だんかれんの憂鬱

 この双子で書きたい話が何本か有って、今唸りながら行きつ戻りつしているワケなのですが、そうしてくると生意気にも煮詰まってしまうワケでして。進まないよ、進まないよ、と思ってぼんやりとしておりましたら、急におバカな話が書きたくなってやってしまいました。
 
 

【PDF版】だんかれんの憂鬱

 
 
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 僕が『オクムラリン』と言う生徒を知ったのは、偶然だ。あの日、あの場所。お互いにほんの少しでもタイミングが違ったなら、きっと一生彼を知ることはなかっただろう。
 言うなれば、神の引き合わせ。配剤、イタズラ。気まぐれ。
 いや。
 そんな生やさしいものではない。
 神の気。
 そう。これは試練なのだ。我々に神が与えもうた試練なのだ。そうでなければ、なぜこんな仕打ちをお与えになるだろう。
 だから、これは試練なのだ。試練でなければならないのだ。
 そして、僕は今日も憂鬱な溜め息を吐く。

「おい」
 背後からかけられた低い声に、僕の背中がびくりと震えた。こう言う呼びかけをされる時は、たいがいが好ましくない事態が起こると相場が決まっている。心臓がめちゃくちゃに暴れて、口から飛び出しそうなのを堪え、おそるおそる振り返る。
「な…、なにか用かね……?」
 自分でも判るほど震えて裏返えった声だった。もっと下手に出た方が良かっただろうか? いや、なにを言う。これでも僕は三年生だぞ。
 見れば、一年の学年章をつけた少年だった。無造作に伸びた真っ黒な髪。少し尖った耳に、あどけなさがまだ残る、少しつり目の顔。鞄を斜めに掛けて、肩には錦だろうか、赤く細長い袋を掛けている。長さから察するに、刀袋だ。居合いでも習っているのかも知れない。確かに、意志の強そうな目をしている。だが、武道を嗜むワリには、制服は大胆に着崩していて、その出で立ちは『真面目な生徒』の範疇から大きく外れている。
 そんな彼からなにを言われるかと怯えた。視線がふわふわとあらぬ方向へ泳ぐ。さっきから膝がガクガクと震えて止まらない。
「これ、落ちてたぞ」
 僕の動揺など知らぬ気に、紙袋が差し出された。安堵の余り、力が抜けそうになった。
「あ、ありがとう…」
 紙袋を受け取ると、一年生の彼は照れたように、それでも人懐っこく笑うと、いーってことよ、と言った。今時なんと清々しく、男らしいのか。
 いや、ちょっと待て。
 僕は三年だぞ。三年生だぞ? 襟の徽章が目に入らないのか? 落とし物を拾ってもらった恩義があるが、それでも彼の口の利き方を見逃せなかった。どうしても一言言わなくてはいけない。口を開いた瞬間、目の前の少年が紙袋を指さして、一言意外なことを言った。
「その玄米茶、どこの?」
 ガラスに亀裂が入ったような音が、した。今した。確実にした。世界が崩壊する音は、きっとこういう音がするに違いない。
 
「えーと…、君は…」
「奥村燐」
「奥村君…」
 動揺を押し隠すように眼鏡を押し上げながら、何を何処から話せば良いか、と迷う。
「アンタさ、それ南十字マートじゃないよな? どこで買った?」
 うああああ! 黙れ!  頼む、黙ってくれ。そんな大きな声で喋って良いことではない!
「あっ…、あの、奥村君。ちょっと声を落としてくれないかな…」
 少年はきょとんとした顔をしている。
「え? なんで? 茶っ葉売ってる店があるんだろ? その場所を教えてくれって聞いてるだけだぞ」
 苛立った声が廊下に響いた。昇降口に向かおうとしている生徒たちが、何事かと目を向けてくる。くっ、仕方がない。
「奥村君、ついてきたまえ」
 我々は目立ってはならない。それが我々の掟。
 致し方ない。彼の望む情報を与える代わりに、黙っていてもらうしかなかろう。
「何処行くんだよ?」
「店を知りたくないのか?」
 教えてくれんのか? 奥村少年は少し機嫌を直したのか、素直についてくる。彼が歩く度に、肩に掛けた鞄がぎゅうぎゅう、かたかた、と音を立てた。
「あれー? 奥村君何処行かはるの?」
「今日小テストやで。復習もせんと余裕やないか」
 声が掛かった方を見て、僕は思わずひぃ、と息を呑んだ。ピンクに近い茶髪の少年に、頭の真ん中だけ金髪にした髪を鶏冠のように立たせた少年が立っていた。特に金髪鶏冠の方は、耳にたくさんピアスをつけて、おまけに目つきが尋常じゃなく恐ろしい。この二人はなんなのだ? 二人とも『チャラ男』なのか。それとも『ヤンキー』に類される人種なのか。あるいは一人が『チャラ男』でもう一人が『ヤンキー』なのか。果たして、分類の異なる二人が相容れることが出来るのかどうか、それは僕の知るところではない。だが、この二人が僕とは絶対に相容れない人種であることは間違いない。
 余りの暴力的な映像に記憶が刺激されて、そう言えば寮で遠目に見かけたことがあるのを思い出した。関わり合いになりたくなくて、一定距離以上に近づいたことはないが。こんな人たちと知り合いだなんて、奥村君、君は一体何者なのだ。
 いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、我々の活動を知られるワケには行かない。
「おー。ワリ、先行っててくれよ。玄米茶売ってる店、教えて貰うんだ」
「玄米茶ぁ?」
「また、エラい渋い趣味やねぇ」
「ああ、美味しいよねぇ」
 声を聞くまで、第三の存在に気がつかなかった。丸坊主に眼鏡をかけた、背の小さな少年がいた。ピンク色の髪に、金髪鶏冠の友達には似つかわしくない、真面目な印象だ。不憫な、きっと彼らにパシリにでもされているのだろう。
「旨いよな。時々スッゲー飲みたくなんだよな」
 奥村少年と、その隣に並んで歩くメガネの少年が笑った。って、ちょっと待て! なんでぞろぞろとついてきているのだ。我々の活動は、余人に知られて良いものではないというに!
「あの…、奥村君…」
「あ、つかはったんですか?」
 金髪鶏冠がじろりと睨みつけてくる。
「あ、いえ。まだ…です…」
 あまりの迫力に、膝が震え始めた。
「はよ教えて貰わんと、遅れてしまうえ」
「おー、そうだな」
 奥村少年が眼鏡の少年の言葉に頷く。仲、良いのか? 不思議なことがあるものだ。それとも、メガネの君も見た目と違って、不真面目な生徒の仲間だったのか? 何てことだ。騙された!
 もうさっさと店を教えて、こんな奴らとは縁を切らねばならぬ。ちょうど、拠点についたところだ。
「ちょっと、外で待っていてくれたまえ。店の地図を持ってくるから」
「わりーな」
 奥村少年が笑った。笑顔は良いのだが、言葉遣いを何とかしてくれないものか。僕はそう言おうと思ったが、金髪鶏冠の目つきが怖くて、結局口を噤んだ。震えているのを誤魔化すように、部屋に飛び込むと乱暴に扉を閉めた。
「どうしました?」
 すでに集合していた同志が、声を掛けてきた。
「いや、何でもない。『松葉屋』の地図、どこかになかったか?」
 松葉屋が、奥村少年が知りたがっている店の名前だ。
「ああ、あれでしたら、戸棚のファイルに挟まっていると思いますが」
 ごそごそとクリアファイルを取り出して、ファイリングされたポケットを捲る。我々の活動にふさわしい店舗の情報は、すべて纏めてあった。
「へー、こんな教室あったか?」
「いや、ここは使われていない特別教室で…」
 って、ちょっと待て! 君は一体何をしているのだ! 声に驚いて振り向くと、奥村少年がちゃっかり部屋に入り込んで、きょろきょろと室内を眺めている。後をついてきた彼の友人たちも、興味津々で扉から中を覗き込んでいる。って、いつの間にか女生徒まで加わっているではないか!
「奥村君。勝手に入ってこないでくれたまえ」
 咎めだてするような声音に気づいたのか、少年がイタズラが見つかった子供のように笑う。
「こそこそするからさ、逆に知りたくなっちまったよ」
 そうそう、と彼の後ろに覗く顔が、少年の意見に賛同する。この僕が。この活動を纏める立場であり、もっとも掟を遵守しなければならないはずの僕が、自ら一気にこんな大勢に活動を露呈しまうとは。なんたる不覚。部屋の奥では、同志たちが一様に怯えたような目つきでこちらを見つめている。後で同志たちに詳らかに説明して詫びよう。そして然るべき処罰を受けねばなるまい。最悪、放逐も覚悟せねば。
「あれ? 兄さん?」
「おー、雪男」
 また増えた! 眼鏡を掛けた、長身の少年が顔を覗かせる。金髪鶏冠の少年と同じくらいだろうか。僕は彼を知っている。今年の新入生代表、奥村雪男だ。
 一時、彼は我々の勧誘リストのトップにいた。けして、僕や、大半の同志たちと同じように眼鏡を掛けているからではない。特進科に在籍する優秀さ、年齢に似合わない落ち着き。まさに我々の活動にふさわしい。更に趣旨に賛同してもらえる可能性も高いと思われた。彼を得れば、ゆくゆくはこの活動を背負って立ってくれる、頼もしい人材だと見込んでいたほどだ。
 折を見て勧誘しようと機を伺っていたが、とにかく彼は我々の予想に反して落ち着きがなかった。午前中の授業に出ていたと思ったら、午後は出ていなかったり、途中だけ居なかったりしていた。特進科に居ながら、こんな態度が許されるだろうか? だが、教師たちにそれとなく聞いても、彼の評価は変わらずに高い。むしろ、一目置いているようですらあった。
 半年も過ぎるうちに、我々は彼への興味を失った。と言うより、諦めざるを得なかった。捕まえることも出来ないのでは、勧誘のしようもない。そんな彼が今、目の前に居る。何たる偶然。いや、僥倖。天の恵み。我々の活動を盛り立てよ、とのお告げなのではないか。
「何してるの? そろそろ塾へ行かないと」
「おう。こいつが美味そうな玄米茶持っててさ。店教えて貰うとこ」
「へぇ。玄米茶。葉茶屋さんなんてあったんだ」
 奥村少年と、奥村雪男がにっこりと笑い合う。なんだ、この親密な雰囲気は。そう言えば、雪男は生意気な少年を『兄さん』と呼んでは居なかったか?
 と言うことは、奥村燐に巧く恩を売れば、雪男を我々の活動に引き入れることも可能なのではないか?
「あれ? なんか良い匂いが」
 ちらりと見やると、少年は落ち着きなく部屋のあちこちを見回しては、鼻をひくつかせていた。
「あ、ちょっと。兄さん?」
「おい、奥村、どこ行くんや?」
「お、奥村君っ!」
 止める間もなく、少年が部屋の奥へと入り込んでいく。使われていない教室には、同志の好意で集められた古い畳が六畳分敷かれている。そこにはすでに集まった同志たちが闖入者に怯えていた。
 くっ。僕はつくづく後悔する。あそこで振り向かなければ良かった。だが、松葉屋の玄米茶でなければ、今日の趣向に合わぬのだ。
「あ、すずしろのどら焼き」
 奥村燐が畳の上に出ていた包みを指差した。焼きたてを買いに行かせたのだ。辺りに薄く甘い生地の香りがしていたのを嗅ぎ当てたのだろう。同志の誰かが小さくひぃ、と悲鳴を上げた。
「どら焼きではない、三笠山だ! じゃない! 奥村君、出てくれたまえ!」
「え? なんで?」
「なんでではない! 余計な詮索を…」
「ここ、お前らの秘密基地なのか?」
 少年の発言に血の気が引く。我々の活動は公には認められていない。秘密基地と言った彼の言葉は、正しく我々の状態を言い表していた。
「ここで何してはるんですか?」
 金髪鶏冠の低い声に、しんと水を打ったように静まり返った。また膝が勝手に震え出す。僕は。僕は、けして暴力や脅しには屈しない。
「お茶請けも用意してはって、なんやジジババの集まりみたいやなぁ」
 ピンク色の髪の毛の少年が、うはぁ、と呆れたような声を上げた。ジジババの集まりみたいで悪かったな。
「バカにするな! 我々は『だんかれん』。崇高な目的の元に集まった同志たちなのだ」
 僕は思わず怒鳴っていた。
「だんか…、なに?」
「だんかれんだ!」
「どこかのお寺の檀家はんつながりなんですか?」
 眼鏡の少年が尋ねる。坊主頭だからって坊主みたいなことを聞くな。
「そうではない。だんかれんは、『男子がお菓子を好きだって良いじゃない連盟』の略だ!」
「男子とか…」
 麿のような眉毛をした少女が、ぶっと吹き出した。笑われた恥ずかしさに全身がかっと熱くなる。過去の苦い記憶が甦ってきたようだ。
「か、菓子が好きで悪いか! 菓子が女性だけのものだと誰が決めたのだ。我々は、真剣に菓子を愛しているのだ。それなのに、菓子が好きだというと、寄ってたかって、キモいだの、情けないだの。いつの日か、菓子が好きな男の存在を全世界に認めさせてやる。その目的に賛同した同志が集っているのだ!」
「へー。それでどら焼きか」
「ああ、すずしろのは美味しいて評判やからね」
「そ…、そう言うことだ」
 奥村少年と眼鏡の少年が納得したように頷き合う。あまりにあっさりしているので、気が抜けてしまうではないか。
「で、空き教室にただ集まってはるんですか?」
 ピンクの頭髪をした少年が部屋に入ってきて、茶器やファイルが入った棚などをしげしげと見る。茶器は日本茶、中国茶、紅茶、コーヒーを淹れられるように、各種取りそろえてある。
「失敬な。ただ集まっているわけではない。我々の眼鏡に叶った菓子を購い、そしてそれにふさわしい茶と共に喫する。それだけではない。菓子と茶、それぞれ正統だと思われる組合わせについて、そして完璧な茶を点てる方法などを真剣に討論し、また実際に点て方を研究しているのだ」
「はぁ?」
 奥村少年がきょとんとする。
「そうかぁ? イガイな組み合わせとかだって、あるだろ? それにそんなに堅苦しく食ったり飲んだりする必要あんのか? 旨けりゃなんでもいーと思うぞ」
 僕は鼻で笑う。彼が言ったような言葉はもう何千回も聞いた。
「浅はかな。旨ければ何でもいい、と言うのは菓子にも、茶にも理解のない人間の言うこと。阿と言えば吽、ツーと言えばカー。何にでもこれしかない、と言うベストな組み合わせは確実に存在するのだ。そしてそのベストな組み合わせで喫することこそ、菓子と茶、双方のポテンシャルを余すことなく存分に発揮することが出来るのだ」
「ふーん。そこまでこだわってんなら、文化祭とかで発表でもすればいいんじゃね?」
 奥村少年が軽い口調で言い放った。
「冗談ではない! 我々はひっそりと活動しているのだ」
「いずれ世界に認めさせるんじゃなかったんですか」
 少女がズバリと切り込んできた。その調子にびくりと体が震えた。と言うか、本当に遠慮してくれたまえ。僕はここ何年とまともに女生徒と口を利いたことなどないのだ。それに、彼女の口調は何というか、怖い。いや、男の僕が女性が怖いなどと…。何を情けないことを言っているのだ。
「なんや、お前も興味津々やないか。男子とか笑うとったくせに」
「別にお菓子が好きなことを笑ったんじゃないわよ。なんでもかんでも『男子』呼ばわりで、いい加減飽き飽きしてるだけよ!」
 麿眉の少女が、金髪鶏冠の少年に噛みつく。彼が怖くないのか? いや、最近は女性の方が言葉や暴力をふるうのも容赦ないと聞く。彼女もその類なのであろう。優しさやしとやかさの欠片もない女生徒など、所詮は女の端くれと呼ぶのもおこがましい。そんな侮蔑が聞こえてしまったのだろうか、少女が僕を険しい目つきで睨みつけてきた。
「男が甘いもの好きとか、おかしくないでしょ。意外な組み合わせだって良いけど、お饅頭にはお茶だってのも判らなくはないし…。って、べ、別にアンタたちのために言ってるんじゃないから!」
 頬を染める少女に、同志たちが息を呑むのが判った。これはツンデレ…。ツンデレとは現実に生息する存在だったのか…?
「いつまでも付き合ってらんない、バカバカしい! 私、先に行くから!」
 少女がばたばたと走り去っていく。ツンデレは正義! ああ、女神よ。我等を見捨て給うな。じゃなかった。いや、確かに彼女は素晴らしいツンデレだ。心の中で、知らなかったとはいえ、彼女を侮蔑した罪は重い。いずれこの失態、額づき心より許しを得なければならぬ。だが、今は目の前の問題を片付けなくては。直ぐに詫びに参らぬ非礼をお許し下さい。
「なんや、アイツ」
「出雲ちゃん、相変わらずやなぁ」
 うはぁ、と笑う少年を眼鏡の少年がわき腹をどついて窘めた。
「兄さん、そろそろ行かないと…」
「お、そうだな」
 奥村雪男が腕時計を確認しながら、兄を促す。
「で、玄米茶の店ってどこだ?」
 僕は手にしていた、店の名刺を差し出した。
「ここだ。松葉屋と言う」
「さんきゅー。お前、良い七三メガネだな」
 奥村燐が意味不明な礼を言う。失敬だな。七三の何がいけない。と言うか、奔放すぎる髪型の君に言われたくない。
「兄さん、それお礼になってない」
「いやなに、構わんさ」
 手の震えを誤魔化しながら、メガネを一つ押し上げる。全く、こんな奴らとは早々に縁を切りたいものだ。早く帰ってくれ。モタモタと携帯のメモ帳に『松葉屋』の情報を打ち込む兄と、それを横から覗き込む弟をイライラしながら見つめた。
 金髪鶏冠の少年が名刺に顔を近づけた。
「ここ、豆腐屋の斜向かいの店やないですか」
 確かに小さな豆腐屋が反対側にあったと思う。いつも午後に茶葉を買いに行くのだが、その時にはシャッターが閉まっているので営業しているのかどうか知らなかった。
「ああ、坊《ぼん》のジョギングコースの通り道にあるいう…」
「へー、お前物知りな」
 奥村少年が感心したような口振りで言う。
「豆腐屋はおっちゃん一人でやったはる、小さい店やけど、なかなか美味いで。因みに木綿と豆腐ドーナツが俺のオススメや」
「マジか? こんど行ってみる。ありがとな、勝呂」
 奥村少年が嬉しそうに言った。高校生が豆腐屋に興味があるって、どういう状況なのだ?
 いや、そうだ、ちょっと待て。こんなことをしている場合ではない。折角奥村雪男がここにいるのだ。今勧誘するべきではないか。
 気を取り直した僕は、彼に声を掛けた。
「あの、奥村君」
 兄がなんだ? と言う顔をした。君ではない。弟の方だ。
「良かったら、我々の活動に参加してくれないか? なかなか見込みがありそうだ」
「いいぜ?」
 燐がわくわくした顔で答える。だから、君ではない!
「兄さん、本気?」
「なんで? 面白そうだろ?」
「僕も面白そうやと思うけど」
「ちょ、子猫さん、本気なん?」
 ピンク色の髪の毛の少年が、腹を抱えて笑い出す。だから、君ではないと言うに! 弟だ! 弟の方だ!
 って言うか、金髪鶏冠の君まで、なんだか顔が期待しているのは気のせいかっ!? 僕が奥村少年の誤解を解く暇もなく、話がどんどんと進んでいく。
 同志たちよ、助けてくれ!
 そう思って部屋の中を見るが、同志たちは放心したように、成り行きを見守るばかりで、僕の救いを求めるまなざしにも気づかない。
「課題も塾も、特訓もあるのに、どこにそんな暇があるの?」
 弟は弟らしからぬ口調で兄を窘める。どっちが兄なのか、判らんではないか。
「なんだよ、ちょっとくれーいーじゃねーか。いっそ、お前も一緒に入れば?」
 千載一遇。好機とはまさにこのことか。奥村燐、君を誤解していた。喜びに舞い上がった僕は、一瞬にして地獄へ叩き落された。
「いや。僕、兄さんが作るの以外、別に興味ないから」
 
 その後暫くして、僕は奇妙な事態に遭う。
 我等が女神、麿眉の少女とたまたま廊下で行き会った時のことだ。ぼそりと『よしだ屋のゆずもち、期間限定です』と囁かれた。興味を覚えた我々は、よしだ屋と言う和菓子屋を探り当てて、柚の風味がさわやかな白あんを葛で包んだ和菓子を買い求めた。それを食べたときの、我々の感動は筆舌に尽くしがたかった。女神は我等をお許し下さったのだ。あまつさえ、我等の活動を認めて下さっている! 同志一同、女神の寛大な御心に、感謝の余り震えが止まらなかったものだ。その後も何度か買いに行って、一緒に喫するには、煎茶なのか、ほうじ茶なのか、或いは他に何があるか、久々に熱く、充実した討論を交わすことが出来た。
 もう一つ不思議なのは、金髪鶏冠の少年とその友人たちに寮で挨拶されるようになったことだ。ある日などは、彼のオススメだという豆腐ドーナツをくれた。素朴な味ながら、これも意外に美味で、茶ではなく思い切ってホットミルクあたりが合うのではないかと、こちらも活発な議論につながった。未だに挨拶を返すときに口元がひきつってしまうのだが、彼らは我々の趣旨をよく理解していると認めてやってもいいだろう。
 一方、もっとも厄介だったのは、奥村燐の存在だ。出来るだけ彼に会わないように、学校ではこれまで以上に静かに、目立たないように過ごした。
 だが、何度か逃げられない状況でばったりと会ってしまうことがあった。その度に、しれっと大きな声で『だんかれん』の活動はするのか? いつなのか? と聞かれて閉口した。我々はひっそりと静かに活動しているのだと、何度言っても理解していない。すでに、クラスの何人かから何の話だと尋ねられて、苦しい言い訳をさせられていた。
 このままではそう遠くない将来に、我々の活動が日の元に晒されてしまうかも知れない。そうなれば、一巻の終わりである。男が菓子が好き、と言う事実を世間が認めるには、まだまだ時間が掛かる。今そうした男性の存在が明らかになっても、到底受け入れられないだろう。きっと後ろ指を差されて酷く迫害を受けるに違いない。その危険性を、この奥村燐と言う少年は、全く判っていない。
 ぼんやりと廊下を歩きながら、溜め息を吐く。全く気の休まる暇もない。そんな悩める僕の歩みを遮るように立ちふさがる影を感じた。はっと視線をあげると、そこには奥村少年が居た。
「今日、やるのか?」
 微笑む彼の顔が、悪魔のように見えた。僕は悲鳴を辛うじて飲み込む。ああ、デーモン、ルシフェル、シャイタン、アスモデウス。崩壊の足音が聞こえたような気がする。膝がかくかくと震え始めた。
 すずしろの特製三笠山には、松葉屋の玄米茶でなければならなかったばかりに。
 あの時、あの場所で。彼の呼びかけに振り向かなければ。あの偶然がなければ、一生彼と知り合うことはなかった。
 何という、神のイタズラ。
 いや、やはりこれは試練なのだ。我々の決意を試す、神の与えもうた試練なのだ。
 

–end
せんり