ライカンスロープ

 ああああ! 映画とかぶった…! (二まで書いた辺りで映画見ました。おう…orz)
 と言っても、やっぱり映画良かったし、燐の台詞が嬉しかったので、後出しだけど出します。
 燐は獅郎父さんが何故彼を育てたのか、ずっとそれを考えて行くと思うのですね。で、多分子供が困ってたら拾っちゃうんじゃないかと。極めつけは、弟って言うより、自分の子供にしちゃいそうな気が……。雪男とそれでケンカとかしそう。結局最後は雪男もしょうがないなって、きっと折れるでしょうけれども。
 雪男はどっちかって言うと、もっと冷静と言うか、引き気味じゃないかなと。きっと世話をする燐を見て、可愛いと思いながら、嫉妬もしてしまう、自分の考えに悶々としてくれたらいいなぁ。
 
 
 

【PDF版】ライカンスロープ

 
 
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 ――ねぇ、聞いた? 弟を探してる女の子の幽霊の話。
 ――え? 弟を探してる、狼男って聞いたけど。
 ――子供を捜してる口裂け女だよ。知らないって言うと、食べられちゃうんだって。
 
 
「兄さん、これ……」
 雪男は思わず兄の顔を恨みがましく見た。燐はそっぽを向いて下手糞な口笛を吹いている。奥村兄弟が二人で暮らす、正十字学園高等部男子寮の旧館。その裏口にダンボール箱が置いてある。中にはくたくたになった古い毛布。蓋を中に折り込んで、立てて置いてあるのは、最近寒くなった夜風を遮るためだろう。その中には、灰色の毛並みをした小さな子犬が警戒心丸出しで、小さく唸って二人を見上げていた。
「犬…、拾ってきたの?」
「拾ったんじゃねーよ」
 ちょっと責めるような口調になってしまった。案の定、兄は口を尖らせて不満顔だ。一丁前に子犬が、うぉう、うぉう、と吠えた。日が落ちると一気に寒さが募る。裏口を吹き抜ける風が冷たい。
「ここから動かねーし、スゲー警戒してたけど、腹減ってるっぽかったから」
 道理でここ何日か様子がおかしかった訳だ。夕飯を食べ終わると急にソワソワし出して、コソコソと何かやっていると思ったら。クロはいきなり現れた珍客に警戒しているらしい。扉の隙間から恐る恐る覗いている。
 ダンボールに入った子犬。俯いた自分の視線。そこに見える兄と自分の足。急に子供に戻ったような気がして、何だかきゅうと心が痛くなる。小さい頃に拾って、南十字修道院の物置でコッソリ飼っていた子犬を思い出す。幾日もしないうちに養父、藤本獅郎神父に見つかった。しこたま怒られて、可愛がってくれるという人に貰われていった。今では神父《とう》さんが何故そうしたのか、判っている。でも、その当時の僕は、悲しくてしょうがなかった。こんなの、喜んで良いのか、悲しむべきなのか、判らない。
「どうするつもり」
 だから、声が尖ってしまう。こんなこと言いたいわけじゃないのに。
「どーもしねーよ。ただ、放って置けなかっただけだ」
 その内どっか行くだろ、と素っ気無く言う。
「だからって」
「慣れそうもねーから、大丈夫だよ。万が一居ついたら、また貰ってくれる人探す」
 久しぶりに真面目な、そして優しい眼差しの兄を見て、雪男は反対出来なくなって口を噤んだ。子犬はそんな兄の気持ちも知らぬげに、ダンボールの中から唸り声を上げている。姿は可愛いのに、確かに慣れそうにない。
「……わかったよ」
 僕って甘いな。溜め息を一つ吐いた。裏口の戸を閉めながら、燐が昔を思い出すな、と笑った。
「居なくなっても泣くなよ」
「泣かないよ」
 失礼な。ちょっとばかり腹が立ったので、ニヤニヤと生意気な顔をする兄の口を塞いでやった。不意を突かれて真っ赤な顔をする双子の片割れの手を引っ張って、雪男は彼らの部屋に戻る。
「おい、雪男」
 片づけがまだだのと言う文句は、最後まで言わせない。本気でイヤなら簡単に雪男の手など振り払えたはずだから。兄が僕に気を使っているのに付け込んで、そのまま寝床に押し倒す。一方でこれからの展開を少しは期待してるはずだと言い訳して、首筋に噛み付いた。ゆきお、と呟いて首にしがみつくように廻された腕が、自分の予想が当たっていたことを教えてくれる。僕らはそのままシーツの皺を増やすことにした。
 
 二日後、燐の予想した通り犬は居なくなっていた。空っぽになったダンボールの傍で、兄がぼんやりしていたのを、僕はこっそり見て知っている。
 
***
 
 
 正十字マートのビニール袋をぶら提げて、寮までの帰り道をブラブラと歩く。
「あいつ、元気にしてっかな」
 一昨日まで、ほんの二、三日だけ奥村兄弟の元に居た灰色の子犬を思い出す。小さい頃に飼った『むささび』と同様、飼い続けることはできなかった。最初から最後まで警戒し通しで、ちっとも慣れなかったが、それでも小さくて可愛かったと思う。そういや、クロがなんか言ってたな。なんだっけ。
『まよったらしいぞ。こわがってる。あと、さびしいって』
 何処かへ行くなら放っておこうと思った。むささびのことがあるから、きっと雪男が嫌がるだろうと思ってもいたし、自分も居なくなったら寂しくなると判っていた。だが、その言葉を聞いて、つい手を出してしまったのだ。
 その他にもなんか言っていた。
『あいつ、かわるヤツだ』
 かわるとは何だろう? それきりクロはアイツには近付こうとしなかったので、そのまま忘れていた。猫又《ケット・シー》という悪魔でも、犬が嫌いなのだろうか。
 すっかり日が暮れて、流石に寒くなってきた。もう冬だもんな。寒くて当たり前だ。道行く人々は既にコートを着込んでいる。流石にもう少ししたら、こんな薄手のジャケットではなく、厚いコートを出そうか。そんなことを思いながら歩いていたら、裾を掴まれた。
 なんだ? と思ってそちらを見ると、小さな男の子が燐のズボンを掴んで見上げていた。幼稚園くらいだろうか。寒さで真っ赤になった頬と、熱でもあるのか、泣いているのか目元が潤んでいる。色素の薄い髪の毛が日の加減で灰色に見えた。
「なんだ、お前」
 覗きこむように屈むと、顔を背けてしまう。それでも、燐のズボンから手を離そうとしなかった。
「お前、随分薄着だな」
 見れば、長袖の薄いシャツとズボンを穿いている。小さい頃の自分もそうだったが、冬でも薄着だったものだ。半そでに半ズボンで走り回って、見ているこちらが寒いから止めろ、と修道士たちや養父によく文句を言われた。その彼らの気持ちが何となく判る。幾ら元気だからと言っても、今の少年の姿は如何にも寒そうだった。
「お前、親はどうした?」
 ふるふると頭を振る。迷子か、と思う。仕方がない。こんな小さな子を見捨てて帰れるわけがない。
「よし、探してもらえる所にいこーぜ」
 自分の着ていたジャケットを着せ掛けて、抱き上げた。小さい手が縋るように首に巻きつけられる。子供の身体からは汗の臭いがした。風呂にも入れてもらえないのだろうか。親を探すのは良いことなのか? しばし迷う。だが、悔しいけれどもまだまだ子供の自分たちに力の及ばないことが、たくさんある。
 燐は子供を抱いて少し道を戻ると、辻にある交番の引き戸を開けた。石油ストーブが焚かれて、やかんがその上に乗せてあるのだろう。むあん、と熱気が身体を取り巻いて外気に散った。中に居たおまわりさんが何事かと顔を上げた。
「どうした?」
「迷子……かな。いきなり裾を掴まれてさ」
 何度か言葉を交わしたことのある、壮年の警察官だ。柔和な顔立ちの、気さくな近所のオジサン、と言う感じの人だ。子供は温かい場所に入ったせいか、ほっとした顔をしていたが、手は燐の首っ玉にかじりついたままだった。
「おやおや。そりゃ大変だ。ちょっと書類書くから話聞かせてくれよ」
 彼の向かいにある折りたたみ椅子を指差して、ごそごそと机の中から紙を取り出す。
「名前は?」
 優しい口調で語りかける警察官に、子供はふい、と顔を背けた。
「おいおい。お前名前も言えねーの?」
 年中か年長か判らないが、名前も歳も言えるくらいではないかと思う。子供は燐にしがみついたまま、周囲を拒絶するように肩に額をつけて顔を伏せてしまった。
「ははは、お兄ちゃんが良いか」
 嫌われちゃったなー、こりゃ。少し寂しそうに警察官がぽりぽりと頭を掻いた。
「しょうがない、人相風体だけでも買いとくか」
 綺麗ではないけれど、几帳面な文字で書類を埋める。
「こいつさ、なんかやたら薄着なんだよな」
 燐はどう言ったら良いのか迷いながら口を開いた。靴すらも履いていなかった。踏ん張るように燐の太ももに乗った足が、氷のように冷たい。今は温かい室内で、やっと暖まってきたようだが。
 ふうむ、と唸ってしばし沈思する。ややあって、わかった、と呟いた相手は、書類を書き終わると、あちこちに電話をかけ始める。
「うーん、捜索願いとかはまだ出てないみたいだな。児童相談所とかにもそれっぽい話は来てないらしい。他の交番とか警察署には情報まわしといとから」
 一定時間交番で子供を保護して、その後地域の警察署へ移されるらしい。このおまわりさんなら子供が虐待されているかも知れない、と言うところも上手く対処してくれるだろう、と彼の話しぶりから期待した。
「児童相談所も、あんまり大げさにしないで動いてくれると思うぞ」
 警察官が言う。名士のファウストさんが、その辺は力入れてくれてるからな、と続いて驚く。ヨハン・ファウストはメフィストの別名だ。有り難く思う反面、何の目的があってのことか判らない。ますます以って得体が知れない、と訝しく思う燐だった。
「じゃ、頼んます」
 燐は子供を離そうと抱き上げた所で、子供の強烈な抵抗に遭った。
「お……、おい」
 子供を引き離そうとするが、うーと唸ってイヤイヤをしながら、燐にしがみつく手を離そうとしなかった。
「なんだ、随分懐かれたな」
 ははは、と笑う警察官に、燐は助けろ、と言う眼差しを送る。
「大丈夫だ、さ、こっちへおいで」
 燐の訴えを汲み取った警察官が、文字通り燐から剥がすように子供を抱き取ったが、腕の中で今にも落ちそうなほど大暴れした。困ったように燐とお巡りさんが顔を見合わせた。
 
***
 
 
 『迷子の子供拾った
  交番で暴れた
  メフィストのとこ行く
  メシ遅れる』
 句読点がなくて、改行が多い。中身は簡潔で兄らしいメールだ。講師準備室で残業をしていた雪男は折り返しで電話を掛けた。
「兄さん?」
 電話の向こうで、燐がおー、と応えた。
「今、どこ?」
「メフィストの車」
 電話越しに、メフィストの『奥村先生ですか?』と尋ねる声が洩れ聞こえた。メフィストは信用ならないから気をつけろ、と何度言ったら判ってくれるのだろう。
「一体なにごと?」
 問い詰める口調が電話口から通じたかのように、子供の泣き声が響いてきた。子供を拾ったのは間違いないらしい。
「だからさ。なんでか俺から離れねーんだよ」
「警察で保護してくれるんじゃないの?」
「ケーサツショ? でもメチャメチャ暴れたんだよ」
 兄はどうやら警察署まで付き添ったようだ。
 誰にも懐かない上に暴れて泣く子供にほとほと困り果てた署は、いったん帰された燐を呼び戻した。加えて、恐る恐る正十字学園の理事長であり、児童保護に力を入れる町の名士、ファウスト氏――メフィスト――を呼び出したらしい。そして、特例として親が見つかるまでメフィストの協力の元、燐が面倒を見ることになったのだと言う。そして携帯の向こうから聞こえてくる子供の泣き声を聞きながら、雪男はお巡りさんの苦労を思いやって深い溜め息を吐いた。受話器の向こうの声が全く聞こえないほどの大声だ。これだけ泣かれては流石に滅入るだろう。
 更には『丁度良いことに、私が後見する子供に懐いているようですし。彼ならきちんと面倒を見るでしょう』とかなんとか、メフィストの人を食ったような顔で言ったのだろう。細かい所は違うかもしれないが、きっと警察署とやらで言った内容は大筋こんな所だろう。もう一つ電話の向こうに聞こえないように、小さく溜め息を吐いた。
「そんで少し買い物して、今送ってもらってるとこだ」
 燐の言葉に、うー、と泣き止みそうな、ぐずった声が重なる。
「わかった。僕ももう帰るから」
 わーった、と返事が返ってきて、ぶつりと通話が愛想なく切れた。
 手早く残業を片付けた雪男が、寮の部屋に戻ったタイミングで、下から子供の泣き声が聞こえた。着替えもそこそこに一階の玄関へ慌てて降りる。
「兄さん?」
「おー、雪男。荷物入れんの手伝ってくれ」
 燐が子供を片手に抱えて、正面玄関のドアを背中で押さえるように立っている。そして、子供を抱えていない方の手で、大きくて重そうな紙袋を運び入れようと格闘していた。雪男が紙袋の端を持って、扉を通す。どさり、と上がり口に音を立てて紙袋が置かれた。
「なにこれ」
「こいつの服とか」
 誰がこんな金を出したのか、と言う問いを口にする前に、燐がけん制するようにメフィストが買った、と告げた。
「この季節に薄い服しか着てねーの見てさ、いきなり買い物だぜ」
 げんなりしたように溜め息を吐く。燐に抱かれた子供は、兄が着ていた上着に包まれて、不安そうな目で雪男を見つめていた。
「名前は?」
 子供はぱっと目を逸らし、燐の首筋に顔を隠してしまう。それだけで何となく判ってしまった。多分、僕には暫く慣れてくれないだろう。
「なんも喋んねーだ」
 子供の背中をぽんぽんと叩きながら、こっちのメガネは雪男、と話しかける。その紹介の仕方はひどくないか?
「メシ、もうちょっと後でいーか? コイツにもっと服着せてやりてーけど、先に風呂入れてやんねーと」
 言われてみれば確かにちょっと気になるような臭いがしている。
「いいよ。じゃぁ、風呂入れてくる」
 わりぃ、と食材を持って食堂へ去る兄の後姿を見送った。小さく溜め息を吐く。しばらくはあの子に掛かりっきりだろう。意外と面倒見が良い兄は、何度か悪魔の面倒を見させられていた。任務だの、後始末だの、他支部からきた祓魔師に振り回されたりだのでゴタゴタしたせいもあり僕は覚えてないけれど、ついこの間も兄は謹慎を兼ねて預かったらしい。
 というか、謹慎を兼ねてって、おかしいと思う。
 もやもやとした、何か気持ち悪いものがある。何だろう。大事なことを忘れているような。いや、それよりも、問題は僕らの後見人の方だ。
 メフィストの中では、悪魔や人間に関わらず、託児所認定されているのじゃなかろうかと思う。面倒ごとは全部こちらに投げてきてないか?
 それを簡単に受ける兄さんも兄さんだ。
 別れる時の辛さは雪男も十分すぎる位に判っている。それに兄さんが相手の幸せを心から喜びながら、離別の辛さを一人で耐えているのも。それ位なら適度な距離で付き合う、と言う選択肢は全く浮かんでこないらしい。そんなこと、思いもしないんだろう。
 ちりりと小さく嫉妬を覚えながら、それでもそれが兄さんだ、と思う。そんな行動に苛立ったりもするけれど、そんな兄さんが好きなんだから仕方がない。
「また課題溜め込むんだろうな」
 雪男は溜め息交じりにぼそりと呟く。突発的には何かあるかもしれないけれど、しばらくは任務になりそうな調査もない。兄さんがあの子を見ている間は、勉強が遅れないように僕が見張らないと。ただやらせてもサボってしまうから、今度はサボったら別教科の課題を増やそうか。雪男は決意も新たに湯船の蛇口を捻った。
 
 風呂は案の定一騒動だった。水に恐怖心でもあるのか、湯船を見た途端に喚いて叫んで、大暴れした。どっかでこんなの見たぞ、とデジャヴに襲われながら、結局二人掛かりで身体を綺麗にした。丁寧に拭われて、ホコホコになった所でやっと安心したらしい。暫くは自分の知っているのとは違う石鹸の匂いだからか、あちこちをそれこそ犬のように嗅いでいたが、兄と同じ匂いだと気づくと、それも辞めた。
 風呂の後はメシ、と準備に取り掛かろうとしたが、燐から引き離そうとするとひどく泣いて暴れた。一度は引き離したものの、雪男が自分の用事を片付けられないほど暴れるので、仕方なくネットでおんぶ紐のかけ方を検索して、何故あったのだかも不明な帯で兄におんぶさせた。
「その子、喋った?」
「全然」
 落ち着いたのか燐の膝に抱かれて、当人は鰹節と卵を入れた熱々のおかゆを吹いて食べさせて貰っている。何時まで居るかわからない子供だけれど、僕に慣れる日は来るんだろうか?
 僕と兄さんの子供だったらどうなるだろう? ぼんやりと思って我に返った。
 なに言ってんだ、僕。慌てて打ち消す。甲斐甲斐しく面倒見る兄さんがあんまりに可愛かったからって、流石にそれはどうかと思う。もしかして、この前の悪魔の面倒を見てたときもこうだったのか……!? くそ、あんなゴタゴタが無ければ見逃すことも無かったのに……! て言うか、やっぱりあれは兄さんが計画を無視して勝手なことをしなければ。いや、待て。それだときっと兄さんは謹慎にもならなかったし、悪魔の面倒を見ることもなかったかも知れない。僕が見れなかったのだから、その方が良かった……じゃない! えーと。まぁ、二人の子供なら居ても良いなと思う。
 いやいやいや。もちろん、可能なら。可能なら、だから。僕だって判ってますよ。兄さんは男だし、僕も男だからそんなことは常識的に、なにより生物学的に絶対にありえない。大丈夫。判ってる。
 でも。
 兄さん悪魔だし、その辺何とかならないのかな。
 僕としたことが、非論理的な。ファンタジックな妄想をしてしまったことに、軽く狼狽する。いや、それよりも普段は微塵も思わないことがコロリと出てきたことの方によっぽど驚いた。そして、軽く自己嫌悪に陥る。現実を見ろ、僕。
「幼稚園くらいだと思うんだよな」
 ほんの僅かな間にぐるぐると高速で妄想とツッコミを繰り返して、兄の言葉で我に返る。
「そのくらいなら、喋れても良いと思うけどね」
 だよなー、と燐が心配そうな顔をする。
「嫌な事言うけど…」
「ん?」
 雪男は躊躇いがちに口を開く。
「その子はもともと喋れないのかも。或いは病気か生まれつきか、喋ることも、他人と意思を通じることが出来ないのかもしれない。最悪のケースもまだあるけど…」
 口を濁した先を読み取ったのか、うん、と燐は口の周りを拭いてやりながら頷く。旨いか? と言う問いかけに、子供は無邪気に兄を見上げて笑う。
「言葉は通じてそうだよね」
「そうなんだよな」
 多分燐が一番恐れているのは、虐待か捨て子と言うケースだ。
 例え生まれつき喋れないのだとしても、普段は迷子札や親がしっかりついているのに、何らかの理由や偶然で子供が外に出てしまったのなら良い。親もさぞ心配しているだろう。だけれど、そうじゃない親が名乗り出て来た場合でも、双子に引渡しを拒む権利はない。子供が不幸になるかもしれない、と思いながらも別れなければならないのだ。現実問題として、自分たちで子供を養っていくことは難しい。収入があるのは雪男だけで、だからと言って余裕があるわけでもない。子供を引き取るからと言っても、後見人であるメフィストが燐の小遣いを上げてくれるとも思えない。
「やっぱり……」
「しょうがねぇよな。でも今は親が見つかるまで、コイツきちんと面倒見てやろうぜ」
 いや、違う。僕が言おうとしたのはそう言うことじゃない。ちゃんと判ってる? 兄さんが一番気にするんじゃないか。
「なぁ、とりあえずコイツ名前付けてやろうぜ」
 そうやって笑うその笑顔が可愛いから、いーよ、もう。
 
 
 

 
 ――南十字商店街に出たって。狼男。
 ――森林地区に入り込んだカップルが襲われたって。
 ――狼男じゃないよ、女の子の幽霊でしょ?
 ――違うって、口裂け女だよ。
 
 
 『銀《ぎん》』と名付けられた子供は、とにかく兄さんにべったりだった。
「なんで銀なの?」
「コイツ、光の具合で、髪の毛が銀色に見えるから」
 尋ねた僕に、どうだ、と言わんばかりに答えてくれた。そのまんまな理由で、それも兄さんらしいから良いけどさ。
「じゃぁ、兄さん行ってくるね」
 緊急の呼び出しに、慌てて祓魔師のコートを羽織ると、慌しく靴を履いて日本支部直通の鍵を捻る。
「おー、気をつけてな」
 うー、と銀が手を振る。子供が来てから三日。僕にも少し慣れてくれたらしい。燐の姿がないとダメだが、見えていれば僕が抱いていても泣いて暴れるようなことはなくなった。寮の部屋にも慣れて、すっかり寝てしまえば傍を離れても大丈夫なようになったので、そろそろ兄さんと僕の不満を多少晴らしても平気かもしれない。
 それはそれで一安心だが、親が名乗り出てこないことに不安を覚える。余り長期間名乗り出てこないとなると、また別の問題が浮上してくる。出来ればそれだけは勘弁してもらいたい。
 子供と燐に手を振って、日本支部へ出る。
 扉の向こうは廊下だった。大勢の職員が行き交っている。
「ああ、奥村君! 待ってたよ、もう会議が始まるから、急いで」
 情報管理部の佐藤が慌てたように駆け寄ってくる。
「すいません。すぐに向かいます」
「大会議室だから!」
 シュラによくこき使われている彼は、書類を抱えて忙しそうに通り過ぎて行った。多分会議で配る資料をコピーするのだろう。きっと、シュラかメフィストがギリギリになって、いろいろ出して来たに違いない。一瞬彼を手伝うべきだったかと、去った後を見やったが既に姿は見えなかった。
「大会議室か」
「それだけ緊急性も高いということです」
 雪男の考えを読んだような声が掛かる。人を食ったようなこの声は正十字騎士團、日本支部の支部長、メフィスト・フェレス卿だ。
「こんばんは《グーテン・アーベント》、奥村先生☆」
 驚いて振り返った雪男に馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、帽子を取って恭しくお辞儀をした。その後ろには女性が一人立っていた。紺色だが上品な仕立てのスーツに、薄化粧をして、色素の薄い髪の毛が緩やかにウェーブを描いていた。彼女は雪男を見て、弾かれたように雪男の出てきた扉を見やる。そして、にっこりと微笑んだ。
「あの……」
 女性は誰だろう?
「さて、参りましょうか?」
 雪男が尋ねようとしているのを、敢えて無視した。雪男は殊更平然とした顔を装った。この人の狙いは判っている。僕をからかって楽しんでいるのだ。わざわざ楽しませてやるもんか。残念ながら、冷静な顔をすることすらも、この悪魔を楽しませることになるのは腹立たしいが、取り乱した所を見せるよりはマシだ。楽しそうに鼻歌を歌いながら大会議室へと向かうメフィストと、連れの女性の後ろをついて行った。
「お、ビビリ、こっち来い」
 会議室に入るなり、霧隠シュラがちょいちょい、と指で手招きする。大会議室の横手から入った雪男の右手に巨大なスクリーンが掛けられている。その前には、長机を繋げて椅子が置いてある。どうやらそこが上座らしい。シュラは端っこの方で行儀悪く足を机に乗せてふんぞり返って座っていた。メフィストと連れの女性は、その逆の隅に座ったようだ。それと対面するように、四人掛けの長机と椅子がずらりと部屋の奥まで並べられている。列にして五列。一列に十近くは机が並んでいるようだ。更には壁際にカメラが据えられている。恐らく支部に集まれない祓魔師達に向けたテレビ会議用だろう。今回の緊急会議には、一体どれだけの祓魔師を招集したんだろうか。部屋の中は既に集まった祓魔師達や、準備に走り回る人たちでざわついていた。慌しく机に資料と飲み物が置かれていく。僕もあっちを手伝わないといけないんじゃないだろうか、と思う。明らかに雪男よりも上位の祓魔師がペットボトルの箱を抱えて歩き回っていた。
「後で呼ぶから、これ読め。あと、これと、こっちも。あ、ここ座っていいぞ」
 ばさばさとシュラが書類を寄越した。
「ちょ、なんですかこれ」
 ふぁ、と大きな欠伸を洩らしたシュラを問い詰める。手元の資料は、点がいくつも書き込まれた正十字学園町の地図。相談窓口の業務日誌が数枚、調査報告書を綴じたもの、そして作戦概要と銘打たれた分厚い書類だった。
「捜索だってよ」
「捜索? 任務では?」
「あー、アタシちょっくら寝るから、後は適当に頼むわ」
「ちょっ……」
 もう一つ大きな欠伸をすると、止める間もなくスー、と寝息を立て始めた。この女……。そのまま二度と起きられないようにしてやろうか。なにが、ここ座っていいぞ、だ。なんか凄く面倒くさそうなことに巻き込んだだけじゃないか!
「奥村君、座って。始まるよ」
 あちこちを駆けずり回ったのだろう、荒い息を吐きながら佐藤が椅子を引いて雪男の隣に座った。
「あ、じゃぁあっちに」
 一気に部屋が暗くなったような気がするほど、暗色の祓魔師のコートを着た集団が座る方を指差す。
「座って。そこ。君も指揮側入ってもらうって、霧隠隊長が」
 コノヤロウ。口をぽかんと開けて居眠りをしているシュラの口に、拳を叩き込んでやろうかと思いながら、不承不承席に座った。ついでに隊長起こして、と佐藤が言う。それでシュラの面倒を見る役目を押し付けられたんだな、と理解する。シュラの肩を揺すりながら、改めて早く昇級試験受けてやる、と決意を固めた。上一級を取っても相変わらずの対応だろうけど、今みたいな明らかな上司と部下の関係よりは、断りやすいってものだ。
「んだよ、っせーな」
「会議始まるんだよ! いつまでも寝てんな」
 不機嫌なシュラが殴ってくるのを掻い潜りながら、腹立ち紛れに頬を抓ってやった。イテーよ、とその手を叩き落したシュラは、多少非難めいた視線が注がれるのにも構わず、うあー、と無遠慮に伸びをして、ショボショボとした目を擦った。どうやらちゃんと起きたらしい。佐藤から回ってきたマイクを手に立ち上がった。
「じゃ~~緊急召集会議、始めっかね。今回隊長を務める霧隠シュラです。ドーモ」
 ぐだぐだな感じで会議の開始が宣言された。こんなのでいいのか。
「まずは情報管理部の佐藤君、状況報告」
 無造作にマイクが放られる。ぼうん、とくぐもった音がしたかと思うと、ハウリングを起こして、耳障りなピィーンと言う音が会議室に響く。非難の呻き声が会場中から上がった。佐藤が慌ててマイクのスイッチを一旦切る。
「失礼。では報告します。二日前に捜索の依頼がこの日本支部に寄せられ、受理されました。対象は人狼《ライカンスロープ》」
 ざわめきが会場を埋め尽くした。
「悪魔の捜索だって?」
「人狼は絶滅したんじゃなかったんですか?」
 会場の真ん中辺りから、非難めいた声が上がった。
「落ち着いてください。捜索は三……、えーと」
 佐藤が落ち着かない様子で、メフィストを見やる。メフィストはにやりと笑うと、席を立った。
「今回の依頼は、こちらの女性から出されました。探しておいでなのは、ご主人と、子供二名」
 傍に座る女性が一礼した。会場がいきなりしんと静まり返る。雪男も思わずまじまじと依頼主だと言う女性を見つめた。人狼とは思えなかった。テキスト通りに言うなら、人狼は人を襲って肉を食らう。凶暴で、動きは素早く、怪力。コンクリートの壁ですら、片手で易々と砕く。だが、皆の注目を浴びて少し居心地悪そうにしている女性は、むしろ優しそうで、綺麗な人だと思った。
「どうぞ、続けてください」
 マイクを握ったまま呆然としていた佐藤はメフィストに促されて我に返ったらしい。二、三度咳をすると、つっかえながらも先を続けた。雪男は説明を半分聞きながら、シュラが寄越した資料に目を通す。
 そもそも人狼一家はメフィストを尋ねてくる予定だったらしい。二週間ほど前に正十字学園町に入った途端、まず子供たちとはぐれた。彼らを探しに出た父親も、そのまま行方不明。暫くは母も彼らを捜そうと試みたらしいが、どうにも出来ず本来訪ねる先であったメフィストを頼った、ということらしい。
「なんで見つからないんだよ?」
 会場から声が上がる。明らかに今回の依頼を不満に思っている様子だ。
「えー、その。どうやら正十字学園町の結界が影響しているのではないかとのことです」
 佐藤の答えに、あー、と祓魔師達が頭を抱えた。二次遭難だ、と雪男は気の毒に思う。正十字学園町は、メフィストの力で中級以上の悪魔が入ってこられないように、魔除け、結界、迷路などで守られている。探したくたって、色々邪魔されて探せない、と言うのが正直な所だろう。父親の立場なら余計なことしやがって、と文句の一つも言われそうだ。
「結界を解くことは出来ません」
 メフィストが悪びれた風も無く言い放つ。確かに、それは無理な話だ。
 で、僕たちに探し出せってことか。
 雪男は手元の地図を眺めた。正十字学園町のあちこちにある点は小さな丸いシールで、小さく数字が打ってある。重複した数字に気づいて良く見直すと、シールの色は二色あった。黄色と緑だ。地図の端には色の凡例が載っている。それに拠れば、緑のシールが父親、黄色のシールが子供のようだ。子供は二人一緒なんだろうか? 業務日誌をぱらぱらと捲ると、現在窓口に寄せられている目撃相談の写しのようだった。空いている場所に丸で囲んだ数字が書き込まれている。どうやら、地図上の点と対応するらしい。ざっと目を通すと、学校で最近耳にする噂話に似ていた。
「なるほど、口裂け女やら、狼男やら幽霊やら。ここへ繋がって来るわけか」
 目撃された形態が違うのは、狼の姿だったり人の姿だったり、あるいはその途中だったからかも知れない。
 雪男は報告書の方を捲りながら、地図と付き合せる。子供と思しき目撃情報だけに注目すると、彼らは正十字学園町のかなり内部に入り込んでいるようだ。力がまだ弱くてメフィストの力に跳ね返されていないのかもしれない。一方で、父親の方は中間地点まで入り込んでいるが、そのままぐるりと街の中心部を取り囲むように大きな円を描いて目撃されている。どうやら罠《トラップ》に掛かって、それ以上入り込めないようだ。
「おい」
 考えに耽っていた所にマイクをいきなり渡されて、資料の内容を説明させられた。説明と言っても資料から読み取れた雪男の推測ばかりだが、あながち間違っていないだろうと思いながら喋る。それはシュラや他の祓魔師たちの表情でも判った。自分の力を認められているのは単純に嬉しいが、この場で話していることを当たり前に受け入れているのが不思議だった。それとも、彼らにとっても僕はシュラさんの面倒を見る役だと思われてるんだろうか。冗談じゃない。今すぐ、速やかにその印象を払拭したい。
 頭の中で別のことを考えながらも、上辺は冷静を装って、以上です、とマイクをシュラに返した。
「じゃ、簡単に計画説明しとくわ。基本的に捜索は同時並行で探す。ただし、優先順位は父親。その後に子供を探す。ただし先に遭遇した場合はその限りではない。子供にはちょっとツライだろうが、親が居た方が知らない奴らに追いかけられるよりは良いだろ。詳しくは各自概要を読んどいてちょ」
 簡単すぎる説明に、会議室中に呆れたような空気が漂う。解散、とシュラがさっさと席を立って会議室を出て行く。
「今日から第一次捜索隊出るからな。担当のヤツはこのまま捜索の用意に入れよ」
 かなりベテランの祓魔師が、ざわついた会議室で担当の祓魔師の名前を読み上げていた。雪男も今日は担当ではないらしい。ほっとして資料を纏めて席を立つ。後で捜索対象のプロフィールを読み込んでおいたほうが良いだろう。
 小さく溜め息を吐きながら、目頭を揉んだ。
 出来れば父親の方は今日か明日くらいには見つかって欲しいものだ。単純な捜索で済まない場合の『プランB』は、悪く言うと大量の人員を投入し、手段を選ばない。友好的に済むかもしれない今の基本作戦と違って、悪くすると敵と認識されてしまう可能性もある。そうなれば、余計に日数も掛かるだろうし、捜索が難しくなってしまう。
「おい、雪男」
 真っ先に会議室を出て行ったはずのシュラが戻ってきて、雪男を呼び止めた。
「忘れてた。お前、明日から捜索当番以外は司令部詰めな」
「いやです」
 露骨に嫌な顔をしてみせる。冗談。そんな忙しい生活して堪るか。
「ほー。上司命令無視で、懲罰いっとくか?」
 シュラがニヤリと笑う。くそ、これって立派なパワハラじゃないか。
「随分横暴な真似してくれますね」
「上司特権だ。これくらいやれなきゃ隊長なんてやってらんねーっつーの」
 ボーナス弾んでやるよ、とシュラが金銭を意味する手つきをしてみせる。下品だ。だが、それは確かに魅力的な条件ではある。寸時の迷いを読み取ったのか、シュラがすい、と離れた。
「んじゃ、ヨロチク。ビビリ~♪」
 シュラがしてやったりと言わんばかりに笑いながら去っていく。後ろについていた佐藤が、気の毒そうな、それでも笑いを堪えきれない顔をしていたのが、余計に腹が立った。
「奥村先生、子育ては順調ですか?」
 面白がっているのがありありとした顔で、メフィストが尋ねてきた。
「ええ、兄がよく面倒を見ています」
「そうですか」
 まだ親は見つからないのか、と聞こうとして口を開く前に、メフィストが、引き続きよろしくお願いしますよ、と言って去っていく。その後を依頼主の女性が一礼して歩み去った。
 二人を見送った雪男は、大きく溜め息を一つ吐いた。なんか、ぐったり疲れた。雪男が手近な扉に寮の部屋に直接繋がる鍵を差し込んで、扉を開く。
「おー、雪男。帰って来たか」
 明かりを落とした部屋で、読書灯だけをつけて机に向かっていた燐が、声を掛けてきた。
「寝ちゃった?」
 部屋の明かりが消えている理由に思い当たって、声を落として尋ねる。
「ああ。ぐっすり。だから、普通に喋ったって大丈夫だぞ」
 燐が笑う。ああ、もうなんかほっとする。今日くらいは課題勘弁してもいいかも、なんてその声に思う。て言うか、これからちょっと忙しそうだし、上司は理不尽で、無茶ばっかり言うし。少しばかり甘えちゃダメかな。
「腹は? 風呂入って来いよ」
 なんて気遣ってくれる燐を、雪男はいい加減に服を脱ぎ散らかした状態で、抱き寄せる。額に、頬にキスを降らせた。
「なんだ、今日は甘えただな」
 笑う燐の額に自分の額をくっつけて、だめ? とねだった。その意味を理解した燐が、途端に顔を真っ赤にする。
「……起こさねーよーにすんなら」
 両手で雪男に抱きついているくせに、燐が恥ずかしそうにぼそぼそと呟く。もう数えるのもバカバカしいくらい身体を重ねているのに。兄さんから大胆に誘ってくる――正確に言うなら、こっちが襲われそうな勢いだったりする――時だってあるのに、時々こうやってまるで初めてのように恥らう時があるから、可愛いと思ってしまう。
「もちろん」
 雪男は唇を重ねながら、ゆっくりと燐を寝床に横たえた。二人の荒い息遣いがシーツの波間に漂って消えていく。寝台の軋む音も気にならないほど、お互いの身体に溺れた。
 だが、甘やかな時間は、子供がぐずるような泣き声で容赦なく打ち破られる。慌てふためきながら服を着た二人が、寝ていたはずの子供の様子を見た。
「お…、おい」
 燐が驚いたのか、ぎゅ、と雪男の手を握った。雪男も思わず握り返してしまう。
 クロは燐の寝床の隅っこで丸くなって寝ていた。大部分は寝相の悪い子供がシーツと毛布をぐしゃぐしゃにして占領している。それに埋もれるように、銀が寝ていた。いや、銀だったものが。双子が驚き見守る間に、子供の身体が毛で徐々に覆われていく。透明のような繊細な毛は、綺麗に全身を覆うと艶やかな銀灰色になった。手の爪が鋭く延びて、人の手足が動物の四肢に変化する。洋服がイヤなのか、キツイのか、徐々に体形が変わっていくのに合わせて、蹴ったりもがいたりして脱いでいく。いっそ器用なくらいだ。顔立ちが変わらないまま、耳が大きく尖り、ふさふさとした尻尾が生える。
「ライカン……」
「おおかみおとこ……」
 双子が呆然と呟く。動けなかった。目で見ているものを頭も理解している。ただ、心がまだ受け入れられない。そうこうする間に、顔も犬のように伸び、身体がすっかり犬のようになった。
「こいつ」
 先日まで裏口にいた子犬だった。大の字に寝ていた子供が、今はごそごそと丸まって、安心しきった犬みたいに寝ている。
「ゆきお」
「にいさん」
 双子は思わずその場にへたり込んだ。
 
***
 
 雪男は燐の差し出したマグカップを受け取りながら、書類を捲った。燐は自分の椅子を引っ張ってきて、コーヒーを啜りながら、雪男の手元を覗き込んだ。
「ら……、らいかん?」
 一際大きな字で印刷された行を読む。
「ライカンスロープ」
「って狼男か?」
「そう。人狼、リカントロープ、ウルフマン、ルー=ガルー、ウェアウォルフ。色々呼び名があるよ」
「本当にいたんだな」
 はぁ、と燐が驚きと、困惑で溜め息を吐く。漫画の中だけかと思っていた。ちらりと寝台で眠る銀を見る。あれからもう一度変身が起こって、子供の姿に戻った。狼男、じゃないライカンスロープの変身するところを初めて見た。今までは眠り込んでしまって気付かなかっただけで、実は何度も夜中に変身していたのかもしれない。今更に、クロが言っていた『かわるやつ』の言葉に思い当たる。『姿が変わる』と言いたかったんだろう。
「兄さん、これは任務の話だから誰にも言わないでね」
 雪男は恐らくこの書類を燐にも見せたくて、こうして待っていたのだと思う。燐はわかった、と頷いた。
「もしかしたら、近い内にこの件で兄さんたちも任務に駆り出されるかも知れないけど、それまでは絶対黙ってて」
 燐は真面目な顔をして、約束する、と言った。
「今、正十字騎士團は人狼を捜してる」
「どーにかすんのか?」
 心配の余り、思わず雪男を遮ってしまった。悪魔と呼ばれていても、ただ祓えばいいんだと言われると、違和感を感じてしまう。自分の身の上と重ねてしまうのだろうか。雪男が一瞥をくれて、眼差しだけで燐の口を閉じさせた。
「そうじゃないよ。お母さんが捜してるんだ。この正十字学園に迷い込んでしまった子供と、ご主人をね」
 ほう、と一安心する。いや、ちょっと待て。
「お母さん?」
 そう、と頷く。
「じゃぁ……!」
 銀を早くお母さんの所に連れて行かないと。燐は慌てた。きっと心配してる。
「知ってるよ。多分」
 雪男が燐を押し留めた。ひどく冷静な顔。たまにこの顔を見るとイラっとする。今もそうだ。どうしてお前そんなに冷静で居られる?
「なんだよ、そりゃ? んな悠長なこと言ってねーで……」
 言い募ろうとするのを、雪男が手を挙げて遮った。
「メフィストは銀が人狼だって、知ってたんだ、多分。だから、敢えて兄さんに任せたんだと思う。それを彼が客人である母親に話さないワケがない。よって、彼女本人も知ってる」
 壁の一点を睨み付けたまま、道理で、なんて低い声で呟く雪男に、燐は返すべき言葉を失う。
「雪男、俺何がなんだかわかんねーんだけど」
 兄ちゃん、置いてけぼりだぞ。ちゃんと説明してくれ。てか、ちょっとお前の反応怖い。あのピエロ面白がってやがる、とか、聖銀弾ぶち込んでやる、とか聞こえたの、俺の空耳だよな?
 燐が事情を把握していないのを思い出したのか、えーと、と上を向いて雪男が暫く考えて、喋りだす。
「兄さんもこの町には色々結界が張ってあるの、知ってるよね?」
「だから、鍵があるんだろ? 結界とか、トランプとかに引っかかったりしねーで移動できるように」
「トラップね。人狼一家はフェレス卿を尋ねる予定だったらしい」
「へぇ、アイツの所行こうなんて、物好きだな」
 雪男が小さく笑いながら、僕もそう思う、と返して、笑ってる場合じゃないと気付いたのか、真面目な顔に戻る。
「正十字学園町に入ってすぐ、子供二人がはぐれてしまった。心配したお父さんが彼らを追いかけて、更に行方不明。それが二週間前のこと」
「二週間か……。え、にしゅうかん!?」
 期間の長さが頭に沁みて、驚いた声を上げてしまう。雪男が、静かにしろ、と口に人差し指を当てて窘めた。慌てて銀を起こさなかったか、と寝床を振り返って確かめた。安心しきった顔が見えて、ほっとする。
「子供が二週間て、マズイだろ?」
「お母さんも暫くは皆を探したみたいだけど、結界のせいで上手く行かなくてね。フェレス卿を頼った」
「それで捜索の任務か?」
「そう言うこと」
 名乗り出てこない親に抱いていた苛立ちと、不安が和らぐ。ちゃんと心配されてるんだ。て、ちょっと待て。
「子供二人って、一人は銀だろ? もう一人はどこ行ったんだ?」
 燐は大事なことを思い出す。犬――正確には狼だ――の姿だった銀を見かけたのは一週間以上も前だ。あの時点で物凄く腹を空かせていた。では、その兄弟は今どうしている?
「その子もきっとこの町の罠に引っかかってしまってるんだと思う」
「じゃあ……!」
 早く捜してやらなきゃ。途端にそわそわと落ち着かなくなる。心配だろう、腹を空かせて、両親とはぐれて怯えてるかも知れない。
「兄さん」
「なんだよ」
 居てもたってもいられず、がたりと音を立てて席を立った燐の腕を、雪男が掴む。見上げてくる目が据わっていた。
「どうするつもり」
 そして不機嫌だ。低い声で放たれた一言は、ヒヤリとした冷たさを感じさせた。ぞわりと寒気が背中を駆け下りた気がする。でもだ。
「どうって、決まってるだろ。捜してやらなきゃ」
「あのね。どこを捜すの?」
 雪男の溜め息混じりの問いに燐は答えられなかった。作戦なんてものはもちろん考えていない。行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。たとえ正十字学園町を朝まで駆けずり回ることになっても、とにかく自分で捜しに行かなければ気が済まなかった。だが、雪男の目はそんな答えを許してくれそうに無かった。
「銀をどうするつもり? 放っておくの?」
 そうだった。どすん、と腹を突かれた気がした。
「ちが……。いやあの、なら銀も……」
「こんな夜遅くに? しかもこの寒さの中、子供を引きずりまわすの?」
 認めたくないけど、雪男の言うことのほうが正しい。燐はどっと力が抜けて椅子にへたり込んだ。
「今、團が捜索隊を組織して捜してる」
 力なく頷いた。
「お父さんが最優先だけど、子供も同時に捜してる」
 雪男が一つ一つ、噛んで含めるように言う。たまにこう言う言い方をされると、半端扱いされているみたいで腹が立つけれども、今は逆に安心できた。
「お父さんが先に見つかれば、きっと子供を捜すのを手伝ってくれる」
 なんか憑き物が落ちたようだ。なにやってんだ、俺。
「それに、今は銀の保護者だろ」
「悪ぃ、雪男」
 詰めていた息を吐き出す。
「そうだよな、銀見てなきゃ。じゃなくて、母ちゃんに会わせてやらなくて良いのかよ?」
「フェレス卿に聞いとくよ」
 雪男はメガネを一つ押し上げた。さっきまでの不機嫌さもやっと和らいだ。
「ねぇ、僕だって心配なんだよ」
 音も無く席を立った雪男が、覆いかぶさるように燐に抱きついてくる。
「早く皆で会えるといいな」
 分厚い背中を、宥めるように軽く叩いた。うん、と雪男の声が埋めた首筋に落ちる。ぎゅ、と弟の身体を抱く手に力を入れた。
 家族と会えないのが、一番キツイ。俺だったらきっと堪えられないから。
 
 
 


 
「プランBだ」
「ぷらんびぃ? 何言ってんだ? 雪男」
 机に向かっていた燐がきょとんとする。帰ってくるなり挨拶もなしにそれか、と目が責める。燐の膝の上で子供が雪男の勢いに驚いて、じっと見つめてきた。そうだった。子供に手を振り返す。
 挨拶もそこそこに、靴を脱ぎ散らかして、襟元を緩めながら部屋に入る。どさりと荷物を寝床に放り投げた。溜め息を吐きながら、椅子の背に手を突いた。やるべきこと、考えておかなければならないことが山積みで、どれから手をつけていいか迷うくらいだ。
 捜索任務が始まって三日。
 フェレス卿にはもう暫く子供を預かっているようにと要請されていた。
 昼間の捜索隊は完全に空振りに終わっていた。夜の隊では遠目に目撃されることがあったが、全て接触できなかった。その前に逃げられてしまう。彼らが正十字学園町の中心を取り囲む輪ように、一定の距離の間で円を描いていることが判っていた。だが、時系列で見るとその動きは途端に不規則になった。連続性のある地点をウロウロしている時もある。だが、ある地点で見つかった次の日には、全くかけ離れた場所に居ることもあった。
 そこで分析班がメフィスト・フェレスの罠がある地点の情報と突き合わせた。すると、離れた場所に現れるパターンは、明らかに罠に掛かって、強制的に場所を移動させられていることがわかった。
 昨夜、先を読んでここだろうと言う地点で待ち伏せをした部隊が、運よく父親に近付くことができた。だが、驚かせてしまったのか、敵意を向けてくる相手に事情どころかフェレス卿や細君の話を出す間もなく、襲われた。そして身を守るために祓魔師の方も発砲せざるを得なかった。もう、最悪の展開だ。
「お父さんも、子供も接触できなかった。と言うより、見つけたけど、接触に失敗した。完全に敵扱いされてる」
 燐はあちゃぁ、と言う顔をしていた。
「そう言うわけで、團はもう少し強引な手に出ざるを得なくなった。候補生も招集される」
 雪男はもう一つ溜め息を吐いた。
「兄さん、銀を連れて行く用意をして」
 対策会議でフェレス卿が子供を引き取る、と言ってきたのだ。燐は雪男の言葉を聞いて、一瞬眉根を寄せた。その顔、やめてくれ。そんな顔させたくない。でも、これから團はより忙しくなる。燐も子供を連れて任務に行くわけにはいかない。今までは多少楽観的な見通しで、ゴタゴタが落ち着いてからゆっくり親に会えば良い、そう思っていた。だが、手段を選ばない状況となればむしろ、子供はちゃんと親の近くにいてもらいたい、そう言うことだと聞いている。
「わかった」
 少し時間を置いた声は、明るかった。この短い時間で、どれだけ考えて思い切っているのだろう。
「おっし、出かけるぞ」
 頭を撫でられながら兄に優しく言われて、子供は素直に頷いた。
 
 正十字学園町の最上階、フェレス卿の館に着いた頃から、銀の態度が明らかに落ち着かなくなっていた。あたりの匂いを嗅いでは、きょろきょろと左右を見回す。
「銀、大丈夫だ」
 一度会ったことあるだろ? 変な格好したヤツ。燐が勇気付けるように手を握った。その説明で通じるのか、疑わずにはいられないほどだ。それでも子供は信頼しきった顔で兄の顔を見る。今となってはそんな説明では到底信用できない気がするのだけれど、自分も小さい頃は兄の根拠の無い「大丈夫」で随分励まされたものだ。思うに、あれは完全に養父、藤本獅郎の口癖のままじゃないだろうか。
 双子のおとないに、メフィストの執事が執務室まで案内してくれた。奥へと進むに連れて、子供がそわそわする。扉が開いた瞬間に、銀が燐の手を振り切って部屋に走り込んだ。
 着ていた服をするりと器用に脱ぎ捨てて、狼の姿になった子供は女性の腕の中に、毬のように勢い良く飛び込んでいく。それを両手を広げて受け止めたのは、緊急招集会議で紹介された、今回の捜索願いの依頼主だ。一頻り子供が甘えるのを許してから、母親は人間の姿のまま、がぶり、と子供の首筋を噛んだ。きゅぅん、と小さな狼が、哀れな声を上げた。
 そんな光景を、双子は呆然と見ていた。子供がもぎ離していった燐の腕が、力なく脇に落ちた気がした。顔は穏やかなのに。その胸の内の想いはどんなだろう? むささびの時も、そうだったんだろう。僕が引き離される悲しみにくれている間に、外から見えない兄さんの内心がどうであれ、それでも彼は子犬が幸せになれるのを喜んでいたのだ。ホント、そう言う兄貴ぶりが、ムカつく一方で凄いとも思う。
 部屋の中を見つめる燐の背中に、雪男はそっと手を置いた。
「奥村君、先生、ご苦労様でした☆」
 メフィストが執務机から立ち上がって、ぶらりと歩いてくる。その声に、母親が深々とお辞儀をした。子供は燐に良く懐いていたけれど、母親が相当に恋しかったようで、しがみ付いたまま甘えた声を上げている。
「ちゃんと母ちゃんに会えてよかったよ」
 存外穏やかな顔で燐が言う。正直、雪男にとって子供が負担でなかったとは言えない。だけれど、今は同じく素直に親子が無事に会えて良かったと思った。
「さて、奥村君。奥村先生から現状を聞いていますね?」
 メフィストが声を潜める。燐が少し緊張した面持ちで頷いた。計画を検討した段階で知っているだろうと思うが、それでも母子には余り聞かせたくない話だ。
「よろしい。そろそろ招集が掛かる頃です。存分に働いてくださいね」
 ぱたん、と素っ気無く目の前で扉が閉められた。
「あれ?」
 何が起こったか判らなくて、兄と顔を見合わせる。反応できないでいる内に、ポケットに入れていた携帯電話が震えて着信を知らせた。電話に出ると霧隠シュラが「ビビリ、燐といるな? 一緒に本部に来い。ソッコーで来い」と言いたいだけ言って、ぶつりと通話を切ってしまった。
「まったく……」
 苛立たしくて溜め息を吐く。慌しいったらない。それとも、ワザとだろうか? ほんの数日居た子供との別れを寂しがっているヒマなどないぞ、と。
「呼び出し来たか?」
 燐が訳知り顔に笑う。ちょっと寂しそうに見えた。なかなか懐いて貰えなかった雪男ですら、寂しさを感じているのだ。べったり信頼されまくっていた兄なら尚更だろう。なにせ一時優しくされた、それだけで子供が燐を再び探し当ててしまうほどだ。兄は行きずりの存在に、どれだけの情をかけたのだろう。
「シュラさん。ソッコー本部に来いってさ」
「アイツらしいな。俺もだよな?」
 確認と言うより、断定した燐はニヤリと笑って、よっしゃこい、と拳を反対の手に打ち付ける。その背を急に抱き寄せたくなった。僕も、寂しい。だから、兄さんの気持ちも判るよ、と。そう言いたかった。だが、すんでの所で思い留まる。今引き寄せてしまったら、確実に僕の箍が外れそうだったからだ。
「じゃ、行こう」
 そっと兄の肩を押す。メフィストだかシュラだか判らないけど、今はその企みに振り回されておこう、そう思った。
 
***
 
 
 『プランB』、か。
 雪男は苦々しい思いを噛み締めながら、寒さにこわばった身体を、敷布の上でもぞもぞと動かした。日が暮れつつある。長い時間、風が吹きすさぶビルの屋上で腹ばいになっていた肉体は、しばらく感覚が麻痺したようだった。断熱シートに、さらに毛布で包んでいても、芯から冷え切っていた。防風仕様の手袋に包まれた手だけが、体温を保っている。ゆっくり、静かに鼻から息を吸い、長い時間をかけて息を吐き出す。冷たい空気が肺に染み込むようだ。それでも、しばらく繰り返していると身体が内側からじわりと温まってくる。
 雪男は銃身から伸びる二脚と、自分の肩で固定させてあるスナイパーライフルの暗視スコープを覗き込んだ。分析班が予想した出現地点には、まだ相手の姿はないようだった。丸く切り取られた白黒の風景は、僅かな光を増幅して昼間のようにはっきりした様子を映し出している。光の増減を自動で調節するので、突然眩しい光源に照らされても、過負荷でスコープが壊れたりしない、最新鋭のものだ。こんなどこかの国の軍隊でしか持っていないようなものを、何処から調達してくるのだか。
 呆れと安堵、そして早く終わらせたいと言う焦りの混じった溜め息を小さく吐く。敵ではないはずの存在に銃を向けるなんて、ぞっとしない。
「おい、幾ら寒いからっておイタしてんじゃねーぞ。集中してろ」
 無線越しにシュラがからかいを乗せて窘めてくる。
「任務中にバカな発言は止して下さい」
「緊張を解してやろうって、上司の心遣いに何てこと言いやがる。ビビリめ」
「うっせぇ」
 腹立ち紛れに呟く。シュラがさも可笑しそうに笑ってる声が聞こえて、余計に腹が立つ。
 熱い風呂に温かい布団が恋しい。いやそれより、兄さんが湯たんぽ代わりに居てくれればいいのに、とさっきから何度思ったか。そんなことになったら、任務になんて集中できないのは判りきっている。十中八九、色っぽい展開とは無縁だろうけれど。きっと何だかんだと飛び出していきたがる兄さんを宥めるので手一杯になっていたはずだ。
 こうやってビルの屋上で待機するのも三日目だ。これまでは全て空振りしていた。
 Bと言うからには、Aがある。最初の捜索隊が出されたのがそれだ。それは出来るだけ友好的に、相手を刺激しないように接触を試みると言うものだ。
 だがそれが失敗に終わり、捜索対象である人狼からは我々は敵だと思われてしまった。このままでは、いくらこちらが下出に出ても向こうが態度をやわらげる可能性が低い。
 そこで、荒っぽい手段を取るのが、プランBだ。この代替案には三つ手段が考えられている。この町のあちこちには、中級以上の悪魔が入れないように罠が仕掛けられている。迷路や結界を抜けられない悪魔は、その場でウロウロとするか、ムリヤリ入り込んで別の地点に吐き出されたりする。そうした場所を分析班が罠とこれまでの目撃情報とをつき合わせて、『出現予想ポイント』とした。竜騎士《ドラグーン》の資格を持つ祓魔師の内、長距離射撃の得意な者が、その日に出没しそうな可能性の高いポイントで待ち伏せ、麻酔弾で狙撃する。第二に、いくらか可能性の低い、それでももしかしたら姿を現すかも知れない場所やその近くの路地裏に、睡眠薬入りの食べ物や水などを置いておく。そして、第三の手段で、捜索依頼主が自らそれらのポイントを巡回する。
 一番良いのは、依頼主が迷い続けている家族と出会えることだ。麻酔銃で狙撃するのは、最悪な結果だと思う。本人、ことに子供の場合は傷つくだろうし、依頼主が了承しているとは言え、やはり目の前で撃つのは躊躇われる。それに撃つこちらも後味の悪い任務になってしまう。
「食べ物に釣られてくれればいいのに」
 逃げだと判っていても、自ら手を下すのとでは全く違う。くそ、なんか胃がキリキリしてきた。これまで色んな任務をこなしてきた。後味の良くない任務なんて、幾らでもあった。自分でそれにきちんと決着つけてきたというのに。自分が知ってる存在の関係者だと思っただけで、心が乱れる。今まで数え切れないくらい、引き金を引いてきた。スナイパーライフルなんて、距離が遠いのもあって、一番手を下したという実感の少ない道具なのに。トリガーを引けないかも知れない。そんな不安を覚えてしまう。
 雪男は、断熱シートの下で、手を身体にごしごしと擦りつけた。
 兄さんのせいだ。
 八つ当たりだと判っても、つい文句を言いたくなる。
 考えなしで、無神経で、それなのに何でもかんでも抱え込もうとする。兄さんは強い。人一倍寂しくて悲しむくせに、それでも相手の幸せを思って、笑って別れられる。
 僕も強くあろうとしているけれど、そこまで強くないんだ。大事な存在が自分の傍に居るより幸せになると判っていても、離れていくのを受け入れることなんて出来ない。離れてしまうなら、最初から自分の懐に受け入れない方が良い。だから。だから、一線を置きたかったのに。兄さんだけで良かったのに。
 だめだ、集中しろ。
 余計な考えを打ち払おうと、頭を一つ振った。そして殊更意識的に深呼吸をしながら、スコープを覗いた。
 頼むから。食べ物に引っ掛かれ。
 目盛りの打たれた照準に映るモノクロの風景に、人影が浮かぶ。雪男はその姿を見て、腹の中で思い切り罵った。それは資料にあった、人狼一家の父親だった。
 ふいに姿を現わした人狼は、戸惑ったようにキョロキョロと周囲を見回す。恐らく迷路に弾かれてしまったのだろう。それでも状況を把握すると、ふらつきながらも精一杯素早い動きで建物の影に入り込んで、その陰から用心深く辺りを窺い始めた。人と狼の中間のような姿だ。バネのような筋肉と所々に薄い色が入った黒い毛が全身を覆う。顔立ちは人間よりも少し狼に近い。それでも精悍な顔立ちと言う印象だ。身体に服の残骸が纏わりついている。相当疲労しているに違いない。そして、かなり警戒している。良くない兆候だ。一発で仕留めなければ。ヘタに傷つけるようなことをすれば、恐怖と怒りを煽って本能のままに暴れ出しかねない。今の警戒レベルでは対応しきれなくなる。
 彼を狙うこちらの存在に気付いた素振りはない。早鐘のように心臓が打ち始めた。無理に動揺と焦り、不安を抑え込もうと繰り返す深呼吸で、暗視スコープの照準が微かに揺れる。
 ふぅ、と静かに息を吐く。ふいに別れ際に燐が言った一言を思い出す。『早く家族に会わせてやろーぜ』。雪男を鼓舞するように、そして励ますように拳を突き出して笑った顔が、雪男の焦りを鎮めた。
 やっぱり兄さんは強い。
 ふるふると小さく震えていた照準が、ぴたりと止まった。縦横十字に交わった交点が、人狼の胸の少し上を指す。今だ。雪男は人差し指を絞り込むようにして、引き金を引いた。
 
***
 
 
「雪男のヤツ、頑張ってるかな」
 夕暮れ色に染まった空を見上げて、ぼそりと呟く。
「人の心配の前に、自分の心配せぇや」
 勝呂竜士が少し呆れたような口調で、燐の肩をちょいとどやした。
 数班に分けられた候補生たちは、拠点で睡眠薬入りの食べ物をせっせと拵えている。おにぎり、ペットボトルに入った水、塊肉などだ。
 へいへい、と応えて燐はおにぎりを手に取る。シンプルな塩にぎりだ。袋越しに薬液の入った注射を刺す。
「こんなんより、盛大に肉焼くとか、オムライス作るとかの方が良いんじゃねーの?」
 海人津見彦《アマツミヒコ》の時に供物として料理を作ったのを思い出す。それに、銀もオムライスは好きだった。きっと彼の兄弟も好きなのではないだろうか。
「人狼は基本肉食やからねぇ」
 三輪子猫丸がペットボトルの蓋から細い針を刺して薬液を入れると、水と良く混ざるように振った。その横で志摩廉造がげんなりした顔でパック詰めされた肉に注射器を刺していた。連日大量の肉に薬を仕込むのが、何か彼の琴線に触れたらしい。
「なんやもう、明日から肉食われへんわ……。草食系男子になってまうかも」
「煩悩減るなら、草食でも何でもならはったらエエやないの」
「子猫さん、いつになく辛辣……」
 二人のやり取りに杜山しえみがくすくすと笑いながら、ビニール袋に詰める。あからさまな罠だと悟られないように、落し物を装うためだ。
 拠点中に食べ物の山が出来上がっている。水などは暫く持つが、おにぎりや肉は一日で廃棄しなければならない。これを町中にある『出現予想ポイント』とやらに置いて、交代で巡回する。そして朝には回収するのが、候補生たちの任務だった。
「出来たか?」
 勝呂が確認する。
「もうちょっと」
 神木出雲としえみ、宝ねむが残りをがさがさと詰めた。勝呂や子猫丸たちが彼らを手伝い始める。
 彼らの手元を見つめながら、この町で迷っている人狼は無事なのだろうかと思う。疲労と空腹で、多少の人間の匂いも気にならないほどになっていてくれれば良いのだが。何度も自分の内に言い聞かせたのに、まただまし討ちしているような罪悪感が湧き上がる。だが、直接会って、事情を説明できない状態では、どうしようもなかった。
「ほなら、配りに行こうや」
 他の班も作業が終わったらしく、ぞろぞろと移動が始まっていた。物と人に溢れていた拠点が一気にがらんとする。一瞬、自分が何故ここにいるのか判らなくなった。何のために、何をしようしているのだろう。
「奥村、ボケッとすなや。早う配ってしまおうや」
「ああ」
 燐の様子に、しえみが心配そうな顔をして覗き込んでくる。
「燐、大丈夫?」
 しえみの言葉に、一瞬頷けなかった。
「早く皆会えるといいね。お母さんも銀ちゃんも心配してるし。きっとお父さんも兄弟も心配してるものね?」
 塾の面々は、銀を知っている。あまり慣れると言うことはなかったが、それでも会えば必ず声を掛けてくれたりした。
「早く決着つけたいのは皆一緒よ」
 出雲がぼそっと呟くように言った。銀が慣れなくても、お菓子や小さなおもちゃなどを一番くれたのは彼女だ。その内の小さなウサギの人形は殊のほか気に入ったらしく、いつも耳がよだれでべったりしていた。
 そうだ、と思う。俺は家族に会わせてやりてーんだ。自分が雪男に言った言葉を忘れてどうする。
「だな。アイツのためにも頑張らなきゃな」
 うん、頑張ろう、としえみが顔を真っ赤にして力強く言い切った。彼女の言葉に頷いて一つ深呼吸をすると、うし、と燐は気合を入れた。
 燐たちに割り当てられたのは、彼が暮らす旧男子寮に近い一角だった。班を纏める祓魔師の指示に従い、指定のポイントにビニール袋を置きに散らばった。それぞれが麻酔弾の入った銃を持たされていて、発砲許可まで出ている。
 腰に吊るした拳銃がやたら重く感じた。
 やっぱ俺、撃てねーな。
 断定して、納得したように頷く。
 腕に自信がないのもある。射撃練習は塾で何度かやっている。扱い方にも慣れたし、ただ的に向かって撃つなら幾らでもできる。的に当てる技術という面では、まだまだだ。止まった的ならまだしも、動いた的にまともに当てられたことがない。雑魚用のトレーニングマシンでも、まだ成績が上がらない。
「偽烏賊《スキッド》は斬れたけどなぁ」
 その上、今度は単純な敵ではない。白無垢の幽霊でも、悪霊《イヴィルゴースト》でも、擬態霊《シェイプシフター》でもない。
 人狼を保護するため。そして、自分の身を守るためだとは言われたが、燐は端から撃とうと思わなかった。同じ悪魔なのに。上手く言葉にならないけれど、自分の中では祓う祓わないの明らかな区別があるようだ。祓うわけじゃなくても、出来れば傷つけたくない。
「ごちゃごちゃ考えてもしょーがねーよな」
 燐が指示されたのは、寮から程近い公園の奥まった茂みだ。緩く口を結んだ袋を、茂みの中に放る。低木の細い枝が折れる音がした。
 俺のとこに来い。こうして巡回してる内に。そう思う。出会えたからと言って、もちろん作戦などない。行き当たりばったりだ。でも、家族が待ってるんだ。話せば判ってくれんだろ。俺なら、多少怪我してもすぐに治っちまうし。説得するだけの時間は作り出せる。
 公園の出口に向かって、ぶらぶらと歩き始める。辺りは薄紫に染まって、今にも闇に沈もうとしていた。砂場の傍の茂みの前を通りかかったその時、小さな子供の声が聞こえた。
「……のにおいがする」
「誰だ?」
 燐はあちこちを見回した。
「……はどこ?」
 意味が判らなくて、頭が混乱する。なんだって? そして次の瞬間に銀のことだと思い当たる。声の感じは、弱々しくか細い。女の子だろうか。
「お前」
 なんと言えば良いか判らなくて、迷う。
「兄弟探してんだよな? 父ちゃんと母ちゃんとはぐれてさ。そうだろ?」
 しん、と辺りが静まり返る。闇が濃くなった気がした。風もなく何の音もしないので、声の主が居なくなったのかと思ったほどだ。焦りそうな気持ちを抑える。人狼は悪魔だ。ならば自分には気配がわかるはずだ。すると弱々しいながらも、茂みの向こうに潜んでいるのが判った。
「あいつなら、無事だ。母ちゃんと一緒にいるぞ」
 茂みが僅かに揺らいだ気がした。
「においがする」
 暫く一緒にいたから、匂いが移ったのかもしれない、と思う。
「俺、お前の母ちゃんに頼まれて、お前と父ちゃん探してんだ」
 心臓がバクバクと勝手に早くなる。心配で、探してやりたかった相手が、すぐ近くに居る。今すぐに安心させてやりたい。一刻も早く家族に会わせてやりたい。一方で、焦りと不安が募る。上手く説得できなかったら、どうしよう? 向こうが信じてくれなかったら? 何日も一人で彷徨って、寂しかっただろう。不安だっただろう。疲れただろう。これ以上ひどい目に遭わせたくない。
「どこ?」
 がさり、と右手の茂みが揺れた。
「待ってろ、今呼んでやる」
 ポケットから携帯電話を取り出してメフィストに電話を掛けようとしたその瞬間、目にも止まらぬ速さで茂みから飛び出した影が燐の手から携帯電話を叩き落した。
 
 
 

 
 ポケットの中で、携帯電話が震えた。
 引き金を引く瞬間、その振動で僅かに手元が狂った。くぐもった音を立てて放たれた麻酔弾は、人狼の右肩を掠めてビルの壁に当たった。かつん、と乾いた音がビルの谷間に響く。
 人狼が険しい顔で、過たず雪男の潜むビルを見上げた。スコープ越しに目が合ったかと思ったほど、正確だった。
 くそ。
 血の気が一瞬引く。頭が冷たい水でも掛けられたように冴えたのは、そのせいかもしれない。スコープから目を離さず、膝立ちでの射撃体勢を取ると、立て続けに引き金を引いた。だが、その弾はことごとく避けられた。
 こっちを見切ってる。
 腐っても人狼ってことか。人が追いつけぬほどの俊敏性を持つ種族だ。雪男はもしもの時に用意していた聖水弾を放り投げた。濃度はCCC《トリプルC》と薄いが、少しでもひるんでくれれば良い。でも、余計に怒らせるだけだろうな……。一方で冷静に冷えた頭が無線に向けて喋る。
「こちらポイントD《デルタ》。目標と接触。失敗しました」
 『逃げろ』。シュラが簡潔に命令を下す。
「無理です。こっちがロックされた」
 今や怒り狂った人狼は、肝が縮み上がるような恐ろしい声で一声吼えると壁に飛び上がる。けして狭いわけではない通りを挟んで建つビルの壁を、交互に蹴りつけながら、雪男目掛けて駆け上ってきていた。仕方なく雪男は相手に向かって引き金を引く。自分の身を守るためだ。
 向かいのビルの壁を思い切り蹴りつけた人狼が、大きな弧を描いて雪男のいる屋上へ飛び上がってきた。雪男に襲い掛かる勢いだ。後ろに倒れながらも、狙いを悪魔から逸らさずにライフルを撃ち続けた。その内の一つが当たったのか。大きな毛むくじゃらの図体が、均衡を崩して床にどしんと音を立てて倒れた。
 それでも素早く起き上がった人狼は、低く唸りながら雪男を睨んだ。口からは大きな牙が覗く。
 麻酔の効きが甘い。いや、外したのか?
 憎悪と怒りが眼差しに宿っていた。過去に相当危ない任務をこなしてきて、それなりに肝が据わっているはずの雪男も、流石に背中に恐怖が走った。ふと相手の身体がぐらりと前屈みになった。そのまま溜めた力で地を蹴って、雪男に向かってくるのか。そう思った瞬間、人狼は踵を返すと十階建ての屋上から身を躍らせた。慌てて雪男が追いかけて、屋上から地面を覗く。
 ふらりとしながらも、無事に着地したらしい悪魔は、道路を走り出した。
「人狼は朝日通りを南下しました」
『判った。追跡させる。お前は無事か?』
「はい」
 シュラに言葉に早鐘のように鳴る胸を鎮めながら答える。
『何があった?』
「そうだ、携帯が……」
『テメーなぁ。任務中は電源切っとけよ。始末書な』
 電源を切り忘れていたとは自分らしくない失態だ。
「すいません」
 ポケットから携帯を取り出す。液晶には『着信あり』とメッセージが出ている。着信履歴を見ると燐からだった。
「にいさんから……?」
 暫く何の用だろう? と考え込んで、それの意味する所に思い当たる。ぞわりと背中に悪寒が走った。
「シュラさん! 兄は何処に?」
 噛み付くように無線に怒鳴った。
『あ? なんだよイキナリ』
「兄からの電話でした」
『ったく、兄弟そろって何やってんだ。燐の分の始末書も追加するぞ』
「違いますよ。流石に任務中に電話を掛けてくるほどバカじゃない。何かあったんだ。兄はどこです!?」
『ちょっと待て』
 シュラが無線の向こうで舌打ちをすると、遠くで誰かとぼそぼそと喋る気配が暫く続いた。ほんの僅かな間が、何時間にも感じる。苛立ちで、早くしろよ、と怒鳴りつけたいのを堪えた。
『お前らの寮の近くの公園だ』
「すぐに向かいます」
 シュラの返答を待たずに、雪男はコートの下に下げていた鍵の束を取り出す。手近な非常階段の扉に寮への鍵を差し込んで捻ると、戸の向こうへ飛び込んだ。ひんやりとして真っ暗な寮の玄関が出迎える。慌しく閉じ、もう一度普通に扉を開けなおして、外へ飛び出した。
 
***
 
 
「いって……」
 手首を見ると、鋭い刃物で切り裂かれたような筋が二つほど走って、じわりと血が滲んできていた。血が流れる傍から、傷が塞がっていく。背後を振り返ると、公園の街灯に照らされて、灰色の毛玉と人間の中間のような姿の存在が、低く唸りながらこっちを睨みつけていた。鋭い爪が伸びた腕が、燐の携帯電話を押さえつけていた。液晶に明かりがついていた。燐の指か、落ちた衝撃か、人狼の足が触ったのだろう。襲われる直前まで電話帳が表示されていたはずだ。
 上手くメフィストに掛かってりゃいーけど。
「なぁ、おい。落ち着けよ」
 燐の声に一瞬ビクッと身体を震わせて、また警戒するように低く唸り声を上げる。
「お前、あいつの姉ちゃん?」
 ゆっくり、そろりとしゃがみ込む。灰色の毛皮は、泥で汚れていた。空腹か、警戒か、寒さからか、身体がはっきりと判るほど震えていた。銀にしたように、風呂に入れて、暖かいメシを食わせてやりたい。じり、と身動きした所で、足元の携帯電話がけたたましい音を立てて着信を知らせた。聞きなれない電子音に人狼の子供が飛び上がる。
「大丈夫か」
 急に動いたのが良くなかった。
 小さな毛玉が、子供ながらに鋭い牙と爪をむき出しに、燐に襲い掛かってきた。頬に衝撃が走る。熱と痛みが広がった。
「落ち着けって……!」
 人の言葉を何処まで理解しているだろう? もしかしたら、今は恐怖で我を忘れて、言葉などまるで通じてないかもしれない。相手は捕まえようとする燐の手を掻い潜って、容赦なく爪を立て、噛み付いた。
「だから待てって!」
 少し距離を置いて、燐と対峙する悪魔に、燐はしゃがんだ姿勢を崩さずに、手を前に突き出す。待て、が判ってもらえるだろうか。子供は警戒しながらも、こちらの出方を見守るつもりらしい。
「俺はお前を助けたいんだ」
 燐の言葉が聞こえたのか、唸り声が少し弱くなる。
「母ちゃん心配してるぞ。ちゃんと母ちゃんの所に連れてってやる」
 もう一度だ。警戒させないように、ゆっくり。唸り声と警戒の姿勢が躊躇いで、途切れがちになる。迷っているのだ。もう一押しか。いや、焦るな。じり、と近付く。燐の接近を許そうか、どうしようか。そんな迷いが見えた。
「兄さんっ!」
 雪男の怒ったような声が聞こえた。とっさに人狼を雪男から遮った。多分、雪男は銃を構えてるはずだ。怯えた子供をこれ以上興奮させたくなかった。弟の姿を見上げると、案の定雪男は自分の銃を構えて、息を切らせていた。
「雪男、大丈夫だ。怯えてるだけだから、それを降ろせ」
「でも……」
 雪男が迷う。
「大丈夫だ」
 自分でもその声が震えるのが判った。背中が熱い。そして痛い。自分の背中から、荒い息遣いが聞こえる。シャツに血が染み出して、濡れて行くのが判る。子供が恐怖で燐の背中に爪を立てたのだった。
「兄さん」
 駆け寄ってこようとする雪男を、燐は手で制した。まだ、子供が怯えている。背中に身体が震えているのが伝わってくる。
「そんなんなるまで、家族探してたんだろ? お前偉かったな」
 不安そうな顔をして燐を見上げてくる人狼に、肩越しに笑いかける。す、と背中に刺さっていた爪が抜かれた。すぐに傷も塞がるだろう。くぅ、と子供が気遣うように鳴いた。子供と雪男を安心させるように、大丈夫だ、ともう一度繰り返した。
「で、お前どーしたんだ? ここ来てて良いのか?」
「兄さんが電話掛けてきたから、何かあったと思って」
 雪男がそろそろと銃を降ろし、腰のホルスターにしまった。
「あー。お前のとこ掛かったか……」
 燐の呟きと、地面に放り出された携帯電話を見て何となく事情を察したようだ。ほっとしたような溜め息を吐いて、そろりと雪男が足を踏み出した。次の瞬間、彼としゃがみ込んだ燐の間を、突風が吹いた。
「な?」
「わっ」
 双子は驚いて声を上げた。勢いに、よろりと二人で尻餅をついてしまう。
 ばさばさ、ばきばき、と枝が折れる盛大な音がした。燐が風が通り過ぎた方を見ると、唸り声を上げて人狼が茂みから這い出てこようとしていた。顔と下半身は狼。上半身と腕は筋骨たくましい人間のような体つき。灰色交じりの黒い毛に包まれている。ご丁寧にふさふさの尻尾まである。しっかりと立ち上がると、気を取り直すためか、頭を一つぶるりと振った。
 その反対側から、轟くような声が聞こえた。背筋が寒くなるような鳴き声だった。そちらには白い毛並みで、同じような立派な体格をした人狼が姿勢を低くして、構えていた。黒い方と比べると、ほんの少し体格が華奢な気がした。だが、圧倒的にその場を制していたのは、白い方だ。何より、殺気と気迫が違った。黒い人狼が牙を剥いて何度か吼えた。それを、白い人狼が大きな、低い一声で制してしまう。
 それでも黒い方は分の悪さが認められないのか、同じように姿勢を低くして構えた。二人の間の緊張感が高まる。見ているこちらが耐えられなくなったその時、放たれた矢のような勢いで、双方から相手に突進していった。白い方が勢いそのままに、黒い方の頭に頭突きを叩き込む。ごちん、と堅いものが猛スピードでぶつかった音がした。もう聞いただけで痛そうだ。
 黒い狼が一瞬くう、と鳴いてよろけた。その隙を逃さず、白い方が相手の喉に手を掛けると、腕を振って黒い身体を放り投げた。軽く腕を振ったように見えたが、地面に黒い人狼の身体が落ちた時に、どしん、と重い地響きがして、辺りに土煙が舞った。
「人狼って……」
 雪男が呆然と呟いたのだけが、妙にはっきり聞こえた。
 その間にも、人狼同士の戦いは続いていた。黒い人狼が遮二無二突進して行っては、白い人狼に叩き伏せられ、殴り飛ばされ、放り投げられている。一度などは、植え込みに立っている街灯に叩きつけられて、鉄で出来た太い胴がくにゃりと曲がってしまったほどだ。
 相手の余りの強さにか、あるいは苛立ちでか、黒い悪魔が一声吼えて、低い姿勢で白い人狼に突き進んだが、向かっていった腹を拳で殴られた。どすん、と鈍い音がして黒い人狼が一瞬動きを止める。人の身体を殴って、そんな大きな重い音がしたら、尋常の被害では済まないと思うような音だ。暫く固まったように動かなかったが、よろりと均衡を崩して地面に沈んだ。
 白い人狼が、倒れた黒い方の首筋に噛み付いた。噛まれた方は身を捩って逃げようとするが、力任せに身体を押さえつけられる。苦しいのか、嫌がっているのか、黒い方が悲しげな鳴き声をあげた。後ろ脚が公園の地面をむなしく掻く。とうとう、黒い方が腹を見せて降参した。白い方が二、三度脅すように吠え掛かる。
「おや、決着がついたようですね☆」
 メフィストが場違いなほど、のんびりした調子で近付いてきた。燐と雪男は人狼同士の戦いの勢いに呑まれて、呆然と白い服を見上げた。子供の人狼が燐の背中で、くぅ、くぅ、と怯えた声を上げた。その声が聞こえたのか、白い人狼が近付いてくる。燐が止める間もなく、すっかり狼の姿になった子供が走り出て飛びついて行った。銀の時に見たように、きゅうと鳴く子供を一頻り甘えさせた後、がぶり、と首筋に噛み付いた。
「もしかして……、母ちゃん、か?」
 燐は思わず、信じられないと呟いてしまった。あんな優しそうな顔をした人からは想像できない力強さだった。雪男も口を開けたまま、言うべき言葉も見つからないようだった。脱力したまま地面に座り込んでいる。
「母は強し、ですねぇ♪」
 メフィストは燐と雪男の姿が可笑しかったのか、人の悪い笑みを浮かべた。三頭が寄り添うように固まって人狼の姿から狼の姿になると、メフィストを見上げる。黒い狼は心なしかしょんぼりとしていたような気がする。
「よろしい、では参りましょう☆」
 聞きなれたカウントが聞こえて、ぱちん、と音がすると人狼とメフィストの姿がキレイさっぱり消えていた。燐と雪男はその場から暫く動けなかった。
 
***
 
 
 ふと意識が浮上した。脚がなんだか寒い。雪男は手探りに布団を探して引っ張ると、ごそごそと肩まで引っ張りあげた。そして、傍らで寝息を立てている身体にそっと身を寄せる。熱いくらいの体温が嬉しくて、腕に抱え込んだ。
 あの任務から、数日が経った。
 メフィストが去った後、驚いた双子がショックから立ち直るのを見計らったように、雪男の携帯が鳴った。やや遅れて燐の携帯も着信を知らせた。どちらも任務完了の知らせだった。格闘技の試合以上に迫力のある戦いを目の前で見てしまった奥村兄弟は、日本支部に帰ってきても暫くぼうっとしていた。報告会議は日を改めて行われることになり、その日はすぐに解散した。二人は言葉少なに寮へ帰り、風呂に入ってそのまま寝てしまった。
 明けて数日、周囲はあっという間に通常の姿を取り戻した。ひしゃげた公園の街灯は次の日には既に跡形もなく綺麗になっていた。その一方で兄は不気味なほど静かだった。人狼のお母さんがやたら強かった話は、何度か感心したように喋っていたが、ふと口を噤むと何か思い悩んでいるような顔をしていた。
 そしてちょっと不思議な行動が増えた。夜中にクロと遊びに出る回数が多くなった。そして夜中に帰ってくると必ず雪男の布団に潜り込んできた。子供が居なくなったのが堪えたのか。今日もそうだ。雪男には新たに派遣された任務の報告書が待っていた。更に講義の下準備に自分の課題も片付けなくてはならなかった。全部終わらせた頃にはかなり遅くなっていて、横になってすぐに眠りに落ちた。気がついたら、いつの間にか帰って来た兄が、無理矢理布団に入り込んできていたというわけだ。
 まぁ、今日は余計に仕方ないかな。
 その後の人狼一家の話を特別にメフィストから聞いたからだ。疲労と空腹で父と娘は一日寝込んだらしいが、すぐに元気になり無事に帰ったらしい。子供を捜して町を彷徨ったお父さんは、お母さんにしこたま怒られたらしく、しょんぼりしていたそうだ。日が落ちた後の薄闇が見せた幻のように思えていたが、公園での戦いは残念ながら夢ではなかったらしい。
 それを聞いてから以降、燐は珍しく無口だった。こんなに任務での出来事を引き摺るのも珍しい。
 暫く前に預かっていたという、雪男の知らない悪魔の話をするときの兄を思い出す。何日か祓魔塾の皆と自分を巻き込んで、草野球に付き合わされた。その話をすると、決まって最後は『お前は忘れてるだけだ』と締めくくられる、雪男にとっては知らないのを責められているような、居心地の悪い話だ。その話を最初にしだしたときも、こんな感じだったっけ。
 鼻をくすぐる髪の毛からは、シャンプーと少し汗のにおいがした。風呂に入った後に、クロと遊んでくるからだ。兄なりに銀のことを整理しようとしているのだとしても、それを知りながら見ないフリするのも、結構大変なんだからな。
「何でもかんでも、そうやって抱え込むからだよ。別れが辛くなるの判ってるくせに」
 優しく髪を撫でながら、小さく呟いた。
「お前もそうだろ」
 ぼそりと答えが返ってきて、驚く。
「起きてたの?」
「……別に」
 燐がそっぽを向いたまま、殊更なんでもないように言う。嘘つきめ。そう言う言い方する時は、絶対嘘を吐いてるだろ。
「今日メフィストから話聞いて、寝れなかったんだろ」
「ち、違げーよ! 俺は良かったなって思ってさ」
「ふーん」
 雪男は燐の身体を抱き寄せる。
「本当は寂しくて泣いてたんじゃないの? この前子犬がいなくなった時も泣いたでしょ。なに、ドMなの? サタンの息子ってドMなの? 悪魔でドMって、キャラぶれすぎでしょ」
 燐を腕に抱え込んだまま、意地悪に言う。
「うっせー! 泣いてねーよ」
 雪男の腕を離そうと、燐が布団の中で暴れる。
 クロが騒ぐ声で起きたのか、起きていたのか、にゃぁと鳴いた。燐がうわ、と一言言ったきり黙ってしまったので、きっと僕の意見を肯定してくれたのだろう。クロには泣くところ見せたんだ。ちらりと嫉妬の炎が燃え上がる。ふーん、僕の前では泣かないんだ。兄貴ぶって、ホントムカつく。兄らしくて、ちょっと誇らしいけれど、大分悔しい。
「僕も寂しいよ」
 外に出たがったクロのために戸を開けてやって、当然のように布団に戻ってきた燐の身体を閉じ込める腕に力を入れた。
「それみろ」
 燐が雪男の腕に触れて、優しく撫でた。
「だから、僕の前で泣いたっていいのに」
「バカ、出来るかよ」
 オニイサマ、ナメんなよ。燐が鼻を鳴らす。まったく、ほんの数時間早く生まれたくらいで。
「兄とか関係ないと思うけど」
 寝巻きの袖を弄ぶ燐の手を捕まえて、指を絡める。燐の手がぎゅ、と強く握り返してきた。
「…これ以上、情けないとこ見せらんねーだろ」
 余りに小さい声で呟かれたので、雪男はうっかりと聞き逃しそうになった。耳からこぼれ落ちていきそうな言葉を慌てて捕まえる。兄さんのアレコレを知ってる僕には今更だと思うけれど、その辺はゆずれない一線らしい。思わず目の前の首に噛み付いた。格好つけんな。
「いってぇ!」
 燐が雪男の頭を拳骨で小突いた。
「いふぁいな」
 噛み付いたまま喋ると、燐がくすぐったがって笑い出した。
「母ちゃんが首に噛み付いてたっけ。あれって、怒ってるときにやるんだろ?」
 怒ってるのか? と言外に聞かれて雪男は何度も首に噛み跡をつける。イテェって、と雪男の頭を燐が引き離そうとするが、構わずに続けた。朝と言わず、すぐにも消えてしまうだろう。それでも、ほんの少し残ればいい。
「怒ってるの半分、かな」
 雪男は肩口についた歯形に口付けて、舐めた。燐が小さく、あ、と声を上げて身体を震わせる。僕は兄さんの全てが欲しい。傷ついて欲しくなくて、出来れば閉じ込めてしまいたい。そうも思ってる。だけれど、兄が兄らしくしている方が好きだ。僕は兄が僕以外の存在と口を聞いて、笑ったりするのも、そしてその存在がために傷ついて泣くのすらも、嫉妬しながら見なければならない。燐の行動で、自分の心がかき乱されて、彼以外の存在を思ったりするのも、本当は嬉しくない。でも、兄の傍から離れる気がないのだから、諦めるしかない。
 僕の方がドMだったか。兄の首筋に顔を埋めた。
「放っとけねーんだよな。お前が心配するのも判るけど、やっぱり俺バカだからさ。ハンパは出来ねーよ」
 燐が宥めるように、雪男の頭を撫でる。判ってるさ。雪男の気持ちが聞こえたように、燐が手をぎゅ、と握った。
「泣けないなら、せめて鳴いてよ」
 肩越しに一瞬きょとんとした顔をしていたが、キスで判ったようだ。雪男の首に腕が回されて、期待するように力が入った。
 僕は兄さんや神父《とう》さんのように強くありたいけれど、弱いんだ。全部、何でもは抱え込めない。だから。たった一つだけ。兄さんの傍から居なくなったりしない。僕の傍から兄さんを離したりしない。
 戦慄いて縋り付いてくる身体をきつく抱いて、何度も煽り立てながらあちこちに噛み跡と朱色の腫れを残す。僕が兄さんを想っている証。そして絶対に破らないと誓う約束。消えても、何度でも繰り返しつける。躾をするみたいに、何度だって。兄さんの心が覚えこむまで。
 

–end
せんり