黒バス_07

 
※続きものの赤黒です。
※あってもなくてもいいこれまでのあらすじ↓
※WC後、黒子が洛山メンバーズの目の前で階段から落ちて記憶を失いました。
※赤司さんが面倒見てます。
 
 
 

【PDF版】<<※作製は未定です>>

 
 
 
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綺羅とノンフィクション

 
_03

 中学の頃、黒子テツヤは七不思議に数えられていた。
 彼が怪談を作り上げたでもなくて、結果的になってしまったというだけで本人は困るような困らないような様子で図書室にいて、体育館にいた。まともに話したのは確か体育館でだったと思う。ボールに対して掌が小さく見えた、握力もなく、だからシュートは一向に上手くならなかった。
 一月三十一日生まれ、みずがめ座。特徴、地味ではないのに影が薄い、食が細い。能力、人並み。
 性格、頑固、時折得体知れない。
 好物、バニラシェイク。
 弱点、左耳の裏(たぶん)。
 好きなこと、読書、バスケ。
「赤司さん」
 両親が届けた荷物の中に、栞が挟んである文庫本があった。そういえば彼はボールを触っているか、そうでなければ本を読んでいるという印象が強い。発熱してベッドに縛り付けられている間読めるよう京都から戻った日に発売している文芸雑誌を枕頭に揃えた。テツヤは二日とかからずそれを読み終えてしまっていた。読むことがまるで苦にならないから己が本が好きであるのを知ったようだ、文庫本の方はとても面白かったからと赤司に勧めもした。好きなものが判って、それで記憶が少しでも戻ったでもないが、携帯電話の画面を見詰めては何かしらの手掛かりをどうにか見付けようとしているように見えていた。どこかに疼痛や痺れを訴えたりすることもなく、熱も平熱に戻り、退院は明日に決まったけれど心療内科からの帰りは浮かない顔つきで、身体が回復していく一方ですべてが元通りにならないもどかしさを痛感しているようだった。彼の諦めの悪さは赤司の方がよく知っている。
「好みまで聞いたことがなかった、家の本を持ってきてみたけど…」
「や。もう退院しますし、ロビーの本棚にあるので十分ですよ」
 と、振った手を落としてじっと顔を見詰める。
「…赤司さん?」
「なんだい?」
「何か、ありましたか?」
「何もないよ」
 本が入った袋を机に置く。哲学だとか古典戯曲だとか我ながら楽しいとも思えないようなラインナップだ。黴臭さが鼻につきそうな全集だとか装丁ばかりが贅沢なフランス語の本だとか、何故か医学書とか巷のベストセラーは仕方ないとしても司馬遼太郎一冊、マザーグースすらないという自宅の本棚を初めて無用の倉庫だと思った。
「昨日までと雰囲気が違います」
 広げた本の上に手を重ねて、真剣な顔つきで言ってくる。自分の中で閉ざされた扉をふいにノックされたような気がした。
「雰囲気」
 何のことだかまるで判らないという顔を作った。己の身の内の変化さえ感知された、しかも流せない。予想はしていたけれどテツヤは野生動物並みに鋭かった。いや、記憶を失ったからこそより他者に対し気を張り続けていたのだろう。怠りなく注意を払い、言葉を聞き逃さないようにする、一挙手一投足をなにげなく頭に叩き込んでいたに違いない、些細な情報を過去を取り戻す手掛かりとして。
「赤司さんが無事なら良いんですけど…」
「無事も何も」
 言葉を切る。見聞きした情報すべてを享受して処理しようとするのなら、与えておいた方が手間が省けることもある。赤司自身の身の安全だとかそんなことは彼が考える必要などないのだ。
「…そうだな、気を遣う必要はないが、覚えていて欲しいことはあるかな」
 精神的にストレスや不安を与えてはならないと多くを明かさない選択をしていたけれど、却って疲弊させたら意味がない。相手は促すようにこくりと頷いた。
「退院後の仮宅になるのはうちの別宅なんだが、家には物理的な悪意は存在しないが、誰も本心を言わない」
「……」
 鈍い反応というよりも返答に困るという顔だ。
 包帯が取れたはいいが、変化の少ない表情、喜怒哀楽が薄くて小食であることに内科と心療内科がタッグを組みそうなことを本人が一番分かっていない。体重が落ち、毎日ブドウ糖注射の世話になっているのは赤司にとって苦々しいことだというのに。
「こんな状態で役には立ちませんが、僕は君の味方ですから」
「え?」
 他に何をどこから話そうかと頭が回転したところだった、予想外の発言にぴたりと止まる。
「僕を信用してください」
 やわらかな笑顔は勿論のこと、テツヤは思いがけない言葉や仕草で赤司を陥落させる。というよりもまるで自覚がないのだ、いまの台詞なんて、慎重な口調といい健気でもう一度、と求めたくなる。そうして繰り返されたらきっと手に入れたくなる、中学の、比較的に早い段階で気付いてしまった気持ちは薄れるどころか強まるばかりだった。
「…オレがまるで豹変してしまっても、それは変わらない?」
 何を今更言っているんだと冷静に問いかける自分がいて、黙って奥底で腕組みをして見詰めている存在がある。引きずり下ろしたもう一つの自我という厄介なものだ。お前が引っ込めと争って兄弟などいないのに兄弟喧嘩らしきものを体験し(やれてしまうのが不可解極まりない)、今日は朝から精神的に疲れがある。
 袋に手を遣って背表紙を見ていたテツヤは赤司を見、まず首を傾げる。
「赤司さんに人生を変えてしまうような事件があって、人を貶めるような悪意の塊みたいな変貌の仕方なら困りますけど、僕の理解し得る範囲内でしたら変わりません」
「……」
 そこは難しいところだ。彼はかつて赤司から離れた。理解の範囲とか意見の相違では済まされないような、あれは拒絶に近かった。人道的かはともかく受け入れられないと、背を向け、拒んだ。いまのテツヤはそれを知らない。
「もう二度と下手はしないよ」
 自戒を込めるのと、落とし込めた内側に言い聞かすよう口にする。
「いいえ。きっと君は道筋を誤ったりはしないから、もしそうだとしても意思とは関わりなく起こってしまうようなことなんじゃないかと思います」
 テツヤはうまく言えないのですが、たとえば、と言葉を吟味するように言葉を切り、とちらりと目だけでこちらを見る。晴れた空を思わせるような澄んだ目の色だと思う。なんだか猫にでも視られているような感覚だった。
「あるいは赤司さんとして生きる上でのしがらみで、…通過儀礼的な」
「通過?」
 なんだか自分の過去にあったあの一点が仕組まれていたみたいな言い方だ。確かに今となっては紫原や青峰、部のメンバー達に抱いた焦燥も味わったことのない屈辱感も惨めさもどこかで抱くだろう蹉跌の一つではあっただろうとは思う。けれど人格として現れ出たあれは極端すぎる。ころっと取り違えた備品みたいに入れ替われるあたり至らなさを感じるし、折り合いがついていない部分を残しているところに嫌気が差したりする。けれどそんなこと相手は全く知らないはずだ。
「えと、赤司さん」
「…あ、ああ」
 あれは通過点というよりも超鋭角カーブでどうにかのみ込める、…かも知れない。
「僕も気を付けるので、赤司さんも油断なさらず」
「……」
 なんだってこう彼は、惜しみなく彼なんだろう。
「赤司さん?」
 何か拙いことでも言ったのかと態度が言っている。そうじゃなくて、何もかもを知り尽くしているような発言は記憶を取り戻してるんじゃないのか。それとも誰かに何かを吹き込まれでもしたのか。そう投げかけてみたくなる。
「あっさり味方と言い切っていいのか? 少なくとも、オレが知っている黒子テツヤは、自己の信条に悖るような行動はしないと思うけど」
「自分で納得しているかそうでないかです」
 余裕ぶって訊いたことも躊躇いもなく返ってくる。
「僕は、この数日間の赤司さんを見てそう考えました。君はその場と相手に相応しい応対を瞬時に選んでします。そうあるべきだと身体に染みついているんだと思います。間違ってないとは言い切れませんけど、だから、君は守られなくちゃならない人なんです」
「……正直、意味が分からない」
 出自からの自分の立場は理解しているつもりだし、立ち居振る舞いも弁えている。護身術こそ身につけてはいないけれどそこそこ敵意や害意からは逃れられる自信はある。それに大会が終わってからは好き勝手にはしているけれど家の望むとおりに大人しくしている。そして、見舞いも制限を頼み、煩わしい外部情報も耳目に届かないよう、テツヤが混乱したり気後れしたりする一切を排除させているつもりだ。
「守るとか必要ないって顔ですね」
 悪影響を及ぼすことのないような環境に細心の注意を払って、束縛もせず。
 相手は微苦笑して手元の本に目を落とす。
「…僕の思い過ごしならその方がいいです」
 すみません、と何故かテツヤは謝った。この数日で最も聞かされた言葉だ、お前は悪くない、と口癖のように繰り返した。電車が遅延しなければ、パスケースを拾わなければ、試合をしなければ、別の学校に進まなければ、元を正せば帝光中で出会わなければ、バスケをしていなければ。強いて言えば突き飛ばした男が悪い、延々とそんな不毛なたらればが続くだけにしかならない。陳腐だけど、お前が無事で良かった、悪いと思うならずっと傍にいてくれと言いたかった。
 好きなこと、読書、バスケ。
 彼はあれからバスケットボールを触っていない。
「君についての見解なんて賢しいし、的外れかも知れないですけど」
 音も立てずリングの中央を滑り落ちるボールを想像する。ボールは手前に押し出すようにして指先でスピンをかける、左手は添える程度にして、肘はゴールポストに対して垂直に。
———赤司君。
「僕には君に返せるものがなにもありませんから…」
 ボードに弾かれたボールはバウンドして転がっていく。
 一昨日はNBAの選手のドキュメンタリー、今日、彼が読んでいるのはバスケットボールのルールブックだった。

 赤司さんに連れられてゆっくりと町中を歩く。住宅があって、商店があって、公園がある。とりたてて賑わしいわけでも寂れていることもない、ささやかな人の営みがある、ありふれた町並みだ。思いがけないところに遊具が一つと砂場だけの小さな公園があった、公園なのか抜け道なのかという狭さで、深緑のシートが被せられた砂場のシートの一部がめくれ上がり、スコップやらプラスティック製の玩具が捨て置かれたようにある。このくらいだったらと思う、全部と一部分、選べないにしても欠落は小さい方がまだ補いようもあるというものだ。知らない場所、覚えのない名称、どこへ行くにも渺々と風が吹く砂漠に立つ、そんな感じだ。
「学校…」
 校門にジャージ姿の人が立っていた。こちらを背に手には長い紐状の綱を持っていると思ったらものすごく長いリードだった。その先はどうも子犬らしい、子犬はすんすんと鼻を動かし、ぱっと振り向く。
「んだよ? …って、黒子!」
 わん、と応えたのは子犬だ。
「あ、はい」微笑ましさに思わず笑ってしまった。
「黒子テツヤは僕です」
 知ってる、という顔。想像がつくけどこちらはその無駄に長いリードの意味を知りたい。
「彼が火神。今のお前のチームメイトだ、ここから先は彼に案内して貰うといい」
「赤司さんは?」
 駈け寄るというのでもなくとてとてと悠然と歩いてくる子犬はそれこそ挨拶しに来ましたと言うようで二人でその姿を見ていた、火神という人は少し離れたところで強張った顔で赤司さんを見詰めていた。
「こっちは心配しなくても道も間違えないし、誘拐されることもないよ」
「誘拐って」
「下手にいたら狙撃されるかも知れないが」
 含みを持たせた口調で言って火神氏を見る。
「ねーよ。それどころか歓待するぜ?」
 見られて相手はぶっきら棒に返し、不遜な顔つきになる。二人を見た、試合をしたというからそれぞれの思惑が錯綜しているのだろう。やはり砂漠だと思う。と、視線が投げかけられた。
「頭打ったって、ヘーキかよ?」
「記憶は戻ってませんが、どっこい生きてます」
 誘拐って。そんな懸念が頭に残ったままさらりと口にしていた。
「……」
 初対面の自覚はあるのだけどつい気軽に返してしまう。火神氏は腕を組むとお前なあ、と呆れたように言った。
「退院ってのは聞いてたけどそのまま来たのか?」
 尾を振って見ている子犬を抱き上げて頷く。赤司さんは自分と子犬を交互に眺めてから引き気味の火神氏を向いた。
「火神」
「な、なんだよ?」
「テツヤ2号の散歩か?」
 どこか否定は出来ない気はしたけれど、芽生えた感情は確かにあっただけにそのネーミングももう受け入れるしかなかった。メールにも2号がどうとかあった、あれから何も出来ないままだったけれど一つの謎は解けたわけだ。
「オレが代わるから、黒子を頼む」
 じゃあとほっとしたように火神氏はリードを赤司さんに託し、行くぞ、と歩き出した。彼は赤司さんには僅かな警戒をみせて、そうして犬が苦手なのかあっさりと手渡してこわばりを解いた。そして自分が横を歩くのにとても慣れている風に見えた。
「火神さん」
「慣れない呼び方すんなよ、キモチワリィ。火神大我な、クラスも同じだから」
「え、じゃあ…ミスター火神」
「なわけあるか」
「火神くん」
「正解」
「背番号は十番でしたね」
 火神くんは歩調を緩めてこちらを見る、雑に頭髪を扱くとお前は十一番だからな、と言う。
「知ってます」
 足は真っ直ぐに体育館へと向かう、ゴムの摩擦音、ボールの弾む音、笛の音、声の反響、赤司さんの学校でも聞いた音が聞こえた。自分はこの体育館でバスケをして一年になろうとしている、景色を見れば、音を聞けばと正直期待もしていた。
「…もっと緊張するかと思いました」
「そうか?」
 声を掛けて火神くんは体育館に入っていく。靴を脱いで中を見た、板張りの床、バスケットゴール、空気の振動、何もかもが初めて目にするものだった。懐かしさも感じられず、ただ息を吐く。歓迎されたのだか分からないけれど、来たかという顔の面々がなんというか、意外だった。気持ちは重たいようで、不思議と足が軽い。
「平気か? 黒子」
 ドアの横の壁により掛かっていた人が声を掛ける。見るからに先輩といった風格で落ち着きと穏やかさがあった。体躯からしてセンターポジションだろう、松葉杖をつき、物々しい左足の固定具合の方にむしろぎょっとした。
「は、いえ、はい」
 この人の方が大変な怪我ではないのか、まさか試合で? どんな凄絶な内容だったんだろうか。自分がそれに参加した? 本当に?
「…その、先輩、こそ。足は大丈夫なんですか?」
「ん? ああ。なんかリハビリにアメリカ行くことになっちまったけど」
「アメリカ…」
 さっぱりと重大なことを言われている気がする。聞き流せるようなレベルじゃないのに二の句が出てこなかった。
「やっぱりあっちの方が強いのよ。主力選手が二人も欠けてるのはチームとしては痛いけど、戻ったらみっちりやるから、黒子くんも忘れないでね」
「…はい」
 何だか語尾にとてつもない迫力を感じた。答えてからあっと相手を見る、ショートヘアのどうしたって女子高生がパイプ椅子の横に立っている。確か一学年上の先輩で、チームの監督だ。彼女は計測でもするようにじっと自分を見詰めてからホイッスルから手を離し、腕を組んだ。
「まだ走ることも出来なそうね」
「あ、運動はまだ…」禁じられている。
「そうね。打ち身だけならまだしもヒビいってるし、まずは慣れて貰わなきゃ。筋トレとボールハンドリングくらいからかしらね?」
 にこりと笑う、気圧されそうになるけれど、逆らえない何かに押されるまま頭は前に傾いた。
「リコ…」
「容赦ねえ」
 ぼそりと聞こえる、汗だくの眼鏡の先輩らしき人がボールを脇に抱えて立っていた。サイド寄りに歩いて行くとひょいとボールを投げ遣る。放物線を描いてボールはリングに吸い込まれた。
「100本!」
 張りのある声が響く。あちこちでしていたドリブルの音がふいに止んだ。響く音のトーンが切り替わる。
「まあとりあえず無事ならいーよ」
 と、誰かが言った。がらりと下方の格子窓を開ける音がする。
「シゴキ待ってるからな」
「お前いないと火神が半減するんだこれが」
「ちょ、ねえっ…デスヨ!」
 合図のようにあちこちでシュートが打たれ、リングを揺らした。火神くんは入らなかったそれを拾って叩き込んだりしている。館内に冷たい空気が入っては抜けていく、空気を入れ換えると共に音を開放しているのだと気付いた。
「……」
「インターバルのシュート練」
 今日もオフだったんだけどほっとくとロクなことしないから、と呟くように続け、正月は三日まで練習は一応休み、と監督は告げた。
「記憶のことは聞いてる。どうなるか私も分からないけれど戻せないなりにやり直すことは出来るわ」
 ボールがリングに集中するのを眺めながら言い切る。一人一人の名前も思い出せないけどコートを駆け回る誰もが自分にとっては信頼できる人たちだというのはすぐに分かった。相手側が心を開いてくれているからだろう、ありがたいと思うと同時に申し訳なくもあった。
「だから、黒子君…」
 わざと突き放したように言おうとしているんだろうと察せられた。コートの内側でぐっと拳を握って、どうにもならないことを必死に堪えているのが分かる。
「僕ここがいいです」
 足を踏み出した。きちんと応えなければならない、忘れたとしてもしがみついても居たい場所がある。少なくとも自分はこの音や空気が好きだ、ボールを上手く操る自信はないけど誰かにパスしたいし、あのリングにボールを届かせたいと思っている。
「すみません。僕がとても気に入っていて、安心するホームはここだと分かるのですが、しばらくは赤司さんのところにご厄介になります」
 目の前の先輩は頭を下げられたことにだろう、きょとんとした顔をしていた。
「は? …あ、ああ。お前がそうしたいなら」
「ちょ、黒子君」
「まあまあ、リコ。黒子がしたいって言うんだからさ」
「ダァホ、そっちじゃねえ」
 大柄な体躯を叩くようにして眼鏡の先輩がボールをぶつけてくる。きれいなシュートを打った人だ。こちらに目を向けるとはあ、と肩に手を置き、溜息を吐いた。
「赤司が伝えておくって言ってたんだけどな…ったく、いいか黒子、うちの監督は…」
「ファウル。誠凜四番、ホールディング、5ファウル退場」
「はァ?」
 赤司さんの声だ。続けて飛んでくる。
「五番、ダブドリ」
「え」
「十番、トラベリング」
「んだと?」
「八番、十秒」
「……」
「六番、オフェンスチャージング」
「いや、それ事故だし」
 切れ長の目の先輩がスリーポイントゾーンでボールを持ったまま固まり、火神くんはボールを手離すことなく着地、彼の向かいに居た人は困ったように眉を下げ、最後に投げかけられた人はびしっと裏手で普通に返した。
「以上。…黒子、ここまでは分かったな?」
 背後のドアから赤司さんが現れる、周りの方が自分以上にぎょっとしていた。九番、十二番、十五番、十三番、とそのまま示していき、松葉杖の先輩までは言わなかった。
「えっ、あ…」
 彼の言わんとしていることが理解できる。ホールディングのファウルはともかく、シュートの練習をしていたそれぞれのモーションは試合中ならばホイッスルが鳴らされてもおかしくはなかった。というかルールを覚えたてで確認するくらいにはじっくり見ていたから赤司さんがそれを知っている方が驚く。つまり、彼と2号は僕の視線の先を観察するくらいには戻っていたのか。しかも一度の試合経験で背番号と名前を記憶してしまっている。
「…空恐ろしい人ですね…」
 わん、と赤司さんの腕の中の2号が吠える。まったくです、と同意していると受け取る。
「そんなことないわよ?」
 優秀であることは確かだけど、と男前な監督は腰に手を当てた。
「試合だってしたし、元チームメイトでしょ? これからだって相手するんだから今更怯まないで」
 と、火神くんを呼ぶ。呼ばれて嫌そうな顔をしたから間違いなく彼は犬が苦手なんだろう、殆どの人たちが愉快げに口元や目元を歪めていた。2号の世話のために退場した火神くんは二歩ほどボールのバウンドと足の動きが合っていなかった。頭の中で聞いた名前とを照らし合わせる、クラス名簿はなくても誠凜のメンバー表なら赤司さんが渡してくれていた。あとは携帯電話に残る情報が頼りだった。足下に転がってきたボールを拾い上げ、改めて周囲を見た。伝聞や本なんかよりも目に焼きつくし、それこそ染みこんでくる。ふいに景色に色がついたみたいだった。
「……」
 ボールを一度落下させてから何度か弾ませてみる、やはりこのボールは他のとは弾みも音も違うような気がする。他のボールも拾ってみた。
「黒子?」
「これっぽっちも思い出せません…」
 絶望するのではなく、真っ白さに呆れる。分かることは多いのに嘆かわしいほどに忘れ去っているのがつらい。
「オレが言うのも何だけどあんまり思い詰めんなよー、お前まだ若いんだし」
 彼が木吉先輩で口よりも手が早いのが日向先輩、部長だ。
「俺らだって若ぇよ!」
「つーか、何で木吉にって話だよな?」
 伊月先輩が降旗くんを振り返る。動かなくなった彼の代わりに福田くんが多分、と答えていた。
「やっぱ、記憶ないってほんとなんだな…」
 土田先輩は目を合わせると残念そうに呟く。
「ここに居たら思い出そうとして無茶なことするかも知れないって水戸部が言ってる」
 小金井先輩は至って自然体で、水戸部先輩が気の毒そうに頷いた。
「確かに」居ちゃ無茶?
 伊月先輩は神妙な顔つきをし、日向部長は腕組みをして唸った。
「やりかねん…」
「でも、黒子はしぶといから何とかしますよ」
「はい」
 頷かずにはいられない、平然と入りこむ赤司さんも図太いというか、案外にフラットというか、何にしても初めて見た。誰に向けようが絶対を宣言しているように聞こえるのが大したものだ。
「赤司君、ちょっといい?」
 何か考えていたような監督が日向部長を引っ張って赤司さんとで姿を消した。
「黒子、パス」
 戻ってきた火神くんが手を上げる。ボールを投げ渡しながら言った。
「このボール、空気圧が高いと思います」
 撤回する、ここは殺伐とした砂漠じゃない。

 
 そういうわけで、と送話口に言う。
「もう少しこのままでいいでしょうか?」
 自分の親であるにも関わらず緊張してしまう、父親というひとは、ゆっくりと考える間をおいてから、うん、と言ってくれた。話しぶりは学校の先生のようでこの話し方を聞いて僕は成長したのだと納得もした。母親というひとは、優しく和やかな口調だった、二人は辛抱強く僕の我が儘を聞いてくれている。何も思い出せなくて、顔を合わせても気詰まりが支配する。互いに戸惑ってしまって、赤司さんは両親のつらさを慮って家に置いてくれるようにしてくれたのだろうか、受話器を置いて電話室から出た。
 いま自分が厄介になっている家は、築百年くらいは経っているんじゃないかと覚しいお屋敷で、閑静な住宅街にあった。塀に囲まれて庭も広く、これで本宅じゃないと聞かされて唖然としたものだ、どうしようもないくらいの場違い感、絶対にこの人は僕の人生の中でも違う頁に置かれている人なのだと確信した。
「……」
 彼の〝黒子〟と〝テツヤ〟の間に横たわるものがわからないというか、モヤモヤする。
 呼称というものは親しくなるほどあだ名や名前になると思う、おしなべて姓名というものが個体を示す単なる記号でしかないとしても彼の呼びかけには苗字から名前の距離感みたいなものがあるのが感じられた。気分なのか、それとも表面的には知れない感情の振り幅を現しているのだろうか。
———テツヤ。
 父も母も名前を呼んだ。チームの人たちは親しげだけど苗字だった。
「不思議なような気もしたけど、嬉しかったんですよね…」
 目覚めたときは病室だった。何がどうなったのかさっぱり分からなくて、身体のあちこちは痛むし、怠さもあり、言葉一つも出てこない。思い返そうとしても真っ白で、見覚えがあるどころか何も覚えていない。彼はそんな絶望に近い視界の中で包帯がずれていると指摘したのだった。手を伸ばしてくれるから、縋ってもいいのだと思った。泰然とした隣は安全な場所で、収拾がつかなくなりそうな頭をいつだって秩序立てた。犬の世界が飼い主が一番となるのなら、間違いなく今の自分の世界は彼が一番だった。
「だからこそ、なんですけど」
 病院の駐車場でのことも気に掛かる。さらっと誘拐とか言いもしたけれど、過去に未遂がありましたと言われてもおかしくない。
———誰も本心を言わないんだ。
 詮索は無用と婉曲的な警句のようにも聞こえた。天井を見上げる、丸くはないけれど高い。磨き込まれた廊下は静まり返っていて、古いけれど手入れされたランプからは淡い光がもれていた。外観を裏切らないような調度品に調節された温度、ここは品格のあるホテルのように生活感がまるでなかった。
「…赤司さんは謎ばかりです」
 そんなこと気にする必要ないと、他人事みたいな顔できっと赤司さんは言うのだろう。それだけは知っている。

 

141026 なおと

 
 
 
 
 

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 記憶がないため、いろいろと抉ってますが、とりあえず諦観によって冷めた感じになっていた黒子っちは誠凜でホームの存在を知ります。
 お兄ちゃんみたいな木吉にスイッチするのが書きたかったので入院中かもだけど引っ張り出しました。
  
 捏造した話に外的要因を絡めるのが好きなので色々勝手をしました、申し訳ありません。
 しかしフィクションです。
 なるべく細かく作りたかったのですがメッキが剥がれやすいのとこれ以上長くなったら疲れるので(お前がか)
てげてげなところで止めました。
 オリキャラが登場してしまうのですが、害がない方々(のつもり)なのでご寛恕の程をお願い申し上げます。