我らの祈りを

 今回は子猫さんです。
 仲直りする、と決めた後の子猫さんは、燐を勝呂や廉造と同じくらい大事な友人として認識しているような気がします。
 だからこそ、口には出して言わなくても、彼の危険性を憂慮しているんではないかなと思ったりしました。
 

【PDF版】我らの祈りを

 
 
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「いとも高き天主が汝に命ず」
 勝呂竜士の諳んじる声が教室の高い天井に響く。低く、力強い調子だが、謡うような流暢さで身体に沁み込んで来るような気がする。聞きなれているはずの三輪子猫丸も思わず聞き入ってしまう。身びいきだろうか、勝呂の詠唱はピカイチだと少し誇らしげな気持ちになるのだった。
 目の前に座っている少年がぽかんと口を開けて、少し間抜けな顔で勝呂の顔を見ていた。口の周りに、勉強会が始まる前にと詰め込んだクッキーの食べかすが付いたままだ。いつ指摘しようかと思う。
「汝の全くの傲慢において、いまだに汝が等しと主張せるかの御者…、って、ナニ呆けとるんや」
「あ、ワリィ」
 奥村燐がテキストに慌てて目を落とす。
「お前が協力しろ、言うてきたんやないか。しゃっきとしぃや」
 勝呂が呆れたように言う。
「スマン…」
 全くその通りなので、燐がしょんぼりとして謝る。
 祓魔師《エクソシスト》認証試験に受からねばならない以前に、祓魔塾のテストが迫ってきていた。学科だけではなく実技試験まであり、勿論点数が悪ければ追試が待っている。しかし、ただ追試を受ければ良いという訳ではない。追試ばかりを繰り返して、余りに努力改善の姿勢が見られない場合、最悪は候補生《エクスワイア》の資格剥奪、放校も有り得る。試験や勉強など、自分の悪魔の力の前では「屁でもねー」と高を括っていたところのある燐だが、流石にこのままでは不味いと思ったらしい。燐に頼み込まれた勝呂が、祓魔塾が終わった後に彼の勉強を見ている。
「でも、流石に勝呂君だねぇ。思わず聞き入っちゃうよ」
 隣で折角だからと一緒に参加している杜山しえみが、感心の余り溜め息を吐く。燐も勝呂に倣ってテキストを声に出して読み始める。
「て…てんしゅがにすがたににつくりたまい、あくまの…」
「ぼうぎゃく」
「ぼ…ぼうぎゃくによりおおいなるだいかをもって…なんて読むんだ?」
「あがない」
「あがないたまいしわれらを…」
 遠巻きに勉強会に参加している(本人は自習と主張しているが)神木出雲が燐の読み間違えを正す。結局志摩廉造と子猫丸も参加して、なし崩しに勉強会のような感じになっている。
「って言うか、全然ダメ。ナニ読んでんだかちっともわかんない」
「ううう」
「大体『贖い』は三度目じゃない。本当にやる気あるワケ?」
 呆れた目つきで燐を睨んだ出雲が、ぽい、と燐が作ってきたクッキーを一つ口に放り込む。お茶はしえみが用意したハーブティだ。彼女の手料理にはちょっと問題があるが、ハーブティのブレンドはとても上手だった。今日は加密爾列《カミツレ》と箆大葉子《ヘラオオバコ》の喉に良い組み合わせで、詠唱をメインにやる今日の勉強会にはぴったりだ。
「奥村君、読みがわからへん所は仮名振らはったら?」
 燐が躊躇いがちにテキストに書き込みを始める。
 みな、おんみ、おじひ、ふち、あざむき…、と子猫丸の読み上げる声の傍らで、勝呂がお茶を啜る。テキスト一ページにも満たない分量のほとんどに仮名が振られて、ページが真っ黒に見えた。
「じゃぁ、もう一度や」
「おう」
 燐がつっかえつっかえ、テキストをもう一度読み終える。
「どうだ?」
「なんや、宇宙人が喋ってはるみたいやなぁ」
 志摩の感想に燐ががっかりした顔をした。
「読めりゃ良いんじゃねーのかよ…」
 燐が文句とも、嘆きともとれる溜息を一つ吐く。
「詠唱言うんは、ただ文字をそのまま音にすればエエんと違うんや。それでもある程度は効くかも知れんけど、きちんとその言葉の力を発揮さすんは、やっぱり何を言うとるんか知らんとあかん。台詞や歌かてそやろ。ただ文字通りに読んだだけでは、人の心には届かん。似たようなもんや」
 酷く感心した体の燐としえみの顔に、勝呂が僅かだか頬を染めた。照れているのだ。
 実は気配りが細やかで面倒見の良い勝呂は、目つきが悪いせいで『怖い人』だと言う誤解を受けることが多い。付き合いの長い自分たちは慣れてしまっているし、家族同然に暮らしてきて、彼の性格は判りすぎるほど判っている。それだけに、勝呂は彼自身を真正面から受け止めて、同じように飾ることなくぶつかってくる祓魔塾の面々に会えて嬉しいのだと思う。
「奥村のはまだ読めたうちには入れへんけどな」
「坊《ぼん》、そらキツイですわ」
「甘やかしとる場合やあれへん」
 勝呂の言葉にますます燐が凹む。いっそ哀れに思うほどだ。一方で、勝呂の言葉はむしろ燐に『やってやろーじゃねーか』と奮起して欲しい彼なりの気持ちの現われだと知っている。子猫丸としても燐にはぜひとも試験では、なんとかそこそこの成績を取って欲しいと思っている。思わず「たしかにそれはそうや」と同意してしまい、燐に縋るような目で見られた。
「そやけど、悪魔が詠唱とか不思議な感じや。大丈夫なんやろか?」
 志摩が別の問題集を解きながら、クッキーを頬張った。
「致死節が違うやろうし、大丈夫やろ」
 勝呂の言葉に、燐も頷く。
「雪男も言ってた。試験の範囲程度じゃ俺の致死節にはあたらねーって」
 燐がイマイチ勉強に乗り気になれなかった理由の一つがそれだったらしい。ちらりとだが、不安げに漏らしたのを聞いたことがある。とは言っても、そもそもの学力が悲惨すぎて、『覚えない』という言い訳にもならないのだが。講師でもある弟は一つ呆れたような溜め息を吐いて燐の杞憂を一蹴すると
「遠慮は要らないから存分に覚えればいいよ」
 と、笑ったと不満げに口を尖らせて言う。兄としては悔しいに違いないが、本当のことなのだから仕方があるまい。
「今も俺の致死節と、魔神《サタン》の致死節は、なんつったっけ…、か…、かい…ナントカってとこが調べてるらしいけど」
「解析部か?」
「おー、それそれ」
 あっけらかんと燐が言う。
「それって、アンタの命狙われてるってことじゃない」
 ホントに判ってるのか、と出雲が呆れた口調で呟く。
「そうだけどさ、あんま実感わかねーんだよな」
 燐が若干バツが悪そうに笑う。
 候補生《エクスワイア》の彼らにはまだ詳しいことは知らされていないが、解析部は悪魔ごとの致死節や、どの悪魔に何が効果があるのかを調べたりする正十字騎士團の部署らしい。何処だったかの祓魔の現場に出張ってきて、傷ついたのやら無事だった悪魔を捕らえて箱《ケース》に入れている所を見たことがある。持ち帰って研究すると言えば、何となく判った気になるが、要は聖典のどの節が致死節なのか、どの武器が効果があるかを試すわけである。だからこそ祓魔師《エクソシスト》が悪魔を祓えるのだと判っていても、同じようなことが燐に対しても行われるかと思えば、途端に落ち着かなくなる。
「そう簡単には見付かれへんやろうけどな…」
「考えてみれば、魔神《サタン》の致死節も、二千年がとこ見付かってへんですし…」
 見つかってくれるな、と言う希望をこの場にいる誰もが抱いているのではないか、と思う。何よりも自分がそう願っている。これまで仲の良い友人が居なかったわけではない。ただ家族同然である勝呂や志摩と比べると、どうしても疎遠な感じがした。だが、この祓魔塾の面々、特に燐に関しては、同じくらい大事だと思う。
 だからこそ。目の前の少年が居なくなることを考えると、心がざわつく。燐のたどたどしい朗読が心を擦る様に過ぎていく気がした。
「全ての敵を踏み…く、砕きたまわんことを、主、我等の祈りを聴きたまえ」
「大分良うならはったんと違う?後は覚えよう言うより、つっかえんと読めるまで、何度でも繰り返した方がエエよ」
 子猫丸の言葉に燐が目を輝かせて嬉しそうに笑うと、うし、と袖を捲り上げてテキストの短い一節を再び読み始める。
 ――我等の祈りを聴き給え…か。
 魔神《サタン》の血を引いていても、願えば救われるのだろうか。奪わないでくれと願えば、致死節など関係なく聞き届けられるのだろうか。そんな希望を持っていることを思うと、聖典に書かれた意味が揺らいでくるような気がした。
 
「兄さん!いる!?」
 バタン、と居残りをしている教室の扉が開いて、奥村雪男が慌てた様子で中を覗き込む。
「おー、雪男。どうした?」
 メシはまだだぞ、と言う燐の答えに勢いを挫かれた雪男が、子供じゃないんだから、と入り口に寄り掛かって一つ深く溜め息を吐いた。いつもはきっちりした格好を崩さない彼にしては珍しく、シャツにジーンズと言う普段着の上に祓魔師のコートを羽織っていた。
「…今日はシュラさんと魔剣の特訓があったんじゃないの?」
「へ?」
 燐がきょとんとした顔をする。
「へ、じゃないよ。魔剣の特訓」
「今日だっけか?」
 燐があらぬ方向を見て記憶を探るが、全く覚えていないようだ。
「兄さんに連絡がつかない、って僕に連絡があったんだよ。携帯は?」
「掛かってきてねーぞ?なんだよ、携帯にかけてこねーで迎えに来ればいいじゃねーか。どこでも鍵持ってんだろ?」
 ブツブツと文句を言いながら、カバンを探った燐が携帯を取り出す。
「どこでも鍵なんて、そんな鍵はないよ。だいたい迎えに来いってどう言うことだよ。教えてもらう側が出向くのが当たり前だろ?」
 わーったわーった、とうるさそうに弟の説教を聞き流しながら、カチカチとボタンをいじる。
「あれ?つかねー」
「電源切ってるだけじゃないの?」
「いや、電源押してもつかねーんだって」
「こ…、壊れた!」
 うぇぇぇ!と大騒ぎだ。暫くあちこちを押したり、電池を入れなおしてみたりしていたが、携帯はウンともスンとも言わないようだ。勝呂が燐の手元を覗きこむ。
 ――やっぱり坊《ぼん》や。面倒見の良い…。
 そう言うと勝呂は怒ったような口調で、色々言い訳をするのだろう。その勝呂が一つ眉をあげると溜め息を吐いたので、つられて子猫丸も燐の手元を覗きこんだ。
「充電切れただけと違うんか」
 突き放すような口調だ。それはどうしたって電源が入らないだろう。
「あ、そうか。そういや暫く充電してねーや」
 さすが!と指差す手を、勝呂が軽くはたいた。
「アホか、どうせそんなトコやろと思うとったわ。しょーもな」
「携帯持ってる意味ないじゃないか…。ホラ、充電器」
 苛立たしさを滲ませた弟がポケットから取り出した充電器をつなぎ、電源を入れる。携帯が起動したかと思うと、けたたましい着信音が鳴った。燐が着信の相手を確かめて、恐る恐る出ると、向こうから大きな怒鳴り声が聞こえてくる。相手は言うまでもなく霧隠シュラだ。
「頼んできたのはお前だぞ!やる気あんのか、テメー!」
「あるよ!あります!」
 聞く気がなくても聞こえる大声に燐が焦って答える。
 炎は何とか操れるようになったが、魔剣云々よりそもそも剣で戦う基礎がなっていないのだそうだ。本来は目指す称号《マイスター》ごとの課程に進んでから習うことだが、燐の場合は祓魔師《エクソシスト》認定試験が迫っているために、酷く厳しい特訓をさせられているようだ。降魔剣『倶利伽羅《クリカラ》』を操る以前に、シュラに木刀と竹刀で散々に打ち据えられていると聞く。
「五秒で来い!」
「どこにだよ!」
「ビビリが知ってる!」
 通話の切れた携帯電話を手に、燐が暫く黙り込む。すっかり勉強会となってはいるものの、元は燐が頼んで始めて貰ったものだ。どうやって切り出そうかと悩んでいるのだろう。
「はよ行けや」
「スマン…」
 燐がしょぼくれる横で、雪男も済まなそうな顔で一緒に頭を下げた。
 ――兄弟、か。
 自分には家族や血を分けた兄弟はいない。明陀の皆や、勝呂、志摩が家族のように、兄弟のようにいつでも一緒にいてくれた。だが、それでも実の兄弟と言うのは、また違った存在だというのは判る。
「ちょっと待った!口の周り食べかすだらけじゃないか。高校生にもなって恥ずかしくないの?」
 雪男が兄の口の周りについたクッキーの欠片を手で払う。うるせーな、と返す燐も、テキストやらを片付けながらではあるが大人しくされるがままになっている。
 ――奥村君たちは、親子みたいや。
 子猫丸は二人のやり取りを見ながら、くすりと笑う。家庭がそれぞれであるように、兄弟のあり方も違うのだろう。特に彼らはたった二人の家族でもあるのだから、兄弟である以上に互いが親代わりでもあるわけだ。主に親の役を担っているのは弟の方なのだろうが。
「そういや、お前なんで制服じゃねーの?」
 燐がカバンと倶利伽羅《クリカラ》を仕舞った刀袋を背負いながら、雪男のコートの下を指差す。
「寮に戻って着替えてる途中だったんだよ。シュラさんから連絡があったって言ったろ?話してる間に、いきなり特訓の場所変えるって言い出してさ」
「シュラらしーぜ」
「笑いごとじゃねーよ」
 雪男の低い声に、急いでいるのも忘れて笑い出した燐がびくっとして動きを止めた。
「兄さんの持ってる鍵じゃまだ行けないから、兄さんを迎えに来たってわけ。判った?」
 燐の指摘に雪男がコートのボタンを留めながら答える。
「そっか…、悪かったな」
「悪いと思うなら、さっさと認定試験受かってよね」
 雪男は真剣な顔で眼鏡を一つ押し上げた。
「判ってるよ!受かってやらぁ」
「ちなみに目はかっぽじれないよ」
「う…っ!うるせーよ!」
 ぶつぶつと文句を言って途端に機嫌を損ねる兄の襟を直しながら、雪男はハイハイと軽くいなす。
 母のように世話を焼く雪男は、兄が居なくなる可能性についてどう思っているのだろう。何事にも冷静で用意周到な弟のことだ。恐らくその可能性も考え抜いているに違いないし、誰よりもそれを恐れてもいるだろう。他人が口を出すことではないが、それでも自分の気持ちも含めて話してみたい、と子猫丸は思う。
「さ、行くよ」
「お、おう。お前らワリィ…」
「僕らも一緒に勉強しとるんやから、気にせんでエエよ」
「早く行きなさいよ、霧隠先生待ってるんでしょ」
 子猫丸と出雲の言葉に、再度ワリィ!と言う言葉を残して、雪男と競うように走り出て行った。ばたん、と扉が閉まる音がして教室が一気に静まり返る。
「行っちゃったね」
 しえみの少し寂しそうな呟きが、教室に響き渡るような気がした。
「忙しないなぁ」
「ホンマや」
 志摩と顔を見合わせて、仕方ない、と笑う。実際うるさいのもあるが、奥村燐が居なくなっただけで、なんだか気が抜けたようだ。
「アイツがいると、集中できないのよ」
 苛立たしげな出雲の憎まれ口すらも、鋭さを欠いているような気がしてしまう。たった一人が居なくなっただけで、こんなに雰囲気が変わる。それをあの少年は知っているだろうか。
「台風か、アイツは」
 勝呂がぼそりと呟いた。
「奥村君らしーわ」
「坊《ぼん》そう言うとこ、気に入ってはるでしょ」
「やかまし」
 志摩のからかいに、勝呂が不機嫌に言い返す。
「図星かよ」
「図星言うな!神木!」
「坊《ぼん》、そないに顔赤うして怒鳴らはっても、説得力ありまへんえ」
 子猫丸は事実を指摘しただけだが、堪らず志摩が噴き出した。出雲はそっぽを向いて肩を震わせている。
 ――ホンマに居れへんようになったら、こんなでは済まんのやろうなぁ。
 そんなことは想像もしたくないが、可能性はある。いつだかは判らない。しかし、彼の命を奪ってしまえる何かが、今この瞬間に見つからないとも限らない。もしそうなったら、皆は、自分はどうなってしまうだろう。
 だからこそ。バカで不器用で騒々しくて水臭い少年が、ずっと自分たちと共に在って欲しいと願わずにはいられない。
「我らの祈りを聞き入れ給え」
 しえみが読んだ一節が、子猫丸の心を代弁したような気がした。
 ――皆も同じ気持ちやろうか。
 そうかも知れない、そうでないかも知れない。
 こう思うのは、自分一人かも知れない。
 たった一人の肉親である、雪男の気持ちとも違うだろう。
 ――奥村君は僕の友達なんや。坊《ぼん》や志摩さんと同じくらい大事な友達や。どうか奪わんで下さい。大事な人が居れへんようになるんはイヤや。
 それを願う詠唱はないのかも知れない。致死節は容赦なく自分達から燐を奪って行くのかも知れない。それでも言葉に力が込められるなら。
 ――聴き入れ給え。
 ――僕の。我らの願いを聴き入れ給え。
 子猫丸は拳をぎゅ、と握った。
 
 

–end
せんり