ワームウッド

 お父さん視点での話です。雪男たちが中学を卒業した後くらいの過去ねつ造話です。雪男が祓魔師になった後に燐のことを話した設定になっています。
 獅郎父さんは二人のことを、凄く凄く心配していたと思います。なので、燐のことを話した後、雪男がどうするのか不安だったのではないでしょうか。雪男は祓魔師になり、燐を守ると決意した時お父さんは凄く安心したと思います。
 雪男は本当のことを知った後、燐に話し掛けるのを躊躇ったような気がします。好きだから、離れてしまう前の時間を無駄にしたくない。だけど迂闊に話したら、思わぬことを話してしまうんじゃないかと。
 

【PDF版】ワームウッド

 
 
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「雪男」
「あ…、なに? 神父《とう》さん」
 平静を装っているが、呼びかけた時に体が一瞬びくりと震えたのを見逃さなかった。藤本獅郎は苦笑いをする。
 相変わらず燐とどう接して良いのか、思い悩んでいるらしい。
 燐が悪魔の子だと伝えたのは、雪男が祓魔師の認定試験に受かって暫くしてからだ。それ以来、雪男は何か思い詰めたような顔をしている。
 ――しょうがねぇか。
「おう、そこの書類、棚に戻しといてくれや」
 雪男は頷いて、分厚いファイルを軽々と抱えた。南十字修道院の一角、正十字騎士團の祓魔師でもある獅郎の居室は雑然としていた。いや、むしろどうしようもなくとっ散らかっていて、更に汚い、という方が正確かも知れない。子でもあり、弟子でもあり、また部下でもある雪男が、だらしない上司の手伝いに駆り出されている。壁面を覆う巨大な書棚へ、雪男がファイルを戻していく。ついでに、乱雑に放り出されていたファイルも戻してくれたり、ちょっと並び順を整理してくれたりするのが、有り難くも、真面目で可愛いと思ってしまう。
 あんなに病弱だったのになぁ。報告書、申請書類、業務日誌。面倒な書類を書く手が止まって、息子の後姿を眼が追う。
 今はもうすっかり元気だ。祓魔師の訓練で体も鍛えられて、細身ではあるが筋肉もしっかりついてきた。小、中学校では授業中に任務に呼び出されても良いように、ずっと病弱なフリをしてきたが、今度進学する正十字学園は、祓魔師を養成する祓魔塾を擁する高校でもある。任務に対する理解もある。もうそんなフリをする必要もないだろう。
 獅郎は悪魔に怯える息子を救おうと、祓魔師にならないか、と提案した。小学校に上がってすぐのことだ。祓魔師になって皆を守るんだと。その皆には、双子の兄、燐も当然ながら含まれた。当初はむしろ、燐を守れるぞと唆しさえしたのだ。その燐の正体を知っていながら。騙したようなものだ。
 彼の甘言に奮起し、最年少で祓魔師になってしまうほど頑張った息子に、実は一番守りたいって言っていた相手は悪魔でした、と言えば動揺もするだろう。祓魔師なんて辞める。今まで僕を騙してたんだ。父さんのウソつき。その程度の罵詈雑言など、覚悟の前。最悪家を飛び出して、そのまま行方も判らずン十年、とそんな展開まで覚悟した。
 伝えた後はそりゃぁ居心地が悪かった。雪男は失神でもしたんじゃないかと心配になるくらい、固まって動かなかったし、一言も喋らなかった。まるで非難されてるように感じたものだ。いきなりにしたって、言い方が悪かったか? それでも、いつかは真正面から向き合わなきゃならねぇ。俺から聞くのと、他人から聞かされるのと、予備知識なく目の当たりにするのと、どれが良かったか……。どれも最悪なら、せめて俺の口から伝えたかった。ったく、ガラでもねぇことすっから、失敗すんだよな。獅郎自身打ち明けたのを後悔し、息子にどう取り繕うかと悩んだのは、墓場まで持って行く。親としてのせめてもの意地だ。
 だが、予想に反して。いや、ある意味予想の範囲内か。優秀で真面目な彼は、その能力を遺憾なく発揮して、いろんな可能性を考え抜いただろう。嬉しくない結果まで、具体的にシミュレートしたはずだ。その上で、祓魔師は辞めないし、たとえ悪魔だろうとしても兄さんは兄さんで、やっぱり彼を守りたい、と決心してくれたのには、心底安心した。
 お、ちょっと大人っぽくなったんじゃねぇ? 生意気だねぇ。ファイルのタイトルを読む横顔を見る。
「神父さん、終わったよ」
「おう、じゃ、あっちの薬草の整理頼むわ」
「はい」
 山のように積み上がった袋と、空き容器。ぼんやりとそれらに手を置いて、ふぅ、と溜め息を吐く息子を見ていたら、なんだか元気付けてやりたくなる。と言うよりむくむくといたずら心が沸いた。
「なんだ、不景気なツラしやがって。悩み事か? ん?」
「何でもないよ」
 困ったような顔をした。
「何でもねぇってこたぁねーだろ? なんだ、コレか?」
 小指を立ててみせる。
「ちが……、何でもないってば」
 真っ赤な顔をして、必死に否定されると、余計にからかってやりたくなる。お前、イジられ素質あるぞ。判ってねーだろ?
「卒業式で好きな子に、ボタン渡しそびれたか?」
 頭を抱え込んで、天辺を拳骨でグリグリと小突く。
「痛い、痛いってば!」
「お前ももうそんな年頃かぁ。そういや、俺の秘蔵のエロ本、お前持ってったろ?」
「知らないよ! 痛いってば!」
 獅郎の腕から逃れようと、ジタバタ暴れる。だが、まだ力じゃお前にゃ負けねぇよ。
「嘘つけ。真面目な顔して本当は興味あるんだろ? イイお姉ちゃんの店、連れてってやろうか?」
「子供になに言ってるんだよ! 本当になんでもないから!」
 ポカポカと獅郎の腕や背中を叩いた。
「お? なんだ? 燐に続きお前もやっと反抗期か?」
 がはは、と笑いながら愛しい息子の頭を離す。鼻先を掠めた体臭が、柔らかい子供の匂いから変わったと思う。ずいぶんと大きくなったな。高校生になったらまた背が伸びるだろう。って、ちょっと待て。俺より背、高くねぇか? え? 俺、抜かされた? マジかよ? 十五年。随分時間が経ったとしみじみ思う。
 何時までも親父にくっついてる歳じゃねぇか。
 乱れた髪の毛を苛立たしげに整える様は、双子の兄の仕草とそっくりだ。
 やれやれ、歳喰うワケだぜ。妙に涙モロくてしょうがねぇ。身体も体力も衰えるっての。いや、だからってまだ負けねェよ?
 いつまで彼らを見ていられるかと思う。一緒に酒が飲めたら、この上なく幸せだろう。その頃には二人ともどんな大人になっているんだろう?
 だが。恐らくそこまでは居られないかも知れない。
 そう思ったら、急に堪らなくなった。決心はしていたはずだ。来るなら来やがれ、と半ば捨て鉢な感じで思っていた。だが、心のどこかで来ないでくれ、いや、もしかしたら来ないのかも知れない、などと甘い希望も持っていた。真面目な話、残された時間はもう長くはないのかもしれない。それなのに、親として息子の悩みすら解決してやれてねぇ。
 と言ってもなぁ。
 獅郎は溜め息を吐く。
 親がどんなにヤキモキしても、口を出しても、そう上手くは行かないのが、子育てってやつだ。お、今良いこと言った。俺も大人になったよなぁ。
「お前、まだ燐と話せねーのか?」
 購入した薬草を紙袋から取り出して、乾燥剤とともに瓶に詰め替え、ラベルを書き込んでいた雪男が、一瞬手を止めた。ちょうど手にしていたのがニガヨモギ――苦悩――なんて、ホント出来すぎだ。
「別に…、そう言うわけじゃ……」
 振り返りもせずに言う言葉が、少し震えている。
「フラれっぱなしか?」
 からかう調子の裏で、溜め息を吐きたかった。あー、タバコ吸いてぇ。こんなマジな話、タバコや酒が無くて出来るかってんだ、チクショー。
「なにそれ」
 はは、と笑った声が苦い。
 燐は彼の思うように力が制御できない上に、事態もややこしくしてしまうことが多い。反抗期と言うよりは、上手く行かなくて、苛立っているのだろう。ここ数年は、ほとんど不機嫌にむっつりと黙り込んでいる。こっちから話し掛けても、うるせーと返ってくる。取り付く島がない、と言う状態だ。
「僕、どんな顔していいか……」
 燐が普通の人間ではないと知った動揺を悟られるのを恐れているのだろう。祓魔師を続けると決心してくれた雪男なら大丈夫だと思っていたが、やはりまだ子供だ。少し荷が重すぎただろうか。
 このまま春になったら、二人はもっと疎遠になってしまうかもしれない。
「ツレーな」
 ぽんぽん、と頭を優しく撫でる。どこか遠くを見つめる雪男の苦しげな表情に、上手い言葉など一つも出てこなかった。気まずい沈黙が落ちる。
 オイ、なんだこりゃぁ。
 こう言う時ゃぁよ、なんか気の利いた言葉の一つも掛けてやるもんじゃねーのかよ。人を救う聖職者なんて偉そうな肩書き持ってたって、何にも言えねーんじゃなんの役にも立ちゃぁしねぇ。
 苛立たしくも情けない気持ちで、獅郎は雪男の頭を抱いて、肩を叩いてやるしか出来なかった。
 
 
 最近、子供の頃の彼らばかりを思い返す。
 クリスマスの真夜中のミサで侍者をやらせた時なんぞ、俺の説教の時は祭壇横の侍者席で、二人して仲良く居眠りしてたっけ。時間も時間だからしょうがないのだが、ふらふらして椅子から転げ落ちそうになってた時は、説教しながら冷や汗ものだった。それが、俺が話し終わるタイミングで、ちゃんと目を覚ますから感心した。
 あいつら、気づかれてないと思ってるかも知れないが、目の隅でちゃんと見てたぞ。って言うか、あれは信者さん達もチラチラ俺の後ろを見るから、バレバレなんだよな。
 燐は居眠りから覚めても堂々としたもんで、もうちょっと悪びれろよなぁ、と思う一方、雪男の方はアワアワと慌てるので、もう少し図太くてもいいぞ、とおかしく思ったものだ。
 そういや、七五三で羽織袴、下駄を履かせたっけ。下駄で上手く階段を下りられなくて、燐が思い切りよく転げ落ちたときはどうしようかと思った。
 って、おいおい、何コレ。ちょっとヤバいだろ。やっぱ歳取った? 何、死ぬの? 早めの走馬燈? 冗談じゃねぇ。
 ばたん、と乱暴に扉を閉めた音に、我に返った。
「おう、燐。おかえり」
 むすっとした顔をした双子の片割れが、苛立った様子で南十字修道院の食堂に入って来る。内容が全く頭に入っていなかった新聞を畳みながら、こちらはめっきり口数が減ったと思う。
 『良いことのために使え』
 かつて俺は、抑えの効かない力を持て余していた幼子にそう言った。
 以来彼は自分のその言葉を守ろうと、努力してきた。だが残念ながらそれ以降も上手く行ったことは少ない。制御できない力に次第に苛立ちを募らせるばかりだったようだ。結局、中学を卒業できたのが不思議なくらい、学校をサボった。学校の方も、厄介払いとばかりに卒業させたのかも知れない。
「ずいぶん早いお帰りだな?」
「るせーな」
 ニヤリと笑いながら言えば、ムキになって言い返す顔は小さい頃と全く変わらない。
「その様子じゃ、またクビか?」
 燐が図星だと判りやすく言葉に詰まる。
 彼の成績で進めるほどの高校はなかった。彼は職を探し始めるが、なかなか見つからない。試用期間で入っても、何かしらトラブルを起こして長続きしなかった。
「しょーがねーだろ! 万引きしてる奴らが……」
 モゴモゴと口ごもる。言葉よりも手が先に出てしまうが、本来はまっすぐな子供だ。だが、その熱い思いは上手く外に出てくれない。他のやりようも知らなくて、真っ直ぐは真っ直ぐなままぶつかっていくしか出来ない。結果、彼が悪い、と言うレッテルを貼られる。
 獅郎も本人以上に歯がゆくて、悔しい。
 小さい頃は、雪男と同じでとうさん、とうさん、と懐いて弾けるような笑顔を向けてくれていた。今ではそれがぶすっくれた顔しか見れていない。心から幸せそうに笑う、お前の顔をもう一度見られることはあるのだろうか。って、縁起でもねぇ!
「しょうがねぇことあるか。ケンカばっかりしやがって」
「わかってるよ!」
 俺の子供の何が悪いってんだ。この子の良さを判らない、お前らが悪い。そう怒鳴ってやりたい。一方で、やり方を知らないとは言え、加減して歩み寄ろうと言う姿勢がない燐も同罪と言えば同罪だ。
 だが、それをどうやって教えてやればいい?
「判ってるって、クチばっかりじゃねーか」
「うっせーんだよ! クソジジィ!」
「燐!」
 止める間もなく、燐は怒鳴ると食堂を飛び出していった。そのはちきれそうな思いを抱えた背中を見送りながら、一つ溜め息を漏らす。
 まったく、上手くいかねぇなぁ。
 助祭の長友がバタバタと走り去る燐に、廊下を走らない! と怒鳴った。遠くから、雪男の兄さん、と呼び止める声と、それにうるせー、と怒鳴る燐の声が聞こえた。どうも相変わらず進展はないらしい。
「燐は相変わらずですね。藤本神父《せんせい》」
 戸口で燐を見送りながら、事情を察したのかニヤリと笑う。面白がってるな、テメー。
「親ってなぁ、切ないねぇ」
 事情をはじめから知っている彼の前では、誤魔化すことも出来ない。仕方ないので、こちらも冗談交じりにぼやく。
「あいつ何にも喋りやがらねぇ。なんか言ってくれりゃぁ、こっちもやりようがあるんだがなぁ」
「おや。何も言わずに飛び出していっちゃぁ、あちこちほっつき歩いて帰ってきやしない誰かさんの世話をする、我々の苦労が判りましたか」
「なっまいきだな、オメー」
「神父の教育の賜物ですよ」
 済ました顔をする長友に、負け惜しみで鼻を鳴らした。こいつと他の修道士たちが居りゃァ、ここの事は安心だ。目下の心配事はやはり子供たちのこれからだ。
 ホント、上手くいかねぇなぁ。
 『だから反対したじゃありませんか』
 メフィストのそれ見ろ、とあざ笑う顔が簡単に思い浮かんだ。
 『アタシを投げ出して……』
 『まともに何かを育てられるような人間じゃない』
 シュラが投げつけた言葉が改めて刺さる。
 だな……。
 冷徹で最強の聖騎士と言われた俺も、子供には形無しだ。
「あー、クソ」
 ガリガリ、と頭を掻く。
 自棄になって、十五年続いた禁煙を破ってしまいたい気持ちだ。なんか、胃が痛くなってきた。
「おや、胃に良いお茶でも淹れましょうか?」
 腹の辺りを擦った俺を見て、長友が言う。修道院で自分たちのために作っているもので、健胃成分を含むニガヨモギが入っている。くそ、またか。
「普通の茶にしてくれ」
 長友が人の悪い笑みを浮かべて、独特の臭気を持つ茶をかたりと目の前に置いた。本気かよ。茶を吹いておっかなびっくり啜った。
 子供の頃のことばかりを思い返すのは、今の彼らにどう接して良いか判らないから、なのかもしれない。
 やっぱり走馬燈かも? と言う不吉な思いを慌てて打ち消す。
 俺の夢は、あいつらと酒を一緒に飲むことだぞ。
 その頃には、お前らどうしてる?
 雪男は祓魔師でも、そこそこ良いところ行ってるだろう。燐は? メシ作るのが上手いお前は、定食屋ででも働いてるか? 雪男が本当は祓魔師だと、いつ話せばいい? 燐はまだ覚醒しないままだろうか? 悪魔の力を持つのだと、いつ話せばいい? 雪男に話したように、燐、お前にも俺が伝えてやりたい。出来るだろうか?
 燐が悪魔の力に目覚めていたら? 泣いていないか? 怯えていないか? 二人で一緒にいるか?
 願わくば、子供達が笑っていてくれればいい。
 ままならないこと、悔しいこと、腹立たしいことがどれだけあっても、笑い飛ばして、強く生きててくれればいい。この世には嬉しいことも、幸せなこともあると知ってほしい。
 ただ一つ親らしいことをするなら。
 俺は、彼らの幸せを願ってやまない。
 苛酷とも言える彼らの運命を知っていながら。叶わないかも知れない、そう知っていながら。それでも。
 『ビビったのかよ』
 シュラの言葉だ。俺に何かあったときには、燐を頼むと話しに行ったときのことだ。
 ああ、そうだ。ビビってるんだよ。怖くて堪らねぇんだ。
 あの子達がもう大丈夫だと判るまで、守ってやれないかも知れないことが。ずっと見ててやれないかも知れないことが。
 だから。
 取れる手段、ツテは全て頼った。
 きっと俺を憎んでるだろう、教え子にも頼った。彼女とは、かつて任務の途中で出会った。小さな子供だった。放っておくわけにも行かず、仕方なく拾って、適当に途中まで面倒を見たが、後は正十字騎士團に丸投げしてしまった。そんな仕打ちをしたのに、別の子供のことを頼むなんて虫の良い話だ。
 それでも、頭を下げた。卑怯なのは判ってる。
 自分がいなくなった後、燐がいつ悪魔として覚醒するか判らない。雪男には悪魔として覚醒するような兆候はない。だが、いずれ力に目覚めるのか、まったく力を持たないままなのかも判らない。この状況の共犯者でもあるメフィストは、彼らをただの駒としか思っていない。利用価値のある間は、保護でも何でもしてくれるだろう。だが、あの子供たちが大人しくしている訳がない。メフィストが当てにできなくなった時、彼らの力になってやれる人間が必要だった。そんな状況では、彼らが採れる手段もそう多くはないだろう。それでも、最大限の選択肢は残してやりたい。
 他に誰が居る? 何が必要だ? なぁ、誰か答えを知っているか?
 ああ、親ってのはここまで取り乱すもんかねぇ。
 それでも。子供たちの前ではけして見せない。それが親ってもんだ。どんと構えてて、強くて、頼りがいあるってとこ見せとかねーとな。いつまでいられるか判らない……、おっと。縁起でもねぇ。
 
 
「神父さん」
 朝の礼拝が終わった後、思い詰めたような顔の雪男が話しかけてくる。片割れはまだ寝ているのか、それとも飛び出したまま帰ってきていないか。
「なんだ、腹でも壊したのか? 梅酒飲め、梅酒」
「未成年に酒勧めないでよ」
 溜め息を吐いて、メガネを一つ押し上げる。
「あんなの薬だ、薬。酒になんざ入るか」
「あれで酔っぱらってたの誰だよ」
「ばぁーか。塩梅だよ」
 にゃははは、と笑って頭をグシャグシャと撫でてやった。
「ちょ、まじめな話なんだよ!」
「懺悔でもしてぇのか?」
 御堂の片隅にある、焦げ茶色の小さな告解室を親指で指す。息子はううん、と頭を振った。もう自分よりも上にある肩を叩いて、会衆席に座らせる。その隣に自分も腰掛けた。
「僕…」
 しばらく逡巡した後、膝の上で組んだ手を見ながら、重々しく口を開く。いつの間にか、少し声変わりもしたんだな。少し掠れたような低い声に気がつく。そう言えば、燐も随分と低い声になった。
「高校辞めようかと思うんだ」
「はぁっ?」
 俺は礼拝堂に響き渡るほどの素っ頓狂な声を上げた。雪男は真剣な眼差しを解かない。
「またまたぁ。なんだよ、エイプリルフールにゃまだはえーぞ?」
 からかうように言った俺を、雪男は一睨みした。お前、いつの間にそんな目付き……。結構凄い迫力で、父さん、ちょっとビビリそうになったぞ。
 じゃない。イキナリ何を言い出すんだ、お前。特進科に受かって、奨学金も貰えるのが決まってるんだぞ? ヒビの入った兄弟関係に悩むのは判るが、何を犠牲にしようとしているのか、よく考えろ、息子よ。て言うか、この時期に言うか……。そこまで思い詰めたかと、少し状況を軽く見ていた自分が情けなくなる。そしてどうしたら良いかと頭をガリガリ掻いた。
「お前、祓魔師続けていくんだろ?」
「だからって、正十字学園の生徒でなきゃならない訳じゃないでしょう?」
 歳をとってから祓魔塾に入る例もあるし、稀に正十字学園以外の生徒が祓魔塾に通う例もある。だから、正確には正十字学園の生徒でなければならないわけではない。だけれども、事情を判っている正十字学園で過ごすのと、理解の欠片もない――かもしれない――学校で過ごすのと、どちらが環境として理想的かは言うまでもない。
「だけどな。実戦訓練に呼び出される候補生《エクスワイア》じゃねーんだぞ? お前。祓魔師、金を貰うプロとして呼び出されるんだからな。学校の事情なんて聞いてもらえないだろう。学校側だってしょっちゅう早退したり、休んだりする生徒をどう思うか」
「わかってる」
 即座に返してくる息子に思わず苦笑する。多分色んな可能性を考えただろう。
「わかってねーだろ」
「わかってるよ」
「なに言ってんだよ。文化祭とか、修学旅行なんてイベントも経験しねーで良いのか? 体育祭とかで部活で、雪男クンカッコイーとか言われんだぞ? 可愛い女の子と出会いもないままで良いのか? え?」
 ゲラゲラと笑いながら、獅郎の説得に不満そうな息子の肩をばしばしと叩く。そんな寂しい青春、父さん送って欲しくないぞ。
 真面目な話、問題はまだある。彼のように高校から奨学金を受ける場合、いわゆる然るべき機関への申請は中学校が行う。だが、申請期間はとうに終わっている。緊急の申請と言う手段もなくはない。だが、そもそも一旦受験して合格した学校を、入学直前に辞退する理由がない。更に言えば、正十字学園が提供する独自の奨学金は、法人が用意するそれと較べても、学資金の額そのもの、そして返済条件などに格段の差がある。
「大体もう受験なんてどこも終わってるぞ? 今から高校探すのか?」
「高校なんて行かなくていい」
 兄さんだって行かないじゃないか、と来た。アホ、鬼の首でも取ったみたいに言いやがって。
「バカ言うな。俺だって燐が行けるなら、高校に行かしてやりたいんだぞ」
 本人はすっかりそんな気はないようだが、獅郎としては燐にも青春てヤツを謳歌してもらいたかった。出自と言う問題にいつかは対峙しなくてはいけない。避けられないなら、せめてもう少し先にしてやりたかった。
「だって」
 雪男がもごもごと口ごもる。
「…なんだ」
 吐き出すように、それでも良いのか悪いのか迷うように小さな声だった。聞き取れなかったと思う前に、一度口にしたことで肩の荷が下りたのか、雪男がはっきりと言いなおした。
「兄さんとこのまま口も利かないなんて、イヤなんだ」
 ぎゅっと手を固く組む。その手を睨みつけるように雪男は俯いたままだった。
「兄弟だからって、仲良くなきゃいけねーワケじゃねーんだぞ?」
 自分の息子たちが仲違いしたまま、なんてのは自分が一番見たくなかった。でも、そう言う関係だってある。人間だもの。あ、俺良いこと言った。
「そうかも知れないけど。でも僕はいやだ」
 雪男がふるふると頭を振った。
「全寮制だよ? 行ったらきっと疎遠になる。そうしたら、帰ってきてももっと喋れなくなる」
「そう思ってりゃ、いつか通じるさ」
 燐だって、時間をかければ気の置けない仲間だって出来る。力の制御も覚えるだろう。ギリギリまで俺がみてやるつもりだ。もともと性格だって捩れているワケじゃない。もう少し時間が経てば、苦労した分、良い感じに丸くなってるかも知れない。
「折角受かった高校辞めるほどじゃねーと思うぞ」
 大人の事情がその裏にあるのは、黙っておく。おっと、誤解のないように言っておくが、正十字学園への合格は、間違いなく雪男の実力だ。奨学金の審査にも問題はない。ただ返済条件について、ちょいと俺がメフィストを突っついた。そのせいで変な任務を押し付けられたが、それ位、可愛い息子のためなら屁でもねーってヤツだ。将来返済のためにあくせくと任務を受けるなんてことになって欲しくない。
 ただ勉強と知識と経験があれば祓魔師になれるんじゃない。悪魔を祓うだけが祓魔師じゃねーんだぜ? 俺は、お前にも人らしい喜びと充実感ってのを感じて欲しいんだ。人の心が判らなければ、悪魔は祓えない。力や武器や、詠唱だけじゃない。心から悪魔を取り去ってやるのが、祓魔師だ。だから、そのためにも若さと青春ってヤツを楽しめよ。お姉ちゃんはいいぞぉ。
 じゃなかった。顔を引き締める。
「お前が嘘のない態度を取ってれば、あいつもちゃんとわかるはずだ」
 雪男がうっかり漏らした、ホント? と言う、か細い裏返ったような声は、幼い頃とそっくりの甘えた口調だ。見た目だけは大きくなったが、まだまだ子供だな。天才少年祓魔師なんて言われて、祓魔現場で見せる大人びた顔とは大違いだ。獅郎はぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「燐を心配する気持ちは判る。だけどお前が今やらなきゃならないのは、決まった高校を辞めることじゃないだろ?」
 でも、と雪男がまだ迷ったように口ごもる。
「燐が聞いたら、どう思う?」
 ぴくりと肩が震えた。燐はけしてそんなことを望まないし、燐の傍にいるために高校を辞めた、などと聞いたら、自分を責めてしまうだろう。
「まだ学校始まるまで何日もあるぞ。まだ出来ること、あるだろ?」
 雪男が鼻を啜って、うん、と頷く。ぐ、と腹を据えて前を向いた顔は、すっかり男の顔だ。ホント、でかくなったなぁ。
「神父さんの言うとおりだ。僕諦めない。――だから」
 最後の一言だけ小さくて、聞き落としそうになった。えーと。お前今、好きって言った? 聞き直しそうになったのを、何だか聞いてはいけないような気がして、止めた。
 イヤイヤ。ちょっと待て。なんで俺、おかしいと思ってんだ? 家族なんだから好きで当たり前だろ? でも、ちょっとそれ以上の感情が入っていたような……。って、バカだな。流石にまだ耄碌する歳じゃねーだろ。しっかりしろよなー。
 バカバカしい、と打ち消そうとして見た雪男に、ぞくりと怖気を奮う。決意も新たに、晴れ晴れとした顔をしている。なのに、なんだか変な気配を感じる。
 あの、さ。お前、何する気?
 って言うか、お前。燐に話し掛けたいけど、動揺を悟られるんじゃないかって心配してたんじゃねーの? 違うの?
 イヤイヤイヤ。恐ろしい想像がふっと浮かびかけたが、深く追求できなくて、慌てて打ち消す。ないない。んなワケねーって。
 ちらりと見た雪男は、なにやら考え込んでいるようで、ブツブツと一人ごちている。その『良し』って何? 何が良いワケ? お前、変なこと考えてないよな?
 十五年か。子供たちは知らない間に大きくなった。そして、あっさりと、自分の手から予想だにしない方向へ離れていく。ホント、子育てって思うように行かない。あれ、そんな感じでまとめて良いとこか? これ。いやでも、なんかあんまりはっきりさせたくないんだけど。
 なぁ、それ。家族としてってことだよな? な?
 ちょっと、父さん心配なんだけど。
 
 
 その後も相変わらず、雪男は燐となんとか話そうとしている。何かと暇を見つけては兄の後を追い掛け回しているようだ。燐の方は不機嫌なままだ。
 でも、ちょっと二人の雰囲気が変わった……ような? イヤイヤ、ないない。
 幻のような雪男の一言で、そんな風に見えてしまうだけだ。
 きっと。はずだ。な? そうだよな?
 獅郎は全く頭に入ってこない新聞を捲りながら、深く深く、溜め息を吐く。そして、長友がおもしろがって出す、ニガヨモギの茶をおそるおそる啜った。
 ホント、子育てって思うように行かない。
 
 

–end
せんり

 
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 【wormwood】ニガヨモギ。苦悩。花言葉は『別れと愛の苦しみ』

 ――ランダムハウス大英和辞典

 お疲れ様でした。
 自分が藤本神父を真面目にすると、凄い大変な重い話になってしまうので(それはもう、力不足で……orz)全編ギャグっぽくしてみました。
 お父さんは、多分彼らのことを知ったら、有り得ないほど怒ったと思いますが、互いの決意を試すつもりで、むしろ心の底では許しててくれるんじゃないかと。あれ、ドリーム入りすぎですかね。