かわいくねーな」
 と毒吐き、椅子に座ると思いきや不真面目な上司は日誌には目も呉れずしゃがみ込んで段ボールの中を覗き込む。
「なんだコレ?」
 貴女には関係ないですと思いながら短く、父の遺品ですと答えた。
「獅郎の?」
「昨日、受け取ったはいいけど、授業向きなものが多かったので」
 神父《とう》さんは塾の講師もやっていた。そのため、今回見付かったのも(長友さんは言わなかったけれど和泉さん達の顔に苦笑いを誤魔化しているような曖昧さがあったから、秘蔵のエロ本の中に紛れて発見されたものだろうと僕は確信している)翻訳されていない薬学の本だったり、随分前のテキストだったり、稀覯本だったりした。シュラさんはこんなん持ってたんだ、あいつ、と感心するようなしないような感想を漏らしている。
「『佛教事典』…相当古いな」
 旧約聖書の横にある分厚くすっかり褪色したカバーが掛かった事典を取り出す。取り出した瞬間、独特の匂いがし、頁の端はすでに色が変わっていた。ばりっとぎょっとするような音までした。
「うっわ」
 開いて呻くような声を上げる。なんだこりゃ。
「すっげー書き込み」
「シュラさん、授業」
 他の講師の先生たちも興味深そうにしたもののそこまでしない、横にいられて鬱陶しいし、邪魔にしかならないので腕時計を指し示してやる。
「まだだろ」
 五分前だろ、ただでさえスタート遅いんだから働けよ、と気持ちの中で思いつつどうしてくれようと黙って眼鏡を押し上げる。シュラさんは僕がカリカリしているのが分かっててわざと動こうとしないのだろう、くっそ。
「…『自分が自分であることが祓魔師の条件』、か」
 言うねえ、と小さく笑う。獅郎神父はシュラさんの師匠でもある、シュラさんは荒んだ環境で過酷な生き方をしていたらしい、自分の過去について話したがらない人だからあっけらかんとした態度や露出の多い陽気といえば陽気な姿しか僕は知らないけど、祓魔師としての技量の確かさと現場での判断力は優秀と言わざるを得ない。ただ、出来ることをきちんと真面目にやろうとしないだけだ、だからムカつく。ギリギリのところでの脱力加減は僕としては時にハリセンをでも投げつけてやりたい(でも怒り損だからしない)。
「これ、お前にも言ったのか?」
「え?」
 シュラさんは、書き込みに視線を落としたまま、なぞるように「自分が自分であることが祓魔師の条件」と言う。
「似たようなことは何度か」
 そう、神父さんにとってはありふれた言葉だ。祓魔師の基本、悪魔のささやきに弄されるな、甘言に騙されるな。仏門でも己を律する一つとして同じような教訓があったはずだ。自信と共に銃を持て、とか今思えばどこかの映画にでも出ていそうな台詞だけど、武器を扱うには恐れすぎず過信もすぎずというのはコツとして正しい。続いて出てくる言葉も決まっていた。
―――言い換えれば、己を保っていられるのが祓魔師なんだ。
「アタシも言われた」己の度と向き合ってられるのが祓魔師なんだってな。
「……」
 僕にとっては尊敬すべき養父で、大先輩の祓魔師で、シュラさんにとっては師匠だ、同じ事を投げかけておかしいことなんて何らないけれど、同じであることがなんだか嫌な気もする。何とも言えずにいるとアラームが鳴った。授業終わり、次の講義となる。シュラさんはばたりと音を立てて事典を閉じた。
「燐はこれが理解できると思うか?」
「簡単ですから、いくらアレでも言葉ぐらいは…」『佛教事典』の内容はともかく。
「いや、お前やアタシがいちいち現場で叩き込まなきゃダメだろ。炎といい、あいつ直感からでしか理解できないからな」
「確かに兄は脊髄反射型ですけど」
 身体が先に覚えていくたちで、思考となかなか直結しない。詠唱も音で覚えていくし、暗記の類は言いながら書かせている、九九を未だ間違えるのは引いた。…のわりにマンガの台詞やレシピならすらすら言えた。
「お前にも言い続けてやるよ」ビビリ。
「僕には必要ありません」
 感情が隠せずむっと返すと、シュラさんはにやりと笑った。
「いーや、必要だね」
 言いながら僕に分厚い『佛教事典』を押しつけてくる。ともすれば壊れそうな書物はそれなりの重量感がぐっときた。僕は机に置き直してから席を立つ、シュラさんは一年生、僕も任務で不在の講師に代わって他学年の小テスト監督をすることになっている。退室もシュラさんを追う形になってしまった。
「燐は獅郎から祓魔《エクソシズム》については何一つ習ってない、どうにか絞っていっぱいいっぱいで回して導き出してんだ、それこそ感覚的な脊髄反射でな」
 シュラさんは、ちょっと歩調を緩めて師である獅郎はお前だけが知っている、とも続けた。
「そんなの分かってますよ」
 兄さんも言っていた、羨ましがる声で呟くように。
 何て言ったか知らねーけど、とシュラさんは言った。
「獅郎はお前が怯えながら生きていかないようにって考えたんだよ」
 シュラさんに合わせるでもなく僕の歩調も鈍くなっていた。神父さんは手帳を持たなかった代わりに大事な本にこそ書き込みを残した。僕が昇級試験に合格した日、立て続けて二種のインフルエンザに罹患したこと(完治までの経緯がやたら細かくて余白が分からないくらいになっていた)、兄さんの帰宅時間、増えたレパートリー、笑えばいいのか泣けばいいのか、神父《とう》さんの言葉は情報に狭そうにして紛れて残されている。
 繙けば本のどこかに神父さんと巡り会える。
「だって、それしかないだろ?」
「…見えることから逃げられないなら戦うしか選択はありません」
 悪魔が視認できるなら。
「そうだよ」
 このひともきっと早いうちから見えていた、心が怯えや恐怖に蝕まれ、麻痺しそうになっていたのを神父さんが救いあげたのだと、聞いている。だから強い。
「耐えてやり過ごす知恵か、抗う技を持つかだ」
「それも獅郎か?」僕だ。
 と、二人同時に携帯端末が着信を告げた。
 シュラさんは胸の印から取り出すと画面に目を走らせ、応援要請だ、と言う。画面には医工騎士《ドクター》に向けて北西地区に向かうよう指示がある。
 シュラさんは、一年生の教室ではなく正面のドアに進む方向を変えながら言い切る。
「似てるけど全然違うだろ? 抗って戦うのはしんどいからな」単体じゃ。
 苦労するけど、不幸で悲劇的な選択ってのじゃない。
「さっさと育てろよ」
「シュラさんが」
 歩調が早くなる。かちりと鍵穴から音がする。
―――ぼく、もうみたくない。
 僕はシュラさんが嫌いだ。彼女はどうか知らない、僕や兄さんなど子どもか玩具扱いがせいぜいだろう、なのに考えたくもないけど、このひとと祓魔師になるまでのプロセスはたぶん似ている。
 『どこかちがったところがあるだろうか。』
 僕は小さく呟いてドアを通り抜ける。
 
 
 そこだけ澄んで青い空を見て、兄さんは天国の門はあんなところにあるのかも知れないと考えた。
 僕は逃れられないよ、と兄さんに言いたくて違う言葉を返した。死んで行く場所なんてない、どこかの国は生まれ変わるという輪廻の観念を強く持っていて死を恐れない。ある意味それは尤もできっと僕らはこの身が滅んでも物質的に廻り続ける。
 死は現象の一つで、いきものの生命活動が終わること。
 悪魔も人も、死んだら無になるだけだ。
 この世で死んで次のステップにまた別の世界なんてはっきり言って御免だ。
 だから僕は銃を手にするし、抗う。
 この世界の、僕の魔王から離れないために。

 120819  なおと  

*冒頭、または作中の引用  『驢馬』 三浦哲郎 (新潮文庫『忍ぶ川』より)