奇跡の一群

 燐視点でいきたくて時系列はあんまり考えずにやってしまいました。
 燐はそれなりに考えているのだろうけどさらっと考えることを放棄することが多いので、考えないならせめて記憶の引き出しにおいてたまに引っ張り出しては忘れずにいるがいいよ、と勝手に…。
 雪男は普通にいたいけな子だったと思います、成長するに従ってああまで捻れたというか、や、いまもいい子なんだけど。そんで、燐は全然自覚しないで雪男からのアクションにオールスタンバイだと考えています、狼狽えるけど、それがどうしたシステムオールグリーン。
 ていうか短いはずだったのに、なにがどうしてこうなった。タイトルも適当。申し訳ありません…。
 

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 鉄塔の下には未来が埋まっている。
 
 身体の弱い雪男の友達は本だ、雪男は速くもずっと走ることも出来なくて、寒い季節になると寝込んでしまうことが多かった。気も弱く、気付くとつっ立って泣いていたりした。一緒なのにもどかしいことが多くて燐はそんな弟に苛ついたりしていた。
―――なんで泣いてるんだよ。
 そう怒ったように弟に問うのが当時の口癖だったようにも思う。
 
 そのバザーでは沢山の本や楽譜、洋服など、リサイクルの調度品、手作りのお菓子などが売られ、ミニコンサートもあった、雪男と燐も修道士の長友と共に箱に詰め込まれた本の店番をまかされていた。とはいえ、燐は貰ったお菓子をもぐもぐと食べて座っているだけの役目だったのだが。
「……」
 背格好も変わらない双子なのでシャツにベストは色違いだ。おめかし用の小さなネクタイが雪男には似合うが、燐には何故か似合わない、というか無頓着なものだからいつしか斜めだ。ぽろぽろと服に菓子のカスが落ちていた、燐はそれを払ってから雪男の視線の先を見る。
「ゆきお、それ欲しいのか?」
 町の集会所を借りてのバザーは、盛況だった。連休だったし、晴れていたし、笑い声と良い匂いが中庭から漂ってきてまるでお祭りのようだった。
 入り口に近いところに燐達はいた、だから多くの人が通っていった。シスターもいたし、何が目的なんだろうと不思議に思えるような暗い顔したおばさんも、子供も大人も。
 そんな中であちこちに興味を引くようなものはあった、燐はおじいさんに連れられた女の子が持っていた風船に釘付けだったし、ヒーローベルトを持った子にだって当然食いついた。しかし、雪男だけは違う。いつもなら大人しく膝を揃えてお客さんにあたる人たちをやや俯きがちに見ているか本を読んでいるのに、並べた箱をじいっと見ている。正しくは一冊の本だ、それは古びていて、深海に沈んだ潜水艦が表紙に描かれていた。雪男は菓子に手を付けず、ずっとそれを見ている。箱に並べるのを手伝っていたときもそうだった、両手で大事そうにそっと持ち上げて、ていねいに埃を払い、表紙をじっと見詰めていた。違うところに聞こえた誰かの声にびくりとなり、慌てて売り出すための箱に並べる。バザーで売る本や絵本をおかあさんにするようだとその手つきをいつも燐は感心に思っていたから、止まった手を偶然目にして気になってはいたのだ。
「~~~っ!」
 雪男は肩を竦め、叱られたような顔つきになる。
「バザーが終わるまで残ってたらいいぞ」
 それまで別の修道士と話していた長友がなんでもない事のように言う。
「で、でも…」
 素直に喜ばないところが雪男である、燐は自分が拙いことを言ってしまったように思ってしまう、違うのかと。でも欲しそうに見えたのに、雪男め。
「これは…」
 と、一人で窺うように入ってきたまん丸い中年の男が、驚いたよう声を上げると並んだ箱の前にしゃがみ込んだ。いかにも中庭の良い匂いにつられてふらりと寄ってきましたというようなくたびれたTシャツに落ちない汚れが点々とついたチノパン、タンガリーシャツに草履と、近くのコンビニにでも行くような格好で、オマケに脇には赤い丸のついた新聞らしきものを挟んでいた。
「うん、福竹の初版か。こっちは上下巻揃ってるし、こりゃ復刻じゃあねえなあ…」
 顎を撫でながら燐と雪男が大きさ順に並べた背表紙を一冊一冊順に見ている。燐はぽかんとその珍客を見、雪男はきゅっと拳を握りしめた。
「…なあ、これ、どっから出したんだい?」
 低く分厚いような濁声は子供に対するやさしさがあったけれども二人はびくりとなり、燐など出先も分からないからぶんぶんと頭を横に振ることになる。個人からバザー用にと好意で教会に寄付されてきたものだから元の持ち主がどこの誰かは知らない。
「どうかしましたか?」
 長友が問う。男は顔を上げた。
「市場でもあんま見ねえ本が多いんだよ」あ、オレ古書店やってんだけど。
 と、男はすっと親指で背表紙の上を軽く押すようにしてから突き出た下を引き出すようにして一冊を抜いた。
「まあ復刻と混ぜ込んじゃいるようだが初版が三、…四冊に、築摩の抜けてる全集も、…こりゃ付録付きだ」ぺらりとめくっては溜息を漏らす。挟まれている黄ばんだ小冊子が付録のようだ。
 どうやら相手は本の専門家らしい、話していることはさっぱりだが後ろからめくるなど明らかに違う点検箇所からして普通の本屋ではないと分かる。
「蔵にあったとかでバザーにと寄付されたものですが」
 男はへえ、とそりゃすごいなと顎を撫でながら本を見ている。品定めしているようで、頭の中ではきっと買い取り値段を弾いているのだろう、本に一応の値札はあるが、言い値交渉でも良いことになっていた。
「そうだな、これを仕入れとして転売ってことになるから…」
 横で不安げな顔で成り行きを見守っていた雪男の肩がぴくりと動いた。気付けば燐のちょっといい服の裾が握られている。
「おじさん」
 雪男が見ていた潜水艦の表紙の本を男の目が捕らえたとき、燐が声を上げた。
「この本、持ってっちゃうのか?」
 
 
 
 本には切り抜いた地図が入っていた。その地図には印がしてある。
 バザーで熱心に本を見ていたおじさんは本屋というから、しかるべき対価を払われて店頭に並べられると雪男は思っていただろうし、燐もそんな気がしていた。いい本が沢山あったようだから雪男が一目見て惹かれたあの本もきっと―――。
「いいや」
 ところが、である。
 おじさんは持って行ってしまうのかと問うた燐を見て、いかないよ、と否定してみせた。「ガイブンは畑違いなんでな」と頭をかきながらそういうわけで、とすっすっと慣れた手つきで十数冊ほどの本を引き抜く。長友は本を入れる紙袋を探し、雪男は立ち上がって慌てて計算をする。
「これは仕入れさしてもらったということで、きちんとした市場の値をつけさしてもらうよ」
 その雪男にまるで目利きでも教えるかのようにしておじさんはこれはこれこれのこうだからこのくらい、と持っていた新聞に赤色の鉛筆で一冊一冊の値段を書いた。雪男は始め書き込まれた数を見て目をぱちぱちさせたが、相手の熱心さに釣り込まれるようにきちんと計算をしてみせた。おじさんの態度が、締まらない顔でエロ本を読んでいたのが儀式前にぴしっとした姿に豹変する父親に似ていて、これは間違ってはいけないと思ったからだろう。
「こんなに…」
 長友は手渡された金額を見て困惑した顔をする。寄付ではあるが本と引き替えにぽんと出していいのかと言いたげだ。雪男もじいっと計算式を見ている、すべて足し算みたいなのだが、どこかで間違えてしまったのか。燐は少し不安になる。何しろ長友が受け取った札の枚数がすごかった、よれたシャツに草履なのにぽんと出してしまえるこの中年男が得体知れない。
「そうだな、神さんが許してくれるってんなら、うちでまず古書は見せてもらいたいんだが…」
 う、と紙幣を鍵付きの箱に仕舞いながら長友は詰まった顔になる、バザーは専門業者相手にしていることではない。教会のいうところのハクアイセイシン(博愛精神)をどう受け止めたか、おじさんは声を出して笑うと名刺を差し出し、両手に大きさの違う紙袋を提げ、えっちらおっちらと入ったばかりの場所を折り返すようにして出て行った。
 残されたのは雪男が見つめていた本だ。バザーが終わる頃になっても手に取られることはあったが箱に戻され、最後には雪男の手のひらの上にぽんと置かれた。頭が痛くなるからずうっと読んでちゃだめだぞ、と兄らしく燐は言ったがおそらく聞いていなかっただろう、欲しい本を手に入れて雪男はそれに夢中になっていた。外に遊ぶよりむつかしい字ばかりが並んだ本が楽しいなんて燐には全く理解できない、泣いたり咳したり怖がってばかりいる雪男の顔が嬉しそうにぴかぴかになるのは燐も嬉しいけど。
「兄さん」
 その翌日の夜のことだ、兄さん、どうしようと、こっそり雪男が教えてくれた。
「ぼく、いけなかったのかなあ」
「なんで」
 燐は本を手にしてぱらぱらとめくる。表紙の他に絵はまったくついてないし、小さい字が二段に並んでいてそれこそ熱が出そうだ。ページの端も黄ばんでいて、字は一つ一つが押されたように印刷されていた。こんなのを読む弟を心から尊敬する。
「……」
「へいきだろ、だってバザーだし、雪男、欲しかったんだろ?」
「でもむつかしい字がいっぱいあったんだよ」
 あるな、と燐は真面目に頷く。それでも雪男は調べながらだろう、読み続けた。そうやって一頁一頁を進んでいって挟み込まれた紙片に行き当たった。紙は栞でも付録でもない、二つに折りたたまれており、燐も知っている地名が載っていて、一点に印がつけてあった。
「じゃあ、宝見付けて、それもちぬしに返せばいいじゃん」
「宝じゃないと思うけど…」
 勝手に宝になってるというのが今思えばすごい。しかし当時の燐は切り取られた地図を見たときに直感的にそう信じたのだ。まあ、多分に幼少時に聞いたラジオドラマと被ったからなのは否定できないのだが。あるところの少年は元船乗りが隠していた地図を見つける、そして船長に出会い、宝探しの旅に出る。船長がまた頑固で、怪しい奴が出てきたりと船出までが長いのだが、波の音や汽笛を聞いていてわくわくした。
 オレたちも冒険だ、と言った。雪男はびっくりしたように目を見開くとそうかな、と弱く呟く。
「そうだろ」
「…そうかも」
 燐の微塵も疑わない顔につられてやがて解けるように、くすぐったそうな笑顔になってゆく。
 雪男は燐の弟なのにやたらと用心深かった、思えばこの頃から。
 
 
 
 燐と雪男の間の距離は横断歩道を渡る度に長くなっている。
「兄さん」
「どうした?」
 怖い、と雪男が言った。続けてもう帰ろう、と泣きそうな声だった。
「なんだよ、ゆきおの意気地なしだな。出たばっかりだろ」
 燐は振り返り、立ち止まった雪男を見る。滅多に行かない大きな広い川を渡ってから二つめの町、目的地はそこで、雪男曰く、急げば夕飯までに戻って来られる距離、つまりたくさん歩かねばならない。おやつ代わりのサンドイッチを頬張りながらまだ川っ縁の散歩道を橋に向かって歩いているところで探検にすらならない。
「違う」
「…座ってくうか」
 行儀が悪いというのは流石に燐も思っていた、ただでさえ酔いやすいのだから雪男には酷だろう。それに鳥や野良猫がいつ獲物を目がけてやって来るか分からない、燐の作ったサンドイッチはうまいのだ、ぼろぼろ落としてはもったいないし。
 兄さん、雪男は声にならず吐息だけを吐き出してきゅっと身体を強張らせる。
「?」
 視界が薄暗くなった。誰かが間違えて空の照明でも一段落としたかのように。
「なんで急に暗いんだ…?」
 燐は空を見上げる。晴天というわけではなかったが、雲が厚みを増し太陽を覆い隠すかのようにざわざわと動いている。
―――ザッ…
 突風が吹いて周囲の芒や雑草が一斉に煽られる。ここから先の一歩はもう夜の時間に属するのだというように、湿り気を含んだ風が身体をすり抜けていった。草むらにいたのか鳥が羽ばたき、二人はぎょっと振り返る。
「…っ…」
 竦んだか、後ずさるにも蹌踉けてしまい、雪男はぽてんと尻餅をついた。
「あっ!」
 サンドイッチの上に落ちないで良かった。なにしてんだと燐は言いかけたが、すぐさま飲み込んだ。変だった。雪男は目を見開いたまま視線を虚空に浮かべ、そのままどこかぼうと何かを見送るように首を捻る。その一連の動作はなんだか不気味に見えるほどゆっくりしていた。
「おい」
「……」
「ゆきお!」
 顔が真っ青だ。もう一度声を張るように呼ぶと雪男ははっと燐を見返した。
「へいきか?」
「…うん」
 目のまわりは真っ赤で、今にも泣きそうだ。震えまいと堪えているのがぎこちない手の動かし方でわかる、遠くで犬が吠えている。電線の影、物憂い空色、触れなくても雪男の怯えが伝わるのは、燐もきっとびっくりしてびびっているからだ。怖じ気を吹き飛ばすように頭を振った、わざと大きな声を出した。
「ゆきお!」
「っ!」
「冒険は怖いもんだろ、でも二人なら怖くないぞ。お前のことはオレがまもるし、お前はむつかしい字も読めるし、地図で場所もわかるだろ。道も間違えたりしない」
「……」
 俺達なら平気だ、と燐は自分にも言い聞かせるように言う。
 手を伸ばした。二人だから大丈夫なのだ、と固く信じている。
 
 
 
 広い草原に鉄塔が建っている。その向こうは大きな橋桁で支えられた道路、どういう置き方なのかは分からないが、鉄塔は三つ立っている。
「でかっ!」
「うわぁ…」
 近いのに遠いことにも驚いていたが、枯れ草を分けて近くまで行っても巨人の玩具みたいに塔は迫力をもってでん、とある。ただし、丈夫そうな鉄の骨組みだけなのでビルのような威圧感はない。
 遊んでいたのか、犬とその飼い主が燐達とすれ違っていく。足下はアスファルトではなく、ひんやりした土の感触、雲はあるが低い位置に鈍い色をした夕日の帯があり、光をほのかに残した空にぽちりと白く輝く星が見える、金星だと雪男がいった。だだっ広くて背丈のまばらな枯草の他にはベンチも何もなくて寂しい場所だが、吹く風は生ぬるい。
「あそこだ…」
 雪男は呟くと力を込めて燐の手を握ると脇目もふらずずんずん歩いていく。
「ゆきお、気を付け…」
 いつもならすんなり来る高い声の返事はない、聞こえていないようだった。握る手の熱さに、無言の返答に燐の気持ちも高まる。
 地図が示したのは三つの町の境にある大きな鉄塔で、その足下にはフェンスが囲っていたが、ないものもあった。あるのは真新しく赤と白とで塗り分けてあるもので、ないのはくすんだ白、ペンキが剥げ落ちているところもあった。燐は三つをそれぞれに見比べる、でかいアンテナだなあとしか思えない。
 雪男は予め知っているいうように真っ直ぐくすんだ白い方に突き進み、やがて燐の手を離して駆け寄ると、ここだよ兄さん、と興奮した声を上げた。
「お、おう!」
 大きく平たい石と植木鉢か何かの欠片を拾って高く聳える鉄塔の下で土を掘る、ビニールやら潰れた缶などが出てきたが、とにかく掘り続けたら手応えがあった。高い鉄塔の足下など子供が掘り返すには面積が広く、どうしたって運が良くない限り埋められた何かがあってもヒットなんてしない、それでも当たるのは偶然以外のなにものでもないのだが、それでも宝はあった。
「…雪男?」
 土まみれの小さな箱だ、二人で周りの土を掻き出してから取り出した。雪男はおかあさんにでもするみたいにして箱を上から下からと見ると、そっと土の上に置く。
「宝箱だね」
「だな」
 燐はどきどきしていた、どんなすごいものが入っているのか想像も出来ないけれど、キラキラした輝かしい何かがあると思っていた。
「…開くのかな?」
「開くだろ」
 カギもついていない木の箱なのだが、雪男はだからこそ立ち止まっているようだった。燐としてはカギもないからこそすぐ開くものだと考えている。軽く振ってから開けようとした。
「あっ!」
「開かねー!」
 そんなもんだ。
 ふんぬと蓋を持ち上げようとしただけでは開かなかった。土を払い、揺り動かすようにしたり、隙間に爪を入れたりしたが蓋は燐の力を以てしても頑なに口を閉ざし、沈黙している。
「に、兄さん、壊れちゃうよ」
 とあたふたと雪男がしたところでかたりと音がした。箱の中の何かが動いたか、滑ったような音で、雪男はあ、と声を上げると燐から箱を奪い取り、じいっとそれを見つめた。
「……」
 爪や細い棒で隙間の土を書き取るようにし、一度聞いた音を探すように上下や左右に動かすと蓋の上板だけを滑らせるようにする。単なるデザインによるくぼみだと思っていたそこはすっと横にスライドし、かたりと中で回るような音がする。
「これ、細工箱だ」
 燐は雪男の言葉を反芻する。さいくばこ。つまりはタダの箱じゃない。秘密めいた名前にびりびりくる、雪男の声もぴんとしていた、なんてすごいことをしているんだ俺たちは、とより興奮してしまう。
「開けるよ」
 雪男は魔法を解いてしまう賢者のようにするすると思いもよらない箱の部位を動かしてはずらし、細工箱は内側のきれいな装飾を表しながらやがて小さな入り口を開き、中を見せてくれた。宝物は小さな巾着袋に入っていた。重くもなく、砂と、かりんとうに似たごつごつした、軽い何かの感触がした。二人で紐を緩めて中を覗く。薄い和紙に包まれた砂とかりんとうじみたもの、そして二つ折りの紙が入っていた。二人で顔を見合わせてから、どちらの手がきれいかを見せ合った後、雪男が紙の方を取り出す。本の中に挟まれていたものと同じだろう地図の切り抜きだった。正十字学園町から北西にある都市のものだ、こちらに印はなかったが、裏には字が書き込まれていた。
「『…が、うまれかわって、またうちにきますように』」
 日付は四年前の夏。
「……」
 どちらともなくああ、と声が漏れた。
「兄さん」
「…うん」
「これは骨だね」
「…ああ」たぶん骨だ。
 日曜礼拝の後に、なんでもないときにたまに骨壺が祭壇の下だったり、ドアの前にだったりに置かれることがある。死者を弔ってくれとの無言のメッセージと受け取り、父親は警察に報せはするが、きちんと式を行う。儀式を手伝うから燐も雪男も骨壺の中身のものを見て知っている。だから開いては見ない。
 びゅうと風が吹いた、雪男は飛ばされないようにきゅっと巾着袋や地図の切り抜きを抱くようにし、燐は風が当たらないよう風上に背を向けるかっこうで立った。
「…ゆきお?」
 雪男は俯き、がさごそとポケットの中から印のついている方の地図を取り出すと、巾着袋に入れる。燐は黙ってそれを見ていた、軽いのに重くて、尊いのに輝かない宝が鉄塔の下にあった。
 誰かの未来を願うささやかだけど、切ない気持ちが。
 
 
 
「ゆきお、がんばれ」
 辺りはシンとして、足音と荒い息づかいがやたらに大きく耳に届いた。
 『おかあさんみたいにする』という言葉は頭の良い雪男が選んで教えた言い方だった。物を壊さないようにする、力を入れないで、そっと大切な気持ちを込めて扱うことは、それに対する敬意を払い、相応の振る舞いをするということで、自分たちにとっては見たこともないけれどすごく頑張って二人を生んでくれたおかあさんが似つかわしい。
「ゆきお、ゆきお」
 歩いているから、燐が汗をかくように、弟の手が熱くなっていったのだと思っていた。ひたすらに歩いているから息も上がってきているのだと。
 それが間違っていると知ったのは雪男が音も立てずに土の上に落ちたときだった。
 弟は熱を出していた、それもびっくりするくらいに高く。それでも黙ってきちんと骨と地図を仕舞い、土をかけて均した、最後にまるで祈るみたいにそのうえに手を置かせてごめんなさいと呟いた。燐の気持ちも落とし込んで、詠う。
―――「…が、あなたをらくえんにみちびき…」
「ゆきお」
―――「そくの、…永遠の安息を得られますように」
 二人ぶんをひとりで。
 雪男は燐を見ると僕は怖くないよ、と笑い、そしてほっとして見ている燐の視界からふと消えた。
「もうすぐだからな」
 燐は背中に何度もなげかけた、もちろん嘘だ。たっぷり時間を掛けて歩いた道だ、暗がりの中に橋は浮き上がってこない、どうしたって一時間以上はかかる。
「うん…」
「吐いちゃっていいからな、兄ちゃんがちゃんと運んでやるから」
「うん…」
 丸くなる気配が分かる、姿勢も何もかもがつらいのだ、掛ける言葉が見つからず燐は唇を噛んだ。弟はこんなにも弱い、なぜだか燐には分からない、物覚えが良く、色も白いから聖誕祭でマリア様の役をさせられたばっかりに“ゆきこ”と揶揄われることもある。喧嘩は必勝法を教えて好機を狙ってけしかけても勝てたためしがない、泣いて、燐が腕まくりして敵討ちに行くのだ。それなのに身を固く、息を詰めるようにして痛いとも苦しいとも言わず、背中で大人がするみたいな重くいやな咳をひとつだけ、する。
「ごめんなさい…」
 うわごとのように雪男が言う、耳がじくじくして、背中が熱くて、ずっと燐は走っているのに鉄塔が後ろに迫ったままなような気がする、息を吐くごと冷たく、乾いた空気がのどの奥に突き刺す。心臓が口から出そうだ、だけど、それ以上に足を止めず、前を向かせるものがある。焦りと恐怖だ。
「…さん」
 燐は危うく口に出しそうになり、ぐっと口をつぐんだ。神父《とう》さん、と言ってしまったら途端に二人で不安のどん底に落ちてしまう。それくらいは分かる、だから言ってはいけない。弱くなっては冒険に負けてしまう。
「……」
 走る。
 背中は熱く、雪男は力なく沈みそうになる。
 絶望なんて言葉をその時の燐は解っていなかったが、やがて引き連れて来られるだろう大きくて強い力が凝っと挫けるのを待ちながら見ているようで、燐は足を止めそうになる。引き締めている顔が歪みそうになる。
「――燐! 雪男!」
 橋が見えてきたところで、どこかから知っている声がした。
「燐! 雪男!」
「…っ…」
 燐は立ち止まり、風に流されそうな声に耳を澄ます。
「とう…さ…」
 燐の背中でぐったりとなっていた雪男がか細く声を上げた。ああ、そういえば来週の日曜、雪男は父親とで教会の大きな催しに行くことになっている。それに間に合うだろうか、雪男の熱は無事に下がるだろうか。
「神父《とう》さん!」
 燐は声を張り上げた。黒い人影がさっと動いて、街灯の下にいる燐の姿をみとめると駆け寄ってきた。獅郎だ、続いて反対方向から和泉がやってくる。
「合ってた!」
 少々占術の素質を持つ和泉は嬉しげに携帯端末を取り出す。
「平気か、雪男」
 獅郎は雪男を抱きかかえ、手のひらで熱を測る。冷やすためなのか、ボトルに入った水を雪男に飲ませると、汗をぬぐってやる。燐は身動きもせずただそれを見ていたが、和泉は燐にタオルとクリームパンと暖かいミルクティーを差し出した。
「古本のおじさんが妙なとこで見つけたからって知らせてくれたんだ、探検って遠すぎるんだよ、二人とも」
「…ぼくが、ちゃんと、言わなかったから」
 虫にでも刺されたのだろうか、雪男の額に十円玉くらいの水ぶくれのようなものが二つほどできている。我知らず燐は獅郎の常服《カッソク》を握っていた。
「ごめん、兄さん…」
「唆したのは燐だろ、遊んでても探検に行っても夕飯までには帰るってみんなと約束したろ?」
 頑張ったけどな、と獅郎は燐の頭を撫でるでも叩くでもなく触るようにすると、きゅっと鼻を抓る。
「……」
「帰るぞ」説教はあとだ。
「ごめんなさい…とうさん…」
 和泉が何かを呟いて雪男に液薬のようなものを飲ませている、相当マズイのか雪男は眉を顰めてそれを嚥下する。なんだろうと燐は味のしないクリームパンをもそもそと食べながら思う。父親の広い背中に安心したのか雪男はすぐに寝息を立てた。
「タクシー拾ってきます」
 和泉が通りに向かって駆け出す、その先に暗がりの中を大量の水がぬらりぬらりと怪しげに光を跳ね返しながら流れているのが見えた。川だ、ここに落ちたらもう永遠に上がってこられないような気がする。
「…とうさん」
 不機嫌そうな音を立てて街灯が点滅を繰り返している。腹ぺこなはずなのに、もうパンもいらないし、ミルクティーも飲めない。後ろも振り向けない。
「ん?」
「なんでゆきおは弱いの? 同じなのに」
「……」
「オレが…ゆきおのぶんも取っちゃったから?」
 獅郎はそんなことあるか、と鼻で笑って返したが僅かばかりの動揺が目の奥に見えていた。いまならわかる、雪男が熱を出したのは魔障にかかっていたからだ。
 
 
 
―――りん?
 声がする。
―――りん、起きて。りん。
 その身体のように幼げな声はぽんぽん飛び跳ねる。
「……」
 目が覚めた。
 しかも、目が濡れている。懐かしい夢を見ていた、自分のことでさえも観客の一人として泣けるのかと思うと恥ずかしいのと同時に笑える。
「悪かったなあ…」
―――なにが? りん、どうしたんだ?
 クロは目をきょとんとさせて燐の顔を覗き込んでいる。首を傾げてはとす、と頬骨に手を当てるようにする。ぺたりと頬に乗る肉球はやわらかく、ひんやりしてて気持ちいい。そういえば雪男がクロに本を見せながら猫の手にもツボは本当にあるのかと試していたことがある。爪を切るべきかと呟くのを引っかからず落ちるからいやだとクロは盛んに反論していた。燐はここで気の抜けるような風景を見るのが好きだ。
「あー。昔の夢見て…」
 小さい頃、地図を頼りに遠くの町まで行った。雪男はそこで倒れ、寝込んでしまった。燐は父親にとにかく叱られて、外で遊ぶことを禁じられた。燐がよく覚えているのは雪男の手がごく自然に燐の手を取り、土の上に乗せてそこに二人ぶんとしての祈祷文を置いたことだ。驚く以上に、感動もした、雪男はこんなこともできるのだと誇らしくもなった。
 鉄塔がまだ残っているのは知っている、誰かと二人ぶんの祈りはいまも掘り返されずに土の中に埋まっているのだろうか。
「…って」はっと手元と壁の掛時計を見る。
「蒸しパン!」
 開いていたはずの問題集は閉じられており、燐はペンを手にしたまま食堂のテーブルに突っ伏して寝ていたのだった。クロが見つけなければきっと火事か、弟に起こされるまでこのままだったはずだ。炎に包まれるコンロと囀石をにこにこしながら膝の上に置く弟の姿がすんでのところで遠ざけられたイメージが浮かび、ぞっとし、また、出し抜いた気分にもなる。
「ナイス、クロ!」
 立ち上がり、湯気の上がった蒸籠を見る。奇跡的に時間もぴったりだった。
―――お腹減ったよ~。
 クロは燐の言葉などどうでもいいらしく燐の後をついて歩きながらご飯~、と鳴き声をあげる。
「勝手にパトロールとかいっといて…」
 燐は苦笑し、蒸しパンの膨らみ具合を確かめる。まあ問題集を睨むことを再開するより飯の用意の方がずっとましだ、とはいえ、雪男が印をつけておいた箇所に答えを書き込んでおかないと夜、きっと寝かせてもらえない。囀石二倍とかあの男ならやる、絶対に、涼しい顔でやる。下手すると未完成の魔法円の中に座らされて周囲に下級悪魔をばらまかれるかも知れない、蚊の檻の中に閉じ込められるかのごとく。
―――あ。ゆきおだ。
 ドアの閉まる音とともに、階上に足音がした。
 びくりとする、このタイミングで帰ってくるとは流石に弟と言うべきか。大丈夫、心は誰にも読まれていないし、問題集の期限も夕食の前までだからまだ時間がある。クロのために取り分けておいた白米に鰹節と魚のほぐし身を混ぜ込んでやる。クロは嬉しそうに尾をひと振りさせるが燐としては溜息が出る。
「ちなみに夜は厚揚げと小松菜とじゃこの含め煮。給料日前だからって肉禁止なんだよ…」食費を出すのは弟だし、月のお小遣い『にせんえん』の燐に文句など言えるわけもないのだが、恨みがましく目が天井を向いてしまう。優秀な弟は狭い室内をあっちにこっちにと忙しい、自分を置いての祓魔任務というならついでに食材狩りもすればいい。
「兄さん」
「……」
 どこか緊張を含んだような声に振り返る。
「こんなところで何してるの?」
「え」
 祓魔師のコートを着たまま雪男は入り口に突っ立っていた。呆れたような、小さな苛立ちを抱えているようにも見えて、おやと思う。仕事で呼び出されはしたが、今日のは祓魔というのでもなかったらしい。大抵の任務には優等生らしくどんなものでも顔色一つ変えないが、会議やら事務方のものとなると雪男は苛ついたり落ち込んでいたりする。本人は隠しているつもりだが、明らかに違って見えるのでメフィストに訊いたことがある、あっさり彼は口を割り、今日のは会議でしたとか、塾に向けての調査ですとか半眼を向け、意味ありげににやりとした。続けて、奥村先生は真面目すぎるきらいがありますから、と済ました顔で燐に手作りの菓子か(失敗はいまのところない)、鍋いっぱいの味噌汁を要求するのだった。
「何って、お前のやれっていったとこやりながら」
 蒸籠の蓋を手に言いながらテーブルの上にある問題集を指し、雪男を見る。自分のことで何か言われたりしたのだろうか、直接オレに言えよ、といつもヴァチカンとやらの高い層に投げつけたくなる。燐が何かあったのかと訊いてもきっと雪男は言わない。こうして、無理に押し込めているだから、表に晒して少しでも楽になろうなんて考えないのだ。
「…待ってた」換気扇のつけ置きを。重曹は蒸しパンにもなるし、汚れ落としにもなる、万能だ。
「あ。そうか」
 いまさら思い出したような顔をする。椅子に座ると、息を吐いてそうだったね、と小さく笑う。
 自分が、弟をそんな風にしてしまったのだろうか。
「軽い掃除ついでに蒸しパン作った、食うか?」
「…うん」
 蒸籠ごと皿に乗せ、いい具合に膨らんだ蒸しパンは切り込みだけ入れた。ついでにペットボトルの茶を取り出して雪男の前に置く。これ全部をかという顔を雪男はしたが、面倒なのか何も言わなかった。
「ごめんな、雪男」
 小さい雪男が椅子に座っているように見える。寝込んだ後で食卓の椅子に戻る雪男の姿を見ていつもほっとした。雪男の定位置を見るのはいつしかクセになっていて、いないことに慣れたのはこの二、三年じゃなかったかと思う。
「?」
 雪男は怪訝な顔で燐を見る。蒸しパンを熱そうに取り、干しぶどうだ、と見て分かることを呟く。
「どうしたの?」
「だからついでだって」
 同じ痛みや苦しみを持てなかった。
 小さな頃からそうだった、似ていなくて、対照的すぎて、まるで血の繋がらないような兄弟だった。
 それでもずっと一緒だった。
 一緒に父親に育てられた。
「労いとかですか、これ」もわあと湯気が上がる。
「何でその口調」
 なんとなく、と雪男は言うと何がおかしいのか解けたようにくすりと笑う。
「うん、まあ、おいしいけど全部は無理」
「分かってるっての」
 テーブルに上がってうまそう!とすんすんと鼻を寄せるクロを引き離し、千切った欠片をやりながら自分も頬張る。眼鏡が曇るのも頓着せずに蒸しパンを食べる雪男はオレの弟だなとわけもなく思う。
 
 
 
 あれがきっかけというわけでもないけど、決めたことがある。
 底も見えない暗いだけの川に落ちるなら雪男一人だけにはさせない、きっと二人でいてもなんの解決にはならないだろうけど、二人ぶんを祈る弟だから、怒っても何をしても自分を決して突き放そうとしないやつだから。
 弟が自分に差し出してきた手は受けてやる。
 幸も不幸も、救いでも、助けでも、なんでも、俺は雪男を受け止める。
 
―――ゆきおのぶんも取っちゃったから?
―――それは罪悪感から?
 
 稚い声が聞こえたような気がしたが無視した。確かなのはいま目の前にいる雪男が燐には必要ということだけなのだ。
 
 
 

111031
なおと