黒バス_02

※黒バスで赤黒です。
※続きます。
※妄想で捏造です。WC直後からスタートなのでやっちゃった感は否めませんが。
 
  
 

【PDF版】<<※作製は未定です>>

 
 

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 綺羅とノンフィクション
  
 
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 控え室から曲線状の廊下を三分の一周ぶんほど歩いて自動販売機を探した。部長には伝えてあるから少し遅くなっても探されたりもしないだろう、エントランスに近いガラス窓からは夕闇に沈んだ中を荷物を肩にいくつかのまとまりが見えていた。冬至を過ぎはしたものの、この時期は一年で最も日暮れが早いことには変わらない。
「……」
 ごっと音がして、ガラス面に寄りすぎていることに気付いた。
 自動販売機は存在を主張するような明るさでボタンを光らせながら控えめな音を立てている。赤い帯の表示には加温中という文字がいくつか浮かんでいた。
「痛い…」
 ぶつかった手を振り、機械の中に小銭を落ちる音を聞いていた。
 上からの物言いや、腕を組んだときのあの不遜さは生来の目つきの鋭さもあるとは思うけれど、ちっとも柔和になっていなかった。
 言い足りないこと、伝えていないことは多分にあって、自分の中でも未消化のまま、京都へ帰る彼の後ろ姿を探している。それでいて掛ける言葉も見付からない、見覚えのある海常の選手を見送って廊下に視線を戻した。
———自分の影まで分離したんですね。
 無表情に、挨拶みたいに受け取る。それから、変わらないなと呟くように返す。
———ボクは、身勝手にも君に失望して、ボク自身にもがっかりしたんです。
 そう続けたときの彼の表情は初めて見るものだったと思う。己の中の辞書にない言葉を引き出されたような顔をして、半分以上は通じていないか、思惑とも違う解釈をされているんだろうとは感じたけれど、言葉を重ねるだけ無為なものになりそうで続けられなかった。
「あれ、黒子」
「降旗くん」
 がこん、と音がして目の前の機械からホットドリンクが受け皿に落下したことを教える。
「試合後の選手にあるまじきあたたかさだな」
「何とでも言ってください」
 蓋を開けながら応える、ホットのアルミボトルは、温い程度でそれだけの外の寒さを伝えるようだった。
「さっき、知ったんだけど事故で電車止まってたみたいだぜ?」
「どっちですか?」
「JR」
 駅の状況は分からないけれど混雑が非道いようならば地下鉄を使うことになるかも知れない。一口飲んでからそうですか、と答えた。相手は腹減ったー、とぼやくように言って天井を見上げている。
「球場とかの方に歩いてくとラーメン屋があんだよな」
 JRの駅を背に、この体育館を突っ切って道なりにだらっと坂を下って進んでいくと公園、その先に公営の野球場とラグビー場がある。ちなみに病院と能楽場もここから近くにあったりするけど縁がない。もちろん施設が多いのだからその客のための商店や飲食店もあるわけで、コーヒーショップくらいなら良いけれど高校生には高価で、ファミリーのつかないレストランもこれまた縁がない。ラーメン店くらいがちょうどいい。それに冬に湯気の立つラーメンは心引かれるものがある、何かの弾みさえあれば帰る準備をしている先輩達も全員総意で走り出してもおかしくないような気がした。
「神社の先ですか?」
「神社なんてあったか?」
 降旗くんは普通に炭酸飲料を買う、曰く他の自販機では売り切れのこと。
「ありますよ。三叉になった交差点の…」
 試合会場の体育館はテニスの大会や他のスポーツの大会も開催されており、自販の数も少ないしシャッターが下りたままの売店なんだかカウンターなんだか、土産物店は当たり前に施設内にコンビニがあることもなく、殺風景なほど何にもないが廊下沿いに並んだコインロッカーの数だけは多かった。その横にはベンチが用意されていて、ゴミ箱が設置してあったりなかったりしている。視線がなんとなくそのベンチとゴミ箱の間に落ちて立ち止まっていた。
「黒子?」
 近寄って拾い上げる、ベンチの脚のところに半分隠れてしまっていたが、落とし物は黒いパスケースだった。
「2号かと」
 眺めながら言うとチームメイトは部で飼っているテツヤ2号は今日は遅くなりそうだから連れてって貰ってある、と教えてくれた。アレックスさんだろう、彼女は目のやり場に困るような大らかさを除けば姉御肌のいい人だった。
「…ミブチレオ?」
 ボクの手元を覗き込んだ降旗くんは上擦った声を上げてからすぐにぴんと来たのだろう、気まずい顔をした。
「洛山のひとですね」
 やっぱりというべきか、馴染みのない駅名が印字されているICカードは、水色でデザインが描かれている洒落みたいな名前の付いたものだった。カタカナで名前が入っている。地名は知らずとも名前には覚えがある、先刻まで戦っていたチームの人間なんて確かに会いづらい相手に違いなかった。
「あ、切れてますね」有効期限が。
「切れてるな」
 と、降旗くんは日付に頷いてからならヨシとばかりに腕を組んだ。まあそういうことだからしてと己の中で決着をつけているらしい。
「…落とし物って警察?」
「何言ってるんですか」
「いや、でももう帰ったろ?」
 赤司くんとの対面を鮮やかにフラッシュバックさせているのか震えがちな声で言う降旗くんを見る。顔が、明らかに関わりを持ちたくないと訴えていた。気持ちは分からなくもないけれど、何かに背を押されたと、まず思ってしまった。『しない』より『して』から後悔はするもので、手から逃れたものを惜しむのは、掴んでからすることだ。掴まないと話ならない。手を伸ばすなら間違いなく今。
 いまここで会っておかなければ、誰かの気紛れみたいにしてわいた機会をふいにしてしまうような気もした。
「JRって事故遅延してたんですよね、間に合うか分からないけど行ってみます」
「おい」
 まだ中身の残っている飲み物を降旗くんに押しつける。
 胸の奥深くに沈んだ小さな固い塊が、取り出せなかった。試合をすれば自ずからそんなものは溶けて無くなると思っていたのに思わぬところで強情だ、手強いのは自分の思いの方だった。バスケならいくらでもやる、挑み続けていける、けれどこの重たさをまた次まで積み残していくなんて真っ平だ。
「カントクや先輩達に言っておいてください」
 言って、走り出した。
———ボクは、身勝手にも君に失望して、ボク自身にもがっかりしたんです。
 どくんと波打つ鼓動が自分と相手とで重なったような気がした。
———そうか。
 だからどうか、神様。
 
 
 
「もう、パスケース落としたうえに遅れだなんてほんと厄日。征ちゃん、遅れ何分?」
「二十分のままだってば、玲央姉」
 すでにプラットホームにいて電話を受けている赤司征十郎に代わって葉山小太郎が振り向いて答える。
「東京でいけずされるなんて思わなかったわー…」
 ぼやきながら階段を上る、彼らとの距離は今月初めにチャージした元定期券への未練で、心なしか足が重いのはそのせいに他ならない。改札前で気付いたらシックなそれがなかった、探しに行く時間はないので仕方なくペンギンの絵柄の入ったICカードを購入した。落としたにせよ、盗まれたにせよ、迂闊といえばそれまでで、戻った後で会場に問い合わせるしかない。溜め息が漏れる。
「そうだな」
 征ちゃんが感情もなく応えるのはいつものことだけど、まるで気のない声は明らかに違うように聞こえた。
「何よ、どうしたのよ」
 一年ですでにチームの頂点にいるこの男が、試合の感傷をいつまでも引きずるようなことはしないと分かっている。カワイイ顔なのにいつだって鋼鉄のご面相だし、ご愛嬌とか冗談で済まされないような狂気の上に立っているようなところがある。変にバランスが取れているのが大したものとは思っているけど、成り立たせているのは彼の精神力とかじゃなくて、一つの存在も大きな要素というのを思い知った。その点が余計なことだけど安心していたりもする。
 そんな彼と戦った。
 ものすごく平凡な子だった、嫌でも目に入るわけでもなかったし、私の好みでもなかった。油断はしていなかったけど軽くは見ていたのかも知れないとは思う。
「征ちゃん」
 失ったものに焦がれる感情なんて知らずに生きていくはずだったし、そんなものの在処なんて身の内にあろうことすら考えなかった事実を痛感する日々を送っていたのだと気付いたのは試合の後のことだった。そんなことおくびにも出さない態度を貫いていたけれど、見逃していない。欲しがるような顔をした、彼の姿を眺めながら、征ちゃんは、結果を受け入れても承服はしていなかった。
———列車が到着します、白線の内側まで下がってお待ちください…
 軽やかなメロディが流れるなか、ホームからはどこどこ行きだとか、混雑が予想されますのでとかなんとか駅員のアナウンスが聞こえていた。
「死人には手出しできないものだな」
「え?」
 落ちるようにして聞こえてきた。
「僕は、留学しなければならないそうだ」
 滑り込んで来ようとする電車に気を向けていた小太郎は聞いていなかったらしくノーコメントで、それだけに幻聴すら疑える。横を駆け上がっていく足音やら入線する振動音が脳内に押し寄せて何も言えなくなってしまった。いまとんでもないこと聞いたわ、私。
「あの、ミブチレオさん」
「……」
 数段先のプラットホームに立っている征ちゃんをただ見上げていた。自然に見上げられることに慣れているってどうかしら、とたまに思ってしまうけれど、良くも悪くも彼の定位置でそんな自分が好きそうでもあるからそっとしておいている。でも、いまは外見は変わらないのに心が抜けていくのを眺めている変な感じがする。
———車両が混み合ってます。ご乗車の際は階段付近に固まらず、空いている車両から…
「実渕さん」
「はっ!?」
 聞いたことのある弱々しい声に振り向けば息を切らした黒子テツヤちゃ…くんが立っていた。なんで居るの。ていうか流石に帝光出身なだけあって度胸もあるわね。
「青峰くんたちが丁度いま券売機のところにいて、桃井さんから、いるって聞きました。定期というかカード、落としてますよね?」
 階段の真ん中で膝に片手をついて苦しそうに一息で言ってくれる。
「あの、ボク、実渕さんの、パスケースを」
 ああ、その右手に握っているの私のだわ。
「そうよ。拾ってくれたの? ありがと」
「すみません、電車に間に合うといいんですけど」
 パスケースを差し出す手は小さくて細くて、華奢という言葉がぴったりだった。これであんなパスを出し続けるのねと思うと却って健気にも思えて、虚勢でもなくつい笑ってしまう。神経も図太そうだし、小さくったって、目立たなくったって厄介なことには変わりない。わざわざお使いに来てくれちゃうところなんてますますテツヤちゃんと呼んであげたいけど、征ちゃんが怒るのが反射的に目に浮かぶからしない。
「あれには乗らないから平気よ、まだ何人か遅れてるし」方向も逆だし。
 ハラが減って死にそうと宣ってコンビニに買い出しに行った脳筋ゴリ男がまだ追いついてないし、ちらりと見たところキャプテンも妙に落ち着き払っているし。
「そうですか」
 黒子くんはパスケースを手渡すと視線をホーム上に走らせる。丁度下り電車が到着したところだった。征ちゃんは気付いているのだろうに、目を合わせる程度で何も言おうとしない。さりげない振りで全神経を黒子くんに向けているのを覆い隠す技はある意味流石で、一方の小太郎の方が負の感情を剥き出しにして上からものすごく悪い顔をしていた。
「なー、テツー」もういいだろ。
 改札の方から柄の悪い声が飛んでくる。大仰な排気音を立ててドアを開き、車両からはまばらに人が吐き出される、どちらかというと乗る方が多そうだった。
「あ」
「なにあれ?」
 征ちゃんのプライドも分からないではないけれど、それでもちょっとそこ、ツンツンしない、とでも言いたい。本当は撫で回したいに違いないのに。
「財布も持ってなかったので青峰くんからカードを借りました、じゃあ…」
 視線が上に誘導される、唇は動いたのに『あかし』という言葉は聞けなかった。
 聞こえない。
 彼が姿勢を変えようとするのとその影が落ちてくるように下がるのは一瞬だったと思う。あら、案外にあっさり…と考えたところで、小太郎は弾丸みたいに飛び出してきた人物にぽかんと口を開けていたし、征ちゃんは目を見開いていた。まるでこれから起こることを予め嘆くように誘導された視線は二人ともロックオンされて———。
「っ!」
 ぶつかり合う音が一つ、ひらりと浮く。
「ちょっ、おま…っ!」
「黒子くん!」
 階段の下の方から手を伸ばしたのは誰だったか、それでも間に合わなかった。鈍く重たい音が続く。
 私の目は瞬間を動画のコマ送りみたいに進めることは出来ないから、一つ一つを確かな情報として切り取ることは出来ないけれど、流れとして言うなら黒子くんは影に突き飛ばされるようにして階段を頭から滑り落ちていった。彼一人が落ちて、もうぶつかった方は蹌踉けはしたものの立ち止まることも、振り返ることもなく改札に異音を響かせて行ってしまったようだった。
 こういう時、身体は凍り付く。力が抜けそうになって、必死に持ちこたえ、階段を駆け下りた。
「大丈夫?」
 呻きも何も自発的な反応はなかった。どす黒く赤い線は何だろう。
「…黒子くん?」嘘でしょ?
 咄嗟に腕を取ることも出来なかった、痛ましい落下音がやんだ後は重たく沈黙が落ち、唾もうまく飲めない。ある程度の柔らかさを持った物体が直角の歯を立てた坂を滑り落ちてその勢いのまま、身体は固く冷えたコンクリを半回転したのだ。音からしてたんこぶだとか打ち身だけでは済まされないんじゃないかと、そう思えたし、事実ぐったりした彼の様子は戦きさえ与えもした。
「聞こえてるの?」切ったかしたのだろう、血が出ている、止血しなきゃ。
 鼓動が早くなる。手が震えて、アナウンスも耳に煩いくらいなのに何を言っているのかさっぱり理解できないまま、縋るようにホームを見上げる自分に気付いた。 
———ピィッ…
「やっ…!」
 小さく悲鳴が上がる。聞いたことのある女の子の声で、誰だったっけと思う。
「おい、テツ!」バカが!
 バタバタと駆け寄る足音、冷たい視線を浴びせる征ちゃんは顔色一つ変えずに携帯電話を手にしている。階段の下で真っ青な顔をしている黛と目が合う。そういえば彼は下方から居合わせたような気がする、けれど記憶は曖昧だ。
「テツくん!」
 駅は、騒然となった。
 
 
  
 とりあえず、なはずだった。
 黒子テツヤの悲しいまでの存在感の希薄さが招いた事故だったのか、それともねじくれた性根から発生し、社会性を逸脱した悪意のなせる業か、怒髪天というものはなるほど天を突くもので脳内では天罰以上の罰を与える方法を順序立てて並べたてられるほど、テツヤが階段から突き落とされたことに赤司征十郎の腸は煮えくり返ったりしたのである。
 予想外の出来事は、そうした怒りを吹き飛ばしてくれた。
「…『記憶喪失』」
「『外因性健忘』といいます、頭部に強い衝撃が与えられたことによる一時的な記憶障害です」
「……」
 説明は終わりか。
 かなりな間を措いてから聞いたことがあると思いますが、と若い医師は眼鏡を押し上げる。
「頭蓋内の脳は不均一です」
 続くのか。
「衝撃を与えるとこれがグラつきます。頭は、頭蓋骨という水槽に脳や器官が浮いており、血管で繋がっています、この水槽が激しく揺れたと思ってください。黒子くんの場合は余計な物もなく腕でうまく庇っていたせいもあって外傷は最小限に止められていますし、脳内にも危機的な損傷は見当たりませんでした。しかし、下頭部に裂傷ですから、揺すられたのは間違いない。また、耳の後ろは記憶を司る器官があり、ここが圧迫されました。頸部から頸椎に至っては結果待ちで断定は出来ませんが、腕にかけての筋肉がしっかりしているので問題はないと思います」
「……」
 首を僅かに動かして促す。聞いているのだから聞こえている。
「やや言い方は変になりますが、不均一に保たれていた脳内を正常化させるために、ゆっくりと脳が修正作業をしているところなのでしょう、言葉もしっかりしているし、痺れなどもない。高次脳障害の可能性は…」と、いくつかのフィルム画像を見直してから「皆無とは言い切れませんが、現段階では」
 ないと仄めかす。至る理由が見付からなければ発症しないということだろうか。
「健忘には種類がありますが、彼は……逆行性健忘といって、以前の自己に関した記憶がない方になりますね。治療法もありますし、記憶が混濁した様子は続くと思いますが、個人差もあるので焦らないことです。想起の障害ですから心因的なものも関係するんです。怪我が回復すれば運動も出来るし、今後の生活にも支障はありません。予後経過が必要になるかもしれませんが、まだ安静が必要な状態ですし、もう少し様子を見ましょう」
 いかにもごく一般の人が日常を営む範囲での言葉でしかない。ただこちらの様子を見ながらというように説明は気の毒そうでもなく淡々としていた。確かに、視力や聴覚が失われたわけでも、脊髄や脊椎がどうにかなったわけでもない、自発呼吸をするし、物を理解し、言葉も話せる、頭部を打ちつけて奪われるものの少なさから言えば彼は運が良い。
「ただ、記憶がすべて戻るかどうかは定かではありません」
 他は万事大丈夫、けれど、一つだけ。
「そうですか」
 目線を上げればテツヤの脳内の画像が映し出されている、繊細なようでいて雑にも思える画像は縦割り、横割りに心理学テストの絵みたいでさっぱり分からない。
「華奢な骨格ですね」
「……」
 知っている。食だって細い方で、敦が残った菓子を渡されては食べていた。無理して食えとは言わないが、そんな関係が確立していたこともあって食うとなるといつだって甘かった。紫原くんだと外れがありませんからとアイスだの菓子の新商品を選ぶときは敦を振り向いた、もうそれも忘れてしまったのか。いや、ほんの数時間前のことすら失われている。
「体重が軽いのが幸いしたんでしょうが、クッションもないので振動は直接響いたと思います」
「より詳しい検査が出来そうなところを教えてください。そろそろ、彼の両親が到着すると思うので、…」
 ぼんやりと眺めながら口にすると若い医師はぴくりと眉を上げる。家族じゃなかったのか、という顔だ。
「僕は付き添いです」
 医師はとても不思議そうな顔をしてから、複雑な家庭の事情が絡んでいるのかも知れないとでも解釈したのか顔つきを元に戻し、鷹揚に頷いてみせた。
「そうですか」
 勿論、ご両親の了承を得てからテツヤは連れて帰る、実に釈然としないものだけど、自発的でないからこその予行演習だ、贅沢は言うまいと決めている。
 彼がホームの階段を落ちてから、持ちうる限りのカードを使った。学生の領分を出ることなど考えもしなかったが、社会人でないことが歯がゆくもあった、そのせいもあって見えない犯人への恨みは増大したわけだが、元から感情で動く質ではないので、我ながら面白みのない反応だったとは思う。とはいえ見逃す気はない、誰だか知らないが罪は重い。頭に血が上って最優先するものを間違うほど愚かではないつもりだ、でも、冷めている、分かっている、そういう立ち居振る舞いしか出来なくなっていた。
 医師が想定していただろう反応もきっと見せていない、その点では期待はずれと思われたかも知れない。本人の代わりに嘆くとか、狼狽えるとか、どうでもいいことだが。
「病室に戻ります」
「完全看護なので大丈夫ですよ」
「荷物を取りに行くだけです」
 赤司が駅のホームで呪いじみた伝言を聞いたとき、黒子テツヤがそれこそひょっこり現れた。玲央の落としたパスケースを拾ったようで、追いかけてきたのだ。そのとき遅れていた電車がホームに着いて、飛び出していった乗客が小太郎の肩を掠めただけでなく、テツヤを階段から突き落とした。階段の下に居合わせた黛や青峰は警告音を発する改札を強行突破していった男の後ろ姿を見ている。動揺する桃井に誠凛のメンバーに言付けてくれるよう頼み、監督に連絡して玲央に部員の引率を任せた。何故か駅員に食ってかかろうとする青峰の腕を引っ張って桃井は会場にとって返し、赤司は到着した緊急車両に乗り込んだ。病院を指定し、意識の戻らない黒子テツヤが応急手当をされる様子をじっと見詰めていた。脳波、MRI、レントゲン、立て続けての検査の途中でテツヤは目を覚ましたらしい。疲れたと言って、眠ってしまったそうだ。そりゃ疲れてはいるだろうが、あまりにも彼らしいのが呆れもした。実際赤司が面会を許されたのは病院に到着して二時間ほどが経ってからで、誠凛の主将とどうにか連絡を取り、桃井からの何度目かもわからないメールの返信を済ませた後のことだった。
 ふと目を覚ましたテツヤは、しばらくぼうっとはしていたが、ひどく困ったような顔で自分を見た。左耳の後ろを切っている、しっかり巻いたはずの包帯が歪な形に解けていて赤司はまずそのことを指摘したと思う。
———すみません、誰ですか。
———あの、僕の知り合いの方ですか?
 と、何も言えずにいると呆然と、呟く。
———いったい何が、どうしたんでしょう?
 迷わずナースコールを押したのは言うまでもない。
「ああ」
 思い出したように背後に投げかけられる。静かな物言いが取り繕うように思えなくもなかった。
「接触して階段から落下したと聞いていますが、君に怪我はないんですね?」
 この医師は自分がテツヤを落としたのかとでも思っているのか。
「…はい」
 だとしたら心外だ、自分ならこんなやり方はしない。そもそも嗜虐趣味など持っていない。それどころか、目の前にいたのにむざむざと壊してしまった。
「では、右手についている血を洗い流して、よく睡眠をとってください」
 血?
「君の方が憔悴しているように見える。最新の機器ならここにあります、気が済むまで調べましょう」
「……」
 腕を持ち上げると小指の下から袖に赤黒い染みがこびりついている。
 テツヤの頭部を動かさないよう注意を払いながら頸動脈を探し、呼吸を確かめた。それだけなのに、それほどの出血を多いのかも少ないのかも認識せずにいた。…というか、病室でテツヤが不安げに視線を向けていた意味をようやく知った。そんなに気にするなら言ってくれ。
 診察室を出て廊下を歩きながら反芻する、テツヤは目の前の赤司はおろか自分のことも忘れていた。落ちたときのことをぼんやりと印象として残しており、己が記憶を失ったことを自覚し、狼狽もしていた。決して表情豊かな方ではないけれど、何を訊かれても頭が真っ白なのだと当惑げに応え、不安そうな眼差しを寄越してきた。誰何された赤司がただの通りすがりと答えれば鵜呑みにしたことだろう、言ってやろうかと思ったが、病院ですぐに露見するような嘘を吐くのもバカげているので同じ中学の同級生で、チームメイトだったと説明してある。これからすべきことを改めて組み直さなければならない。東京の家に電話をしようとしたところに着信があった。気にしてだろう、玲央からだった。
———「征ちゃん? いま平気? メール見たけどどう?」
「玲央、僕は憔悴しているか?」
 ぶつかるようにして、テツヤを突き飛ばす。
 当て所なく伸ばされた手、虚空をも掴み損ねてゆるく弧を描き、視界から消失する。
———「え? 何?」
 相手に答えられるはずなどない。それどころか混じる雑音の具合からも聞こえてもいなかった様子だ。
「頭を打った事による一時的な記憶喪失だそうだ」
———「…そう。征ちゃんは何時くらいにそっちを出るの?」
「〝出る〟?」
———「病院には親御さんか誠凛の誰かが来るんでしょう? 今回はバスじゃないし、切符の払い戻しとか細かいこと多いのよ。これから駅に駆けつければギリで間に合いそうだし、お弁当も買っておくから」
「どうして? テツヤは僕が見付けたんだ、僕が面倒を見るのは当たり前だろう」
———「へ?」
 玲央はしばらく黙ってから、そう、とだけ返す。
「しばらく戻らないが、気にしないでくれ」
 玲央はまた黙ってから、そう、と再び言う。黒子くん、お大事にね。まるで取って付けたような言い方だった。
「憔悴などしてない」そんなことに心を遣っている暇はない。
 呟く、彼は無事だった。過去がないなら、失った以上の多くで埋めればいい。
 
  
  
  

続く。 140620 

 
 

 
 ***
 

  

WC以降のバスケの試合スケジュールを調べたのですが、三年は引退する暇あるんだろうかと心配になりました。
オールジャパンに出るのは洛山側だと思うのですが、学業を理由に出なさそうだと思ってます。でも分からないのでそこいらはあいまい、ドリームチームを組めないのだけは分かりますよ、ええ。

夏中試合の展開ならワイプみたいにコマの下に時間表示してくれればスコアも書けそうじゃんと思ったけど。
試合だけじゃないのがくろこっちでした…。
そして続きます(二度目)。
原作との時系列乖離はお約束なので本誌でWCが終わっても気にしないでください。
捏造で妄想です(二度目)。