無伴奏ソロ ーop.2ー

 
 
 十月の新刊の、雪ちゃんサイドのお話です。
 視点を切り替えて書くようにしているともう一方の視点というのもやりたくなってしまいます、双子だけに。
 二人は、家族の形を保ちながら気付かないほどのささやかさで乖離していってるんじゃないかと思います。とくに雪男が祓魔師になる前後は。
 まだ燐のことを悪魔とか分かってなくて感情面も淡いくらいの思いでしかない感じで、ただ物理的にも精神的にも離れるのは嫌だということははっきりしているくらい。エリアとボーダーが曖昧なとこですね。
 
 
 

【PDF版】無伴奏ソロ ーop.2ー ※ただいま準備中です。

 
 
<ご利用方法>
・PCで保存して各モバイル機器へ保存してください。
・モバイル機器によっては、上記リンクから直接保存が可能な場合があります。
<お願い>
※お使いのテキストリーダー、アプリなどで表示可能な形式ですが、一般書籍ではないことをご了承のうえ、お取り扱い下さいませ。
※モバイルでの閲覧を目的としておりますが、各々のデジタルツールでひっそりとお楽しみいただけたらさいわいです。(表示サイズは960×640ピクセルを想定しております)
※記載内の無断転載、無断コピー、データ転用、改変、再配布等はご遠慮下さい、お願いします。
 
 
———*———*———*———*———*———*———*———*———*———*———*———
 
 
 
 帰りが遅くなってしまった。
 いつもなら任務には獅郎もいるし、修道院の誰かが誤魔化してくれる、そんな防護壁があって燐もさほど気にもしないから雪男は焦りもなく壁の内側で銃を握っていることが出来た。だけど今日は気持ちが騒いだ。
 どうしてかはわからない、ふと流れ星があったような気がして雲の切れた夜空に目を向けた。妙に黒く見え、なんだかどこか深いところへ落ち込む窪みのようで、自分とその遠い空との隔たりがこれまで以上に強く感じられた。
「……」
 あのずっと先は宇宙で深淵よりも深い闇だ、飲み込まれた宝石みたいにぽちりとある光は燐だと思った。
 兄さんと僕との距離がある。
 手を伸ばしても届かなくて、寝息が聞こえそうに近い場所にいても許されない絶対的な隔絶。
「…お」
 ぐっと手を握りしめ、足を前へ前へと進めてゆく。
「い、…きお」
 吐き出す息はちらちらと白いのに寒さすら感じられなかった。
「待て、奥村」
 頭を掴まれてはっと我に返る。目線を動かせば伸びた腕の先に角刈りの若い祓魔師の姿、その向こうで獅郎が苦笑を浮かべていた。焦る雪男の気持ちを宥めるような声で、すぐ帰れるから遠くに行ってくれるな、と言う。等間隔に点る街灯の下、突き出た丘の向こうに自分たちの住む街の明かりがある。雪男は焦燥感に駆られ黙々と歩き、増援に駆けつけた修道士とも離れて、ぽつんと立っていた。
「神父《とう》さん…」
「子供がひとりでフラついていい時間じゃねぇだろ」
 さして低くもない声は説得力もない。黙ってはいたが、内心ムカッともしていた。雪男を現場に似つかわしくない年下と侮り、どこぞの溌剌とした少林寺青年かと見紛う風貌なのに性格はまるで異なり、口を開けば嫌みったらしい、今日も顔を合わせた途端にちっと舌打ちされていた。確かに雪男はまだ中学生だが実力で現場に臨む資格を得ている、身なりだけで庇護すべき対象と判断されたくない。生きる時間が現場の誰よりも短い分経験もない、それは認めるが、だからといって社会的に判断力もままならない未熟者と決めつけられるのも迷惑だ。
「じゃ、俺は」
 まるで引き渡されるようにしてやってきた獅郎に頭ごと突き出された。雪男を捕まえた祓魔師はそのまま散歩をするような足取りで行ってしまう、修道士がかける労いの言葉に手を振っていた。口と態度は悪いけどではあるけどいい奴だよな、誰かと似てるよなと呟き合う声が聞こえる。
 誰が? 誰と?
「何かあったのか?」
 凝った気持ちの上に蓋が落ちる、唇を固く結んでいると獅郎が問うてきた。
「あ、いえ。…すみません」
 何もあるわけがなかった。
 ただ、燐が近くにいないということに漠然とした不安を感じたとそれだけだ。曖昧模糊としたものに急かされるように歩いた。少しの気恥ずかしさと、ミスを犯してしまったような気がしてしまう、獅郎は謝られる意味が不明だというふうに口元を曲げてから、雪男の肩に手を乗せると二度叩く。任務が終わった以上、指導者として言うことはないと言いたげで顔つきも現場での厳しさは消えている。
「星がよく見えんなあ…」
 ついっと上を見上げて一人言ちるように言うのを雪男も倣い、夜空を仰いだ。
「遅いとやっぱはっきり見えちまうよなあ」
 夜が更け、寒さできゅっと窄まるようになった天蓋にいっそう星が瞬いて見えるのを良いんだか悪いんだかどちらともつかないような言い方で、雪男はその横顔に目を向けた。見上げていた顔の距離は段々と縮まっていった。足をいっぱいに踏み出しても駆け出さないと遠ざかる背中に追いつけなかった。いまは違う。自分は成長した、育てて貰った獅郎に背丈が届こうとしている。同じ歩幅で歩くようになるのもそう遠くないはずだ。
「あいつ、昇級試験受けるんだとよ」
「そうですか」
 ちらと白い息が散り、目の前に黒い塊が落ちたと思うと缶コーヒーだ。かつんと頭に音を立てて触れ、冷えた肌にぽちりと熱の印を捺す。火傷するほどではないが痛みを感じるくらいには熱い。雪男は獅郎の手が離れるのに代わり、右手でそっと持ち上げてから下ろし、両手に持ち直した。
「…喧嘩したからか?」
 首を横に振る。今朝、言い争いはしたけど一時的なもので、燐だって忘れているはずだ。
———なんだよ、そんな怒ることないだろ。
———俺じゃ分からねーから置けるってのか、そんで触ると怒るのかよ。バカにすんな。
 詰るように「他人のものに勝手に手を出して、しかも兄さんには理解できないんだから、止めろ」なんて決してうまい言い方じゃなかった、気を悪くするに決まっている。燐の悪戯っぽくからかうような口調が煩わしいのとどうしてこんなにも知らないんだと腹立たしくなって、自分のミスを転嫁させようとしていた。
「僕が、管理が甘かったから」
 燐に隠しているのを後ろめたく思うこともあった、だから帰りたくなる。聞いていないようでいて聞いている相手の態度は祓魔師になればこれからこんなことはざらになる、余裕を持てと言いたいんだろうな、と勝手に解釈する。いつもは思わないし、今日が特別遅かったらじゃないと弁解したかったけど、何を言っても笑って『そういうこと』にされてしまいそうで雪男は何も言わなかった。燐や獅郎のように強くありたかった、祓魔師になると自分が決めたのだ、弱音や甘えは許されない。
「干渉されたくねえなら、お前もそのぶん燐を自由にしなきゃフェアじゃねえよな」
「…はい」
 悪魔の存在を識らず、視えない燐には黙って言わないこと、一番守らなきゃいけない約束だった。
「……」
 ふわりと白く小さな点が風に乗って飛んでくる、虫か埃かだろう。
「便利なことに、ちょうどメフィストが通りかかる。修道院まで運ばせるからよ」
 メフィスト・フェレス卿は長身の、水玉スカーフに鳩が飛び出そうなハット、カボチャ型のボトムにストライプタイツでマントなる時代錯…、もとい舞台衣装じみた独特の格好に相応しくまったく読めない正十字騎士團日本支部長だ。獅郎の旧知でもあるのに敵意以前にとりあえず見ると雪男は警戒しそうになる。
「コンビニ限定フィギュアって夜中まで街中を走り回って探すモンなのか?」
「わかりません」
 獅郎と同じようにプルトップを開けようとして雪男は、缶にプリントされた語句に手を止めた。
「…『目覚めのモーニングブレンド』…」
「藤本神父《せんせい》、それ雪男君のと逆ですよ」
 あ、間違えた、と獅郎は悪びれることなく旨そうにココアを煽る。
 
 
 
 すっかり冷えている部屋の椅子に座り、ぼんやりしていた。
 任務後は身体というよりも気持ちの方が重たく疲労感が強い。後味の悪い祓魔だったりするとひりついた感情が残ってなかなか拭うことが出来ない、それで帰って脳天気な燐の寝顔を見たりするといよいよ捻れたりした。どっこい、今日は気もそぞろにを焦りを押し隠しながら、居心地の悪い気分でフェレス卿の車に揺られて戻ったらこれだ。部屋には一人っきりで燐がいない。雪男は平静を装って風呂を使い、部屋のベッドに座ったり、立って廊下を見たり、また椅子に座ったりしていた。居るはずの燐がいなくて落ち着かない。塾や任務で帰りが遅くなった夜、太平楽でだらけきった兄の寝姿を苦く見下ろして溜め息を吐くというのは儀式みたいになっていた。何も知らないことに安堵して、小さく憤る。僕は何をやってるんだろうと思い返して布団に潜り込む。燐の寝息を聞きながら夜の底に落ちていく。
 ぎしっ、と床板の軋る音がした。
「兄さん」
 忍びやかにドアが開き、そっと入ってきた燐は暗がりの中でびくっと身体を強張らせる。湿った土の匂いが漂う。
「どこ行ってたの?」
 明かりを点けるとばつの悪い顔をし、そっぽを向いた姿はどこぞの藪にでも突っ込んだような様子ではらりと柘植らしい小さな葉が落ちた。
「…お前こそ」
「用が終わらなかったんだよ」
 缶コーヒー? それに何だろうこの髪型。
「先に帰りゃいいだろ?」
「そういうわけにはいかなかったの」
 時間も時間だしご近所をちょっとお散歩では済まされないだろう、寝間着に雪男のカーディガンを大慌てで引っかけました、という緊急対応のスタイル。厚手のスウェットなぶんだけましで、それでも寒そうだ。雪男は保護者同伴なのだから燐よりは威張れるはずで、しかめっ面をしてやりたいのにどうも笑いそうになり、声も抑えがちに我慢させた無表情でしかできなくなってしまう。燐は雑にカーディガンを脱ぎ、棚に置くと雪男の視線を避けるように梯子段に手を掛ける。
「寝ねーのかよ?」
 寝るけど。
「兄さん、明日は学校行ってよ? 呼び出されるの僕や神父さんになるんだから」
 言われて燐はまず口を噤む。
「行かなかったら抜け出したこと言うのかよ?」
 精一杯の動揺を押し隠すように、喉の奥から言葉を絞り出してくる。言いつけられ、叱られるのが嫌というよりも割に合わないという表情だった。だろうな、と胸に一人言ちた。燐はきっと雪男達の帰りが遅いからこれ幸いと何かをしに行ったのだ。恐らく。テストの答案を捨てに行くとか、機械油で汚れた何かを隠すとか、あんまり言えないようなことをだ。
「…そりゃ」
 兄さんは気が付くと野良猫みたいにどこかに行ってしまっている。なんだかそれは避けられない宿命を知っていてそこからわざと逃げようともしているように思えて、つまり、燐は一生何かから逃げるように生きていくのを見ているような気がして苛ついたりした。弟の身勝手だろうが、情けなかろうがだらしなかろうが兄が弱い姿は見たくない。こうふらっと見えなくなると僕が不安になって嫌なんだ、今日なんか特にそうだったんだよ、と真っ直ぐには言えないので言葉を探そうとして、詰め寄ろうとする燐を見詰め、腕を組んだ。
「また子猫とか拾ったんじゃないかと思って」
 喧嘩じゃない、それは分かる。燐がやりそうなことで言ってみたものはなるほど、アリだなと、思いつきだったのに自分でも納得できる。
 二学期くらいから上級生の間で囁かれ始めた噂が学校をどことなく不穏な空気で包んでいた、『学校の七不思議』は春、夏を過ぎたら誰もが飽きて次には『暴力』だ。それは肉体的であったり、精神的であったりした。つまりは集団生活においてイニシアチブをいかに取るかということを意識し始めたということで、要するに『学級内のポジション』と『友達関係』だったりする。ある程度のグループと、力関係。既存のそれが崩壊してきている、らしい。小さかろうが中くらいだろうが、集団生活を行う場所は未熟ながらもコミュニティを機能させるための装置は出来上がりつつあって、雪男はなんとなくそういった場から一歩離れることを選択し、噂も聞き流していた。実際のところ祓魔の勉強に手一杯で正直それどころではなかったし、燐の方はきっと違和だけを抱えてぽつねんとしていたのだろうと思う。何しろ燐は幼少の砌からのエピソードはもはや伝説のようにつきまとい、周囲は無理解と誤解で『関わってはいけない』事項になってしまっている。そのため燐には大抵のことが無効、ちなみに本人が喧嘩っ早いのと、売られれば安易に買ってしまうタイプで大人ひとりもノックダウンさせてしまえるからというのもある(噂ではなく本当で、入学してすぐにやらかしている)。誰が作ったか知らないけれど生徒手帳にないルールが囁かれるようになって報復だの何だのと教師達の知っているのだか、学校内で怪情報が飛び交っている。なかには悪魔のせいというのもあるだろう、けれど團に通報の類いはない。誰かの怪我や休みの理由をいちいち気にするわけにはいかないし、噂はともかく、学校は見た目には平和だった。
 燐は学校では詰まらなさそうにしているし、行くことにも熱心ではない、グループ間のあれこれに巻き込まれようがない。
 雪男は続けた。
「兄さんのことだから公園かに隠した段ボールを覗きに行ってるのかなあって」
 燐は、髪についている葉を取るとぴくりと肩を聳やかせ、これは、と口をもごもごとさせながら顔を真っ赤にした。何かを言いたそうな顔で雪男を上目に見て、おたおたしている。図星だったらしい。
「別に、これは」
「しょうがないなあ」
 僕の焦りなんて当たり前に兄さんは全然知らない。
 どうして彼はこうなんだろう。強くて粗暴で、愚かしいほど優しい。
 引っ掻き傷を作り、髪をくしゃくしゃにして、そんな風に世話をされる猫がちょっと羨ましい気がした。
 
 
 
 夜の静寂に燐のやすらかな寝息だけが聞こえている。
 眠りの匂いがすっと消えて、室内に冷えた空気が張り詰めているのが分かる。ふいと気温が下がったのだ。寒気が上空を覆い、夜半から冷え込むと予報で言っていたから、朝には霜が降りているかも知れない。
「……」
 燐は雪男の眼鏡を外したままころりと落ちて掌にそれを握り締めたままだった、割られやしないかとハラハラする反面、自分の欠片を握ったまま離さないというのも子供っぽくて安心もする。自分と燐が離れていくのはまだ先のことだ。あってないような距離の遙か遠い隔たりなんてどうしてそんなこと思ったのだろう。
「んが」
 胸元に落ちる手を受け止めてぶらぶらと振る。布団の中にしまい、二人の間に置くとむずがるように動いて、やわらかく折り曲がっていただけのゆびがきゅっと雪男の裾を掴んだ。
「え」
 動きがままならない、捕まえられたみたいだ。
 かたりと音がして、体勢を変えないまま軽く首を捻って眼を細めて頭上を見れば、どうやらもう片方の手から眼鏡が解放されたようで、がりがりと顎の下を掻いていた。眼鏡は暗闇の中では居所が分からない。どうにか手を伸ばそうとして止めた、雪男が身体を起こしたら布団とシーツの間から暖気と一緒に何かが漏れ出てしまう、獅郎にも秘密にしている想いや、止めようとしている身体の変化とか、目に見えない羽毛がからだじゅうを満たしている状態でそれはしてはならないことだ。
「あったかいなあ…」
 春になれば学年が上がる、進路を考えるようになって、お互いのことも気恥ずかしくて干渉しなくなるのだろうけど、少なくとも今は。
———「雪男、一緒に寝よ?」
 たよりなく脆い卵を抱えている。
 雪男の気持ちを見透かされたようで心臓が跳ねたなんてとても言えない。
 
 
 

131111 なおと