ハルノコイコク

 
 書くスピードが落ち、サイト用のが久々すぎて申し訳ないのですが、そんなことはどうでもいいくらいにめでたいので。
 だって雪ちゃん人気投票一位ですよ!
 おめでとう、おめでとう、おめでとう、雪ちゃん!!!
 原作でのポジションが危ぶまれそうな扱いやら『平気ですか』感を禁じ得ない展開にとっても心配だったのですが、本誌のポスターは大事にするよ! 玉座に戸惑ってどうするよ、一位!…との思いを込めて、書き下ろし。
 雪ちゃんの今年がうまくいきますように!
 
 
 

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ハルノコイコク
 
 
 
 燐が、風邪を引いた。
「兄さんも熱が出るんだ…」知恵熱じゃないよね?
「……」
 燐は苦しそうにシャツの喉元を引っ張ると、るせえな、と塩辛いような掠れ声を漏らした。
 喉が痛い、から始まった症状は気のせいでは済まされず、発熱とまで至ったのだが、燐はいわゆる『感冒』と認めなかった。調子が悪いのは重篤な病だろうとそういう考えで、ベッドに横になることすら嫌がり、熱による躁状態が雪男を苦しめるほどだった。絡んで邪魔して迷惑で、どれほど憎らしくも愛おしかったものか。夢の中で風の神と気が合ってしまい、どうしてか山登りをしたのだ、とまったく夢らしい突飛な話を嗄れた声で朝から振り、雪男は夢だからと聞き流していたが、解放されない。じゃあ行くからと眼鏡を押し上げたところで、虚を突かれたような顔をされる。燐のその表情は傷ついたとか、哀しむとかそれとは違った空疎さを見せつけてくれ、雪男は身動きが取れなくなる。そこからすっと見えない触手を伸ばされては腕を掴まれたようになってしまって、どうにもならなくなってしまった。
 ともかく、と、雪男は首の後ろを掻きながら息を吐く。時間とのレースだった、気を引いて貰いたいようにちょこちょことついて回って話しかけたりするのを振り払うことが出来ず、何度か強く拳を握ったほどだ。
 高めの体温とハイテンション、げほっと重たい咳をして、風邪かよ、と雪男は訝りながらも思い至った。
「大人しく寝ててよ」
 冬休みに入る前から任務は増えつつあったけれど、年の瀬ということもあり、十二月はテストを終えた辺りから俄然、忙しくなった。世の中は開けなくても良かったパンドラボックスを開けてしまったかのような小さな騒ぎをどこかしらで起こしていた。イルミネーションの奇妙な明滅の不具合が実は悪魔の仕業だったとか、不自然な焦げ跡が日に日に増える蔵の壁の怪の調査とか、深夜の高速を疾走するゴーストライダーの暴走集団だとか、大物というわけではなかったが、候補生たちは援護か警備と手当に駆り出されることが多く、雪男は引率に祓魔とあちこちに行って、部屋の片付けもままならないほどだった。
 そんなときに雪男達が育った修道院から手を貸して欲しいと連絡が来た。
 週末に教会で炊き出しを行う予定なのだが人手が足りない、手伝いに来て貰えないか、というもので、雪男がどうやって時間をやりくりしようかと考えているうちに、何も考えない燐が行くと即答していた。任務中でもねえし、とケロリと言い切り、クロを伴うところまで勝手に決めてしまう。入ったらどうするんだ、そもそも兄さんは自由な身分でもないんだとは思ったが、冬休み中の候補生《エクスワイア》に待機が命じられているわけでもなし、修道院のひとたちに会いたい気持ちも分かる、信用のある人物がいる場所なのだから、と渋々頷いた。そして、朝早くから電車に揺られ、楽しかったぞと帰ってきたのは二日前、燐の髪からは潮の匂いがした。場所は漁港近くだったそうだ、地引き網も手伝った、海水かぶっちまったと燐は土産に持たされた干物やらを掲げて歯を見せ笑ったけれど、湿気った感じがする靴下や肩や袖に違和を覚えた。長友は電話で張り切りすぎだと苦笑していたが、栄螺でも捕ろうとしたのか。雪男は炊き出しの様子を黙って聞きながら海の幸をしみじみと味わったが、燐はいつもより食べなかった。昨日は殆ど部屋に居なかったので知らない。
 原因とすればそれなのか。
 …そうなんだろうな。
「だらしねぇとか言わないのかよ」
「…言って欲しいの?」
 燐の机側の椅子を引いて座る。不調だからいつものびのびと気儘に振る舞う尾も元気がない。
 乾燥した薄荷を散らしたミネラルウォーターのペットボトルを燐の寝ている位置からも取れるようなところに二本置き、食事は外かコンビニだなと諦めて背を向ける。生姜湯を用意したかったけど時間はない。
「って、行くのかよ!」
「当たり前だろ? 兄さんが倒れようが捕まろうが僕の任務はあるもの」
「ええ〜…」
 なんだか人恋しがるような声の響きが歩調を鈍らせる、雪男だって燐に傾けない思いがないわけではない、あと一押しで操作されてやってもいいよと心で告げながら耳を欹ててみる、愚痴るように聞こえたのは、「…俺の代わりに掃除とかしろよー…」という嬉しくもない言葉だった。それかよ。
「今日は何事もなければ窓口と雑用だけだから」
 ちょくちょく覗きには来れるだろう、こんもりした布団からハスキー歌手の歌声みたいなそれが飛んでくる。
「忙しくてもメシは食えよー」
「はい、おかあさん」
「くっそー、明日には治すからな…」
 おっと取り合わないのか。
「罹るのも治るのも超特急だね」
 燐ならば数時間も寝れば回復してしまいそうだが、悪魔をノックアウトするくらいのウィルスなのだから並みの強さではないだろうとも考える。ふん、と燐は不機嫌そうに息を吐き出した。
「…インフルエンザかなあ、やっぱり」
 ごほんごほんと、咳が聞こえてくる。身を捩った背中が目に入る。足下のクロは心配そうに燐を見上げ、物問いたげに雪男を見た。燐はこれまで咳するのも我慢していたのだ、本当にどうしようもないなと溜め息が出る。
「平気だよ」
 布団を直し、こちらに背を向ける燐の耳に近く安心させるように言ってやる。
「僕もいるし、風邪はすぐに治る」
「……」
 布団の中に丸まっているのに、ぐったりという様子はなかった。師走はいつにも増して忙しかった、学校の方もテストがあったし、燐とどうこうする余裕もなかったから夢が楽しかったからなんてあんなにはしゃいで、まるで構って欲しいみたいに熱出したなと思えなくもなかった。
「兄さんが無茶しないようついててあげて」
 
 
 自分が冒険話の主人公になったような夢を見た。
 スーパーの生鮮食品売り場の前で豪快なおっさんと出会い、山登りに行くことになって、登るほどに荒れ狂う山の岩の上で、不可思議な預言を垂れ流す美少女に出会った。変化が得意な狸が加わり、時折現れる猛獣と闘いながら、目指すは写真館。自分でも意味が分からない。だけど、無茶苦茶なのも痛快で、わくわくした。誰かに話したくなるようなものだったのだ、そんな心躍る朝、目が覚めたら喉の痛みが増しており、身体も重かった。夢と現実はまるで逆転した様相で、もう一度寝ようとして雪男に布団を剥がされたのだった。
「兄さん、いい加減に起きてよ。宿題やる時間なくなるよ」
 とか言って、実は腹が減ってるだけなんだろうが、と思いながら朝食の用意をした。そわそわと食事を待っているクロが、すごい寝癖だぞ、と興奮したように教えてくれたけど、構わなかった。学校はもう休みだから行かないし、塾も冬休み、招集がかからなければ燐は一日、寮内で過ごす。あるとすれば訓練室での地味な自主トレだけだ。雪男には時間があるんだから部屋の掃除とか、勉強をしろと言われている。お前はお母さんか。
 昨日の残りの大根の味噌汁に卵を落とし、納豆をかき混ぜている雪男の横に置いた。俯きがちにつむじを見せる雪男の姿は狸が化けた少年と重なり、そういや夢の中のあの狸は雪男と性格が似ていたと、可笑しくもうずうずして秘宝が眠る洞窟のところまで懸命に話していた。雪男は面白くもないような反応を見せていたが、おっさんが風の神だと分かった場面でぷっと噴き出した。
「なにそれ」荒唐無稽すぎる。
 舞い上がったのは言うまでもない。口は止まらなくなった。
 ちょっとしつこく追ってみた。燐は単に、聞き流すようでちゃんと聞いていて、バカにするでもなく笑った雪男の反応がまた見たかっただけだったのだが、雪男は追い回す様子に不審を覚えたのか、少し黙って首を傾げてからぬっと燐の顔の横に手を突き出してきた。
「——ひぎゃっ」
 思わぬ手の冷たさにぎょっとした。
 雪男は燐の耳を摘み上げ、頬の辺りを確かめるように触る。
「声は、まあ…うん、喉がおかしいのかなとは思っていたけど…」
「…へ?」
 手のひらの柔らかな感触が頬に額に乗り、とどめにこつんと額が当てられる。柄にもないことをしてくれるものだから心臓がどきりと跳ねてしまった。
「間違いなく熱っぽい」風邪?
 信じ難いという顔だ。お前は兄ちゃんのスペクタクル冒険譚を聞いていたのか。
「俺が風邪なんか引くかよ」
 気恥ずかしくなって払う、相手の顔は真面目だった。
「悪魔が罹患する病気だってあるかもしれないじゃない」僕が知らないってだけで。
 雪男は燐に尻尾があるとか、驚異的な治癒能力や青い炎のことも飲み込んではいるけど、悪魔が万能みたいな言い方は好きではない。燐の物言い次第で怒ってそのまま説教とか喧嘩とかの流れになってしまうことだってあった。
「そ、そんなん…」
 そりゃ喉は痛い、けれども大声を出し続けたようにしか思えないし、身体が重いとかそんなのは寝過ぎたからくらいにしか思わない。何しろ昨日は八時過ぎにはとろとろし、雪男の帰りも待たずに寝ていたのだから。
 瘴気はきかない、顔を半壊されてもしばらくすれば元に戻るような自分が、具合が悪いなんて人にしたら不治の病とか、そういう死の一歩手前レベルで、よほどのものかと考えてしまう。ナシだから、そーいうの。第一、誰かに伝染するようなものだったらどうすんだよ、ぶるぶると首を横に振った。
「兄さんでも熱出るんだ…」
 雪男は呟くように言って燐を部屋に追いやり、ぐずぐずする寝かしつけた。おまけにクロに燐を見張れと余計なことを頼んでもいる。
 風邪? 本当に?
———「りん、おきちゃだめだ」
 がばりと起き上がると丸っこいクッションの上で丸くなっていたクロが咎める。雪男が出て五分くらいは布団の中で大人しくしていたが、眠れないものは眠れない、寝るのは得意だったはずなのに、身体がかーっとなって寧ろ動きたいくらいになっている。寝返りして、また反転して、と三十分が限界だった。
———「おれはあそばないぞ」
 ぱたんぱたんと二本の尾が意志の強さを示すべく音を立ててクッションを叩く。
「喉痛ェし、フラっとすんだけど、すっげー寝たから眠くねんだよ…」
 床に置かれたペットボトルを拾い上げて水を飲んだ、妙に口の中がスッとする。掲げれば底に砕いた茶葉のようなものが見えた。
「あー、冷たくて気持ちいー…」
 額に乗せる。そういや雪男は氷枕も冷却シートも何の用意もしてないとぶつくさ言ってたっけ。お前それでも医工騎士《ドクター》と言い張れるのかよと実は呆れもした。
———「りん?」
「トイレがてら昼飯の用意だけしとく」
 雪男のことだから任務で遠くへ行かなければ昼休みにでも戻って燐の世話をする気だろう。弟は鬼教官ではあるけれど昔から病人にはやさしい、というよりも、弱ったものを見過ごせない質だった。だから今でも横断歩道を渡りきるまでの時間が妙にかかったりするとか、わざと傘を忘れてきたりするのだ。幼い頃は今みたいなひねた割り切り方なんかもせず、慈愛に満ち溢れ、弱いのに弱きに手を伸ばし、犬とか猫とかを拾ってきたり、巣から落ちてしまった雛のためにびゃーびゃー泣いていた。
「雪男、きっと帰ってくるし」
 燐の食事はクロも好きで、ダメと言いかけそうな口がぐっと詰まった。
———「し、しょうがないなっ」
 心配だからついていく、と猫又は立ち上がる。ぼーっとトイレを済ませ、のたのたと歩く燐の後ろを足音も立てず、まるで護衛みたいだった。
「米研いで、すぐ食えるもん置くくれーだぞ?」
———「さかなとかにくとかやいたりしないようにみてるんだ」
 燐があんまり動き回らないよう監視するらしい、本格的な煮込み料理でも始めたらサッカー場の審判宜しく退場を言いつけるのだろう。日持ちもするし、カレーとかおでんもいいのだが燐にもそこまでの気力はなかった。
「へいへい」
 残り野菜をぶちこんだけんちん汁にしよう。メカジキは漬け込んでおけば保つ。入りきらないからと鯖を多く貰っておかなくて良かったと冷蔵庫を見て思った。また捌くところからやらなければならないところだった。
「昼はねこまんまでいいか?」
 米を洗う、冷たすぎるほどの水がいい。炊飯釜にセットしてから大鍋を引っ張り出し、湯を沸かす。切り身のパッケージを剥がしながら問うと
「…何してるの?」
 ひんやりとした声が落ちる。
「えっ?」雪男?
 まだ十時半だ。祓魔の相談窓口が何時から受付するのか覚えていないけど、戻るのが早すぎる。
「支部には遅れるって連絡入れて、冷却シートとか買ってきたんだよ、食べ物も」
 雪男は、はわはわとヒゲを震わせているクロの横を抜けて台所に踏み入ると燐の横に立った。むすっとした顔で額に手を当てて、溜め息を吐く。
「…何笑ってるの」
「別に」
 堪えようとしても顔がニヤけてしまう、雪男は燐が怪我をしたりすると心配するあまりに怒る。手当を必要としない悪魔に覚醒してからそれが顕著になった。
「今日、残り野菜のけんちんと冷凍のシュウマイでいいか?」レンコンのきんぴらとほうれん草も残ってっから。
「いいから寝てろ」
 ぺしんと冷却シートを額に押しつけられ、問答無用でベッドまで引きずられた。
 
 
 鉢植えは霜に強い薬草だったので水が足りないくらいだったが、棚を空けておかなければ新しく届いたものが入れられない。雪男はどこを空けるか思案しながら段ボールを抱え、紙袋をぶら下げて静まりかえった廊下を歩いていた。
「あれ、まだ残ってるの?」
 湯ノ川が雪男を見かけるなり、背中に問うてくる。
「標本整理があと少しなんです」
 雪男はマスクをしたまま応え、荷物を抱え直す。本当は年内に済ませたかったものだが、結局年を越してしまった。しかも部屋の換気と簡単な掃除をするだけの予定だったのが、来れば来るで発注した標本までが届いててすることが増えている。
「最後に任務入っちゃったもんなあ…」
 同情を滲ませた声で湯ノ川は雪男用の教員室の戸を開けてやり、お疲れ、と手を振った。
「先生も」
 革靴の乾いた足音がいやに反響する。
 神社仏閣や参拝客を集めるような場所は賑わしいが、新年を迎えた日本は都市から人が減る。湯ノ川は当番なのだろう、いつもなら誰かしらが行ったり来たりしている支部内も最低限のひとが見かけられるくらいになっていた。
 どれだけの力があるのか知らないが、〝除夜の鐘〟とは言ったもので、大晦日に打ち鳴らされる鐘の音はそこそこの除霊効果をもたらす。なのでいっとき、悪魔の出現は減る。単に違う種の悪魔の方が日本に蔓延しているからではないのかと雪男は思うのだが、その後各地での神仏への奉納の儀式によって松の内くらいの間は騎士團も束の間の安息を得られるわけだ、興味深いことだと台湾支部の劉も言っていた。他ではそうもいかないらしい。
 後ろ手でドアを閉める、換気はもういいだろう。
 雪男の年末は最後の一週間が怒濤のように過ぎて行ってしまっていた。まず燐が風邪を引き、高熱を発しながらまくしたて、御託はいいから黙って寝てろと雪男は冷却シートを額に貼り付けてベッドに縛り付けたのだった。寝込んだのは一日で、次の日には回復していたが、熱と咳があっても尚テンションの高い燐はものすごく迷惑極まりないことに尽きた。病になって喜ぶってどうなんだと叱りつけながら薬を煎じ、買ってきた粥をあたためてやった。傍迷惑な病人の相手だけでも疲れたというのに、次に燐の代わりと後見人兼学園理事長兼日本支部長に引っ立てられて寒風吹きすさぶ海沿いのイベント会場で扱き使われ、戻れば悪魔の討伐任務が待っていた。年越しなんて覚えてもいない。ていうか、支部長のあれは用事であって決して任務ではなかったし、復活した燐も巻き込まれたのだからとんだとばっちりどころじゃない、お陰でこっちも風邪気味なのだ。倒されてなるものかと着込んで巻いているが、鼻声は否めない。
「…あれ?」
 明かりを点けて気付く、日没が早い時季とはいえ外はすっかり暗く、窓を叩くささやかな音がしている。
「雨だ」
 予報よりも早くに降り出してしまった。夜半ならばいいだろうと傘は持ってきていない、とりあえず室内に吹き込まないよう窓を閉めた。段ボールを机に載せ、壁まで物が押し詰まった空間を見遣り、眼鏡を押し上げる。
「片付けるか」
 しばらくすれば雨も止むだろう。
 伸びをしてから、作業に取りかかった。
———…お、
 手にした生薬は乾燥させた根だが手の筋によく似ている。
 分類番号を見て、黙々と手を動かす。雨水が樋を流れる音や、雨だれが没頭するのにちょうどいい音楽となる。
———おい。
 植物はよくよく見れば人体組織にも通じるところがあり、共通先祖を元とする系統樹を彷彿とさせる。だけど突き詰めれば単細胞という論はともかく、自分と魍魎《コールタール》を一緒にしたくはない。混沌から人と悪魔なんて話は本当は納得してないし…。
「い・い・か・げ・ん・に…」
 はっとする。
「しろっ! メガネ!」ぶっ倒れたんじゃねーかって思うじゃねえか!
 ごすっと頭頂に鈍い痛みが伝わり舌を噛みそうになった。
「…っ…」
 衝撃にぐらりときて床に尻餅をついた。頭を押さえる、髪が少し湿っている。何で打った? 何で濡れた?
「何するんだ!」
「こっちの台詞だ、バカ! ケータイ何度かけたと思ってんだ!」
 むっと声を上げる。が、それを超える勢いで燐が仁王立ちになり、真っ赤な顔と目で、怒鳴り返してくる。えっと雪男の怒りを凌ぐ剣幕に思わずたじろいでしまう。
「すっげー心配したんだぞ! 謝れ!」
「あ…スミマセン…」
 謝ったら負け、そんな喧嘩のセオリーは知っているのに口を突いて出たのは謝罪で、聞かされた燐はふーと肩をなで下ろし、ごしごしと制服の袖で目を擦る。息も切れているようで、手にした傘からぽたぽたと滴が落ちていた。
「兄さん…」
 燐は半泣き、…どころかぐずぐず泣いている。制服は着ているが、寒いんじゃないかと思えるほどの身に着け方でマフラーも巻いていない。傘は黒くそぼ濡れて、燐の肩も頭髪もぐっしょりとは言わないまでもしっとりしている。
「…っく」
 もう何から言えば。
 本棚に突っ込んであるティッシュペーパーの箱を抜き取り燐の鼻に押しつけてやる、これは寒いからだと言って受け取ると燐は音を立ててかむ。分かった、それについては何も言わない。たとえひっくひっくと治まらないものがあったとしても。
「っ、調子悪いからすぐ帰るって言ってたろ? 今日、鍋なんだぞ。任務ねんだろ? 暗くなっても全然電話出ねーし、返事もしねーし、死んだかと思うじゃねぇか…」
「……」死にません。それは極論です。
「雪男が、…そんなん、風邪うつした俺のせいになるだろ。バカヤロウ」
 ぶわあ、とまたなる。燐は、雪男が元旦にちょっと風邪っぽいと言ったところでさほど心配する気振を見せはしていなかった、タマゴ酒は作るかと訊いたくらいであとは食堂にみかんとリンゴの山を見付けただけだ。雪男は病に関しては昔から嬉しくもないがエキスパートとも言えたので、てきぱきと対処をしたし睡眠も取った。だから、ずっと普通だと思っていたけれど、違っていたらしい。勝手に気まずくなっていたのか?
「あの…」
 燐はひとけのない廊下を歩くうちに、どんどん心細くなっていったのだろうか、冷え冷えと地面を濡らす雨に心を湿らせ、思考をマイナス方向へ進めてしまったのか。繋がらないことでこんなに不安になったのか。
「そういや生姜入ってたね、味噌汁」おいしかった。
 制服や髪の滴をハンカチで取ってやる、寒ぃんだよここは、と燐は両手を伸ばしてくる。
「鍋はもっと旨い」
「うん」
 抱きしめると頭を肩に擦りつけてくる、恋しくて堪らなかったものに触れたとそんな風に。
 ごめん、そういや僕がほったらかしでした。
「傘ありがとう。兄さん」
「SQ買うついでだ」
「うん」
 発売日は今日じゃないけど。そもそもネクタイもろくに結べてない制服姿だし、マフラーも巻いてないけどね。
 燐の顔に唇を押しつけようとして邪魔をしている薄い覆いに気付く。くっそう、無粋なフィルターめ。まどろっこしい思いで引き下げるとあっという間に奪われた。耳の下に手を差し入れて、ゆっくりとあちこちにキスしてから、こめかみに触れる。
「今日はもう帰るよな?」
「作業手伝うって言わないんだ…」
 こんなことして何を抜かしているのだ、といいたげな顔を燐はする。まあでもいいか。ちょっとだけ塩辛くて、でもとびきり甘いもので今日はあたたまることにする。
 
 
 

140112 なおと

 
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 新年らしいものを、と思ってとりあえずゼロからいってみました。
 何も思いつかなくてもとにかく向き合え、というやつです。
 放置してあるネタはあるんですが、…ノータイムで書き上げていくようにしないとあかんですね。どんどん古びて使えなくなってしまう…。
 反省からうまどしを始めたいと思います。
 
 この話の雪ちゃんはこの後寝込みます。
 燐はこれまで素知らぬフリしてハラハラしていたと思っていてください。自分の災難に雪ちゃんを巻き込むのは当たり前くらいには思っているだろうけど、一方でひどく怖がってもいると思うんですよねえ。この兄弟の分かり合えなさって互いの覚悟の度合いを測りかねてるのが底辺にあるよねえ、と常々考えたりしてます。