魔法のくすり

 病ネタはテッパンかと。
 奥村兄弟は敢えて無茶と茨道を選ぶような気がします。そして、お互いに何かの力を借りないと踏み込めないようなところに激しく萌えます。
 雪男は薬に関して調合とかにこだわりを持ち、オタっぽさを発揮してくれないかなあ、と思っていますが、…どうだろう? 使う相手が兄だとぞんざいっぽいような気もします。愛故に。

 

【PDF版】魔法のくすり

 
 
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 子どもにとって、母親の手は『魔法の手』なのだそうだ。
 触れられると痛みが消え、熱は冷め、苦痛による不安も和らげられる。万能の偽薬のようなもので、しかも、侮れないことに有効性は一生だったりするらしい。
 愛情のこもったやさしい手だからだろうか、掌は大人の男の手でもやわらかく感じられるところだからだろうか。
 母親のいない僕にとってそれは、間違いなく、獅郎神父《とう》さんと兄さんの手だった。
 
 
 注射などの予防をしても、罹患する病というものはある。
 僕はそれがはしかでなくて本当に良かった、と思うことで気を紛らわせている。そうでないとどちくしょう、と口から漏れそうで、悔しいというか、苦しいというか、何やら負けたような気分になるからだ(病気に負けるも何もないけれど)。
「…っ」
 流行性感冒、俗にいうインフルエンザウィルスは、気温が下がって空気が乾燥した状態で広がりやすい季節的なものが一般的に知られているが、型や媒体によって基本的に季節を問わなかったりする、というのをテキストの頁に覚えている。いや、あれは一般書だったかな。
「…あ。起きたな」
 かたりと音がして、ぼやぼやした視界の向こう、物陰が動くのが見える。兄さんだ。
「なんだよ、その手」
 薄っぺらいような眠りの中で本を開いていたものだから、手は重いなりにも持ち上がって空に頁を開いていた。
「……」
 喉が痛いし、怠いしで喋りたくない。もぞもぞと枕元を探ったけど目的の眼鏡は手に触れない。
「…ま、まあ、うちのクラスも休みになったし」
 兄さんの顔がよく見えない、けど声は気遣っているように聞こえた。小さい頃、よく寝込んでいたから僕の看病だけは慣れている。腕を撫でさするように近寄ってくると顔を覗き込み、目が合ったところで飲みモンは椅子んとこな、と机から寄せてきた椅子を示す。
「シート取れちまってんな」
 伸ばした手は顔を越えて耳の横に降りる、下膊がひたりと頬に触れていった。
「――」
 なんだっけ? なにかのイメージが頭を過ぎるけど、記憶の奥から浮き上がりそうで出てこない。
「雪男?」
「…痛いんだよ…」
 突発的に発症した伝染病は、校内で猛威を振るった。まだ冬とはいえないけど、天気は急に冷えたり暑いほどになったりしたしで巷でも調子を崩すというひとは多かった、天気図に予防もそろそろかなと自分自身思っていたくらいだ、今年は季節が回るのが早い。インフルエンザと聞いてまずとった行動は口を塞いで学校を飛び出し(兄も忘れず)、病院に駆け込んだことだった。それから段々と記憶は曖昧になってくる、暗くなってはいないようだけどいま何時だろう。
 起き上がって、隅に追いやられた眼鏡を取った、呻くように声を喉から絞り出す。とにかく体中が痛くて怠い。
 喉の痛みもまさかインフルエンザとは思わなかったら任務にすら行っていた、物を考えられるくらいには頭はぼやけていないけど熱が上がっている自覚がじゅうぶんにある今がピークなんだろうなと思う。
「はー…」
 重たい体をどうにか動かして水の横に置いてあるスポーツドリンクを手に取った。飲み込むのに苦労したけど冷たくてほっとする。
「どうよ?」
 黙ってスポーツドリンクを突き出す、兄さんはへいへいと受け取ると置いてあった場所に置く。何をしていたのかとこっちが聞きたい。
 罹患した殆どは一年生で、一泊二日の研修旅行が原因ではと言われているが、特異性のある型でもなく実際のところは分からない、学校側は直ちに症状の出た生徒を隔離、一部のクラスを封鎖し、全校生徒の診断を行った。正十字学園は全寮制なため、伝染病には良くも悪くも反応が早い。運悪く、僕と神木さんが感染していた。悪魔を迎え撃つ人間のウィルスってのもないとは思うが、塾も休みだ。その伝染病の類いに縁もゆかりもない理事長のフェレス卿はこれは手強いですね、と感心したように言っていた。
「飯食って、薬飲めるか?」
「…飲みたくない…」食べたくもない。
 兄さんはわざわざかけた眼鏡を取ろうとしながら苦いような、困ったような顔をする。
「我儘言うな。治んねーだろ」
「…りは、…をいうから…」
「あん?」
 クロか?と見当違いな返答をされる。奪い去られそうになる眼鏡を相手の手ごと掴むことでどうにか食い止めた。兄さんの手は生ぬるくて、指先とつめがひんやりしている。
「病院で、注射打ったじゃないか…」
 喉がちりちりする。
「あれは栄養剤だって。寝て食って、飲んで、…とにかく寝てろって、お前、聞いたの忘れたのか?」
「副作用とかイヤなんだ」
―――麻酔剤《ねむりぐすり》は譫言《うわごと》を謂《い》うと申すから、それがこわくってなりません。
 触れている手は気持ちいい。
 からからと音がして、女の人の声は凛と言う。鏡花のあの話はなんといったか。
「だあああああ…」
 がたんと床に音を立てると共に、これだから無駄に頭のいいやつはよう、と兄さんは不可思議な声を挙げる。いや、まったく無駄じゃないから。
「…っ」
 喉が痛い、でもなんだか向こうに見えるふわふわした尾が愉快だった。と、溜息が聞こえた。
「無理しやがってなー」
「……」うるさいな。
 兄さんは眼鏡を抜き取ると弄ぶように掴まれた手を振り、二三度ほど握り返してきた。やがてするりとゆびさきが抜ける、手はゆっくりと頬に額に触れてきた。熱が奪われていくような気がする、少し呼吸が楽になって、深く息が吐ける。
「お前がぶっ倒れても、まあやさしい兄ちゃんが担いで帰ってやるけどな」
「……」それは御免蒙る。
「たまござけ」
 膝立ちにシーツに頬杖をつき、小さく笑う。
「…酒だって」
 卵酒は修道院で誰かが倒れると必ず兄さんに求められるメニューだった。薬餌においてアルコールを禁ずるようなところでもなかったので(そもそも神父《とう》さんは酒が好きだった)、一度覚えるとやがて個々に合った配分をやり始め、いまでは人数分のレシピがちゃんと頭の中にあるというのが自慢だったりする。
「特別なの作ってやるよ。そんでいっぱい汗かいて寝ろ」
「…解熱の薬効がある生薬を三つ挙げなさい。答えられなければ奥村君、眼鏡を返してください」
「断る」
 このやろう。
 
 
 『断る』
 いつか言ってみたいと思っていた言葉に軽く酔う。いいねえ、笑いすら出そうだぜと思いながらインフルエンザによってぐだぐだにされている雪男を見ると、熱のせいでいささか締まらない顔をしながらもちゃんとむっとしていた。
「お前、治す方になりてーのにな」
「……」
 起き上がっても体は徐々に前のめりになっていて折れ曲がってぱたりといきそうだった。どれだけ熱いものかと肌に触れると、当たり前にいつもよりも熱かった。雪男はうぅ、と嘆きに似た呻きを漏らす。弱ってんなー、認めないだろうけどな。胸の内で早くよくなるよう祈り、弟の病を嬉しがるわけでは決してないが密かににんまりする。
「何もやらかしてねーぜ?」
 額からこめかみを指のはらで撫でていって汗を拭ってやる。小さい頃、よくこうしていた。デジタルでも体温計を信じなかった父親の真似だが、そうすると弟は安心したような顔になって眠ったから。
「兄さんじゃ、あるまいし…」
「病気の寄りようがねえだろ」
 冗談めかして返す。髪質は同じだと思う、肌も、目の色も。違うのは雪男がこの先、何にだってなれるということだ。
「悪魔がムカつくのもこんなときだね…」
 手を払いのけられた。寝起きに風邪も加わって、地響きのような重低音が聞こえてきそうなほどに弟は機嫌が悪くなっていた。睨みつけまではしないが、とはいえ反応はとても小さく、暗いところにでも沈んでいるかのような静けさがある。
「眼鏡返して」
「断る」
「…見えないんだってば」
 いくらか覚醒したのか、発音が明瞭になってきた。ときおり撚れそうな声に力はないけれど、汗を拭き取るタオルを手に、貼り替えるシートを見せると素直に受け取る。
「貼ってやろうか?」
「結構」
 意趣返しなのかつれない返事で、雑ではあるがてきぱきと額にシートを貼り付けると雪男は背を向けて横になる。ぴしゃりと見えない幕を下ろされたような気になった。
「雪男」あのな。
 気が付くと口から出ていた、燐としては雪男に話しかけるつもりなどなかった。弟の要望を聞いて逆に無茶をしないか見張って、ついててやろうとは思うくらいだったから、我ながらびっくりする。
「…なに」
「あ、いや、嘘。違くて」
 雪男は濁そうとする言葉にきちんと反応し、ごろりと寝返っては潤んだような目を向ける。近くないとぼやけてわからないだろうが、どうにか燐の表情を読み取ろうとしているのがひたりと逸らそうともしない視線で分かった。
「……」
「なに、兄さん」
 地鳴りじみたものが肌に感じられる。白状しろ、と怒らないから言ってご覧、とゆっくりとした口調に病人に圧力をかけられているような気がした(しかも弟だ)。
 仕方なく、その場に座り込んだ。
「その、俺のせいでたぶんいっぱい泣かしたりしたんだろうけどさ、そういうとことか嫌ってるかも知れねーけど、兄だから許せとは言わねーよ」
「許せとか許さないとかないでしょ」
 どこからか取り出したスペアの眼鏡をちゃっかり装着し、何を言っているのだという顔だ。
「嫌われたり、怯えられるのはヤだけどしょーがねえと思ってる。お前が、俺のこと憎むくらい嫌ってても」
「……」
 顔を見ていられなくなって視線は俯く、風邪を引いているだけで雪男の態度はいつもと同じだ、変わらないのに、何気ない言葉に刺された。言わず隠され続けた本心は溶けもせず滲み出、ぽたりとひと滴で自分を穿つのだ。雪男にとっては自分は兄だけど悪魔だ、どうしようもないことだし、好きでなったわけでもないけれど、選択はしてしまった。
 後悔しているわけじゃない、だけど。
「嫌ってたっていーよ」
 自分はここにいていいのかと問いたくなるのも確かだった。
「…兄さん」
 ベッドが軋りをあげ、目の前の影が懶く動く気配がした。
「き、兄弟ってざかざか迷惑かけ合うもんだろ」
 こんなの、高校生にもなって言うなんて考えもしなかった。去年まで、半年前まで、考えもしなかったことは多すぎて、目がかっぽじれるものとして、大いにかっぽじっているところだ。雪男が近くにいるからブレなんて全くないように感じていた日常は、耳と尾が出現したときから変わりすぎたのだ。
「凹むけど、いい」
 にいさん、と咽せた声がする。
「俺はお前の兄ちゃんだから、弱音も文句も受け止めてやる」
「…っ」
 雪男は軽く咳をすると、じりと距離を詰めてきた。
「お前、溜め込まないで全部俺に吐き出せよ。嫌いな奴に気ィ遣う必要ねんだから」
―――ごっ!
「をふぅ!」
 強烈な頭突きがきた。
「兄だったら弟の話も聞け、バカ!」
 雪男は頭を痛そうに顔を歪めながらバカ兄が! と掠れた声で吐き捨てる。
「凹むんなら嫌われない努力をしろ! 出来ないならそんなこと言うな!」しかも石頭だし!
「…? っ?」
 頬の下とか強襲されて軽く星が飛び、訳が分からなくなる。雪男は肩を怒らせ、胸ぐらを掴まんばかりに燐に迫っている。
「兄さんが受け止めるって、そこに僕の希望やら要求は含まれないの? 欲しいって言ったら差し出してくれる? 僕だってボランティアやってるわけじゃないよ。打算だってちゃんとある!」
「ゆき…」ダサン?
 ぐいと襟元を掴まれ、顔がぶつかると思ったところで、噛まれるように唇を塞がれた。
「…んっ!」
 熱い。硬く冷たいものが当たっている、眼鏡だ。
 誰だと思う、しかし漂うのは汗というよりも雪男の匂いだとも思う。
「ふ…」
 歯列を撫で、舌が絡みつく。ふわりと意識が浮きそうになる。
「……」
 解放されて呆然と雪男を見る、思い詰めたような顔つきで濡れた唇を拭うように撫でるとすっと視線を逸らした。雪男は意味がないとか何かを呟いたようだったが耳に入らない、理解できない、痺れたような感じが頭か、唇なのか判断できなかった。
「見損なうなよ。当たり前だと思ってるし、犠牲なんかこれっぽっちも考えてない。自覚したときから見返りをふんだくるつもりでいつだって狙ってるんだ」覚悟してなよ、ほんとに。
「…雪男」
 後半の意味は、なんだかよく分からなくなっていた。だけど、脳天にビスを打ち込まれたみたいにはなった、掠れた声で怒鳴る雪男は本気が丸見えで、そうした感情をぶつけられたことが嬉しくて、ちょっと感動もしていた。
「うつれば、いいのに…」
 肩で息をしながら呟くように言う。触れられてもいないのにびくりと尾が反応した。
「雪男」
 いつしか手が握られていた、離すまいとする意思にも見えて、力が抜けそうだった。病人を激昂させてしまった、そのことは悪いと思う。だけどまだ手が震えるようで、どこか現実に戻れていない。
「その、悪ィ…」
 雪男は二度三度と咳をし、嚥下するのも苦しいかのように飲み込むと、力尽きたか応えもせず、ぼすんとシーツに撃沈する。
「えっ、ちょ、平気か…」
 恐る恐る手を伸ばしてみる、生憎怪我は得意だったが病気の類はまるで縁なく育ったので、発熱によるダメージが燐にはいまいち分からない。
「卵酒」
 身体はぐったりして見れば耳まで赤い。
「?」
「疲れたから寝る。起きたら食べて、薬も飲むから…」
 無事だ。
「お、おう!」
 両拳に力が入った、わけもなく、そうしないとこの浮ついているんだか動揺しているだか、落ち着かなく抱えた気持ちのやり場がない。伝染《うつ》るのか? オレ、インフル伝染った? と思考は迷路に陥り、しばらくお待ち下さいとばかりに黙って見守るようにしていたが、動く力もなくなった雪男は気になる。間をおいて体温にそろそろと触れる、父親がそうだから体感で伝わった温度しか信用はしない。体温計の使用は儀式のようなもので、額と掌で測る。
「―――」
 手の甲を頬に当ててみたところですうと深い呼気が聞こえた、コイツも無茶苦茶なことしたな、と息を吐き、眼鏡を抜き取りながら思う。熱が出ると箍が外れるというか、思いも寄らぬ何かが出てくるものだ。
「…びっくりした…」
 はずしてやった眼鏡を机の上に置いた。
 起動していないパソコン、吊り下げられた薬草、開いたままのノート、積み上がっている本。いつも雪男は硝煙と血と、薬品の匂いに取り囲まれている。サタンの力というものが覚醒してから知った雪男も雪男で変わらず弟だし、穏やかに鬼教師という面が加わったくらいで。
「……」
 薬液が入った瓶が光を鈍く跳ね返している。手当ての手際が良くて、たまにクロと不毛な会話をやっていたりする、燐はここの机周りの匂いも嫌いではなかった。
「あー…なるほど」考えるだけ意味がない。
 頭を振る。はっきりと分かったことはインフル怖ぇ、とこれだけだ。
 
 
 
 
  【引用】 『外科室』  泉鏡花 
 
 

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なおと