奥村家+1の家族法廷 side-雪男

 
 
 
 
「あれ?」
 奥村燐の足下に何かがころりと転がって、夕暮れの残照を鈍く照り返した。
 祓魔塾の帰り道、兄と一緒に買い出しに行った帰りだ。向こう一週間くらいの食材を買い込んで、二人とも学校の鞄の他に、両手にスーパーの袋を一つずつ下げている。帰り道に通りかかった公園で、縄張りの見回りを終わらせた猫又《ケット・シー》、クロと合流した。クロはもともと奥村兄弟の養父、藤本獅郎の使い魔だった。彼の死によって使い魔の契約は切れたが、燐と意気投合したクロは自らの意思で兄弟たちと一緒に暮らしている。
『りん!きょうのごはんなんだ?』
「今日はアジの開きだ」
 ぴょこん、とクロが燐の肩の上で飛び跳ねた。クロの二股のしっぽと、燐のしっぽが嬉しそうに、一緒に揺れる。ぼんやりと今日中に纏めなければならない報告書の山にうんざりしつつ、兄とクロの後ろ姿を見る。こんな図も中々ないよなぁ、とほんの少し安堵しながら、雪男が少し遅れて彼らが住む旧館の寮、入り口へ上がっていくステップに足を掛けた。
 燐の足下で細長いそれが転がって、鈍く光ったのはその時だ。
 兄は全く気が付かずにクロと何事かを喋りながら、ポケットを探っている。鍵を出そうとして、落としたのだろう。
「兄さん、ペン落とし…」
 ひょいと屈んで拾い上げたそれは、筆記用具ではなかった。細長い三角錘がしゅっと延びて、日本刀のように少し反りがある。弧を描いた表面には、小さくて透明なプラスチックがびっしりと付いていて、濃淡取り混ぜたピンク色の粒が模様を作ってキラリと光った。錘の底に当たる所にはバネがあって、そこまで見て、やっと女性が使う髪留めだと思い当たる。
 随分女性らしい色とデザインだ。燐が同級生である勝呂竜士から借りたものとは、まるで雰囲気が違う。
 どうしたんだろう?
「おい、雪男なにしてんだー?アイス溶けちまうぞ」
 そんな雪男の心配など知らずに、燐が開け放した扉から雪男を招く。
「あ…、ちょっと…」
 雪男は扉の向こうに消えた兄を追いかけた。
 
 手分けして買い込んだ食品や生活用品を片づけていく。その間も、雪男の頭の中では数々の疑問と、不穏な妄想が渦巻く。
 兄さんの財布じゃ、どう考えても高すぎる品物だろう。じゃぁ、どこから手に入れたんだろう。
 誰かから貰ったとか?でも誰から?
 まさかとは思うけど…。やめてくれ、ぞっとしない考えだ。
 ここ数日は忙しくて、ほんのわずかな時間しか睡眠時間が取れていない。加えて急な任務に呼び出されたりして、はっきり言って相当疲れている。そこに、なんだか良くわからないものが現れて、雪男の許容量を越えてしまいそうだ。
「……だろ?雪男」
「え?なに?」
 燐に問いかけられて、我に返る。
「なに、じゃねーよ。きーてなかったのかよ」
「…え、と」
「お前なぁ。いくら忙しいからって、その態度はねーだろ」
 全くもってその通り。だが、その兄貴ぶった(いや、兄だけど)態度にちらりと、なんだよ、と思う。
 鬼の首でもとったみたいに…。
「普段はわかんねーけど、お前けっこーだらしねーよな」
 しょーがねーな、とニヤニヤ笑う燐の顔に、ムッとする。
「もとからだらしない兄さんに言われたくない。それに僕が出来てないとすれば、それほど忙しいからだし」
「へーへー、おエライセンセー様は、お忙しくって大変ですね」
 あったまきた。
 僕がこんなに忙しいのは、兄さんのせいでもあるんだけど。全然判ってない。なのにこの上、この髪留めでいらいらさせられなきゃいけないなんて、冗談じゃない。
 いや、もうこんなことはグルグル考えていたってしょうがない。僕は忙しいんだ。ハッキリさせよう。
「…兄さん座って」
「なんだよ?」
 一転不機嫌な口調になった雪男に、燐も魚を棚に放り込んでバタン、といささか乱暴に冷蔵庫の扉を閉める。その苛立たしげな挙動に、怒ってるのはこっちだ、と思う。良いから、と食卓に向かい合って座る。
「…兄さん、僕になんか隠してることない?」
「あに言ってんだ?」
 椅子に横を向いて、片膝を立てて座り、かたかたと貧乏揺すりをする。しっぽも不機嫌そうにユラユラと揺れていた。
「言葉の通りだよ。何も隠してることはない?」
「ねーよ。言いたいことがあるんなら、ハッキリ言え」
 それはこっちのセリフだ。
「これ」
 食卓の上に、拾った髪留めを置く。
「なんだ、お前も前髪ジャマだったのか?」
 カワイーの選んだな。燐がからかうように笑った。
「そんなワケないでしょ」
「んで?」
「どうしたの、これ」
「なにが?」
 燐がきょとんとする。
「なにが、じゃないよ。さっき落としただろ?」
「あのな…」
「兄さんがこういうの好きだとは思わないけど、買ったの?それとも誰かに貰った?まさか…じゃないだろうね」
「おいっ!まさかお前、俺が盗んだとか思ってんのか!?」
 睨み付ける雪男に、燐が真っ赤になって怒鳴る。
「そんなことしないと信じてるよ」
 自分でも驚くほど低い声だった。
「当たり前だろっ!お前…、兄ーちゃんをみくびんじゃねー!」
 どん!と燐の拳が食卓を叩いた。勢いで髪留めが跳ねる。かしゃん、と卓に当たって軽い音を立てた。
「じゃぁ、これは何?」
「しらねーよ!見たこともねーよ!」
 燐の身体のあちこちにに小さく青い炎が現れる。
「…本当だろうね?」
「だから、そー言ってんじゃねーか!」
 しばらく無言で互いににらみ合う。沈黙に居心地が悪くなって何かボロを出すんじゃないかと思ったが、逆に僕の方が居心地が悪くなってきた。
「…判ったよ。これは明日にでも交番に届けとく」
「…おう」
 拗ねたような兄の声を聞きながら、雪男は何となく居た堪れなくて食堂を出た。思わず問い詰めてしまったが、雪男も燐が盗みをするとは思えない。考えなしで喧嘩っ早くて、雪男の取っておいたお菓子を勝手に食べたり、楽しみにしていたSQを先に読んだりするけれど、それでもそう言う『悪いこと』はしない。それが兄だ。判っているのに、つい言ってしまった。
 僕も意外とお子様だよな…。
 その日の夕食は味気なくて、寂しい食事になった。
 突然沸いて出たような髪留めの存在は、次の日になっても尾を引いていた。疲労もピークに達しようかと言う雪男の気分に主に作用していて、かなり機嫌が悪い。普段は愛想良く適当な距離で付き合うクラスメイトたちとも口をきく気になれず、休み時間は文庫本を開いて過ごしていた。
「まったく…」
 授業の終わった雪男は、祓魔塾の講師準備室でタブレット端末を弄っている。彼の席の近くで集まっていた女生徒の会話を思い出す。彼女たちは何て言ってたっけ?ヘアピン?バレッタ?そっと盗み見した雑誌には女性用の小物が鮮やかな色彩の写真入りでずらりと並んでいた。
「まったく、なんでこんなこと…」
 だが、本来ならあのキラキラした髪留めは幾ら位するものなのか。
 もちろん、まさか、兄がそんなことするはずはない。判っている。だが、調べてみないと気が済まない。
 通販サイトでうろ覚えのキーワードで探してみると、どうやら昨日ふと出現した髪留めは『くちばしクリップ』と言うらしいと判る。
「こんなにあるのか…」
 結果として表示された品物の多さに、うんざりした口調で呟く。
 値段は小さなもので百円しないものから、ある程度の大きさでキラキラと光る石がごっそりついて、数千円するものまでそれこそ多種多様に存在した。一番高いものは燐の一ヶ月のお小遣いを優に超えていて、到底手を出すはずがない、と納得できる。だが、中間くらいの値段は、シンプルなものから華美なものまで種類が豊富すぎた。
 女性たちは、こんなにたくさんある中から、どうやって欲しいものを選ぶんだろう?商品としての違いは判る。だけれど、どれだって髪の毛が留められれば同じじゃないか。こんなに種類がある必要性が判らない。
 兄なら一目見た瞬間に『選ぶ』ことなど諦めて、最初に手に触れたものをそのまま選びそうだ。ふと打ち消したはずの不安がまたむくむくと頭をもたげてくる。それがまた雪男の機嫌を悪くする。
「ホント、なんで僕がこんなこと考えなきゃならないんだ」
 一操作で画面を消した。
 
 かっしゃん、からからから、と乾いた音が響いた。燐が思わずびくりと身体を震わせて、あちこちを見回す。そして足元を暫く見つめていたかと思うと、青ざめた顔で雪男を振り返った。
「…雪男」
「どうしたの」
 一昨日の言い合いを引きずっていて、まだ何となく気まずい雰囲気だ。
 どちらから待ち合わせたわけでもなく帰りが一緒になったが、それでも何となく話し辛くて、少し間を空けてぶらぶらと寮に帰ってきた所だ。
「見たか…?」
「なにを?」
 燐が慌てたように足元を指す。
「なに?」
 雪男が拾い上げたそれは、携帯電話だった。二つ折りのそれの表面には、キラキラと輝くピンク色の粒が隙間なく貼られている。落ちた衝撃で、角に貼られていたであろう装飾が剥げ落ちていた。携帯につけられているストラップも、キラキラと輝いていた。ビーズでリボン状に編んだ幅広のストラップに、ワイヤー細工でゆらゆらとビーズの粒が揺れる繊細なストラップ、ラメの入ったビーズでウサギの形に編まれたストラップ、などなど。携帯本体よりも飾りの方が重いのではないかと思われるほどだ。
 どう見ても女性物という雰囲気の、派手な携帯だ。
「兄さん…」
「違うって!」
 燐が苛立ったように言い募る。
「百歩譲って」
「譲んな」
「…譲って、落し物を拾ったんなら、ちゃんと交番に届けなきゃ。落とした人、今頃困ってるよ」
 携帯を開いてみるが、反応がない。電源ボタンを押してもウンともスンとも言わない。充電切れでも起こしているのだろう。
「だから!ちげーよ!今俺の顔のギリッギリのところを落ちてったんだって!マジで!」
「なら誰が落としたって言うの」
「知らねーよ!なんだ、お前。こないだからムカつくことばっか言いやがって!」
 地団駄を踏みそうな勢いで、燐が怒鳴る。こないだって、おとといだろ。
「一昨日の前例があるからね」
 もうなんだか雪男の方も意地だ。と言うか、この謎は兄との会話がすれ違って、疲れている雪男を余計イライラさせる。
「ざっけんな!お前言って良いことと悪いことがあるぞ!」
「ならば、もっときちんと状況を把握してみようか」
「望む所だ!」
 燐が反射的に言い返す。
「この携帯が落ちてきたというなら…」
「落ちてきたんだよ!しつけーな!ホクロメガネ!」
 がぁっ!と唸って、頭をガシガシと掻く。
「上からしか落ちてこないわけだよね」
「下から落ちてきたらビックリするっつーの」
 雪男はメガネを持ち上げながら、燐のイヤミを無視する。
「この位置からだと、この寮の屋上から落ちてくるしかないわけだけど」
「…おう」
 燐が何を言い始めたのか、と怪しみながら同意する。確かに彼ら兄弟の暮らす旧寮は、裏手に回ると建物に覆いかぶさるほど近くに植わった木々もある。だが寮の正面ではそんなことが出来そうな木が近くにない。一番近い木からでも、よほど正確に投げられる腕がなければ無理だろう。
「この状況で誰が落とすって言うの?」
 束の間沈黙が降りる。
「ンなこと、俺の方が聞きてーよ!」
 燐が雪男の言葉を理解したのか突然叫ぶ。どこからか帰ってきたクロが、燐の肩の上に飛び乗って、にゃぁ、と鳴いた。ただいま、と言ったのか、どうしたんだ?とでも言っているようだ。
「お前なぁ!」
「じゃぁ、クロ?」
「何でクロが出てくんだよ!」
 今にも雪男の胸倉を掴んで締め上げそうな勢いだ。
「戸締りだけはきちんとしてる。非常階段も人間は出入りできない。でもクロが突然屋上に居たりするのは知ってるだろ?」
 自分たちが使う所は毎日戸締りを確認している。屋上へ続く非常階段は全面に格子が嵌められていて、登り口にも鉄格子と頑丈な鍵が掛けられている。だから外部の人間が、何処かの戸口を破らずに勝手に出入りするのはほぼ不可能だ。しかし、犬猫程度の小動物なら格子を楽に通り抜けることが出来る。
「俺だけじゃなくて、クロも疑うってのかよ?」
「僕はあらゆる可能性を考慮してるだけだよ」
 雪男がもう一つメガネを押し上げる。一緒に洩らす溜め息に燐が苛立って肩の先に青い炎を灯した。
「クロ、君はさっきまでどこに居たの?」
 きょとんとした顔をしたクロが、にゃっ、にゃっ、と何事かを訴えた。
「散歩だってよ」
 どうだ、と言う顔をするのが憎たらしい。まったく。
「そう。でもクロのその行動を証明できる者は誰も居ないし、兄さんが正確に言ってるという証拠もないよね」
 雪男の言い分に、クロが不満を訴える。
「クロなワケねーだろ」
「じゃぁ、他の可能性はなんだろうね?魍魎《コールタール》?鬼《ゴブリン》?彼らはこういうものには執着はないし、持ち運ぼうって言う知恵もないと思うけど」
「あのなぁっ…!」
「あのね…」
 にらみ合う二人と一匹の間を計ったように何かが落ちてきた。
 地面に当たって、こつん、と音を立てたのは針金のハンガーだ。二人で空を仰いだ。
「おいっ、雪男!」
「あ、あれ…」
 ばさり、と小さく羽ばたきの音が聞こえて、黒い影がそう遠くない木立の向こうに消えていく。身体の下には、なにやらもじゃもじゃしたものを掴んでいる。
「あれは…」
「カラス…か…」
 そう言えば、そろそろ巣作りの季節だっけ…。
 呆気に取られる。この騒動の犯人がカラスとは。随分と変なタイミングでやってくれるものだ。
 くはっ、と燐が吹き出して、ひとしきり笑った。
「ったく、カラスかよ!」
 雪男も釣られてふっと笑い出した。途端に気が抜けて、笑いながらしゃがみ込んでしまう。
「雪男」
「ん?」
 暫く笑った後、燐が雪男の名前を呼ぶ。
「いーってことよ」
 にやり、と燐が笑う。
「んで?雪男くんは何ていうんだ?」
 おらおら、と拳骨で雪男の頬をぐりぐりと押す。
「…悪かったよ、兄さん、クロ」
 少々バツが悪い。謝るのも勢い小声になる。
「きこえねーなぁ?」
「だからゴメンて」
「ちゃんと謝れないヤツの刺身はお預けだな」
 な?と猫又と頷き合って、人の悪い笑みを浮かべる。しっぽがしてやった、と言わんばかりに嬉しそうに揺れていた。くそ、刺身。
「あーもー!判ったよ!ごめんなさい!」
 

2012/08/28 掲載