世の中を忘れたやうな蚊帳の中<燐Ver.>

 春コミで出した本の話の続き…のようなものです(クロと燐が入れ替わったアレ)。おまけは雪男バージョンですが、こちらは燐バージョン。本誌を見ているとなんつーか二人がもどかしくなります。しかし雪男があそこで燐を殴るのは大いに納得できて、すべてを恙なくまとめるには大事なことと思われます。禍根はあの二人には残るまい、違う痂は残りはするだろうけど。
 原作で雪男がどうにも苦しそうだから楽になって欲しくてこんな話を作っているのかなあとか思ったりしました。いや、まあこの兄弟が単純に萌えるってのもあるんですが。
 タイトルは『武玉川』より。わかるひとがわかったらうれしいです。本のとおりの“かや”って字がなくて(そらねえわ)、簡単な方にしました。あの中に入ったことはないのでいつかやってみたいことの一つです。
 

【PDF版】世の中を忘れたやうな蚊帳の中<燐Ver.>

 
 
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 あ、と雪男が手を上げた。
「ついてる」
 カジキのホワイトソースだ。燐の顎の下に跳ねたかしたらしかった。
「…お、う」ありがとな。
 燐は相手に視線を合わせないようにして、椅子に座る。雪男は普通に平然とソースを舐めとり、うん、良い味だよ、兄さん、と言って二人分の茶碗を用意する。
「……」
 クロの目の前に皿を置く、嬉しそうに匂いを嗅ぎ、おいしそうと尾をぱたぱたさせる。お前、違和感とかそういうのないのか? と問いたくなった。
「いただきます」
 自分の作ったオレメシも久しぶりだった。まあそう簡単に腕が落ちるわけがなく、雪男は当たり前に食うメシとして無言で食べている。
「お前さ」
 クロと燐が何故か入れ替わり、数日を過ごした後、今朝唐突に元に戻っていた。雪男は『隣の芝生は青い』ってことだったんじゃないの、とよく分からない言葉で片付けてはせいせいした顔を見せ、メフィストはにやっとまた嗤った。
「ん?」
 塾生は、やっと戻ったという顔と、少し残念という顔をした。戻ったからといってクロの何が変わるわけではないけれど、神木出雲など燐の姿を見て明らかに落胆していた。子猫丸もそうだったけど、クロと喋れるのが嬉しかったのだと燐は思うことにしている。
「兄さん、落ちるよ」
 ほら、とてきぱきと燐側の皿を引き寄せ、碗の位置をずらしてくれる。
「あの、その…」
 顔がかあっとなる、そりゃどうしたってなる。
 だけどその、構いグセどうにかしろよ、の一言が悔しいことに出てこない。
 
 この装置は言うなれば改良型の水鉄砲のようなもので、安全性は高く、火薬を必要としないのが利点ともいえますが、液薬を使用するぶん、その注意も必要です。かかる圧力も変わってくるので配合が要です。皆さんは発射された後の衝撃具合を確かめて下さい。竜騎士、騎士希望のひとは反動のダメージを最小限にするための訓練にもなります、ではまず―――
「のわっ…アホ!」
「燐!」
 机ひとつぶんにも満たない大きさの小さな装置にも関わらず、見えない速さで特殊弾が飛び出した後の反動は恐ろしく強く、見えない何かで襟首を一気に後ろに引っ張られたかのようだった。
「った…」
 目がちかちかし、頭がうわんうわんする、青白い光に目が灼かれたみたいで、燐は瞼を揉みながら身体を起こそうとする。だが、反動の衝撃をまともに受けたせいか身体の反応は鈍かった、銃に似た形状のなんちゃら装置というのの銃口からは涙のように液体が流れ、硝煙の匂いとか熱を持つとかそんな状態でないことが怖いようで、いまさらに背筋が寒くなった。
「ん?」
 ふにゃりとした何かを踏んでしまう。背中にあったはずの冷たく硬い感触はなく、むしろ、どこかやわらかいというか気の抜けたような弾力があった。
「うっわ、雪男!」
 首を捻ればすぐそこに弟の顔があった、吹っ飛ばされてかくんと膝が落ちる前、たしかに背後に誰かの気配が突き出てきたような気がする。
「確かに、遠方に照準を合わせるよう言ったけどね…」
 雪男の眼鏡は飛んでいたらしく、勝呂が拾い上げていた。
「平気ですか、先生」
「……」
 いやいや、まさかキャッチされてるとは思わないぜ、どうしていきなり受けてんだよ、と半ば呆れる思いで燐は言いたい。
「奥村君、どいて」
 雪男はどうも、と眼鏡を受け取るとかけ直し、燐が自ら動かすより先にひょいと腰を持ち上げてくれる。
「あ、と、その悪い…」
 だけどよ、ともごもごと口が動いて言い訳を探していた。
「あらァ…壊れてもうたんやない?」
「平気ですやろか」
 子猫丸と志摩が燐の使った装置を眺めて言う。液漏れしているのは燐だってマズイと思う。訓練用の固定装置なので平気でしょう、と雪男は応え、埃を払うとそれでも今日はもう使えませんけどね、と言った。この何ともなさそうで奥底が冷え切っている声色が怖い。
「何やってんのよ、アンタ」
 塾生の面々は調合した薬剤を手に呆れたように燐を見ている。しえみは一人、はらはらと燐と雪男を交互に見てはいたが。
「オレは何もしてねーぜ、あっちに映ったやつを狙って、ここにその、薬ちょこっと入れて…」
「お前な、失敗しても弾けるくらいやで? 何で吹っ飛ばされるんや」
「知るかよ、雪男の教え方が悪ぃんだろ!」
「ほんと思いも寄らないことしてくれますよね、奥村君は」配合復唱しようか。
 と、雪男は燐の頬に付いたインクを指の腹で拭うと、溜息を吐く。
「これじゃあ近場に墜落ってとこだな」
 塾のトレーニングルームの一画を使っての実践授業だった。十メートル先にスクリーンを張り、スクリーン上の映し出されるターゲットに発射、特殊弾の中にはインクが仕込まれてあり、飛散する様子をシミュレートするというのが目的だ。問題は飛距離で、各々が作った薬液で発射威力が異なるので、理想はスクリーンにヒットすること。インクの散り、威力、反動、そうしたものが体感できればいい。それくらいの分量を雪男が計算し、授業でそれぞれが調合した。しえみも勝呂もきちんと届き、志摩は届かず、とんでもない方向にインクの飛沫が飛んだが出雲もそこそこの飛距離を出しては褒められていた。
「魔法薬だけど、エネルギーとしては大きいから扱うのは実戦の十分の一以下です。いいですか? 奥村君、量を思い出して」
「へーい」
 とは言ったものの、雪男の指にこびりついたインクが目にちらちらしていつも以上に口はしどろもどろになり、奥村雪男先生は痺れを切らし、仕舞いにはやる気あるのかときつく叱られる始末。
 やる気はある、集中できなかっただけ。
 
 夕食後、我ながら珍しく机に向かう。雪男はマグカップを手に呆然とこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「すーがく」
 教科書を持ち上げながら答えた燐の声によくわかりませんが、という顔をした。失礼な奴だ。
「明日、オレ当たるから」
「…今日の反省は?」
「した。水素量を調整する魔法薬の量を間違えてました」
 燐は教科書に目を落としたままぶっきら棒に続ける。弟は量まで問うことはなく、代わりに息を吐く。
「兄さん」
 生真面目に椅子ごとこちらを向くと、顔を見ながらゆっくりと慎重に続けてくれる。が、表情の見えなそうな眼鏡の奥に今度は何があったんだという懸念がありありと浮かんでいた。
「ちょっと、熱測らせてくれる?」
 燐はねえよ、と雑に言ってノートを開いた。悲しいほどに白く、記述した言葉は実家に忘れたようで、と言いたくもなる、じゃあ取りに行けと言われても困るが、利用されないノートの無念さも分かった気がする。そもそもこれまで育った修道院を実家と言って良いのか。…っていうか、書いてねえし。
「っつーか、もうクロじゃねえんだからほっとけよ」
「ほっとかない」
 燐の側のスカスカの棚を己が埋めてやるとばかりに寝ていたクロは二人の険悪さを察知するととんと、机から床へと移動する。燐はむくれた顔で立ち上がり、ドアを開けてやる。やれやれと言いたげに尻尾をひと振りしてクロはほどほどにしろよと行ってしまう。雑に閉めたドアからみしっと音がした。
「兄さん!」
 机に戻ろうとするのを手を取られていた、こっちを向けと雪男の目は真剣で、見返せず燐の目は逸れてしまう。
「ね、熱なんかねーし、もう替わったりしねーよ」
「確証なんてないだろ? 戻ったばかりなんだ、誰だって心配するし、慎重になる」
「病気じゃねんだからヘーキだっつの」離せよ。
「当てになるもんか」
「…んだと?」
 掴んだ力が痛いくらいに感じられた。
「本当に、安心したんだ」
 びくっとする。絞り出すような雪男の声と伝わる熱意に思わず手が引く、力で弟に負けるはずない。雪男を抱えられる自信だってあるのに、それでもひんやりした相手の手を振り払えなかった。
「怖い?」僕が。
「っ…」
 耳朶にざらりと響く。
 誰が。弟が怖いなんてあるわけがない。
「僕が、兄さんが兄さんだってことを確かめたいだけだ」
 雪男は気持ち俯き加減に視線を下げると、どこか苦しげに不安になる、とか細く続ける。
「…不安?」
 腕引っ張られて痛いのはこっちなのに相手に対して燐は物凄く悪いような気になってしまう。そんな顔するな、と言いたくなる。
 クロと入れ替わった数日は同調がなんちゃらうんたらで、悪魔だから親和性がどうたら、燐にはさっぱりだが、不明な点は残るにしろ、そういう事件も起こり得りますね、みたいな感じの処理のされ方をした。メフィスト曰く、今後こんな楽しい偶然が起こらないと良いですね、と楽しいは余計だ。
―――しかし、得るものもあったのではないですか?
 そこは頷く、ありすぎた。笑いで誤魔化せないほどに、多く。
「僕は、兄さんに”夢中”だから」
 そうメフィストに指摘されたと雪男は自嘲するようにいう。黙って頬を抓ってやった。
「痛いよ」なにするのさ。
 視線が下がっていく、燐には雪男の気持ちの在処がよく分からないし、自分のことでさえ上手く処理できていない。入れ替わったのも己の自覚なしの不安定さが招いたのだと言われたら納得してしまうのだろう。考えるのは苦手だ。
「……」
 雪男、オレな。
 祈ってもカミサマなんてなんも答えないってことは知っているし、だけど、祈れば何とかなっちまうんじゃねーかなって考えるくらいには子供で、そんなとこでじたばたしてんのかなって思ったりしてる。
「なんで入れ替わっちまったかやっぱわかんねーけど」
 雪男は分かれよという顔で自分を見ている。
「なんつっか…オレ、変わんねーけど、やっぱ悪魔だし、そう思ったら雪男が違うように見えて…でも見ないフリして、したら怒られてばっかだし、雪男はクロには前の雪男のまんまだから、もしかしたら、それで…」
 言い訳みたいだ、まるで男らしくない。
「兄さんのあっけらかんとしたところに苛ついた。自分がどんな状況になってるのか判ろうともしないで、平気なフリして、無茶なことばかりして」
 全部に腹が立ったよ、と雪男は暗唱した聖書でも朗読するかのように淡々と言う、言い返すことも出来ない、罵倒されるよりも胸に突き刺さってちょっと挫けそうだ。
「それなのに、兄さんは僕を簡単に救いあげてしまうんだ」屈辱ったらない。
「…んなつもりねえよ」
 だよね、と雪男はさらりと頷いてみせる。
「そういうところに参っちゃってるから」
 まいる、と燐は口の中で反芻する。
「雪男」
「夢中みたい」
 雪男は燐に目を合わせると他人事みたいに続ける。自分の中の何かを切り落とされたような気がした、滅多にないやさしい笑みを含んでいるそれは響き方もまるで違くて、ぴりりと痛い。
「……」
 燐は、変な気持ちに気付いたとき、焦って風船みたいに膨らむのにぎょっとしては目隠しをした。誤解だ、気の迷いだと、上手く言えないけど、これまでのことも忘れたくなくて、いまを壊したくなくないから、留める方法を探した。
「オレ、は…」その。
 雪男を見た、真面目くさっているけど険しくもなく、怒ってもいない。目が合うと、小さく笑う。しかたないと許すときの顔だった。
「鏡の前に立って、向こう側に兄さんが映るんだったら、僕は引っ張り上げる」つまりはそういうことだ、と雪男は意味のよく分からないことを言う。
「兄さんが意識してるのはなんとなくだけど分かった、僕のせいかとも思ったけど、兄さんの気持ちが固まるまで僕はどうすることもできないし、…僕だって悩んだよ」
「何を」
 雪男は頭が良いから、まるで数学の難問を解くみたいに答えを出すのも早いと勝手に思っていた。じっさい、任務の現場でも指示やら判断早いし(そして反論も言うのもだ)。雪男は困った時みたいに眉を軽く持ち上げ眼鏡のブリッジを押すと、やがて答える。
「いろいろを」
―――あ。
 触れたいと雪男が言ったとき、なんで身体が痺れたようになったか分かった。知ってしまったからだ、自分と雪男の気持ちを。あのときはドキドキするとか勘違いだと懸命に自分で否定していたけど、それってしちゃいけなかったんだなと燐は思い知る。
「兄さ…」
 噛みつくようにして相手の口を塞ぐ。掴んでいた手の力が緩んで、だらりと下がる。
「オレさ、お前の兄ちゃんだけど、こうしていいのか?」
「いいんじゃない? 僕は大歓迎だし」悪魔でも。
 雪男の手が伸びきて、頬に触れる。返されたことにほっとした。
「いいのかな?」
「うん、今回のことで覚悟はそこそこ出来たし」
 僕はね。と自信たっぷりに言う雪男を見てなんだか可笑しくなる、こんな滅茶苦茶なこといいわけあるかよ、と言いながらも内心であー戻れてよかったなーとつくづく考えた。
 
 

 120319  なおと