オオイナルヒカリ

 燐を表現する時には、つい「物凄くオツムの残念な子」のように書きがちになってしまうのですが、勉学以外はきちんと考えているはずだよな、と初心(?)に戻ってみました。
 普通の高校での風景が書きたかったのですが、兄弟げんかの話になってしまいました。
 そこはかとなく雪燐ぽさが出てると…思うのですが…。どうでしょう?
 
 

【PDF版】オオイナルヒカリ

 
 
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 ――幽暗《くらき》をあゆめる民《たみ》は大《おほい》なる光をみ 死陰《しかげ》の地にすめる者のうへに光《ひかり》てらせり
 

【イザヤ書 第九章 二節】

 
 
 
「勝呂、居るか?」
 奥村燐が戸口で友人たちと喋っていた男子生徒に話しかける。
 入学当初の印象がよくなかったのか(もちろん本人はそんなつもりは全くない)、教室では微妙に避けられることの多い燐だが、他のクラスではそうでもないらしい。気の良さそうな少年がちょっと待ってな、と微笑んで教室の中に呼びかける。
「おーい、勝呂!ダチ来てンぞ」
「なんや?」
「ああ、奥村君や」
 窓際の席に座っていた勝呂竜士と三輪子猫丸が戸口を見て、燐を手招きをした。それに勇気付けられたかのように燐が教室に入ってくる。
「なしたんや」
「いや、別に…」
 燐は窓枠に尻を乗せるように寄り掛かった。特段の用はない。ただ教室には友人と呼べるような級友もいないので、何となく手持ち無沙汰になって訪ねてきたのだ。
「お前らなにやってんだ?」
 勝呂、子猫丸、志摩廉造の三人は、机を寄せ合って教科書とノートを広げている。
「今日の課題や。今のうちに済ませとかんと、塾の課題が終われへんねや」
 途端に、燐がうげ、と言う顔をした。
「…お前もどうせ来るんなら、勉強道具持って来ぃや。どうせ課題溜めっぱなしなんやろ」
「う…、いや、まぁ…」
 燐があらぬ方を見ながら、しどろもどろに言い訳する。が、それだけで課題をやっていないのを白状したようなものだ。
「奥村君、やっといた方がエエよ。塾もやけど、こっちもあんまり勉強せんと放校処分あるえ」
 子猫丸が心配そうな顔で、燐を見上げてくる。
「志摩さんも、危ないんや」
 子猫丸に呆れた口調で言われた廉造は、ひどく思いつめた顔をして「アカンアカンアカン」と呟きながら、必死に課題を解いていた。燐は廉造のげっそりした顔とただならぬ雰囲気に、息を呑む。二人の成績は似たり寄ったりだ。それでも廉造の方がまだ若干成績が良い。その彼でさえこの状態なら、燐などとっくに放り出されていてもおかしくない。
 ――メフィストがなんとかしてくれてんのか…。
 今更のように思い当たる。
 得体の知れない理事長だが、奥村兄弟の後見人を勤めてくれている。燐が辛うじて祓魔塾と正十字学園に居られるのは彼のお陰だ。もちろん、兄弟の知らないところで―と言うより、燐の知らないところでと言うべきか―なんらかの便宜を色々はかってくれているだろう。それでも、あまりに燐の素行が悪ければ、メフィストにしても庇える限界があると言うものだ。
 ――学校も、祓魔師《エクソシスト》にもなれなかったら、俺はどこにも行くあてがない…。
 今の弟との生活も、燐がここに居るからこそだった。
「奥村、別に一番やのうてエエんやで。ぶっちゃけ、こっちは落第せぇへんかったらエエんや」
 勝呂がぼそりと呟く。燐の出自を知った少年たちは、燐が何故ここに居るのかも察している。それだけに、最低限の努力だけはしろ、と心配してくれているのだ。初めて出来た仲間と呼べる相手からそんな言葉を聞けただけでも、有り難いことだと思う。
「わーった、次は持って来る」
「そうしぃ」
「おー。俺教室戻るわ」
 じゃーな、と妙に晴れ晴れとした顔で笑って、燐が教室を出て行った。
「なしたんや、アイツ」
「坊《ぼん》に気合貰うたんですよ」
「……手のかかるヤツやで」
 勝呂の言葉に、子猫丸が嬉しそうに笑った。
「坊《ぼん》…、俺は気合より答えが欲しいです」
 廉造が情けない声で訴える。
「自分で解き」
「あかんて、もう頭パンクしてまう。ホンマ、もうあきませんて」
「あーもー!情けない声出すなや。どこや」
 
 
「兄さん?」
「あ?ああ、雪男」
 雪男がびっくりした顔をして燐を見下ろしている。
「何してるの…?てか、何の前触れ?熱でもあるの?なんか悪いものでも食べた?あれほど拾い食いするなって…」
「誰が拾い食いなんかするか!このホクロメガネ!」
 思わず燐が大声で怒鳴る。が、雪男と周りからの非難するような視線に気付き、抑えた小声になる。
「…ったく、べんきょーだよ、べんきょー。見りゃわかんだろ?」
 正十字学園の図書館にある読書スペースだ。六人掛けの木の大きなテーブルに、一人一人の前に読書灯が取り付けられたものが、書架の間に並べられている。燐たちが居るのは一階だが、二階、三階にも同じようにテーブルが設けられており、調べ物や自習に使われている。その一隅に座っていた燐を、たまたま雪男が見つけたのだ。
「んな、驚くようなことかよ」
「絶対居ないはずの所に居れば、びっくりもするよ。ああ、学校の方?」
 雪男が燐の手元を覗きこむ。
「おー。今日は塾ねーだろ。ちっとメシ遅れるけど、良いよな?」
 パラパラと教科書をあちこち捲くりながら、燐が尋ねる。宿題範囲の数式が全くもって理解できない。
「勿論、構わないよ」
 雪男が空いていた燐の隣の席に座る。
「何してんの?お前」
「ん?僕もここでやってこうと思って」
 弟がにっこりと微笑みながら、カバンから勉強道具を取り出す。
「お前他の用事でもあったんじゃねーの?」
「ああ、ちょっと本借りに来たんだ」
 分厚い背表紙の本をそっとテーブルに置く。布の背表紙には金色で文字が書かれていたが、何の本だかさっぱり判らない。ともかく日本語ではなさそうだ。
「何の本?」
「旧約聖書」
 聖書、と聞いて顔が引きつる。明日までにどこだかを覚えて来い、と言う課題があったような気がする。それがどこだったかすら出てこないので、当然ながら手もついていない。
「好きな一節があってさ」
「ふーん?」
 ぱらりと開いた雪男の手元を覗き込むが、理解不能な文字の羅列が目に飛び込んできただけだ。燐にとって『聖書』は詠唱のためのものだ。その次に信仰の為の経典という認識がチラリとある程度。そんな聖書に好きな一説があるなんて気持ちは一生判らないような気がする。
「え、英語か?」
「ラテン語だよ。ああ、ここ」
「何て書いてあるんだ?」
 雪男の指差した先の文章は、燐にはただの記号のようにしか見えない。
「暗闇を歩く人の上に大いなる光が差す、って言う箇所なんだ。本当は救世主が誕生する預言の一部なんだけど、ここだけが凄く印象的でね」
 燐は、はぁ、と気の抜けたような相槌を打つしかない。
「大いなる光…てなんだ?」
「聖書としての解釈とは違うけど、僕は希望を感じたんじゃないかと思うんだ。それこそ目の前に光がさすような」
「希望の光、とか言うもんな」
 燐の言葉に、雪男が嬉しそうに微笑む。
「これを初めて読んだ時、僕もそう思った」
 慈しむようにその文字を指でなぞる雪男が、随分遠くの存在になってしまったようで、誇らしく思う反面、淋しいような悔しいような気持ちになる。小さい頃は、いつでも自分の後を付いて歩いていた泣き虫の弟が、今は自分の足で、燐よりもずっと先を一人でしっかりと歩いている。
 希望の光なら、今の燐こそ欲しかった。すぐに勉強が出来るようになるとか、すぐに祓魔師《エクソシスト》になれるとか…。
 ――ったく、ショボすぎんな、兄貴…。
「どうしたの?」
「な…、なんでもねー」
 燐はふるふると頭を振って気持ちを切り替えると、意味の判らない数式に取り組むことにする。
「兄さん」
「あー?」
 雪男の呼びかけに、虚ろな返事を返す。頭がパンク寸前だ。式が直線やら曲線やらの図になるとか、意味が判らない。だいたい、何故アルファベットが当たり前のような顔をして出てくるのか。オマケに「中学でもやったじゃないか」とか言われた日には泣きたくなる。放課後に図書館に来てから、結局四時間近くも居て、三問しか解けてない。宿題範囲は二十問もある。この状態ではどうやっても今日中には終わらない。しかも他の教科の課題には当たり前だが手がついていない。
 ――くそー。最低限の努力とやらも、いきなりコレかよ。大体教科書ってのは、説明してねー問題載せる訳がねーんだよ。それなのに意味がわかんねーってどう言うことだよ?
 我ながら先が思いやられる思いだ。
「そろそろ最終下校の時間だよ」
 流石に図書館に残っている学生も少ない。正十字学園は全寮制なので、学校が閉まる時間に出て寮に帰っても食堂のご飯に間に合うようになっている。二人だけで寮の旧館に住んでいる奥村兄弟は、夕飯を自分たちで用意する必要があるが、その分時間には多少融通が利く。しかし、今これ以上数式と格闘したら、夕飯の用意すらできないダメージを負いそうだった。
「おー…」
「どうしたの?元気ないよ?」
「元気なんてねーよ…。ホント、俺勉強さっぱりだわ」
 情けなくて溜め息よりも乾いた笑いが出てくる。
「いきなりどうしたのさ」
「何が」
「勉強だよ。普段なら僕がいくら言っても、なかなかやらないクセに」
 すっかり陽が落ちた外は、呆れるほどに長くて幅広い階段の両脇に設置された街灯が、ぼんやりと灯されているだけで暗かった。煌々と明かりの点いたエントランスが却って眩しいくらいだ。
「最終下校時間だぞ、急ぎなさい」
 戸口付近の教師が急かす声が、漆喰の高い天井に響いた。
 校舎を出ると、ひやりとした空気が吹いてくる。こんがらがった数字や記号がぐるぐるする頭が冷やされていくような気がした。隣で雪男がマフラーを巻く。眼下には正十字学園町のネオンと街灯が飾りのように見えた。
「勝呂達が、ちっとは真面目にやらねーと、ここから追い出されるぞってさ」
 たしたしと足音をさせて階段を降りる。背中に担いだ降魔剣がカタカタと鳴った。
「俺は祓魔師《エクソシスト》になるって決めたんだ。だったら追い出されるワケにはいかねーだろ?」
「…まぁね。学校にも祓魔塾にも居られないほどだとしたら、正十字騎士團に幽閉されるか殺されるかもね」
「げ、マジかよ」
 自分の命を奪われてしまうのは論外だが、捕らえられてしまうのも、我慢がならなかった。人、物に関わらず縛り付けられるとか、言いなりにさせられるのは、燐には耐え難いことだ。オマケに燐は魔神《サタン》の落胤だ。祓魔師《エクソシスト》になると言ったから何とか生かされているが、下手に暴れたりすれば京都遠征でもそうであったように、直ぐにでも抹殺命令が下るだろう。今更のように、自分がいかに危うい立場にあるのかを思い知らされる。
「真面目な話、兄さんを捕らえようとするなら、僕や勝呂君たちがやらされることになるだろうね」
 雪男の言葉が、更に厳しい現実を突きつけてくる。よほど正気を失わない限りは、兄弟や仲間には手を出さないだろうと読まれているのだ。確かにその通りだ。他の人たちを傷つけるなど、出来はしない。そこをまんまと読まれている悔しさが込み上げる。
「ま、それでも兄さんが真面目に頑張ってくれるなら、そんなことはないだろうけど」
 精々頑張ってよ、と燐を追い越して階段を降りていく雪男の言葉が、ひやりとした感触で燐に刺さったような気がした。
「雪男」
「なに?」
 数段下から見上げてくる雪男の顔が、ぼんやりとした明かりで余計に無表情に見えた。
「なに怒ってんだ?」
 別に、と素っ気なく言って踵を返す雪男を慌てて追いかけた。
 暫くは無言で歩いた。燐が隣に並ぼうとすると雪男がそれを避ける。
「お前、何怒ってんだ?いい加減にしろよな」
 全く原因に思い当たらない燐は、苛立って尋ねる。
「別に怒ってないよ」
 固く拒絶するような、端的な言葉だ。思わず燐が笑い出す。
「怒ってるじゃねーか。怒ってる時ほど怒ってねーって言うんだよな。ホント、ガキの時から変わんねーな」
「笑いごとなんだ」
「悪かったって。で、何怒ってんだ…」
 どしん、と音がして、燐の背中に痛みが走った。
「…ってーな!なにすんだ!」
 痛みに顔を顰めて怒鳴ると、直ぐ目の前に雪男の顔があった。静かに怒っている顔だ。鋭い眼差しが燐を切り刻んでしまいそうだった。雪男の手が制服の胸倉を掴んで、塀に力一杯押し付けていた。
「兄さんには僕の言葉なんてどうでもいいんだろ?」
 ぼそりと雪男が低い声で呟く。
「おい…。なに言ってんだ、お前」
 夜気に冷やされた塀の冷たさが背中の痛みを鎮めるどころか、逆に強く感じさせるような気がした。体中が痛みにあわせて、どくん、どくんとうるさい位に脈打つ。雪男の顔が苦しげな表情をして横を向いて、そのまま段々と顔が俯いていく。
「他の人のなら素直に聞けるんだ」
「雪男」
「僕の言葉なんて、兄さんには何の意味もない」
「なに言って…。んなワケねーだろ?」
 燐が雪男の肩に触れた。その肩が拒絶するように手を振り払う。
「僕がどれだけ兄さんのことを思って言っても、全部無駄なんだ」
 掠れるような、小さな声で雪男が呟いた。燐は思わず天を仰ぐ。雪男が怒っているのは判るが、何故なのかがまるで判らない。
 なんだよ、俺。勉強も出来ないうえに、たった一人の弟のこともわかってやれねーのか。
 沈黙が降りる。遠くで車の通りすぎる音が少し近づいては、小さくなって消えていった。些細な音が良く聞こえる、痛いような沈黙だ。
 燐が覚悟を決めたように口を開いた。
「…ゴメンな、雪男」
 そっと自分よりも背が高くてごつい弟の肩に手を回す。拒絶されても何度でも肩を抱いてやろうと思う。触れた肩は一瞬びくりとして、後は小さく震えていた。一瞬子供の頃の景色が脳裏に甦る。その頃は自分よりも小さな体だった。兄の自分に何か訴えたくて訴えきれずにいる雪男が、泣きながら自分にしがみついて離れなかった。
 ホント、小さい頃と変わんねーな。
 くしゃくしゃと髪の毛を撫でる。肩口に乗せた雪男の頭がずしりと重い。自分よりも短くて柔らかい髪の毛が首筋に当たってくすぐったかった。
「俺が悪かった」
「…何に怒ってるか判ってるの」
 小さな声で雪男が尋ねる。
「……。…わかんねぇ…」
 そこはもう申し訳ないくらいに、判らない。だが、判ってると嘘をついてもしょうがないことだ。
「意味ない」
「お前が怒ってるのは、ちゃんと理由があるからだろ。お前を怒らせたのは悪かった。ちゃんと反省もする」
 ぽんぽん、と言い聞かせるように肩を優しく叩く。制服の上着を掴む雪男の手に力がこもった。
「だから、お前が何で怒ってるのか、ちゃんと教えてくれ」
 ぼそりと雪男が呟く。
「え?」
「にいさんのバカ、アホ、鈍感、おたんこなす」
 おたんこなす?随分好き勝手に言ってくれるじゃねーの、と思いながらも、確かにバカもアホも鈍感もその通りだろうから甘んじて受ける。
「ずるいし」
「ずるいってなんだよ」
 雪男は燐の肩に額を押し付けて暫く黙ったままだった。燐もそのまま黙って髪の毛を撫でる。雪男が一つ溜め息を吐いた。
「落ち着いたか?」
 宥めるように雪男の背中を擦る。いつの間にか自分より背が大きくなって、筋トレとやらで鍛えている背中はがっしりしている。小さい頃とは全然違うのに、それでもはっきりとはいえない何かが昔と全く一緒だと燐に訴えてくる。
「ホント変わんねーな。怒ったり悔しかったりすると、良くこうやってくっついて来てさ…」
 くしゃくしゃと髪の毛を乱暴に撫でて、背中をゆっくりと叩く。
「それがずるいっての。僕がなんで怒ってるのかもわかってないのに、頭撫でれば良いと思ってるだろ」
 少し拗ねたような口調で雪男が反駁する。
「お前が泣き止まねーからだろ」
 いつの間にか制服を掴んでいた両手が外れて、燐の上着の裾を握り締めていた。
「お前泣いてんの?」
「泣いてないし」
 雪男がムッとした口調で言い返してくる。
「僕が怒ってたこともいつのまにかうやむやになるし」
 わざとうやむやにしたつもりはない。雪男から話してくるのを待っているのだが、結局そのままになってしまうことが多いだけだ。…だよな?そう思いたい。
「やっぱりずるい」
「ずるくねぇって。ちゃんと話してみろよ」
 ふと見上げた夜空には月が出ていた。月明かりに照らされた雲が薄絹のように月の前を横切って行く。
 ――弟怒らしてなにやってんだろーな、俺。
 小さい頃とは違う。そして雪男のSQを勝手に読んで食べこぼしたとか、そう言う理由でケンカしているのでもない。雪男にとってそれなりに重大なことで、きちんと自分の答えを聞きたいと思っているから、ここまで揉めているのだ。そうでなければ怒鳴って、一くさり説教されて終わっているはずだ。
「…お前の言うこと、どーでも良いとか思ってないぞ。まぁ…、そりゃ…、あんまエラそうに説教されたりとか、タマにはそー言うこともないでもない…ケド…」
 燐がごにゃごにゃと言い訳を始める。
「アレは、ホラ。家族のヨシミってやつで…」
「家族にはよしみとは言わないよ」
「う。と、とにかく!俺はそれでもお前のことどうでも良いとか、思ってねーから!」
 言葉が上手く出ない。それでも、今はきちんと気持ちを伝えるべき時だ。燐は必死に自分の中のボキャブラリーを探る。雪男が我慢しきれない、と言うように笑い出す。肩口に雪男の笑い声が響く。
「笑うな!人が折角マジメに…!」
 確かに良いことは言えてないが、それでも真面目に言ったつもりだ。それだけに笑われたのが悔しかった。笑い疲れたのか、雪男が大きく溜め息を吐いた。
「怒ってるのもバカらしくなる。ホントずるいな、兄さん」
「悪かったな」
 帰ろうぜ、と言いながら、燐が雪男の頭を軽く小突く。
「手、つないでやろうか?」
 小さい頃にケンカして仲直りした帰り道は必ず手を繋いだ。それを思い出してにやりと笑った燐の脇腹を雪男が軽く殴った。
「で?何に怒ってたんだ?」
 頭の片隅で作り置きの惣菜は何があったかと思い出しながら尋ねる。メインは下ごしらえまで済ませて冷凍しておいたしょうが焼きを、朝冷蔵庫に突っ込んできたから良い具合に解凍されている頃合だろう。
 怒っていた時とは打って変わって、歩調を合わせて隣を歩く雪男がそっぽを向いて黙り込む。
「どうした?」
 雪男のほうを伺うが、本人が視線を合わせようとしない。
「なんだよ、ちゃんと言ってみろ」
 さっきまでは怒っている理由を判れ、と言っていたのに、話せと言えばだんまりだ。バカ、アホ、鈍感と罵られたように自分は言われなくても察するなんて器用なことは苦手だ。察する努力を放棄しているとも思うが、間違った思い込みで変に気を回すよりは、怒っているならきちんとその理由を言ってくれた方が有り難い。
「勝呂君たちが勉強しろって言ったら、勉強するんだ…」
 雪男がぼしょぼしょと呟く。
「え?それで怒ってたのかよ?」
「それでってなんだよ!僕が何度言ってもやる気を出さなかったのに!」
 どーいうことだ、と一転雪男が怒鳴る。
「あー…。勝呂たちが言ったからってのもちょっとあるけどよ、それだけじゃねーんだよな」
「どういうこと?」
 どう説明したら良いものか、と呻きながら思わず頭を掻き毟る。
「あのさ、志摩がな?」
「志摩君がどうしたの?」
「キキセマルっての?すげー顔しながら勉強してたんだよ。今日」
 休み時間に見たこと、志摩が放校処分の危機にあると言われたことを説明する。
「なんか、マジでヤベーって思ってさ」
「……なんだ」
 雪男が呆れたような苛立たしげな溜め息を一つ吐く。先ほどまで怒って拗ねていたのに、もう普段どおりの冷静な雪男だ。
「それで本気出すなら、さっさと放校処分とかチラつかせて脅しとけば良かった。折角僕がフェレス卿に掛け合ったりしたのが仇になっていたとはね…」
 う、と燐が詰まる。雪男がそこまでしてくれていたとは思いも寄らなかった。
「え、えーと…。さ…、サンキュー、メガネ☆」
「ふざけてるの、兄さん?」
 薄暗い街灯がメガネに反射して、雪男の表情が読めない。が、静かに怒っているのは確かだ。
「折角やる気を出してくれたんだから。僕も応援するよ」
「そ、そうか?」
 雪男のにこやかな口調がとても怖ろしい。初冬の夜気とは違う足元から這い上がってくるような寒気にぞくりと背中が粟立った燐は、思わずたじろぐ。
「僕がバシバシ鍛えてあげるから、そのつもりで居ると良いよ。放校処分になりたくないでしょ?」
 にっこりと微笑んで、がっし、と燐の肩を掴んだ雪男の手が、万力のように挟んで身動きが出来なかった。
「さ、遅くなっちゃったし、帰ろう」
 そう促す雪男の言葉にも、燐の足が動かなかった。
「どうしたの?手、つないであげようか?」
「う、うるせー!」
 いたずらっぽく微笑む雪男に、燐は悪態を吐いて、苛立たしげに歩き出す。
 視線を上げた行く先を照らす街灯は、ずっと先で闇に飲まれている。まるで、自分の行く先みたいだと思う。何が起こってどうなるかも判らない。祓魔師《エクソシスト》になるためにあがいて、先に進んでいるのかも判らない。
 それでも自分の傍には、仲間だけじゃなくて、雪男が居てくれる。これからもぶつかって、ケンカして。きっと人一倍心配をかけて、苦労をかけるだろう。そしてしこたま怒られるに違いない。自分を散々こき下ろして、兄貴を頼ってくることなんて滅多にないだろう。でも、傍に居てくれるだけで自分の進む先が見えるような気がする。先に進む力が沸いて来る。
 ――これが、希望の光ってヤツかな。
 上からは月明かりが照らしている。闇を切り裂く太陽のような強い光ではない。しかし辛うじて何とか足元が見える程度でも、自分にとっては頼もしい明かりに違いない。燐にとっては『大いなる光』だ。
 ――進まなきゃな。
 燐はそっと手を伸ばして雪男の手を掴む。嬉しそうに笑って握り返してきた雪男の手は、頼もしいくらいに力強かった。
 
 

–end
せんり