黒バス_01

 
 
*黒バスで赤黒です。
*ほのぼのであればいいと思います。
*赤司さんはオレ僕のどっちでもよいのですが、とりあえず受難に進んで行ってヨシと願っています。
*つーか敗北非ズなひとが将棋を選ぶ不思議さを噛みしめているところ。
*時系列は割と無視。設定ナメんなとか言わない。

 

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 KA No kO to No ha
 
 
 
「…囲碁や将棋は負けを宣告するゲームなんですね」
 将棋のマス目は九掛ける九、駒は八種でひとり二十枚、囲碁に比べたらその範囲は狭いものだが、駒と碁石はまるで違う。
「そう。負けを認めなければ終わらない」投了かい?
 黒子はしばらく、挽回の余地も見付けられない戦場を見てから『詰み』ですか、とぼそりと言う。
「有り体に言えば」
 窮地に立たされている敵方の陣に活路は見えない、起死回生の一手があるなら赤司が知りたいくらいで、何をどう動かしてくれようとも王は討たれる。滅びるのが宿命の如き儚い王国だった。
「…二枚落ちというのでも勝てませんね。どうにか成れたくらいです」
 名残惜しいような視線を落としてから黒子は負けました、と続ける。そして、安堵ともつかない小さな吐息を漏らした。
「良い筋だとは思うよ。駒の動かし方も覚えが早いし、黒子の性格がよく出ている」
 盤面を思い出しながら赤司は正直に言った、嘘ではない、たどたどしく駒を移動させるわりにはおやと思うような指し方だったりする。緑間が見たらしくじったと眉を顰めそうな手を繰り出しては盤上に独自の世界を展げていた。それはそれで興味深いものだったと思う。読めそうで読めない、ひょっとしたらコンピューターの億兆分の計算式を勘一つでやり遂げているのかも知れないと思えるくらいだった。
「そうですか?」
 買い被りだとは思うし、本人もそう言うだろうが。
「転がり方一つで化けそうだ」
「そっくり返します」
 駒をかき集めながら黒子は淡々と応える。繰り返してもにべもない。負けず嫌いだと知っている、そんな反応が赤司には心地よくもあって黙ると、相手は何笑ってるんですか、ともぞりと胡座に座り直して軽く睨んだ。建て前と本音を聞き分けるみたいにばっさりと切り捨てるのだから黒子には中学生らしからぬ老成さがある、と、そんなのもまた緩めてしまう。
「…勝負にならないくらいですけど、まだやりますか?」
 タイル敷きとはいえ、地べたに座って薄っぺらいシートを二人で覗き込んでいたのだ、長く座りっぱなしでいたら冷えるし、尻も痛くなる。ここは特別教室に据え付けられたような小部屋で狭く、空気も埃っぽい。取り柄と言えば静かであるのと、外気に晒されるよりましな空間を維持しているくらい。換気のための窓が北向きの壁に一つ、覗き窓のような格子窓が下方に二つあるだけで、それも棚に隠されており、まるで用をなしておらず、明かりも点いていなければ差し込んでくる光量も足りないと思えるほどだった。
「負けを宣告するゲームに『負けたことはあるか』と黒子は訊かないんだな」
「訊いて欲しいんですか?」
 表情はまったく変わらず、声が少し呆れるように響いた。そういうわけじゃないけど、と赤司は自身の足に頬杖をつく。
「香車や桂馬をよく使う」
 使わなかった角行を抓む。
「え?」
 スタイルの違いに赤司は驚かざるを得なかった。自分が見抜いたのに、彼がここまで這い上がったのもそうだが、成り上がったことに、大したものだといまでも感心するところがある。己の目に狂いなどなかった、そんなのは判っていたが手応え以上のものが赤司の中には感じられていた。
 黒子は桂馬を拾い上げてから、ああ、と呟く。恐らくは二枚の駒を抜いたハンデを気遣ってのことなのだろうとは思うが(してくれなくてもいいが気にするのが黒子でもある)、気付くとちゃっかりマス目にあっていい仕事をしていた。
「初心者だからですよ、たぶん」
「いわゆる初心者《ビギナー》は飛車角金銀の辺りを使うと思う」
 飛車に角行は大駒と言われ、攻守ともに強く、形勢を動かすのにも効果的な駒だ。
「高飛車なのはちょっと…」
「別にそうしろとは言ってない」
 早い段階で飛車を数段飛ばすことを『高飛車』と言い、高圧的の意味を持たせて現在に至る。
 駒と簡易の将棋盤を見詰め、黒子テツヤは将棋盤の脚にはクチナシの実の意匠が使われるんですよね、と小さく、まるで駒たちに話しかけるように言った。ルールも駒の並べ方もまったく知らなかったのに、どんな本から引いているのか、こういうことは知っていたりする。
「でもいいんですかね、こんなところで油売ってて」
「いいよ」
 することと言えば配布用のプリントや部活の日誌に判を捺すくらいで、そもそもそれも明日だって構わない。黒子と将棋盤を中央にして差し向かいで話している方がよほど有意義だ、…とまでは言わなかった。
「放課後の図書室なんて、油売りだらけだろう?」
「昼休みの延長ですよ。みんな調べ物をしたり勉強をしたり、本を読んだりするのに使ってます。まあ、挙って何かを企んでいたり、油売ったりもありますが…」
「何か面白いことはないのか?」
 黒子はおやと意外そうに赤司を見、下世話ですよ、と素っ気なく言う。
「大型図書は棚が大きめで、しかも中途半端な蔵書数でもあるので全集と同じくらい注目度の低いコーナーだったりもします。そもそも手が届きにくかったりもするのでよく不思議な物が置いてあって、一度きりではないから噂になっているんだと思います」
「たとえば?」
 恋愛成就のお守りだとか、とそれらしきもの、といやに濁すような物言いだ。赤司が想像するだに、斜めになった本の間にある小さなそれは触れたが最後呪われそうでもある。含みをもたせたつもりはなかったが、そう、と相づちを打つとあっさり口を割ってくれる。
「ボク、小箱を落としたことがあるんですよ…」
 やや重たげだ。髪の毛が収まっていたとか、あるいは生ものや割れものがあったとか、推測するのはそんなものくらいでしかない、ちらりと視線を送っても引き結んだ唇は明らかにそれ以上の発言を拒んでいる。誰から言ってくれるなと頼まれもしていないだろうに。
「中身は、秘密の約束をする代わりに差し出す物として想像してください。遠い未来からの手紙とかならよかったんですけど」
「……」
 目だけで黒子を見詰める、相手は涼しい顔で「譬えです」。
「そんなものか」
 赤司は遠い先からの手紙というものを想像する、過去からであれ未来からであれ、べつに欲しくない。というよりも、行く末は明瞭すぎて夢のある青写真というものが描けなかった。将来について疑うつもりもなかったが、無色である黒子を見ると違うのだとより強く思う。
「そんなものですよ。強いて君の期待に応えるなら…」と、憚るように潜めた声を出す。
「…告白、とか密やかな打ち明け話、ですかね」
 本当に色んな事があったのだなと察せられた。もちろん、容易に誰かに言えないようなこともだ。
「見ると分かりますね、秘密を抱え持った人たちには近づかないようにしているんですけど、うっかりボクが気付かれなくて気まずかったり、愁嘆場に遭遇してしまいそうになることもあります。書架の間だとか、隅の死角になりそうなところで。倉庫寄りの郷土資料のコーナーなんかも人気スポットです」
「他には?」
「ご想像にお任せします」
 それで打ち切ってしまう。告白話も、残された箱だとかも、——あるいは、彼自身が部の誰かに呼び出されて不当な文句だの言いがかりをつけられたりも——黙っている義理はない。白日の下に晒してしまえば、言ってしまえばいいのに、まるで図書室の番人みたいに口を閉ざして見過ごす。何もなかったみたいに。まあ、その気もないのに覗き見をしたようで忘れたいと思ったりするのだろうし、妬みを告げ口するほどの性根でもなく(どころか真っ向勝負する方だ)、面白がってもいない。そもそも遭遇したなら他でやれと一言いえばいいのに、何故黒子はそれを選ばないのか。
「……」
 解せない。
「興味がないのか?」
「好奇心は旺盛ですよ」
 傍らに積んである本を愛しげに見詰める。熱望した上下巻はベストセラー作家のものではないが、まだ取り外されていない帯には著名人の推薦文らしきものと知らない賞の名前、待望の新作との謳い文句がある。
「興味の範囲はいまのところ手一杯なんです、それで結構幸せですから」
 立てた膝を抱き、それ以上広げては罰が当たるとでも言いたげだ。
「赤司くんの方こそどうしてボクを誘ったんですか?」
「黙っていて欲しいのは黒子だろう?」
「そうですけど…」黒子は少し言い淀んでからじっと赤司を見る。
「でも、君は言わないだろうとも思うんです」
 甘く見ているわけでは決してない、そういう安心感があるのだと黒子は続けた。
「赤司君にはメリットもデメリットもないですし」
「下心があるから」
「え」
 そう。下心があった。
 部の話し合いと称して、簡易な対局のセットを持参で緑間と教室で一局を興じていた。同席した桃井は微妙な顔をしたが多くは言わず、あらかたの用を済ますと教室を出て行った。今日は放課後の練習はなく、校内に残る理由もなく、自分もあとは帰るだけだった。
 廊下を歩いていて、黒子テツヤが珍しくも頬を高揚させて階段を下りていくのが見えた。心なしか足音も軽やかで、まるで恋した誰かとの逢瀬に浮かれているかのように。
 元々面白いところがあるとは思っていた、偶然知った存在だったが、なんというか、すべてが平均的でどこにでも居そうなタイプなのに、赤司にとっては知ったが最後、中毒性のある人物に感じられてならない。どこから見ても物珍しく映ったものだ、何故そんな風に思えてしまうのか分からないが、夏日のべったりと濃く落ちた影を望むのと同じようなものだろうと思ってはいる。
 彼は、足早に校舎の端に位置する図書室に進む。予想をまるで裏切らない。
 図書室は書籍の貸し出しなどできる時間帯には『開館』とカードを入り口にぶら下げているが、黒子が入っていたドアにはそれがなかった。訝しく思いながら引き手に手を掛けると音もなく開き、人気のないしんとした風景を見せている。窓にはカーテンが引かれ、室内は薄暗く、机も椅子も輪郭を残して陰に沈んでいた。窓に近い机にいくつかの段ボールや模造紙、ペン立てや布製の小物などが置かれていた、そういえば週末に近くの自治体のバザーで使われるから備品が置かれて、二日くらい使用できないと通知されていたことを思い出す。赤司は忍ばせるように室内に入るとそっと閉めた。おいおい、とばっちりは御免だぞ、と思いつつもどこか浮き立つ気分は抑えられそうもなかった。
「……」
 カウンター奥の書庫のドアを開け放したまま活字に見入っている黒子の背中を見付けたのは入ってすぐのことだ。黒子はばつの悪い顔はしたが開き直ることもなく、長編の上下巻を入荷したので、とあっさりと罪を認めた。やる気のない図書委員の誰かがしょっちゅう鍵を閉め忘れることも知っているそうで、…ということは、常習犯だ。露見すると困るだろう、と腕を組み、やや厳しい顔をすれば息を飲み、部の監督不行届とか言われませんかと部活の醜聞をちらつかせて懇願した、監督も何も単なる補佐役の赤司にバスケ部内の権限などない。目を瞑る代わりに付き合えと駒を突き出してやった。詰め将棋くらいなら、と相手はまず言った。過ぎるくらいに生真面目に、かつ真剣に。黙って貰えるなら何局だって砕け散ってやるという意気込みすら感じられた。誰かの隠し事を暴くのが甘美に思えたのは初めてだった。
「“したごころ”」
 黒子が反芻すると短編のタイトルか季語みたいに聞こえる。
「そうですか」
「口説くには適した状況だし、何しろ秘事にはぴったりだ」
「…赤司君は、悪巧みの方ではないんですね」
 『あ』と『か』の間がやや途切れ、声がやわらかくなる。この表情は和む。もっと見ていたくなって近寄ると目を瞠り、びくりと身体を強張らせた。
「あ。えっと…」
 凪いでいたはずの水面がふいに揺らいだかのように、変わる。
「尚更、ボクはこの君的に有利な状況から脱出する必要がありますね」このままでは分が悪い気がします。
 どうして、と赤司は問う。相手は努めて落ち着き払うとでもいうように、ゆっくり息を吐いてから応えた。
「考えられないからです」
 もう少し近ければ相手の体温どころか吐息や鼓動すら肌に感じられるだろう、詰められないのは嫌われたり、拒否されたくないという感情が働いたからだ。
「思考が停止…」
「ボクにとって赤司君のポジションは特殊ですから。チームメイトで優秀な友人で、恩人という盛りようなので、ともすれば一生の付き合いということも考えられます。少なくともボクはそうで、いまここで流されて迂闊なことを言いたくないです」
「冷静だ」
 べつにその気はなかったけれど、声は皮肉げにも響き、黒子は眉を顰めて視線を外す。
「ボクは怯えと緊張とで正常な判断力を失っています」
「そうか。オレに有利か、正しいな」観念してくれ。
 自分にだけ判断力が正常に機能しなくなるなら願ったりだ、きれいさっぱり流して取り込むから安心して良い。
「赤司くん、ボクからは有益なものは何も出ないと思うんです」出がらしです。
 黒子は相応しい言葉を探すようにして話す。ぼんやりと影のように居て、情が薄いかと思えばそうでもない、感情や欲を表に出さないでいるだけだ。だからいつだって自分の意見を持っている。
「それとも、虹村先輩ですか?」
「先輩?」
 どうして突如その名前が出てくるんだ?
「だか…」
———たんっ
 物音がした。
「…っ…」
 声が途切れ、ひゅうと喉が鳴る。廊下にぱたぱたと足音が響き、近づいてきた。
「誰か来るな」
 ここに入るのも時間の問題、明らかなことを改めて口にすると黒子は急に使命を思い出したかのように膝立ちになり、掌で口を押さえてきて黙らせる。頼むから声を発してくれるなと、気まずそうな顔が訴えていた。まあ、図書委員権限で勝手なことをしでかしたことが露見すれば出入り禁止くらいの罰は食らうだろう、彼にとっては耐えられないに違いない。
「あっ、先生、見付けたー」
 女子生徒の朗らかな声が続き、聞こえる足音も増えた。
———カタ…
 近づいた気配がドアに手を掛け、僅かな物音を立てる。
「もうそんな時間?」
 国語科担当の司書でもある教諭の声が応える。黒子の手はぐっと口から身体ごとを壁に押さえつけようとする。物音が耳や肌に近くなるごと鬼気迫るといった方が正しいような力強さだった。彼の体中の焦りがそこから伝わるようで、こっちまで緊張しそうになって息が詰まる。そんなに押さなくてもいいだろうと訴えたくて持ち上げた手で背中を叩いた。
「わっ」
 裏返った声。駒が散る、勢い反り返った身体は足が突っ張り、髪まで揺れる。
「……」
 初めて聞いた。…じゃない、邪魔されたくない。暴かれたくない黒子と共通するのは『このピンチをやり過ごすこと』だ、出来れば穏便に。今度は赤司が身体を支えながら黒子の口を片手で塞ぐ。
「…っ…」
 目がどことなく申し訳なさそうでもあり、顔は器用にも赤いのか青いのかどこにもいけないような色合いに見える。
「あら?」ないわね。
 見えない層の隔たりもなく、反響もなく届くクリアな音声、独り言だろう。室内の静寂に馴染んだ五感にそれこそどかんと落ちてくる。ちらりと振り向いて書庫のドアが三分の一ほど開いているのを確かめてしまう。もう遅い、すぐに退出するつもりだったから施錠どころかろくに閉めてもいなかったのだ。外からの空気が流れ込んで、迫る気配が開いた隙間から見え隠れしそうなど実に緊迫感をあおる光景だ。軽い足音。カウンター側から見えるか見えないかの位置に自分たちが居て、出来れば急かないまま鼓動と重なるくらいであって欲しい。
「先生?」
 増えた声に黒子はびくりと肩を聳やかす。
 急いでいくから、と生徒達を先に行かせ、図書室の奥に入ってくるかと思いきや、足音は反転し、違う棟の方に向かう。
「……」
 黒子と目を見合わせてから、ゆっくりと十を数える。
 相手の唇から手を離した、黒子の身体からも強ばりが解け、力が抜けている。
「赤司君も、緊張してましたね…」
 咄嗟のことだったから幼いやわらかさを残したままの唇も、制服越しに分かるささやかな弾力でしかない体つきも、感触を刻み込めるほど、記憶には残らない。ただ、吐息で湿った掌は自分と同じように頼りなさげで、とくに体力のない黒子は、ともすれば壊れそうな気がした。
「…渾身の力で押さえつけてくれるから」
 相手はきゅっと口を引き締めてから、小さく笑う。すみません、まるで悪びれてない。
「ここでそんな力を発揮できるならチームのために生かすことも可能だろうに」
「火事場というやつを常態に持ち込めと」
 じっと己の手を見詰めている黒子の手に触れた。こちらの言葉の多くを生真面目に受け取るのが黒子で困るし、楽しくなってしまうのだから厄介だ。
「必要ないよ。まだ成長線は閉じていないんだし、基礎体力を上げていけば自然と力もつく」
 細い手首だ、もちろん、自分の方だって細い。だがそれが何だ?
「何か変ですか?」
「虹村先輩が何か言ったのか?」
 と、相手は瞬きをし、そのまま無表情に返す。
「何も言いません」
 絶対に言わない、目がそう告げていた。
「ボクの思い過ごしです、すみません。君と将棋をするなんて思わなかったので、その、…虹村先輩がボクが挫けてないかと部長として気にして赤司君に何か言ったりしたのかと」
 返答にこちらの方が逆に目を見開いたりする。もうそんな心配をしているはずがない、いや、それどころか部の上級生達は他者に対して余裕なんて無くなっているだろう。状況を理解し、冷静さを失わないのは虹村を含めた数人だけだった。試合をするごと彼らから削り取られているものが赤司には見える。
「赤司君?」
「偶然だよ」
 嘘だ、狙っていた。
「…一人だけでは手に入らないものがあるんだ。いままで考えたこともなかったけれど、俄然興味が沸いた」
 黒子はまず首を傾げ、なるほど、とこちらの都合も事情も思いもまったく分からないにも関わらず尤もらしく頷いてみせる。
「ねえ、だって黒子」
 引き寄せる代わりに肩に額を押しつけた。
「こんなにも近いと心拍数があがるのに安らかにもなる」頭の奥がチリチリする。
「……」
「オレは知りたい。唇の接触なんて粘膜を押しつけ合うだけだ。なのに人は麻痺してしまうんだ、心が満たされたり、安心感を覚えたり、脳内麻薬が分泌されて幸福だと錯覚するそうだよ」
 錯覚じゃないと思います、と首からの筋肉が震えるように揺れて、声が落ちてきた。肌に灯った熱が感じられる、そうした場面にも遭遇してしまっていることをどうして知っているんだと言いたげで、焦りが滲んでいる。
「うん」
 目を閉じた、息が漏れ出た。理由なんて知らない。存在感はなくてもどうしてか聞こえるんだ、聞いていたくなる声なんだ。知らないだろう、目は節穴じゃないことは自負しているけれど、聴覚は音叉ほどの精度もない。だから、耳が探す。
「これは二人でしか出来ないし、分からないことだ」
———カシャ…
 近く、金属の擦れ合う音がする。知覚してもそれが何かを解釈する余裕なんてない、相手の息遣いや体温に脳が鈍化する。
「お前ともっと深く知りたい」
 どうして願うみたいに言うんだろう、自分でも分からなかった。
 

 赤司君、と黒子が呼ぶ。
「…鍵です」
 難題でも突きつけられたかのような強張った声だ。慎重に、違えないように繰り返される。
「外からの鍵を掛けられました」
「教室は内鍵だろう?」
「違います」
 きっぱりと突き放す。顔を起こして黒子を見た。表情筋がいつも以上に動いていない、緊張に動揺、駄目押しのような危機という結果がこれらしい。
「図書室は市民開放もするので鍵は内鍵と外鍵の二重になっているんです」
「そういや備品も…」
 思い出した。非常階段や教員室以外に外に向けての別の出入り口があり、なおかつ施錠が厳重で、校内で数少ない密室状態に出来る部屋の一つが図書室で、だからバザーのための備品が置かれているのである。しかも校舎の端、隣は完全防音を誇る放送室を挟んで、保健室、応接室と無人がちな部屋をおいて教員室からも離れた場所に位置している。
「閉じ込められました」
 窓を見上げ、肩を落とす。外はまだ明るい、しかし夏ではない、やがて日は落ちる。閉門時間までは時間はあるが、その前に昇降口が閉まり、身体が凍えるだろう。自分はともかく、黒子が気がかりだった。
「そうだな」
「ボク、荷物は教室なんです」どうしよう。
 身体を丸め、悄然と嘆く。どちらかというと冷えゆく書庫に閉じ込められたことより、好物を遠ざけられたがっかりようにしか見えなかったが、本人としては窮まって、途方に暮れているらしい。
「オレもだ」
 誰かが見回っても、持ち主の気配が室内にないのだから忘れ物と思われる程度で、スルーされるだろう。当たり前のことだが、声を上げて誰かに助けを求めるという案は暗黙のうちに却下されている。ギリギリのところまでこのちょっとした出来心によるルール違反は隠しておきたい。そして一番は、事を大きくしたくない。
「連絡しようにも…」
 続かない、黒子は無意識にか自分を抱く。
「黒子、寒くないか?」
「…冷えますが、震えるほどじゃ…」
「オレは寒いな」
 え、と相手はこちらを見る。
「オレとで体格の違いがあるとでも?」
「いえ。心頭を滅却する方かと…」
「そんな悟りは開いてない」
 黒子は、では、と躊躇いもなく寄って赤司の左に座る。腕が触れるか触れないかの距離で、体温を分け合うどころか、僅かな隙間がより冷たい空気の層をつくりだしているようだった。赤司が肩を動かそうとするとするりと避ける。触れるのと近づくのは意味が違うと主張するように、黒子によって一定の線が設けられていた。
「……」
「これ以上は君を意識してしまいますから」
 あと、狩る獲物みたいに見るのやめて貰えませんか。壁を見詰めて遠慮がちに告げる、捕食される方だという自覚はあるらしい。思い切り意識して流されてしまえばいいのに、どうも黒子は頑なだ。けれども、彼自身が認め、納得しなければ一向に距離は縮まらないことも明らかなことで、自由に触れることも出来ない。
「仕方ない」
 自分の知らない、息が詰まるような幸福感というものを得るなら彼がいい。人選に間違いは無いはずだ。
 だから、彼が許さない以上、赤司は踏み込まない。この好機を存分に使ってじりじり追い詰めても良かったけれど、彼の言う『流されずに一生の付き合い』という餌を前に迂闊に手を出すのは剣呑であり、愚かな作戦だろう、赤司は腕を組んで黙考する。
「この間読んだ本の中に、タイムトラベラーの話がありました。正しくはタイムトラベルに必要なエネルギーをチャージし損ねて、うっかり『時間の檻』に囚われてしまったという話なんですけど」
 黒子は虚空を見詰めながら、でもその人は幸せになるんです、と言った。絶望的な終わり方ではなかったと。
「……」
「時間ではないけど何だか檻の中みたいですね」
 その黒子の話す『檻』というものが何故か質感のあるものとしてくっきりと脳内に浮かんだ。曖昧なイメージではなく、己を拘束するものとしてのそれが。時間という掴み所のない概念がひとを封じる、同じように、凶暴性を秘めた得体知れないものが奥底で息を潜めて蠢き、あらゆるものを呑み込む機会を窺っている。
「檻でも、囲いでも…悲劇にならないのなら、閉じ込めても良いのか?」
 そういうことじゃなくて、と黒子は赤司を向いて首を横に振る。
「前向きに脱出法を考えようということです。君は、二枚落ちでも王将一つで敵陣を蹴散らす人じゃないですか」
「そして、先生に助けは求めないのか」
「最終手段です」
 神妙に頷いてみせる。赤司は軽く噴き出した。
「幸いにも窓はあるし、本棚を斜めに動かせばどうにか脱出できると思うんですよね」
「抜け出て何食わぬ顔で教室に荷物を取りに行くと?」
 赤司は棚を見上げ、辺りを見回した。本や段ボールは多いが、他に一役買ってくれそうなものは見当たらない。バザーの備品は模造紙やらだし、棒があっても細く、箒の方がクレセント錠をはずすのには使えそうだ。
「ふむ…」
 確かに本棚は組み立て式の作り付けのものではないが、足場にするには棚の位置が微妙で、移動したとしても脚立でもないと窓まで届かない。カウンターの椅子は低いし、図書館の机は大きくて書庫まで運べないから踏み台には不向きだ。どうやって抜け出ようというのか、本棚を足がかりに蹴り倒すのが関の山だろう。
「片付けられていなければ奥に机があるはずなんですけど…」
 捜しに行こうと立ち上がる黒子の手を掴んだ。思った通りに冷えている。
「肩車」
「は?」
「本棚を移動させてオレ達の入る隙間をつくり、それで肩車したら窓まで届くだろう?」
 離した手で窓を指し示した。黒子は背丈を測るように自分を見、赤司を見る。似たり寄ったりの高さで、赤司の方が僅かにあるくらいだ。手首から指の先、それほどもない差は、より相手の表情の変化に気付けやすくて、近づきやすくもある。
「ここからあの窓で抜け出すというのは賛成だよ、異論はない。問題は窓から出た場合、地面にクッションになるものがないという点だけだ。土というのは助かるが、下手をしたら怪我をする」
「肩車で窓に届いて出れたとしても、一人は残されますよ?」怪我はまあ、気を付けなきゃないけませんが…。
「オレなら何とでもできる」
 窓までの高さと桟の張り出しを確かめる。言い切って内ポケットに落としてある携帯電話を取り出した。まったく将来の役には立ちそうもない脱出劇のために使おうと思っていない道具を使うとは。これこそ大いなる無駄だ、しかし保険は必要なので四の五の言っていられない。
「え?」
 起動させればもう仄暗くなっていた室内にバックライトの光が広がる。着信履歴から目当ての番号を探し、呼び出す。コール三回で相手は出た、いつもと同じ眠そうな受け答えだ。かさかさと遠く拾えるのは恐らく菓子の包み紙だろう。
「赤司く…」
 片手を上げて待ってくれと制する、短い会話を終えて向くと、黒子はどことなく置いてきぼりを食らったような顔になっていた。
「携帯電話を持っていたんですか」
「うん」
 上着のポケットにしまう。
「校内での使用は禁じられているし、持ち歩くのも好きではない。使うのも不本意だが、やむを得ない」
「赤司君て生徒会役員じゃ…」
「生徒の模範であるべき道理は見せかけかもな、図書委員が図書館の利用規定を守らないように、生徒会の人間だってすべての規則を守る義務はない」
 ぐうの音も出ませんが、と言いながらなんだその理由と非難がましい目つきで見上げてくる。
「……」
 もの言いたそうに唇が薄く開いたが止まり、軽く頭を振ってから赤司を見るという行為だけで言葉は出なかった、小さく溜め息を吐いたが含まれた思いは散ってばらばらだ。欠片も拾えない。言いたいことがあるなら言えばいいのにと思ったが、自分と彼の距離感ではやむなしとも言えた。入学してから一年以上は経っているが、初めて言葉を交わした時点からすれば、付き合いはまだ短く、浅い。
「本棚をずらすくらいなら一人でも出来ます」
 腹いせのように言って腕を回す。
「黒子」
 本を手にしては移動させ、棚の固定具合を確かめている。揺らそうとしてもびくともしないようだが、黒子が寄りかかるようにして体重を掛けるだけで本棚は僅かずつだが動く。と、いうよりも彼が動かすコツを覚えているのだろう、身体一つ分を素直に明け渡し、隙間が出来た。
「変に力を入れて押すと本が崩れ落ちて、多分棚も倒れます」
「じゃあ…」
———ヴ…
 ポケットに落とし込んだ携帯電話が合図を告げた。思うより早く救援が到着したのだ。
「ボクが本棚を押さえています。赤司くんはこれを台にして外の紫原くんに助けて貰って降りてください」
 どうぞ、と有無を言わさない強さが黒子の態度にはあった。図書館の番人に気圧されたと思った。
 
 
 しかしまた変な具合になっている、と紫原敦は側溝を跨ぎながら思った。学校帰りの買い食いの途中で赤司征十郎から電話があり、図書室と放送室の間に来てくれと言われた。それも校舎の外側、はて、と思う。いかんせん、赤司は押しが強く、気前もいいので、来た道を引き返すことにする。
 果たして到着して辺りを見回していると斜め上の窓が開いた。見上げれば、そこから投げ遣られたのは上履きだ。次に赤司の頭が現れ出て、手伝え、とまた上から偉そうに言ってくれる。木登りして降りられなくなった王様ですかという有様で、何だか急いでいるようでもあったから、壁面に添って上から伸びている配水管だろうパイプを伝って、身体を持ち上げ、赤司がそこから抜け出るのを言われたとおりに手伝った。
「助かった」ありがとう。
 赤司が制服の埃を叩いているところへ、また窓から腕を出したのは黒子テツヤだそうだ。黒子は藻掻くように腕を伸ばして桟を掴むとゆっくりと脇まで這い出し、ぬっと亀が甲羅から頭を出すようにして顔を出した。
「くろちん、何してんのー?」
 軽々とはとても言い難い動作は却って愛嬌があった、障害物競走でもやっているようで紫原は思わず見上げて声を掛けてしまう。
「おい、助けろ」
 赤司が背後から呆れたような声をあげる。
 このまま見ていてもいいのだけど、何もしないと焦れて後ろが怒り出しそうなので紫原はパイプを掴む。赤司の場合は腕と全身の力で勝手に出てきたが、彼の場合はそうもいかない、腕を掴んで引っ張り出すことにする。
「聞くも涙、語るも涙な…うわっ」あが。
 ポケットに突っ込んでいた菓子を口にねじ入れた。
「見付かるとヤバいっしょー?」
「…黒子の存在感のせいで見事に意識から抹殺されて鍵を掛けられてしまっただけだ」
 そんな黒子の代わりに赤司が答える。落としたらただじゃおかないというプレッシャーがひしひしと感じられていた、何となくだけれど赤司は黒子に何かしたんだろうかと思った。試すだとか、計るだとかそういうことを赤司がこのチームメイトにしてもおかしくない気はする。黒子は紫原からすれば考えも対極にあって、他の誰のメンバーとも違う存在だった。
 また二軍の誰彼だとか、先輩のやっかみで吊し上げられでもしていたんだろうか。
 そんなことを考えもした、ちらりとそんな噂を聞いたことがあったからだ。紫原は基本的に陰湿なことは好きではない、正面から嫌味は言いたいし、陰口は聞こえよがしに利くもので、だいたい回りくどいことなど面倒臭い。
「……」
 黒子はもごもごと不平か不満のどちらかを言おうとしてか、むすっとした顔でせっせと菓子を食べていた。
「ま、いーや。明日帰りにオゴリねー」
 赤司にうるさくも指図されたので黒子を担ぐようにしながら窓を閉めた。黒子はやっと菓子を食べ終え、こほんと咳払いをする。
「ボクが?」理不尽です。
「くろちん、ほんと軽いね。ヒネり潰す以前なんだけど」
「出し抜けにケンカ売ってます?」
 口の端に菓子のくずをつけたままなのでまるでさまにならない、笑ってやりかけたところをすかさず赤司が手を伸ばし、くずを払いながら口を開く。なんだかんだ言ってこの鉄面皮は面倒見が良いと思う。ていうか、人の先に立ったりすることが好きなのだ。
「黒子、早く鞄を取りに行かないと昇降口が閉まる」
「あ」
 慌てて上履きを履き、先に歩き出す赤司の後ろを追いかける。黒子一人ならうっかりどこかに閉じ込められることもあるだろうと思えるが、そこに赤司が巻き込まれるのはつくづく感心する、赤司はなんというか、黒子に対して惜しまない。ぽつねんと菓子を齧りながら見送っていると曲がるところで黒子が振り向いた。
「紫原くん、ジュースで良いですか?」
「あー、うん…」しまった、品物までは考えていなかった。
「え、何ですか?」
 こっちは口をもぐもぐと動かしながら曖昧に応えただけだというのに、何と聞き間違えてなのか相手は引き返そうとする。マジメ(?)というよりマイペースなこと甚だしい。
 あー。口が開く、続かなかった。
 さっと物陰から制服の裾と手だけが見えてその腕を引っ張る。紫原は手から放りかけた菓子の包装紙をポケットに捻り入れた、欠伸をしつつ傾いた夕日に向かって歩き出す。
「……」くろちん、やっぱり良い度胸。
 赤司のそれは呼ぶだけではなく、彼の意識まるごとを引き寄せたがっているようにも見えた。
 

140529  なおと 

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 いろいろと精一杯な感じではありますが新しくカテゴリーを作ってみました。
 とはいえ、何かが減るわけではないので、…増えただけです。
 互いに二心なしに腹の探り合いみたいな会話をするが良いよってちょっと思いました。
 そういう距離感がお似合いだなあとかいまは考えるんですが……。