黒バス_09

 
 
※赤黒です。
※これまでのテキストは黒バス_02,03,06,07,08になっています。
※こちらが完結部分になります。
※捏造部分過多です。

 
 あってもなくてもいいこれまでのあらすじ↓
 WC後、駅で黒子が洛山メンバーズの目の前で階段から落ちて記憶を失いました。
 赤司が別宅でお世話してますが、そろそろ冬休みも終わります。
 
  

 

【PDF版】<<※作製は未定です>>

 
 
 
<お願い>
※記載内の無断転載、無断コピー、データ転用、改変、再配布等はご遠慮下さい、お願いします。
 
 
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綺羅とノンフィクション
 

 
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 そういえば、とショウウィンドウのディスプレイを眺めながら赤司は口を開いた。
「黄瀬涼太との映画はどうだった?」
「映画は面白かったですけど、彼が大変そうでした」
「涼太が」大変。
 それはよく分かる。何かしら迂闊にしでかしたに違いない、思慮深い方ではなく不用意に墓穴を掘るタイプだ。
「あの人モテますね。赤司さんとも違った注目をされてて」
 記憶を失おうが何だろうがテツヤの黄瀬涼太に対する態度は一貫している。チケットがあるからと誘われて試しにと行ったはいいがどうということもなく、涼太が夢破れて終わったらしい。
「何か言われたんじゃないのか」
 相手はよくわかりましたね、と感嘆するように見返してから言う。
「神奈川で一からやり直そうと」
 何をどうやり直すんだと考えながらテツヤは丁重にお断りしたそうだ、尤も彼のことだからめげないことは容易に知れるのでその点は感心するし、油断ならないとも思う。
 そしてこちらもいつも感心することだが、どの店舗もクリスマスから年末、そして正月への切り替え展示は素早い。新装開店された文具雑貨店にはカレンダーと早くも節分の面が飾られていた。こうやって世間がくるくると品の入れ換えを行う間、テツヤと一つ屋根の下に居ながらろくに話も出来なかったわけだ。彼は一人で出歩くことを覚え、足が完治していないため全力疾走することは出来ないがボールハンドリングを誠凜で習ってきたり、青峰大輝とも会ったりしていた。
「このあいだ買った本、読んだのか」
 テツヤはいまミステリの方のクライマックスです、と答える。市民図書館でも借り、無作為に積んだ本の中でもミステリは下の方だったような記憶がある。読むペースは入院しているときよりも早くなっているようだ。
「文庫落ちしたっていう方は?」
「ああ…、まあ。良質な少女小説だと思いました。共感できない点が多くてボクとしてはもっと斬り込んでくるような…やや現実的というか、リリカルでない方を好みます」
「つまりは」
「作風が肌に合わなかっただけです」
 淡泊な物言いだった。趣味とはいえ命じられた任務みたいに黙々と本の消化していくのはどうかと思う、あんな家に引き籠もっても精神的に良くないだろうから無理のない程度で外出させるよう手は回したが、それでも読書量が多すぎているような気がして連れれば良かったとちらりと後悔する。本心を言わない家なんて言ったばかりにこれか。のんびり寛ぐどころじゃない。
「……」ちらちらと白く吐息が散る。
 でもこれで終わりか。
「少し離れただけなのにだいぶ静かですね」
 銀座の目抜き通りにある店舗で手土産を買う、歩行者天国を抜けて、京橋方面に向かう。歩かないかと誘ったのは赤司だった、月曜日から新学期が始まる。お互いに別々の学校生活に戻る、少しでも長い時間ともに過ごしたいと思うのは我ながら幼いとは思う、けれど離れがたい。ついていてやりたい、毎日寝癖を直してやるのが楽しかった、冷えた家のあちこちに彼の小さな痕跡を見付けることはどれほど自分を穏やかにさせたことか。
 休日のビル群は周囲を取り囲む企業が休みなので歩く人も段違いに減っていく、日が暮れるともなると尚更で複合施設となったビルを過ぎれば周囲は静まり返っていた。そういえばこの辺りだけ地下道は分断されている。再開発真っ直中ということもあり、殆どが素通りし、店舗もなければ観光人すら歩かないらしい。
「どうして運転手にあんなことをさせた?」
 信号は青なのに、隣の歩行が止まる。
「…すみません」
 少しの沈黙があり、謝罪があった。
「……」
 手を引く。テツヤはされるがままだった、怒っていると勘違いしているらしい。
「僕は、僕が、傍にいるうちにどうしても君の防御装置を起動させたかったんです」
「テツヤ」だから。
 赤司は首を振る。彼は拘るが、拘る意味すら見出せない自分とは対極な立場のままだ。口を開きかけて必要ないと諭そうとしても意味がないことに気付く。頑固だから、テツヤ自身が納得しないと引き下がってはくれないのだ、そもそも自分は運転手の素性も知らなければどうして彼がテツヤに付き合ってこんな芝居を打つのかも分からなかった。
「君に何かあれば僕は僕を許せません。運転手の依田さんは赤司さんのボディガードだと思ったんです」
 遠くでクラクションの音がする、振り返ると手が離れた。
「彼が?」
「足音がありません、たぶん僕のことも注意してました」
 近くもなければ離れすぎないところにテツヤは立っている。
「……」
 確かに、運転手は外見にしては身ごなしが軽やかだった。まあ仮にそうだとしても、残念ながらこちらは危機感など持てそうもない。赤司の嫡男として生まれたからには敵と呼べる存在があるのは解っている、幼い時分から言われ続ければ課せられた役割なのだと認識するし、抗う理由もなかった。常に勝者であれという格言みたいなポリシーは必要不可欠とも言えた。上にある者として、欠損はつけこまれる隙なのだ、と。しかし、資本主義が経済を動かし、法が確立した現代社会においては戦国時代のように命の遣り取りはしない。知恵のある人間ならば命を取るよりも生かすことの利用価値を優先させると推測できるからだ。リスクを最小限にして利益を得るのがビジネスの原則だろう、ならば専門家に依頼しようとも自分を直接狙うのは却って愚策な気がする。怨みなら別だが。
 あの時、赤司は車内で寝かされただけだった。何かは起こったのかも知れなかったし、なかったのかも知れない。依田は涼しい顔をしており、悔い、朦朧とした意識のなか構えはしたが顛末は呆気なく、夢でも見たような、イタズラに引っかかったくらいの認識しか持てない。テツヤがターゲットなら足を掬われたと即座に感じただろうが、自分だと寧ろ良い度胸とやっぱり冷静に受け取りそうだ。何だったんだと考え、どうしてと答えを出すまで時間はそう掛からなかったが、それでも意味不明なままだった。
「僕はそんなことは知らないし、意味があるとも思えない」
「だからお願いしたんです」
 相手の声にはここは引かないという意思が籠もっている。
「赤司さんは呼称がふいに変わったりします。わざとなのかも僕にはわかりません」
「それは」
「君の中で過去が溶け切らないで残っているような気がして、僕にはそれが不安だったんです」
 依田に思い切って訊いたみたらしい、けど何も答えてくれなかったとテツヤは苦がる顔をする。そんなの知る由もない人間に問うても答えられるわけがないし、賢明な勤め人なら口にもしないだろう。
「家のことについて僕は完全に部外者で、でもせめて君が関わっている『遺言』について赤司さんに話して貰おうと思って」
「遺言」
 いつ知った? …誰が言ったのだ?
「やり方は拙いし、手荒かったと思います、ごめんなさい。けど、僕も本気です。君のことを本気で心配しています」
 そういえば弁護士の名刺をどこに忘れたのかと探したことがあった。
「なるほど」
 共有の部屋に不用意に名刺を置いたままにしたり、妙なことを吹き込んでしまったから過剰に反応してしまったのか。いや、医療センターでか。誰と鉢会ってどんな話を聞いたのか知らないが、以来彼の意識はずっと赤司を辿っている。
「お前の記憶とはまるで関係ないことだ」
「怒りますよ」
 冷静な口調だった。赤司自身のことについて憤れるくらいには構築されたのか、そう思うと息が詰まりそうになる。
「ちょうど決勝の頃だった、別の場所で縁戚の遺言書が読み上げられた。何故か僕についての記載があった」
「……」
「それで席上が紛糾したかは知らない。僕は試合に負けて、大人しくしろと言われて、テツヤは階段から落ちたんだ」
 相手は声も発さず、ただ赤司を見ていた。じっくりと目を据えて簡素な言葉に埋め込まれた情報を読み取ろうとしているようでもあった。黛千尋が気持ち悪いくらいだったと言っていたのを思い出す。
「どこかで襲撃計画があったとしても、やっぱり僕は生活を変えないよ。テツヤが心配して守り続けようとするならそれも悪くないし」
「は?」
「そうだな、貰えるなら猫が飼えるくらいの家が良いな」
 相手の手を掬い上げた。テツヤは不思議そうな顔をする。
「これからも頼む」
 額をその手の甲に押し当てる。この体温も名残惜しいけれど、感じられないわけじゃない。
「お前が心配する限りオレは大丈夫だ」
「…赤司さん?」
———自分の影まで分離したんですね。
 勝っておいて悄然と呟く意味が理解できなかった。自分の中に何かを探そうとしているのも信じられなかった。それはそうだ、彼の中では自分はたった一人で、それ以上でも以下でもなく存在していたのだから。
 残っていたのも解せなくて不要だとずっと思っていたけど、違う。出遅れた自分がやっと中に溶け込んだ。
 
 
 手が落ちた、相手が小さく笑う。
「テツヤは物知りなんだな」
「嫌味ですか」
「違う。誤魔化しが効かないってことだ」
 褒めているんだろうけど褒められている気がしない。
「テツヤが好きだ」
「……」
 通りの向こうに地下鉄の駅表示が見える、車道を走る車が減って視界に入る人の数が増え始めた、吹き抜けるビル風はかさかさに乾いて冷たかった。誰もが外気は避けたいようで商業ビルから出ても急ぎ足で、殆どが地下鉄の階段の方へ吸い込まれていた。
「これまでの記憶があってもなくても、将棋を指せなくても、性別だって問題ないし、お前が何であろうと一向に構わない」
「って、未知なる生命体みたいな…」
 しかも何か誤魔化された気がする。いや、彼にとっては話はもう終わっているという方が正しいような。
「お前が異星人だって、未来人だって、ホモサピエンスというカテゴリから外れた存在でもいいという意味だ」
 人類外とはあんまりな話ではある。一応自分は一般的な高校生だと思っているだけに、突拍子もない人から突拍子もないことを言われるとその認識は何処からどのように、と膝を突き詰めて話し合いたい気になる。
「また大したストライクゾーンですね…」
 そうじゃなくて、と主張したいのに顔が俯いてまるで違ったことを言ってしまい、頬は弛緩する。そうですか、それはよかった。言葉にするならそんな感じでホッとする。騙すようなことをして嫌われるよりもいい、無関心であるよりもずっといい。何だろう、なんでどうでもよくなってしまうんだろう。
「嫌われてなくてよかったです、安心しました」
 だからこの言葉は真意で、嘘はない。
「……」
 何なんだろうこれ。どこか平静でいられなくなる。
「均一価格のワゴンの本がなかなか選べないで一時間以上寒空の下でうろうろするのも意味が分からないし、お前の言う本の価値なんてオレにはさっぱりだし、大事そうに読んでいた話も荒唐無稽な夢物語にしか思えなかった」
「君の、常識を度外視したスキルを持っている君の言葉とは思えませんが、ずっと昔に書かれたフィクションですからね。僕はあの物語がとても気に入っていて、末尾からの三行前のくだりは秀逸だとも思っています」
 この手の話ならどんと来いと構えられる。というか、いくらでも出来る。
「そういうテツヤがいいんだオレは。オレが見ていないとお前が呼吸も出来ないくらいになればいいのに」
 気持ち顎を持ち上げて満足そうに笑う。そのまま熱っぽい眼差しを向けられた、ぎくりとしてしまう。
「依存されたいんですか」
「違う」
 自信に満ちあふれた声、しかも小さく囁きかけるようだった。どうしてだろう、血が流れ始めるのが分かる。いや、元から体内の循環器は滞ることなく活動しているけれど、錆を落として改めて装置を稼働させられたような。
「嫌ならやめる。お前を手に入れるにはどうしたらいいのか知りたい」
「……」
 ぼんやりしてしまう。
「好きだから、かこつけてでも傍に居たかった」
「あの」そっと挙手する。
「オレの身の安全については肝に銘じよう」
 解っているという風に頷いてくれるが、そうじゃないです、とそう言いたいけど言えそうにない雰囲気だ。
「嫌なら嫌だと言ってくれ。ここで振って、切り刻んで構わない」
「別に、そんな」
 答えに詰まってしまうというか、返答に困る。己の状況とで追いつかない。彼と自分の感情その他の処理能力は違うのだ、特に複雑な系に関しては。
「でも諦めがつくまでオレは譲らないよ、黒子。オレを選べなんて言わない、必ず落とす。攫って奪うなんて簡単だからしない」
「赤司くん…」
 彼にとって最短で最良、もしくは効果的な手段を探し出すというのだろう、詰め将棋みたいに追い込まれていくのは嫌だなとは思う。
「覚えててくれ」
 赤司君は晴れやかな声でそう言ったけれど、覚悟してくれと聞こえてならない。
「……」
「赤司君?」
 前方を向いたままの赤司君が目つきを変えたのが分かった。鋭くて、これまでに見たことのないような獰猛さを秘めていた。
「…見付けた」
「え?」
 そこにいろ、と統率者の指示するが如く言いつけて赤司君は猛然と走り出した。辺りを見渡し、左に折れたと思うと見えなくなる。ビル内か地下街に下りる通路でもあるらしい。自分はここで殴ってでも話すべきタイミングだったのにと後で悔やむことになる。
 
 
 依田は暴力的な行為は得意ではない。
 得意ではないから運転手なのであり、いまのところはその職務をこなしているとも思っている。
「……」
 メモを書き替え、ボールペンを胸ポケットに差し入れながら息を吐く。
 日比谷にある地下の駐車場には赤司家が借り切っている部分があり、車は大抵そこで待機することになっている。利便性というよりどうも家の習わしらしく、駐車場から直結したビルのテナントしか訪れなかった過去を物語っており、現在もいささかも揺らぐことなく維持している健在ぶりを示してもいる。駐車場はそこそこの台数を収容できる規模で、ニュースと交通情報を示すとテレビ画面と自動販売機を置いた休憩所が誂えられてもいた。使用は自由で差はない、しかし地上の事情とも絡んで時間貸しと期間契約との区分がある。いまでも上得意であることは変わらないので依田も決められた場所で赤司征十郎からの連絡を待っている。彼は、友人である黒子テツヤとぶらついてから十九時までにはこちらに来ると言っていた。仕事であるからして依田は二人を銀座に送り届けてから呼ばれるまでの間、彼の父親の会社の重役だの取引先相手だのを運ぶ。駐車場に着いたのは十七時を過ぎた頃だった。
 最初に着信があったのは十八時前、GPSで確認すると十六歳の主はどうも日本橋の方へ足を向けているようだった。手土産を買う目的だったから目当ての品が見付からずに移動ということもあり得る、車はそちらへ回しておいた方がいいかも知れない。どちらにせよ、依田の感覚からして銀座も日本橋も日比谷にしても高校生にしたら面白みのない場所ではあった。それでもよくできた赤司の坊ちゃんはどうということもない顔で車に乗り、粛々と運ばれる。横に座る友人の方がいつも畏まっている。
 畏まっても思わぬところで大胆だったりするのだが。
「なかなかのご友人…」
 一人言ちる。カリスマとは無縁の、ごく標準的な高校生の見本のような少年だった。しかし強運というか、引きが良い。駅の階段から転げ落ち、記憶を飛ばしたというのは沈痛な話ではあるが半身不随の重傷でもなく人生をフイにしてしまったわけでもない、それどころか、居合わせた赤司が全面的に世話をしている。事故はその日のうちに届けられて警察で然るべき処理をされ、現在に至る。仕事仲間の話によれば、故意に突き飛ばしたのか偶然なのかが駅に設置されたカメラ映像では不明瞭であるため公開に踏み切れていないというだけで、チェックはされているらしい。駅はとりあえず違法改札突破の男を見逃すようで、決定的な場面を狙うそうだ。日本人はつくづく気が長い民族だと思わずにはいられない。
 依田は黒子という少年には自分に決め打ちでまっしぐらに頼み事をするのも若さゆえという言葉で片付けられない何かがあるような気がした。客分として屋敷にいても普段から存在感は希薄で、気にする風でもない。群衆に埋没していてもまったく気付かれず、それを当たり前のこととして、むしろ主張しないことを望むようでもあった。謙虚というのでもない、痕跡だけを残すような少年の親切さには感服している。
 そろそろではないかと用を足してからガラス越しに休憩室のテレビ画面を見る、いつも通りの渋滞と都内某所の火事、傷害事件が字幕付きで流れている。何気なくその映像を見詰め、時間を確認した。車に戻る、携帯電話が震えた。赤司からではなく、黒子からの着信だった。
———『すみません、依田さん』
 少年の声は明らかに切迫していた。おやと思う。
———『赤司君を見失ってしまいました、いま彼がどこにいるか教えて下さい』
 誰かを追い掛けてと続けられたら致しかねますとは言えない、依田は即座に端末を手にし、起動させる。彼はいま有楽町の地下通路にいる、八重洲の方から回り込んで東京駅を駆け抜けたのだろう。封鎖に、年始年末の拡張工事、地下道もごちゃごちゃとやっていたはずだ。
 
 
 薄暗い通路を抜ける、目の前の非常用のものと覚しいステンレスの重たいドアを開けると細い階段がある。降りて階段裏にあたる部分に折り返す。かび臭い空間に出た、とはいえ、通路には違いない。振り返ると黒子は階段の上におり、太腿をもみほぐすようにしながら辺りを見回していた。無理に走ってきたらしい、どこか戸惑うような、迷路に迷い込んだような顔つきだった。
 靴音が重たく反響する通路は無人ではなかった。取り壊しが決定されたビルへ直通の地下道だったが、まだ生きている。依田は左右を見てから、右に進む。赤司を地下から追跡する。彼の後姿に追いつけたら、いや気配すらあればもうけものだった。日比谷には姿を見せない、携帯電話も通じなかった。黒子が赤司を見失ったのは京橋付近、有楽町までは分かった、しかし通路の微妙な高低差のせいなのか機器の位置情報は飛んで、そして消える。日本橋で張ろうかと思ったが止めた、彼が辿った通路を追うしかない。
「……」
 依田は運転手である。地図は得意だ、千代田区と港区と中央区に品川区の一部、渋谷区と世田谷区は完璧ではないがそこそこ訳には立つだろうハザードマップを脳内に用意してもいる。地下道のダンジョンとて敵ではない。
「…征十郎様は待っているようにと黒子様に言われたのですよね?」
「あ、はい」
「地下道は階段や段差などが多くございます。黒子様には危険です、日比谷でお待ち下さい」
 但し、体力に自信があることはまったくない。運転手なので。
「えっ?」
「征十郎様は依田が確かに追いかけますので」
 使用すべき地下鉄の路線名を告げて依田は進んで行く。静かな場所を求めているのかカップルとすれ違う、細い通路はやがて広くなる。何かを回り込むようにして道なりに歩く。突き当たりは壁だ。地上への階段があるのみに思えるが、手前のシートやネットで覆われた壁や店舗の並びにあるコーンが示す細い通路が直進できるようになっている。地上と同じく再開発中なのでところどころが休眠状態で通路が分かり難くなっているのだ。音楽を聴きながらすたすたと横切って地上出口へ行く女性をやり過ごし、コーンを曲がり、走らないがせかせかと足を動かす。左折して直進、果たして封鎖箇所はあった、軽く失望する。近道と考えていた通路だった。上がって下がる迂回路を選ばなければならない、とはいえ地上は幹線道と一方通行、併走も出来ないし、歩くとなれば渡ることすら時間がかかってしまう。
「……」
 壁に貼られた案内図を確認しながらやはり赤司が来るのはここだと確信する。地下道は繋がってはいるが、自由性が制限される箇所がままある。甘い建築計画の賜物なのか、高低差や丁字をひたすら組み合わせたようになりながらも地上の地図と俯瞰し重ね合わせて見たところで通りの向こうかこちらかというくらいで、単なる迷うための道とも言えた。だが、最終的につながるのがどこかを把握していれば立体迷路のような地下道は歩ける。つまり、逆のことが言えて、赤司はどこへ行ったとしても黒子と別れた京橋付近には戻るのだから現在の居場所すら知れば使用する通路は推測できるわけだ。遠くへは移動しないだろうと高も括っているが、お坊ちゃんは立場と己に振り回される人間の存在のことを承知しているのでただの高校生にはない分別があると信用していた。
 赤司の位置情報を確認する。今度は捕らえられた。
 また階を下がる。直進方向に耐震用なのか広告を貼った太い柱が思わぬ邪魔をするが、通路は突き当たりで広い空間にぶつかるのが分かる。地下街までの道と交差するのだ。右に新しい通路もあった、エレベーターの設置工事中の覆いとシャッターがおりた店舗。いまは取り残されたようにぽつんとあるが平日は機能しているこぎれいさがあった。
 一歩で足の裏に感じられる感覚まで変わる。ふつふつとざわめきが伝わるようで同じ通路なのに管轄が変わったとばかりに雰囲気も地下道らしさがなくなった。ビルの踊り場という趣で、これも近道になる通路があったと思う。ここだと赤司が辿るだろう道は二経路で、もはや博打だ。地下鉄方向からぶつかってくる通路から女性の二人連れが出てきた。女性の一人が後方が気になるのかちらりと一瞥を呉れる。依田はもう一人でもそちらから出て来てくれないものかと考える。
 誰も出てこなかった。仕方ないので歩み寄る。冷たい風が吹きつけてくる、地下道なのに。
 依田は通路を少しだけ覗くことにした。
「ああ…」
 通路の向こう、何故か東京駅に向かわない方へと赤司の頭が動いているのが見えた。安堵する。
 二人の男性が彼の前を歩いている。パーソナルスペースを保てる距離感というのがやや不自然に思えなくもないがこれが正しくある動線で距離だといわれればそうとも頷ける。鞄を手にタブレット端末の画面を見詰めながら歩く眼鏡のスーツ、飲酒しているのかやや蛇行している。数歩斜め後ろはアルミボトルだけを持っているスーツ、そして赤司。
 まだ遠いが何かアクションを起こせば気付くだろう、依田は手を挙げて合図を送ろうとする。ピッとデジタル時計のアラームの音がした、十九時になった。
 赤司は二人の男の斜め後ろにいた。と、唐突に彼の前の男が赤司に向いたと思うと、くるりと前方のタブレット男を見た。
「依田さん」
 黒子の、ないようでいてぽたりと落ちる気配。声に振り向けば数メートル離れたところに黒子がいる、やはり追いかけたらしい、思い詰めた表情で赤司くんは、と問う。依田は安心させるよう頷いてみせる。
「ええ。あちらに」遠いですが。
「はっ…」
 無茶して依田について走ったため痛むのだろう、膝に手を置きひと息入れるように黒子が俯いた、そのときだった。
 不快な声がして、どしんと物がぶつかり合う音がした。痛そうに思えなくもないタブレット端末の落下音も残響として通路を抜ける。依田はすぐさま向き直り、前方を注視した。
 スーツ姿の男二人が険悪な雰囲気で睨み合っていた。タブレット眼鏡は痩身だが売られた喧嘩を買うほどには短気で血気者らしい、アルミボトルは肩幅も広くそこそこの肉付き、身なりは良いのに目つきは悪く、どんな混雑でもぶつかる方が悪いと言い切って往来を歩くような剣呑さが背広のあちこちからも滲み出ていた。
「?」
 アルミ男がタブレット眼鏡を追い抜こうとしてぶつかったのだろうか。何の因縁なのか一部始終を見ていない依田には知りようもない。
 タブレット眼鏡の方が分が悪いらしい、どんどん肩を突き飛ばされて反撃の余地も与えられず壁に追い込まれている。
「何するんですか!」
「テメーが悪くんだろ!」
 しかも互いに引こうともしない。知り合いだったりするのか?
 アルミボトル男は壁だか目の前の男だかを罵り、続けざまに蹴る。タブレット眼鏡も応戦しているが、酔いの勢いである感は否めない。何の小競り合いだろうと僅かばかりの通行人が引いた目を向けた。行きがけの迷惑行為、駅でない地下道で誰に仲裁を乞えばいいのだ? という顔をしている。
「……」
 ん?
 黙っていた赤司が、依田達の存在に気付く。
 赤司は目の前の諍いよりも黒子がいるということに戸惑うように見えた。
———パンッ
 どちらかが払った腕が当たり、赤司が突き飛ばされたような格好になった。依田は慌てて駈け寄ろうとする。地下鉄方向から男の声が響く、喧嘩です、と男は改札の駅員に告げているようだった。アルミボトル男がそちらを向いて相手を突き放した。
 暴力的なことは全然得意ではない依田は向き合う形になり、ぴくりと身体を強張らせる。相手は駅員が姿を見せる前には走り出していた。咄嗟にタブレット眼鏡が「おい」と手を伸ばしたが捕らえられない。どんと肩がぶつかり、依田も身体が斜めになった。
「テツヤ!」
 身を立て直した赤司が依田の横をすり抜けて男を追う。アルミ男の猪突猛進という進路上に彼はいる、黒子は身体ごとで相手を躱せられるような状態ではない、しかも顔を強張らせ、その場に竦んだようになっていた。
「黒子様っ」
 待て、という声と数人の足音が迫る。
 と。
 とすんと音がした、黒子は突風に圧されたようにその場に尻餅をつく。
 依田は目を瞠る。赤司が横様にアルミボトル男を蹴っていた。通路内に鈍い音が響いた、こちらは少し派手めだ。彼が手出しするなどなんの正義の発動かとぽかんと見詰める。後方からの攻撃を食らい、男は驚いたようだった。生来の気質に従い体勢を立て直すと逃走することも忘れ、コマンドは闘争を選択とばかりにじろりと赤司を睨む、相手が自分よりも背の低く、さほど力のなさそうな少年であると再確認すると誰かが落とした自信を拾い集めて生きてきたような質の悪さが歪めた口元に現れ出る。依田はこの男の顔を知っている。
「…このガキ」
「ちょっ…あか、待っ」
 相手は黒子が言い終わらないうちに赤司の胸倉に掴みがかろうとする。黒子は唾を飲み込むと青ざめた顔で待ったを掛けようとする。赤司は気持ち腰を落として突進を避けると男の腕を払った。ぱんっと弾けた音が反響する。切り返した男が力任せに右腕を赤司に打ち付けたのだ。
「落ち着いて! 止めなさい!」
 依田は追う駅員と親切な通行人、まるでドラマかのエキストラのように走っていく。
「赤司君!」
 赤司の唇が動くのが見えた。その歪みの正体が依田には分からない。息を詰めて胸ポケットに触れる。睨み合い、赤司が僅かに黒子の声に反応するところへ男の右脚が持ち上がる。同時に赤司の手は相手の首筋から顔面に狙いを定めていた。
———かんっ!
「…っ!」
 甲高い音がこだまして赤司の手から紙片が落ちる、掌は赤い血が滲んでいた。アルミ男は目の前を通過したものに身体を強張らせ、ふらりと二歩ほど蹌踉めいたと思うと呻き、膝を折った。駅員とエキストラ三人がかりで取り押さえる。男は何度か瞬きをする、何が起こったのか判らないような顔だった。タブレット眼鏡は駅員二人に挟まれ潮垂れたようでありながらも唖然としている、斜めになった眼鏡のレンズには何が映されているのか、自分の状況と脳の理解が一致しきれていないみたいだった。
「ああ…」
 のろりと視線を動かし、ただの発声運動のような声を出す。酸素が足りない自分の頭にペンなど始めからないのだ言い聞かせているように。そんな依田のボールペンは勿体ないくらいの良品で、ダーツのように壁に突き当てる道具ではない。でも仕方がない、息を整えながら黒子を助け起こしに行くことにする。
「……」
「赤司君」
 息一つ乱してもいない。赤司は黒子を見、ほんの一瞬泣き出しそうな顔を浮かべると、いつもの鋭さのある表情に戻す。埃を払うように肩やらを叩いて駅員に頭を下げる、短く言葉を交わし、黒子の元へ歩いて来る。
「怪我はないな?」
「君のお陰で」
 うんと頷く。背後の落ち着きのなさやこれまでの騒ぎに顔色一つ変わっていない。堂々と落ち着き払い、微妙に揺らいだあの表情も幻に消え、本当にあったのかすら思い出せないほどだ。一気に彼の関心事から消去したみたいにエキストラは論外で、タブレット眼鏡もアルミ男も自分たちとの実際の距離以上の、溝のようなものが構築されたと思う。
「オレは待っていろと言ったはずだよ」
 俯きがちに声は硬く冷え切り、抑揚がまるでなかった。
「血が、出てます。何をする気ですか、君は」
 黒子の声は震えがちだが強い。赤司はそれには応えずアルミボトル男を振り返る。依田はボールペンを完全に諦め、赤司に目を遣った。
「頭が高いな」
 無慈悲に落ちる。
「…だが、テツヤが怒らないから許してやる」
 初めて聞く、静かなのに彼の怒気と憎しみと蔑みとを存分に孕んだ声だった。威嚇ではなかった、赤司は場違いに澄んだ笑みを浮かべる。
「しかし通報しないのとは違う」
「赤司君、怖いです」
 黒子は未成年の少年らしく怯えと緊張の混じった顔でぽつりと呟く。友人に触れることを躊躇うが、すぐに思い切ったようにポケットから取り出したハンカチで赤司の掌を巻いた。
「一生ぶんの報いを受けさせる」
 吐き捨てる言葉はそこまでで譲歩してやると言いたげで、お坊ちゃんらしからぬ殺気を必死に堪えているようだった。自分がボールペンを投げつけなければと思うと怖気がする。
 依田さん、と乾いて掠れた声で黒子に呼ばれる。電話のコール音を聞きながら曖昧な会釈を返した。
「申し訳ありません、報告は務めなので」お待ちいただけますか。
 少年は引き下がり、依田は頭の中で手短な説明を考える。赤司は違う方を向いたままでいるが、低温火傷しそうな激怒のほどは明らかだった。
「…もしもし?」
 もし、依田が何もしなかったら。
 依田は不思議な違和感の中に立ち尽くす。考えてはいけないとは思うが、揺らぐ。染みのようにして確信めいた疑念が拭えない。赤司の坊ちゃんには強い憤りはあったけど、すべてが感情的ではなかったのではないか、と。
 あのとき彼は、黒子を守ろうとして、静止させるべく男を蹴った。友人の盾になる、見ていた誰もがそんな風に考えただろう。しかし成り行きにしても赤司は明確な害意を持って男の顔面に武器を突き上げようとした。あれは折り畳まれた小さな紙片だった、ぴんと張り、持っている本人を傷付けられるほどには鋭利な刃となった。細い側溝に落ちてしまったが依田は見逃さなかった、だからボールペンを投げたのだ。紙は地下水かに湿っているはずだ。
「…はい、…ええ」
 彼の怒りは正しい。けれど立ち回り方はどこか年相応とはいえない、狡猾さがあったように感じられる。望ましい場面を引き出すため彼は何かを投じたのではないのだろうか、位置情報が乱れるなど偶然といっていいのか? あの口元の歪みの意味は何だった? 誰にも見えていない空白の時間に赤司が大の大人を操ったのではないか。やりすぎた赤司が傷害罪で補導され、止められなかった咎めでクビ、依田自身の不利益まで逆手に利用したのだとしたら———すべては推測でしかないのだが。
 それにどのような疑問を抱いたところで自分は赤司家の運転手なのだった。
「…はい、では。お願いします」
 通話を終えて息を吐く、なんて子供だ。
 
 
 
 車を回してくる依田を待つ間、何をどうすればいいのかと考えたらしい黒子は赤司の手に缶コーヒーを持たせ、その上から包むように手を握った。
「とりあえず糖分摂ってください」
 ビルの間を風が吹き抜ける。寂しくはない明かりはあったが、暖かいわけではない、赤司はぼんやりと黒子を見た。それはお前の方ではないのかという疑問を込めて、である。自分の頭は冷めてはいたが、まだ一部に凝った憤りを抱えてもいた。
「赤司君、荷物は?」
 ベンチに座る赤司の前に立っている相手は努めて寒くもないし、へっちゃらであると言いたげな顔をしている。
「コインロッカー」
 というより、正しくはゴミ箱が見当たらないし、邪魔なので途中のコインロッカーの横にある自販機に食わせた。末路は知らないが、テロよりもかわいげのある愉快な酔っ払いの仕業くらいで済んでいるはずだ。だが要冷蔵の菓子折は明日また買い直さなければならない。
「なら鍵を持ってなきゃですね」
 素っ気なく言い、手を離す、これは嘘だと見抜いているのだ。
「でも握ってあの人を殴ろうとしたわけじゃない、持っていたのは君自身を傷付けるものです」
「尋問か? オレは刃物なんて持たないし、善良な一般市民だよ」
 わかってます、と遣り切れないように呟いてハンカチを巻いた手に視線を落とす。
「やっぱり心配です」
 黙ってコーヒーを喉に流し込む、甘い。
 自分から離れておいてあれは突発的な事故であると訴えるのも見え透いている、黒子はどうして赤司が彼を置いて走り出したのかを知りたがっているだろうし、行動のあれこれを問い詰めたいはずだ。しかし赤司は答えようとは思わない。単なる私怨でそれだけだが、満足する結果を見届けられない以上、復讐心は蓋をして仕舞い込んでおくに限る。
「ちなみに京橋でお前のことを置き去りにしたとき、お前が困惑するとかそういうことも置き去りにしていた」
「迷うとか」
「そう。この辺にバニラシェイクを扱う店舗があるのだろうか?」
「知りませんよ」
 真面目に訊かないでください、と黒子は言い切り、ふうと息を吐いた。
「君、ほんとにキレてましたから」
「当然だ」
 二度も手出しされてたまるものか。
「ボクも、君のこと、好きか嫌いかと言われたら好きですよ。妙にスマート過ぎたりするところとか苦手でしたけど嫌いじゃないです」
「……」
 後悔でもしているみたいに言う。
「君には一生わからないようなところですよ」こっちが近付くしかないじゃないですか。
 黒子はすとんと隣に座る。正面のガラス面に自分たちの姿が映っていた。気にしたこともなかったが、こんな場所でも頭上の星は見えるのかと赤司はまるで関係のないことに感心した。改めて横を見る、黒子は本物の空を見上げていた。この時季に降り落ちる星を漫然と探すかのように。
「…けれどこれが君の求める答えじゃないのも知ってます」
 白い吐息を吐き出す。ちらちらと消える様子を見ていた、ひとの呼気は風花なんかよりも儚く散る。
「君は、ボクのために獅子奮迅の努力をしたりしないでしょう? 別にボクのために君が奮闘するのを面白がる趣味はないですけど、…そもそもスペックが高いですし、あらゆる面で手に入れているものが多いですからね。嫌というほどに分かりました、ボクとは世界というよりも次元が違っている」
「捨てても良い」
 力はこもらないが嘘偽りのない本心だ、黒子はくすりと笑う。
「自棄みたいなこと、君に相応しくないですよ。まるっと面倒を見るのが君です。僻みとかでもありません、事実を冷静に話しています」
 と、言葉を切ると黙考し、慎重そうに続ける。
「強いて言えば教典が違う者同士、ということです」
 よくわからない。
 けれど肩を寄せたかった、もっと近くで彼の声を聞きたかった。
 赤司のことを慮っているのか黒子は触れようとはしなかった。今回は見逃すというのならそれでもいい、蒸し返そうともしないから、胸のあたりがあたたかくなって、もどかしくなる。
「どうして思い通りにならない?」
 赤司君、と黒子は首を振って続ける。
「聞いてますか、ボクは君が絆されてるだけなんじゃないのかって思うから…」
「十八になる前に留学しなければならない」
「…え?」
「場所は決まってはいないが、おそらく息苦しい寄宿学校とかなんだろう。バスケではなくボートやらクリケットをやらされるに違いない」
 口が半開きになったまま黒子は固まる。理不尽な罰ゲームの内容でも聞かされたみたいに。
「そんな場所、想像しただけでも退屈で吐き気がする」
「……」
「勘違いならそれでいいよ、首っ丈でどうしようもないと思い込んだままお前がいてくれるなら本望だ」
 缶コーヒーを足下に置いて言った。黒子はじっと赤司を見返す。
「狡いですよ、赤司君」
 表情はともかく、声は冷静さを欠いている。
「唐突になんなんですか? それ。切り札みたいにそんな大事なこと言うなんて、あざといというか、焦ります」なんですかそれ。
「遺言」
 不意打ちを食らい絶句する、沈痛な面持ちで、遺言って中身それですか、と嘆くように言う。そして小さく咳払いをする。
「とにかく、息を止めただけじゃなくトドメまで刺そうとするようなものです」
「時間がないんだ、カードの使い方を誤りたくない。それにこれはそもそも呪いだ」
「呪いじゃありません。君を守ろうとする願いですよ」
「え?」
 黒子は表情も変えず、訂正します、と掌をこちらに向けるように持ち上げ、願いなのだと思う、と正した。
「まずはそれに乗っかっちゃって下さい」
「行けと?」
「はい。その気持ちは共感できるのです、ボクは君が大事です。だから、分かるんです」
 赤司は頭が軽く混乱したまま呆然と振り返る。運転手の依田が捨て…もとい、自販機に呉れたはずの荷物を手に提げて立っていた。
「征十郎様、黒子様、お待たせしました」
 恭しく一礼する。いったい何をどこから巻き戻せばいいのか。
 
 
 珍しく赤司君の方が理解できないという顔をする。誰のどんな気持ちにどう共感できるというのか、と無表情の裏側でしゃかりきに考えているに違いない。迎えに来てくれた依田さんが怪訝そうな顔をした。
「どれくらい待てる?」
「はい、こちらなら三分ほどですが、施設の地下駐車場ならばいくらでも」
 赤司君は速やかな回答に対し、では駐車場に頼む、と考えもしない素振りで即返した。潔い依田さんの後ろ姿に正直待って下さいと思う(しかも彼は抜かりなく赤司君の飲み終わったコーヒーの空き缶を拾っていくのを忘れなかった)、なんというか、判ってはいたけれど会話の主導権はずっと赤司君のままで大事なことが伝えられていない。訳が分からないけれど乱闘騒ぎもあって赤司君が怪我をしてしまった後悔もある。ああもう、でもいいか。違う、怪我は良くない、が、彼は懇々と諭さねばその遺言についての誤解をわかってくれそうもない。
「…十八歳って高校までですよね」
 まず問い掛けた、相手は頷く。
「どこの方が遺したのか、赤司君との関係性も知りませんが、ボクは君を不自由にするのではなく、逆に自由にする時間を与えたいんじゃないかと思いました。君は良くも悪くも目立てますし、どうも高校上がってから忙しそうですし」海外では家の事情だって流石に追いつけないでしょう。
「かも知れないが」
 それが何だという顔。想定はしていた。京都の寒空に許せないのは無理解ではなく鈍さだ、と言い放った実渕さんの顔が思い出される。そして駅の階段でぶつかった男性の顔も自分はちゃんと見ていたのだな、とそんなこともちらと思ったりする。嫌な浮遊感ともつかない落下の感覚と共に植え付けられてしまった恐怖感は冷たく神経を刺激する。
「寒いな」
 赤司君の手が持ち上がり、どこにも触れられずに落ちた。代わりに少し距離を詰める、肩先が触るくらい。
「はい」
 鼻頭を軽く擦って考えた、言い方を変えることにする。
「ボクがバスケを続けられたのは、君の言葉が頭から離れなかったからというのもあります」
「……」
 聞き逃してはならない言葉を拾ったという顔。
「君にとっては何てことない一言だったんでしょうけど、ボクにとってはある意味ガソリンでした」
「…テツヤ」
 わずかに眉を動かす。気付いたらしい、薄く形よく整えられた唇が閉じられて、ひと呼吸ぶんだけの間を措いてから「いつ?」と動き、物を云おうとする前にぶんと頭が振られる。
「何を言った…?」
 赤司君は呟く。相手の顔を見た、覚えていないものを探り出すというよりも、どれだ?と必死に脳内の引き出しを開けては選びあぐねているようだった。複雑な乱数に包囲されようとも超然としてて、その無表情さがなんとも言えなくて、続きも言えなくて困ってしまった。
「君は欲張りですね」
 謙遜と裏に見える揺るがない自信、まったく強いひとだと思えたそんな一言が、いつしか血液にとけて体内を駆け回っていた。彼は、知らないような顔をして、本人よりも心臓の動かし方を知っているみたいにこちらの血流を操作する。
「自分は何もしてないって赤司君は言ったんです」
 赤司君は少し黙ってから、そうか、そうだったな、と噛みしめるように応える。
「…そんなわけで、ありがとうございます」
 相手は頷きもせず、静かに自分を見ていた。
「最初から最後までかなり色々な冬休みでしたが、ボクにとってはなかなか味のある、楽しい物語でした」
 恐らく、中学時代以上に彼のことを知った。
 静かであるはずの毎日は彩りがあって、過去の記憶を落とした悲嘆に暮れる暇すらなく、あっという間に終わってしまった。いつかこの体験を書いて欲しいと誰に言われても絶対に書かないし、教えてやらないとも思った。
「正直、あれこれと頭が混乱しそうなんです。背中にびっしょり汗掻いてますし」この時期に。
 それがどういう意味であるのかを告げるように繰り返す。
「この時期に、ですよ」
 赤司君は目を丸くし、それから小さく笑った。自然な、やわらかな笑みだった。
「寒いのにな」
「まったくです」
 枯れ葉が音を立てる。ベンチから立ち上がって赤司君に手を伸ばす。握手するように握って赤司君も立ち上がった。どっこいどっこいの冷たさですねと手を離してから肩を竦める。耳の感覚がなくなりそうになる前に駐車場に行かねば。
「言葉や想いは気化して、上昇して、集まって宇宙でビッグバンを起こすんですよ」
 赤司君はなんだそんな話があったのか、という顔をする。
「それが流星群となって降るんです」
「隕石より夢はあるな」
 薄い反応からしてあくまでもフィクションはフィクションで練り上げた精巧な嘘であり、リアルとは似て非なる虚構というスタンスであるからしてそのような話が名作だろうが駄作であろうと自分には何ら影響はないが、と続きそうだった。とても現実的なのに非現実的なボクによく付き合えたものだ。
「…ボク、赤司君のこと大事に思ってます。きっと君が思う以上に」
「そうか」
 足下で踏まれた落ち葉がくしゃりと乾いた音を立てた。軽くて寂しい冬の音だ。
 寒いのに寒くはなかった。
「大事だからよかれと思うことを自分なりに考えたりするんです。遺言に書くということは形式上以外の想いも含まれているとボクには思えてなりませんでした」
「…うん」
 鈍い彼にも届いただろうか。
 拙くても何でも遺された純粋な願いはこれから生きていく人間に継がれ、果たされなければならない。
「大往生だったと聞いている」
 まずまずの人生だと生前言っていた、赤司君はその人のことが好きだったとぼそりと続けた。
「テツヤ」
「はい」
「明日まで」
 赤司君は記憶が戻って良かったとは言わずに、ボクの手首を掴んで小さく言う。約束事みたいだ。
「荷物もありますし、依田さんやお屋敷の皆さんにも挨拶しないと」
 自分はこれからもきっと彼の中に溶けている彼を見付けたりするだろうし、違う彼を捜そうとしたりするのだろう。この先も喧嘩したり、折り合いをつけながら赤司君と付き合っていられたら〝まずまず〟には及ばないにしろ、悪くない人生を歩んでいけるのではないだろうか。
「君の気持ちは受け取りました、ボクは窒息しそうです。今回はここまで勘弁して貰えないでしょうか」
 それでも真っ直ぐに射るような眼差しに立ち向かうべく、ひとまず息を吸って吐き出すことにする。
 
 
「ていうか、もう恥ずかしすぎて、自爆しそうです」距離おきたいんですけど、いいですよね。
 赤司は黒子の言葉を頭の中で数回反芻し、咀嚼し直している。
「言ってる意味、分かりますか? 行くなら行ってとっとと帰って来てください、ボクも頭が冷めますし。今後のことはそれからです」
 汗をかいている、テツヤはそう告白した。意識してしまうから、冷めないから。それは脈があるということで、赤司は斬られる覚悟を放り投げて望みを持って待っていいということだ。
「わかった」
 猶予があると知っているだけでも気持ちは凪いで、目を閉じて正常化した装置の歯車が噛み合う音を聞く。
「テツヤ」
「何ですか?」
「抱き締めていいか?」
「いわゆるハグってやつですよね、節度のあるスキンシップなら別に許可はいらないかと」だが断るという風に手を横に振る。
 簡単に答えるということは、赤司は彼のパーソナルスペース内に踏み込むその認証を得ているのは確かだろう、でも答えはノーだ。自爆してしまうからか、いまの状況的にか心情的にか。強引に抱き締めたら殴られそうなので諦める。
「……」
 黙ってエントランスに入り、地下駐車場へ降りるエレベーターを探す。休日は稼働基数を減らしているようだった。光沢のある床は足音がよく響いて、テツヤはふいに足をかばうような歩き方をする。
「無理させたな」
「サポーターを外して走るべきでした」当たって痛いんですよ。
 新しい靴に馴染まずにできてしまった靴擦れみたいに言う、腫れは引いたが走っていいとは聞いてない、三週間から一ヶ月はサポーター装着、治療とリハビリは必須と本人も判っているはずなのだが。
 頭上にある筒状の装置が暖色の光を点滅させ、コンパートメントは到着する。赤司は走って追わせたことを詫びればいいのかバスケをしたくないのか責めたいような心境とで鬩ぎ合い、考えてしまう。
「…君のせいです」
「っ!」
 風景がふいに傾ぐ。違う、突き飛ばされたのだ。
「……」…でもなく。
 横から抱きつかれているのか? 左腕が持ち上がったまま肩の方に相手の頭と顔があって、エレベーターは階を指示されないまま音声もなくドアを閉める。正面でダメなら後方でもなく横というのは折衷案なのだろうか。
「テツ…」
「優勝のオプションが盛りだくさんで綯い交ぜどころか攪拌状態ですよ」
 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
 くすぐったくてたまらない。
 動けない赤司に代わり、脇を通った相手の手が手すりの位置にあるボタンを押す。がこんと音と立ててゆっくりと小箱は深いところへ落ちていく。
「…何もかもオレのせいだ」
「君のせいじゃありません」
 怒ったように返す、どっちだ。
———ガタ…
 ドアが開く、最下層の駐車場には車が殆どなかった。そして依田もいない。顔が自分でもわかるほどに熱くなってにやついているだろうところを見られなくて良かったが、テツヤの方は赤司の身体から手を離したままおやと首を捻っていた。
「車は、地上に近い方にあると思う」
「そうなんですか…」
 小さくなって俯いた頭は耳まで赤い。ダメ出しに好きだと囁いたら溶けるかもしれない。そういった反応を引き出したいような気がするけれど、自分も余裕がない。彼の息を詰めた必死の顔が造作なく覗ける身長差でよかった、ここが地下でよかった。憚りなく噛みしめられる。
「上がっていけばいいだけの話だ」
 平静を装い、ボタンを押す。潔く地上の遙か高みのフロアにまで上がったコンパートメントはすぐには来られないらしい。表示はきわめてゆっくりと下がり、止まり、本当に呼ばれたのかと問いたげな疑わしさすら感じられた。
 本当のところは物足りないし、近寄る人肌を期待するが隣はどうしたって猛省中で、いまはそれで満足だ。気まずさを覚えないほどの待ち時間が望ましいのだけれど、黙ってもいられず思わず言葉を探してしまう。
「…すぐ行ってくる。長くても三ヶ月で戻る」
 ついでのように言えただろうか。
 相手の赤みは引き、どこへ、という風に眉を持ち上げてからぴんときたのかすぐに応える。
「これからですか?」
「ああ」
 決断が早すぎるんじゃないか、とも、納得してまずまず、とも言いたげだ。それでも本気なのは判っているので驚きませんと平然とした態度だった。
「夏までには会えますね」盛大に凱旋パーティーしましょうか、湯豆腐で。
「会えるか?」夏に湯豆腐か。
「もちろん」それはもう壮絶な我慢大会なことうけあいです。
 無機質で、どこか懐疑的なエレベーターのドアは開く。運んできた空気は冷たくもなく、誰かの気配をほのかの残しているようでもあった。
 テツヤはこくりと頷き、生真面目な声が小箱の中に響く。
「夏の空に誓います」
 小箱が上昇して、し続けて成層圏の先あたりで言葉が弾けるのを想像した。
 それはそれで悪くない。
 
 
 
 

141104 なおと

 
 
 
 
 
 

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 黒子さんの読書は雑食っぽいなと思うのですが、ロジック系が好きかなと。
 正統なSFから入って外文、ミステリ、ルポ、純文、時代もの、話題作も当たり前にラノベもまんべんなく行ってるような。
とりもなおさず最後がスカッとする話とかは食いつきそう。

  

 普段は冷静沈着で、許容範囲も広めですが、限度を超えると激昂する。
 そのとき、後先は頭の中にちゃんとあって巻き込まれる人間のデメリットとを天秤に掛け、最大限の無茶をする。
 諸々を計算尽くでの行動、赤司さんならやってもおかしくない。
 敵に回したら心底怖い人だろうなと思います。バスケなら手強い程度で済む話ですが。
 今回は理不尽に身内に手を出したので容赦手加減はなしでした。
 いきすぎようとするときに殴ってでも引き戻す役目は自分なんだろうなと黒子さんは解ってると思います。
 責任感というか、負けん気も手伝って。

 

 銀座から有楽町経由の日比谷、東京駅、大手町の地下はそれこそダンジョンです。
 東銀を起点としても大手の千代田線の端っこまではつながってるよねって話になりました、迷うわけだよ…。
 
 そして、ありがとうございました。