罪と福音

 奥村兄弟はなんというかニュートラルというか、信仰上の神様と視えたりする悪魔は違うみたいなとらえ方をしていそうな気がします。こう…たぶん、祓魔の現場と聖書の内容って致死節であるところでしか交わらないからどこか乖離しているんだと。生活はわりとカトリックの思想に根付いてるけど自由すぎた養父の影響も多分にありで、祈祷や箴言なんかにはものすごく素直で二人とも宗教家にもなれそうなんだけども、真逆の違う理解もあるという感じで。
 燐なんか無神論者を標榜しそうですが、雪ちゃんの言葉はズビシッと効くと思う。奇跡すら信じたい子。悪魔ですが何か?
 

【PDF版】罪と福音

 
 
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  REVELATION 【黙示録】
  使徒ヨハネが自分の知っているすべてのことを隠して何も書いていない有名な書物。黙示なる行為は注釈家によって行われた。ところで彼らは何一つ知ってはいないのだ。
                           ――――――A・ビアス『悪魔の辞典』
 
 
 なら、若先生はどうですか?
 確かにそう聞こえた。志摩廉造の声だ。
 燐は振り返り、京都三人組を見る。三輪子猫丸が若先生なら、と大いに同意という顔をし、詠唱経典を閉じる。次の授業は経典暗唱術で、今日は小テストだというのに三人はそっちのけで首を寄せ合い、秘密会議の如くこそこそと何かを話し合っている。雪男だと? 混ぜろ。
「雪男がどうしたんだよ?」
「どうもせん」
 勝呂竜士が断ずるかのように言い切る。
「せやかて、坊」
 志摩が弱ったように頭を掻き、同調するようにそうですよ、坊、とやはり眉根を下げた子猫丸が頷く。
「また何云うか判らしませんし…」
 子猫丸の顔には少々の嫌悪の色も浮かぶ、フキゲンそうな勝呂の顔はいつもまあそうなんだが、やっぱり険しいように見える、京都組にとっては『困る』どころの話ではないのだ、たぶん。
「どうしたんだよ?」
 燐は刀袋を背負い直すと三人に寄る。
「うわあ!」
 子猫丸がびくっと姿勢を正す、過剰な反応に燐も肩が張る、寄っちゃ拙かったのかと思ったがメールの着信らしい。続けて三度もきた。
「すげーな」
「朝からやよ」
 あたふたと携帯電話を開くとなにやら操作し始める。目の前の燐は無視されている格好で、彼の性格からして、きちんと返信しなければしない相手からなのだろうとなんとなく分かる。
「奥村くんに…あー、でも若先生のがやっぱ…」
 志摩もケータイ相手にぶつぶつと言っており、勝呂は憤然と腕を組み、平気やし、そう言え、と短く言うと燐を見、
「何もない、続きやれや」
 と兄貴風を吹かせる(兄貴でもないのに)。三人でこそこそして、しかも燐ではダメらしいというのが気に入らない。子猫丸と志摩が窺うように勝呂と燐を見てから、どうしたものかと弱ったように顔を見合わせた。
「ま、まあ、雪男って言われても? あいつ忙しいし」
 京都のあのおっさんたちからだろ、話してくれたっていいじゃねーか、と言いたいが燐の塾での学力が残念なことも十分すぎるほど彼らは知っており、このままでは次年次に上がれないかもとちくりと雪男が刺したのもあり、心遣いでもあるのだとは思うが、『はいじゃあ席に戻って暗唱続けます』なんてやれる筈がない。最前列の杜山しえみも気になるのかちらちらとこちらを見ていた。
「……」
 勝呂は口を結んだまま払うように手を振る。煩ぇな、という心の声が聞こえるようだ、あくまでも突っぱねるならこちらもと、痺れを切らして燐も口を尖らすようにして言い放つ。
「んだよ、話くらいしてくれてもいいだろ?」
「お前には関係ない」
「ある!」
 燐は、断言し、びしっと親指で自分を示した。
「雪男の名前出した時点でオレに関係あることになんだよ」
 勝呂の口が小さく開いて、心底呆れたようなばっかじゃない、が背後から聞こえた。
「単に名前が出ただけじゃない。余計なことに顔突っ込んで、誰に迷惑かくらい考えなさいよ。巻き込まれて…」
「出雲ちゃん…」
 神木出雲は頬杖をついてテキストを眺めていたが、志摩の視線に気付くとぎょっと肩を竦ませた。
「あっ、あたしは別に」
 あんた達がうるさい声で喋っているから、と口ごもるように言うのを打って響くかの如く、うるさくして悪かったな、と勝呂も憎まれ口で返す。
「話は仕舞いや。子猫も続きせえ」
「でも…」
 ふわりとした声が心許なげに落ちる。
「京都のおうちからでしょう? 朝からずっと…。勝呂くん、一回行ったんだもの、やっぱりみんな心配だよ」
「…う、…」
 気持ちを代弁するようなしえみの声には重くなりかけそうな空気をやんわりと押し上げるような力があった。勝呂はぐっと詰まったようになる、燐だとこうはいかないが気の優しい女子には弱いのだ。
「寺の、…関わりや。そんだけ」他が煩いゆうだけやから。
 早く終わらせたいのか、短く済ましてしまうほんのちょっと赤面したコワモテトサカ頭の『ウチの事情』を、強情で流していいのか、燐は子猫丸をちらりと見る。子猫丸は俯いて考えているようだった。
「たいしたことやない。ありがとうな、杜山さ…」
「明陀《うち》とは宗派は違ってきますが、同じ祓魔の性質も持つお寺さんが和歌山にあって、そこの本山の座主がこっちに居てるから坊が名代として挨拶に行くことになったんです」
「子猫?」
 志摩がそれに乗っかるような形で横から坊やのは向こうさんからご指名で、と小さい声で補足する。
「志摩ァ…」
「奥村先生って言ったのは祓魔だから祓魔師同行の方がいいってこと?」
 出雲が発する生真面目な問いも加わり、勝呂はやってしまったという顔だ、しかし子猫丸や志摩に責めるような目を向けようとはせず、息を吐いただけだ。
「そういうんやない」
 腹を括ったらしい、声に尖りも含みも見当たらない。
「僕らでも構われへんのやけど、とても太刀打ちが…」
「たちうち?」
 燐を含め、誰もが首を傾げる。人形と向き合って聞いているのだかそうでないのだかも分からない宝はともかくとしても、京都三人衆以外は黙って連想ゲームのように燐の背中の刀袋を見る。
「あ、やっぱ俺?」
「違う」即答だ。
 ちなみにボケたつもりはないけどスベったようだったのは分かった。なんというか、外したムズムズ感は尻尾にくる。
「…手強いゆうのは確かやけどなあ」
「ほんまに」
 軽い口調の志摩とそれに深く頷く子猫丸がより詳しく話を続けてくれそうな気がして期待するが、
―――ばんっ。
 無情にもドア一枚に遮られた。中断だ。
「揃ってんなー。授業の前に渡しとくぞー」
 言いながら霧隠シュラがすたすたと入ってくる、投げ寄越すようにケースを渡していくと、次で使うからな、開閉できるようにしとけよと言い置いて出て行く。何だこれはと矯めつ眇めつやる暇もなく続いてアマチュアのオペラ歌手でもいけそうな経典暗記の講師《プロ》も姿を現すのが見え、慌てて燐は席に戻る。
「あー、もうお前でええわ」
 と、背中に投げやりな勝呂の声が飛んだ。
「……」
 立ち止まって振り返る、勝呂はテキストを開き燐とは目を合わさなかったが、隣でしえみがよかったね、燐、と嬉しそうに囁いた。
 
 
 なんか良いことでもあった? と雪男が問う。
「ふん?」
「機嫌良いじゃない、居眠りもしなかったし」
 塾の授業を終えて、誰もが帰る準備をしていた。廊下から雪男が思い出したように燐を呼び、昼の弁当の包みを手の上に置いた、弁当箱は中身が残っておらず軽い。
「今日、僕の晩ご飯用意しなくて良いから」適当に済ますよ。
「え」
「帰りが遅くなると思うから、先に寝てて」
「任務か?」
 雪男は振り向くと答えない代わりに少し難しい顔を作って燐の前髪を掬い取る。
「伸びすぎだなあ…」
「答えてねえ」
「やっておきたいことがあるんだ」それだけ。
 触れられたことも分からないくらいに軽く雪男のゆびが燐の頬を撫でていく。雪男に絡むのはどちらかというと燐からの方が多い、早いうちから自分の領域を囲おうとしていたのを燐がわざとぶち抜くようにしていたのもあったかも知れない、弟なのに出来が良すぎて自分まで他人みたいにされるのは嫌だったし、話もしない兄弟でいたくなかった。
 呼んだり止めたりで手を掴む、袖を握る、手当てする、雪男は不必要なことはしない。となると雪男の触れ方は昔から慎重だったということに行き着く。自分なんかよりも燐についてずっとずっと考えて生きてきたという証しだ。普通に殴ったり蹴ったりはするけど。
 物足りねえとか思わないのかな。
「じゃあ」
 律儀にもしえみや他の塾生にまた挨拶をして弟は早足に廊下の奥へ引っ込んでいってしまう。勝呂達はそれを見送り、忙しそうやなあ、と志摩が同情じみた声をぽつりとあげた。
「趣味が仕事のようや…」
「急に足とかクロにじゃれつかれてたり、マンガとかばばって読んでるぞ」
「ゆきちゃんかわいい!」
 しえみが目をきらきらさせるのを燐はどこがだという顔をつくる、そこへまたメールの着信音がする。志摩と子猫丸は確認するが勝呂は手にしようともしなかった。
「…心配して、送って来はるんですよ」
 子猫丸が燐の視線に気付いてか小さく笑う。いつもは八百造や蟒が名代として赴くが、今回は場所も用があるとかで東に移し、代わりに息子でざっくばらんにと言ってきたのだという、京都の面々は胃をキリキリさせているらしい。
「こんなこと言うのも何やけど、気ィ悪くしたら堪忍な、奥村くん」
「お前ら煩い」
「せやかて、坊、あんお人はクセ言うんもほどがあります」名人みたいなもんですよ。
「何の?」
「……人を、不愉快にさせること。や」
 勝呂はしばらく黙り、やがて苦るように口を開く。いかつい顔がより怖い。燐はへー、と言う、いきなり喧嘩腰か。へー。
「来へんでもええんやぞ」
「え、なんで?」
 三人は黙って燐を見る。どうしていきなり見られるのか燐には分からない。
「僕らはよお知らんにゃけど、柔造さんが言うには昔から碁敵みたいなもんらしゅうて…」
 横で志摩がどちらかっちゅーと親の敵みたいやけど、と呟いている。
「明陀が正十字に属してすぐの頃、あの山の僧正がお目出度いことあったていちびるのを和尚《おっさま》がああいうお人やし、まったく応えへんで終わらせてしもた。何をやっても暖簾に腕押しゆうのが逆に火に油を注いで、いまに至っとるんやて」
 盛り下げた言われてもなあ、と志摩は笑う、勝呂はそうした彼の反応をないかのようなスルーっぷりでそっぽを向いている。
 碁敵で暖簾で、火に油、いまいち掴めないが、つまりは仲がさほど良好はない、と。
「せやから話半分で流せばええんや」
「毎年おとんやらがもうカリッカリして帰らはって、そんでなぜか俺が金兄に技キメられたりするんや、ワケわからん」
 志摩はそう首を振るがその図式が燐には分かる気がする。燐も苛立ちを弟にぶつけたくなることはあった、兄弟ってのはそんなものだ。だけどあんな弟だったせいか、ちょいちょいは出来ず、いなされるように笑い飛ばされたりして却って楽になったこともあった。
 あいつもいきなり噴火したように反抗的になったりしたし、いつだったか養父にさえ黙秘を行使して手を焼かせたこともあった。本を汚し、怪我をして帰ってきた日、黙りを決め込んで何も言わず、頑固という言葉は雪男のためにあるとそこで覚えた気がする。
「奥村は図太いしな」
 思わずこくりとしてしまう。
「空気無視してええんですよ」
 子猫丸のオシ具合に釣られてさらに頷く。
「いつも以上に読まないくらいで」
 志摩まで……ん?
「燐、大変かも知れないけど頑張って!」じゃあね!
 しえみは数歩先で待っている出雲を追う、朴と出雲と三人でクッションだかを作る話し合いをするのだという、志摩が朴さんによろしゅうなあ、と手を振っている。燐としては帰りが遅くなるなよと言いたい。
「つーか、俺、空気読んでないの? 俺の頑張りそこ?」
「辛抱と堪忍や」ちょうどええ試練かもわからん。
 試練てなんだよ、単なる付き添いじゃないのか。燐はぱたぱたと履き物が床を叩く音と遠ざかるしえみと出雲の後ろ姿を見ながら思う、ていうか忍耐というなら間違いなく弟に譲ってやってもいい分野のような気がする。雪男は燐に対してはよく怒るが、他に対しては堪えられるというか、さほどでもない(と思う)。
「なんで雪男じゃないんだよ?」
 勝呂はアホか、と吐き捨てる。
「何を今更…、忙しいってお前かて言うてたやろ」
 燐が苛ついたというかモヤッとしたまま吐き出した言葉を勝呂は信じたのか。
「あっ、そうっ、そうだ」
 燐は取り繕うようにぶんぶんと頭を縦に振る。
 弟に嫉妬するなんて態度を、他人のなかでも勝呂達に見せるのは恥ずかしい、あの時は雪男の名を聞いて負けたくないという気持ちが勝った、だからぐいぐいと首を突っ込ませたわけで、その内容についてはちらとも考えなかった。そうだ、雪男は忙しい。
「……まあ、先生やと緊張しそうやけどな」
 勝呂は何なのだという胡散臭げな視線を向けると腕を組み、ぼそりと言う。子猫丸も志摩も同意見らしく相槌を打つような仕草とへらっと弱いような笑いで燐を見る。
「そんなことねーぞ?」
 緊張? 燐は首を捻る。
「あいつ、外面いいけど、なんつーか、変わってるけどちゃんとしたいい奴だぞ。ちゃっかりしてるから一緒にいるとすげー頼もしいし、楽だし。たまに抜けてるのがかわ…、面白いし」
 兄の俺から言ってもかわいげは本当に、たまにあるのだ。言えないが。
「……」
 三人の視線が突き刺さる。疑っているのだろうか、雪男は怒らせると怖いが、貫禄もないが威圧感もないのは確かだ。知ってるだろ? そう問い詰めたくなる。
「オレが、いると、その、なんかああセンセイぶりたくなるっていうか、…だからで、悪い奴じゃねんだ」
「弟を褒めたいんか貶したいんか」
「いや、でも。あんま会いたくない奴なんだろ? 雪男ならそのへん絶対に上手くやってくれるからよ」オレ、キレたら終わりだぜ?
 しどろもどろに言うのを志摩達は吹き出し、勝呂は一蹴する。
「アホか」
 びしっと人差し指で燐の額でも貫くように指すと何をごちゃごちゃ言うてんねや、と強い口調で告げる。
「オレがええっちゅーから、お前でええんや」
 と、続けて日曜日だから忘れるなとも釘を刺す。
「そ、か…」
「奥村君、頼みます」ほなまた明日ー。
「おう」
 そんなつもりもないのに胸をなで下ろしていた。そしてその奥はちりりと痛いような痒いような変な感じでなんだか雪男の顔が見たいなあ、と思った。踵を返して教員室まで走って行って、俺、週末、勝呂の知り合いと会うことになった、なんかお前忙しいみたいだし俺でいいってことになったんだけど、どうも面倒な奴らしいぜ、とすべてをぶちまけてしまいたい。吐きたくもない嘘を吐いているのに似ている、お前は嘘を吐くときはやたら言葉が多くなるし、目が泳ぐ、わかりやすくていいと養父の獅郎はよく笑った。吐いていい上手な嘘の吐き方をいつか教えてやるなんて嘯いて、あれは懺悔を聞く神父の台詞じゃない。
 先を歩く三人の影が廊下の奥に消えて、声も届かなくなる。寮までの鍵を取り出さずに携帯電話を出して握る。
 そう、と呆れ顔で返すだろうか、そんなことを言いに来たのかと苦笑するのだろうか、雪男の返事が聞きたかった。
「……」
 あ、出し抜いた気になってねーや。
 あいつよりオレがって前はそんな気になったのに、起こらなくてなんでほっとしてるんだ、オレ。
 
 
 コールは二回。
―――「兄さん? どうしかした?」
「雪男、『こうざい』って何だ?」
―――「こうざい?」
 やや億劫げに繰り返す。でも雪男だから突然何言ってるんだよと文句も言うが付き合う。
―――「『功罪相償う』の? どこかの詠唱?」
 仏典かなあ、と一人言ちると、功績と罪過のことだよ、注釈を読んで分からなかったらそこの解釈は僕があとで教えるから、と切ってしまう。真面目すぎて笑う。
「…つか、読めねんだったわ」
 思い出して、尚可笑しくなる。授業のとき、正しい読み方が分からなかった、結局テストでは出なかったから先生にもしえみにも聞き忘れた、詠唱は主に聖書を使うけどダラダラした聖書の言葉は真言《マントラ》よりも舌を噛みそうな言葉が多い。そして祈りやらはアーメンでは事足りない。
「ん?」
 部屋の明かりを点けるとクロがおかえり!と飛んでくる。メシにするかと言ったところで机に置いた携帯電話が震える。勝呂と雪男からのメールだ。勝呂は日曜日の待ち合わせ時間と場所が、雪男からのものは、タイトルが『しょくざい』とあった。
「…『しょくざい』」
 罪をあがなう、という意味。
 雪男はたぶん兄さんは間違えて読み方を覚えているからと、ご丁寧に手書きの『贖』の字まで添付されている。流石は弟で指摘は見事に外していない。帰ってから説明するから読み方だけは直してくれと書いてある、あときちんと戸締まりをすること、食べてすぐ寝ないで教科書くらいは広げて、今日シュラが配ったケースをまず開けるのにチャレンジすること、クロがセンターにいるからって雪男のベッドでは寝ないこと(望ましい喫煙のマナーを促す広告のようだ)と続き、やがて明日の弁当のリクエスト、最後にごめん、と結んである。
「あくまは、ちゅーしょーする者の意で…」
 木造の教会に養父の声が静かに響く、授業みたいにして聖書を開いてその内容を説明する、幼い頃、うつらうつらとしながらでもどこか聞いていて気持ちが良いその声は頭に残って、今日の詠唱暗記ではそれが頭の隅で浮つ沈みつを繰り返してなかなか剥がれていかなかった。『悪魔よ去れ』も何も。
 一人用の食事を用意する燐を見て、クロが雪男はどうしたのか、と訊く。
「あー。あいつ、今日遅くなんだって」
 クロはちらりと気にするように入り口を振り返り、そうか、と応える。
「あんなうるせーのもいなけりゃいないでやっぱなあ…」
―――りん、さかなこげてる。
「うっ!」
 どうしたんだと言われたが、いい嘘が見付からず、ぎこちなくしか返せない。もっと早く教えとけよ、ジジィ。
―――りん?
 ぽっかり空いた席、そこにある不在。
「……」
 燐が、嫌なのだ。
 雪男が選ばれることでなく、雪男から遠ざけられてしまうのが。
 そんなことに気付いてしまう。
 
 
 わずかに掠めていく吐息だとか、体温すら残さず触れていく指先だとか、あったかい声とか。
 雪男の、偽らない気持ちを知ったから。
 
 燐は日差しを避けるように薄暗くした部屋で寝ている弟を外に出さなきゃいけないと思っていた。手を引いて前に立って。
 だけど、違っていた。
 自分でも知らず足下も見えないくらいに滲んで闇に深く沈みかけていたのを、あっさりと引き上げたのは雪男だったのだと。
 雪男の方だった。
 我先に駆けだして、光の差す場所にいた。
 立ち尽くしている自分に手を伸ばして―――
 救われたのは燐の方。
 
「見ていたいのも、声を聞くのも、識るのでさえ、ひとりでいいんだ」
 
 彼のたった一言で、自分は、全世界に肯定されたのだと思った。
 カミサマの祝福なんかよりも、どんな福音よりも強い力を持って響いている。
 
「僕の厳選ひとりは兄さんだよ」
 

120330 なおと