The nearer the sanctuary, the farther from God. ~聖域に近いほど神からは遠ざかり~

 ほぼ会話でどうにかしようと思っています(←え)。
 冗談っつーか、こんなあほなことでもないと二人って踏み込まなさそうかなあとか。でもまあほっといてもお年頃らしく三年のうちくらいに意識したりしてぐっと変わりそうですが。
 アリエナイゼコメディ雪燐っぽいかと思われます。まだおおらかさとユーモアプラス葛藤の狭間にいる原作雪男はかなり好きなので雪男は変に老成シフト、燐はアニメと原作のいいとこ取りみたいなで、そしてナチュラルキラー(のつもり)。
 
 大人向けシーンがあります、進む場合はご面倒ですが、飛んでみましょう。
 

【PDF版】
The nearer the sanctuary, the farther from God. ~聖域に近いほど神からは遠ざかり~ 壱
 
The nearer the sanctuary, the farther from God. ~聖域に近いほど神からは遠ざかり~ 参

 
 
<ご利用方法>
・PCで保存して各モバイル機器へ保存してください。
・モバイル機器によっては、上記リンクから直接保存が可能な場合があります。
<お願い>
※お使いのテキストリーダー、アプリなどで表示可能な形式ですが、一般書籍ではないことをご了承のうえ、お取り扱い下さいませ。
※モバイルでの閲覧を目的としておりますが、各々のデジタルツールでひっそりとお楽しみいただけたらさいわいです。(表示サイズは960×640ピクセルを想定しております)
※記載内の無断転載、無断コピー、データ転用、改変、再配布等はご遠慮下さい、お願いします。
 
———*———*———*———*———*———*———*———*———*———*———*———
 
 
 
 
 
 
 

 
 ああ、今日の任務のレポートを読めなかったなと、奥村雪男は首をこきりと鳴らしてから鍵を鍵穴に差し込み、ドアノブを回す。トラップ回避を目的とした鍵は開けば寮の自室やらに通じ、移動時間が短縮されるから便利だ。しかし便利だが、公から私に戻るまでの時間もショートカットされるということで、ドアを開けたらゴミ出しやら雑誌の発売日やら頭を日常にシフトさせなければならないわけで、ちょっとした気構えも必要だ。
「…でもないか」
 ぼそりと呟く。いつだって気がかりなのは塾での兄の行状の方だろうやはり。学校生活は別に期待できるようなこともないだろうし、穏やかに、多少の波はあっても恙無く過ぎればその方が良い。
「してください!」
「……。」
 あれ。
「ご、ここ…ごじあいちょうだいいたした、したく…」
 ドアを開けたら資源ゴミではなく、兄の燐が、部屋に入ってすぐのところで正座し、雪男に頭を下げている。
「兄さん、どうしたの。大体するとかごじあいって…」
 待て。
 瞬間的に動詞サ行変格活用だとか、“ご慈愛”とかその言葉の変換と解釈はできたわけだが、脳内で警戒音が鳴る。相手の謎の行動について導かれることに、オーライとばかりにむしゃぶりつくことなく冷静に余裕を持って対応できた雪男はすぐさま燐の頭に銃口を押し当てる。
「…いや、悪魔か。いますぐ僕の兄さんの身体から出ろ、さもなきゃ撃つ」
 尾が直立し、びくりと体が固まったところで雪男は薄く笑う。
「あるいは炎に灼かれて自滅だな」少々の同情もあるかも知れない。
 そろりと相手の両手が上がる、右手の人差し指で眼鏡を押し上げて見れば、憑いただろうそれが出る気配はなく、いつもの兄の持つ空気感のようなものだけがした。
「ま、まてまてまてっ!」
 と、燐は言う。オレだから。マジで。
「……は?」
 どきりとぎくりが一緒に起こる。
「や…その、しないと子猫丸か、出雲か…、とにかく塾の誰かが憑かれちまう」
「『する』」
 雪男はできるだけ平坦な声で返すと何をとは訊かずに「どういうこと? 脅されでもしてるの?」と冷めた眼差しを向けた。悪魔が燐にどういうわけか、そのような行為をしないと他の塾生に憑依すると脅すなんて、あまりにも荒唐無稽で、また、雪男にとっては据え膳みたいなもので、好都合すぎて胡散臭いにもほどがある。鵜呑みして戴くほど愚かな雪男ではない(←信条は三手先読みで落としたい)、疲れていたってそれほどの理性は残っている。
「……」
 燐は正座したまま膝に手を置き、雪男を見上げるとだってよ、お前限定なんだから、と言いにくそうに口にすると最後は羞恥なのか真っ赤になって横を向いてしまう。
「その、幽霊《ゴースト》が、お前がいいんだって、言うから…」
 つまりは引率だったお前に一目惚れなんだと、と銃口から逃げることもせず尾を床にぱたんぱたんと叩きつけながら自棄っぱちに続ける。
「引率?」
 雪男は眉を顰める。今日は出発前に隊を二分して燐はシュラ、雪男が受け持ったのはしえみに勝呂、宝で別行動だった。燐の引率などしていないし、解散も別だった。
「でも窓にはお前の姿が映ってたんだぜ?」
 最新の映像技術を駆使した映画でも観たようにやや上擦った声で言う。
「……」なんだよそれ。
 雪男は手を額に当て黙り込む、どんな悪魔だったのかやはり燐から出されるキーワードからでは分からない、シュラに連絡を取るだけでなく、報告書に目を通しながら帰るべきだった。團が持つ情報はもっと細かいはずだ、通話やメールでは簡潔すぎる。今日の任務は霊場とも言われている場所のすぐ近くで、候補生の実力には相応しい祓魔ではあったが、中級以上の何かとの接触、あるいはそれこそサタンやその他の思惑が現れ出る可能性もあったのだ。
「もしかして、こっちの班の全員の姿が兄さんたちには見えていたわけ?」
 燐は頷きかけ、首を横に振り、雪男だけだったと言う。
「幻覚とか言ってたけど…そーいやお前もその格好でもなかったな…、何だったんだよ?」
「僕が聞きたいよ」
 像を他方に映すことが出来るなどいやに高度なスキルの悪魔だ。確かに燐達が対峙したのは邪眼の悪魔だったそうだが祓魔は手間取らなかったし、首尾良く後腐れもなく対処できたと聞いている。…でも酔ってたんだよな、シュラさん…。
「聞いただけでまだレポート読んでないんだよ」
 すぐに切ってしまった通話を密かに悔やむ。二つ三つ雪男が聞いていないこともあったに決まっている。
 誰かの語感に反応してひとの内側を読み取り、劣等感や妬みなど抑え込んでいたマイナスの感情をちくちくと刺激する。悪魔のやりそうなことではあるが、幻覚を見せるようなものか、複製を作り出すのかは分からない。
「今日の任務、ざっとでいいから説明して」
「ちょっ、それは後にしてくれよ」
 燐にしては珍しく逃げるような姿勢で、雪男をじっと見上げてくれる。
「なに言ってるの、経験を重ねて実績なんだから復習だと思って…」
「こっちの方が大事だろ!」
 燐の目は真剣だ、その濁りのなさがつらい。
「……。大事なわけないだろ」
 銃の握りは徐々に甘くなり、雪男は溜息を吐く。
 幽霊お持ち帰りはさておき、仲間が憑依されてしまうからとそんなので自分の体を弟に差し出せてしまえる、兄の気持ちはどうなんだと雪男としてはそこが複雑だ。いったい現場でどんなことがあったのか。まさか、憑かせてどうこうして満足させて成仏とか言うんじゃないだろうな、このバカ兄…。
 ていうか、憑かせる? そんな危険な真似をさせるわけにはいかない。それとも歩行困難になったときのしえみのように実は憑かれているのを認めていないだけなのか。
「飯も食ったし、風呂も先に入ってるし…」
「それで何で制服」
 汗と汚れを落として結構なことだけど、それより勉強はどうした。週明け提出の課題だってあるだろう。
「こう…様式つーか、作法とかあるだろ?」
「あるわけないだろ」
 堅苦しい会談やら儀式に参列でもないのに制服着用はおかしい。あるいは雑誌か誰かに吹き込まれたのか思いこみなのか、そのような行為をするときには得てして制服であることが望ましいと…どんなテキストだそれ。個人的には和服の方が手っ取り早いだろうと思っているのは置いといて、言葉も考え方も紛う事なく兄一致で雪男はなおつらい。
「志摩くんでも呼ぼうか」
 とりあえず燐の頭から銃は離したが、撃つ準備はいつだってしてある。
「なんでだよ」
 流石に足が痺れてきたのか、左右に体を揺すようにしながら燐は焦れたように言う。だらしなく制服を着崩した姿でそんな動作をして無駄にムラムラさせてくれる。敢えて揺れるネクタイに視線を定めたままにした。
「恋愛も幽霊相手なら得意じゃないかと」
 前に任務でうっかり幽霊を口説いて数日つきまとわれたことがある。結果的に祓えたようだが、彼が哀れな幽霊の心を開き、気に入られたとき雪男は放置した。悪質化しないためにも恋愛感情の縺れや拗れはノータッチとしたのだ、どこかで満足すればあの程度の悪魔なら自発的に消える。正常な人の陽気は思うほど弱くはなく、少々の悪魔くらいじゃびくともしないし、憑いたとしても曲がりもなりにも祓魔師を目指す者、祓うのは難しくないからだ。
「…で、どこに隠れているのかな?」
 目の前には据え膳。降って沸いた好機だというのに、燐の顔を見、話をすればするほど、冷静になろうとすればするほど腹立たしくなる。雪男は銃で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「気を付けてね、兄さん。流れ弾が当たるなんてこともあるかも知れない」
「雪男!」
「……兄さんは、ちっとも懲りてないよね」
 雪男の本気を見て取ったか、燐は片膝立ちに腰を上げ、銃を握って阻もうとする。振り払わずに雪男はほぼ投げやりな気分で言う。
「いっそのこと、しながらの方が言うこと聞いてくれるのかな」
「何を」
「性行為」
「せっ、…」
 土下座して頼んでおいてあわあわとうろたえるとは何事か。
「してくださいってそういうことだろ。兄さんだって経験はともかく、まったく知らないわけじゃないんだろうし」
「雪男」
「持ち帰るにしろ、憑かれるにしろそうでないにしろ、結果的に両方を助けようって考えるの祓魔師として間違っているかそうでないかは置いといても、それで騎士團や他の祓魔師に幾ばくかの迷惑とダメージを与えたとしても、兄さんはそれでいいって、当たり前だって言うの?」
 燐は虚を突かれたような顔つきになり、銃から手を離すと、俯いた。
「兄さんのプランを聞こう、どうするのが最善?」
 燐はそれは、と口ごもるように言うと「オレの身体を少しの間だけ貸して、満足したら出るし、きっと消えるって…」
 だから。
「迷惑かけるのが当たり前なんて、んなことねーよ…」
 高濃度の聖水のプールに突き落としてやりたいのを堪える、燐に悪意はない、無神経なだけで。
「別に責めてるんじゃない。ただ僕には見逃せないし、許してやれるほど心も広くないってだけだ」
 燐はでも、と言った、可哀想じゃねーか、と祓魔師候補生というよりも悪魔の方に寄った感情だ。いや、人だったころのというべきか。燐は悪魔であるが故、その残滓のような幽霊の思いが手に取るように知れてしまう。元から感動屋のきらいはあるが、それでも引きずられやすい。
「雪男に惚れたって言うから、そんで会って、やって気が済めばそれで祓われようが消えようがそれでいいからって言ったんだぞ?」
「…そもそも何言ってるか分かってないよね?」やるだと?
 話すとか顔を見るとかそういう親密性の度合いを一足飛びに越えているのだ、どうして雪男に理解できると?
「兄さんのそういうところが嫌いなんだよ」
「なっ…」
 突っ慳貪な口調にさすがに燐も気色ばむ。
 これ以上続けたら間違いなく喧嘩になる、雪男は溜息を吐いて銃を仕舞うと燐の横を過ぎ、部屋の奥へ進んでいった。襟元を緩めながら鞄を机に置く。
「僕じゃない選択だって、あるんだ」
「雪…」
 燐の声は小さく、弱かった。そこには若干どころかかなりに足の痺れがあるのだろうけど、雪男は無頓着すぎる兄の態度に対しての後悔ともつかない怒りと、自ら好機をフイにしてしまったことで激しい自己嫌悪に陥っている。
「手持ちのカードがないからって自分の体を使うってこともそうだけど、僕は兄さんが、誰かのために僕に抱かれることを何とも思わないってことに腹を立てているんだ」
 どた、と音がした。痛ェと短く呻く声が聞こえたと思うとどたどたと不器用な音と気配が近づく。
「…っ、何言ってんだ、雪男、それはねえ」
 四つ這いになった燐が雪男に手を伸ばす。足が痺れて立てないのだろう、制服の裾をめくりあげて姿を現している尾が奇妙な動きをしていた。
「ねーぞ、絶対にねえ!」
「何が」
「お前だから言ってんだ、このホクロメガネ!」
「他人だったらそいつ、僕が撃ち殺す」
「バカ言ってんじゃねえ!」
「そっちこそ、学習しろよ! 冗談は頭だけにしろって何度も言ってるだろ!」
「…っンの、分からず屋が!」
「いい加減にしなんし!」
 廊下で蛍光灯が弾ける音がし、びぃん!と建物全体が震える音と、甲高い女性の声がした。
「黙れ!」
 雪男は廊下側と燐のベッドに銃を向ける。
「あ…」
 燐の隣にまるで天井から滴り落ちるかのようにして現れたのは着物姿の女性だ。胸高に前結びの帯を垂らし、長く伸びた髪の毛は結っておらず、どこか七夕の織姫を想像させた。
「二世の契りとはいかずとも、わっちは主さんとひとつ寝ができたら…」
「女郎…?」
「あい。じょろうとも言いおす。遊女のつとめは主さんをぶち殺すことでありィす」
 妖艶な幽霊は艶然と微笑う。

 雪男がしゃがんでいる横で燐が胡座を掻いて座っており、二人の正面には腕を組んで立っている幽霊がいる。ぽってりとした紅色の唇から殺すなど物騒な言葉を聞いた、雪男は呪い殺すのかと自分が祓魔師であることを忘れかけていたことにはっとし、銃を持ち直したが兄に阻まれた。頼むから話だけでも聞いてくれと縋るようにいう兄は暗示か呪いでもかけられているような真摯さがあり、雪男の判断を鈍らせる。
「……」
 銃が下がり、膝をついた結果が三者(?)対談である。危険なので燐は真横に置いた、いまは痺れた足を戻すのに必死だ。
「吉原の河岸でなしに半籬の見世でわっちは職を張っておりィした」
 雪男は掌を相手に向けると電子辞書を取り出し検索する。
 ――遊女、ある報酬をもとに歌舞音曲を供し、また不特定の男の枕席にはべり、しかもその行為を営利的に継続する女のことをいう。売春婦、娼妓、傾城、遊君とも。起源は巫女の宗教的機能にあるといわれ、『万葉集』ですでにみられる。云々。
「ぶち殺すのは床でありんす」
 雪男の狼狽に気付いたのか諭すかのように言う。当たり前だがそんなの塾で習ったこともない、公娼の廃止まで読んで宗教的な機能というものの続きがないことにも、なるほど遊女、デスヨネと頷かざるを得ない。
「“おいらん”ってあるぞ」
 ヒットした百科項目を燐が横から覗き込んでいる。それなら知ってるぞとマンガや周辺のエロ…もとい、色っぽい雑誌で得たのだろう、(雪男も年頃の男子なのでそこは詮索しない)尾をぱたりぱたりと振ってリラックスしている様子が窺えもする。雪男だって禿とか遊女の仕事くらいならわかる。
「“かし”…“はんまがき?”」
「“職”、“食”…?」
「あい。相娼《あいかた》の旦那に落籍《ひか》されて、わっちは苦界を抜けて大店のお内儀におさまる…」
 基礎知識ならともかく、専門家を連れて是非と言いたくなるような言葉の羅列に雪男は黙々と文字を入力し続け、ほう、と燐はあったりなかったりの結果を見ては神妙な顔を作っている。
「あ、い、か…」
「雪男、“くがい”ってなんd…」
「ええィ、なんやの、なんでわからへんの!?」
「あ、関西弁」
「“かんさい”てなに、関八州の兄弟? うちの出生《でしょう》は上方や。生まれは京、育ちは船場でな、江戸の出店《でだな》に居ったんや、実家《いえ》は舶来もんを商うてたさかいにな。それが、貰い火で投げだされたあげく、親戚に一切合切を持ち逃げされて、落ちぶれて吉原に売られたんや!」
 そうか、と燐は腕を組んで深く頷く。
「雪男、説明してくれ」
「兄さんの方が得意なんじゃないの?」辞書にもないだろ。
 なんとか話が通じそうだと分かったところで雪男はぱたりと電子辞書を閉じ、燐に渡した。燐は開けては使い方が分からないようであちこちを押して首を捻っている。そんな兄を一瞥して雪男は息を吐くと居住まいを正し、相手を見る。
「何の冗談か知りませんが、詰めましょう」
 にこりと幽霊は笑みを浮かべ、雪男の前に同じように正座で向き合う。
「おおきに。主さん、ほな…」
「違います」
 札は持ち合わせていないし、至近距離で詠唱は間に合わない(そもそも一般的な詠唱で効くのか心許ない)。銃口を天井に向け、変なことをしたら撃ちますよのポーズを示す。相手は眼をぱちぱちさせただけだった。
「悪魔だけど、神格化してるようですね」
「シンカク?」
 燐の言葉を無視して続けた。
「イタズラはやめて下さい、僕に要求したいことがあるなら叶う限りでしましょう。誰かに憑くというのはなしで」
「……」
 すると幽霊は何やら物言いたそうにして悲しげな顔になり、ふるふると首を振ると、すうと消えてしまった。
「え…」
「バカメガネ」
 呆れたような声と共に顔面に電子辞書がヒットする、これは検索してヒットさせるものであって、正十字学園理事長の小型ゲーム機のように振ったり投げられたり踏まれたりするものじゃない。さらに物凄く痛い。
「っつ…何すんだ!」
「お前が反省してろ、探してくる」
「探す?」
 聞き捨てならない。眼鏡を正しながら過ぎようとする腕を掴んだ。
「待ってよ、兄さん。どういうこと? だいいち、幽霊は祓えていない」
 燐は雑に腕を払うと真っ直ぐに雪男を見る。
「本気で言ってんのかよ、雪男。汲んでやってもいいだろ? 理由があって幽霊になっちまったんだから上から条件叩きつけて話聞いてやるってんじゃなくて、もっと違うとこから話しかけてやれよ」
「……」
 相手は悪魔だぞ、と思いつつも雪男は押し黙る。それじゃ供養にならない、養父である藤本獅郎神父はそう教えてないはずだと諄く燐が続けるのが分かっていたからだ。そもそも祓魔師はセラピストでもホテルマンではないのだ、祓うのに魂とやらのホスピタリティを求められても困る。腕を組むことで不満の度合いを示すと燐も同じようなポーズを取る。
「だけど…」
 普段なら睨み合い、言い合いとなるところだが俯き加減に絞り出すような雪男の声に燐も折れたか、腕を解いた。顔つきに感情が出てしまっていたのだろう、やりにくい悪魔が出たものだ。
「彷徨って凶暴化とかしないのか?」
「可能性はあるけど神格化してるし、契約不履行ってわけでもないから…」
 雪男は言いながら手元に残る安心感のような、言い知れない脱力感とが揉みくちゃになっているような気分を味わっている。
「…残った未練に縛り付けられているのは気の毒だと思う」
「なあ、雪男」
 呟いた本音にほっとしたのか燐は尖り気味の声色をやさしく変える。「神格化って何だ?」
「悪魔だけどクロみたいに信仰の対象になると大衆との契約みたいなものがなされるんだ。姿もいろいろだし、無害ってわけじゃないけど船霊や土地神なんてのがそうで、土占いでよく…」
「へー」
 雪男はふむふむと顎を撫でながら耳を傾ける兄の顔を正視する。
「……」
「そんで、土占いで?」
「印章術で習っただろ!?」
 と、授業の意味を分かっているのかと詰問しそうになりかけてはたと気付く。
「今日祓ったのは邪眼の悪魔で、連れてきたのは神格化した幽霊ってどれだけ盛りだくさんなの、兄さん…」
「オレに言うなよ」
 カタいことは気にすんなとばかりに笑顔で肩を叩かれても。
「……というわけで」
 兄から視線を外し、眼鏡のブリッジを押し上げながら続けた。
「どこかにいるだろうので言っておきます。幽霊花魁、疲れているので僕は寝ます。荒ぶるようなら撃ち祓うので兄になんとかしてもらってください」
 なんかもう嫌になってきた。志摩ではないが面倒臭い。と投げ出したいのは山々なのだがそういうわけにもいかない。こちらからは探しはしないが、出たら燐が相手をすればいい、幸いに幽霊に邪気はないようだし、やがて元居た場所に戻るだろう。悪魔でも使い魔とも違って神格化したものは神体に宿り、姿を見せることはないのだがこのケースはとても珍しいのでメモしておきたい。その段取りを考えるには頭を切り換えて―――
「待てよ、雪男!」
 燐に背を向けようとするとがっちり肩を掴まれる。
「離してよ」
「だから、ちょちょいと」
 なにがちょちょいだ、ちょいの間にことが出来てたまるか。
「このガンコメガネ」
「どっちがだよ」
 いい加減にしてほしい。燐の手を払って視界に見える塵に気付いて眼鏡を拭く。ぼやけた視界に焦点を合わすレンズを見ていてふと思いついた。
「……ちょっと調べたいことも出てきた」
「え。何…」
 燐が兄貴風を吹かせ、オレが聞いてやるとばかりにぬっと顔を突き出してくる、だからほんと判ってない。唇を塞ぐことで黙らせ、判らせた。
「―――っ!」
「そこで頭でも冷やしてなよ」あと、宿題と復習。
 キスなんかされてもただびっくりした顔をして、狼狽えることも拒もうともしないでこれ以上続けてもいいような、まるで無垢に次はと問うような眼だけをする。こんな浅ましい劣情を追い払いたいんだ、ほっといてよと声を大にして言いたい。
「風呂入ってくる」
 一人になれるし、落ち着く。
 
 
 同じ石鹸、同じシャンプー。湯上がりは馴染みの匂いにくるまれてそれが当たり前。雪男は項垂れて息を吐く、本当に頭を冷やしたかったのは僕だと胸の内に呟いた。
「ほんま瓜二つや」ええ男やなあ。
「うわあ!」
 手桶を持ったまましばらく考えていた。そんなところにいきなり現れたものだから割れそうな大音声が風呂に響き渡った。
「目の色だけが違ごてるねんなあ…」どこのお国のひとやろか。
 雪男は慌てて転がった手桶を拾い上げると壊れなかったかを確かめつつ大事なところも隠す。
「遊郭は苦界やいうてな、騙して騙されるところや」
「……」
 そんなことをあっけらかんと言わないでくれと雪男は眼鏡もないのにはっきり見えるその姿をどうしてくれようと思っていた。しかも男の裸など見慣れているのか平然としている、まさか兄の入浴にもこうやって顔を出したのではないか、とんだカミサマだ。
「当世開化節なんて唄もあったんよ」
「……ハァ…」
 お話しよ、と幽霊はにっこりと笑う。
 銃もない、札も、効果的な詠唱も思いつかない、消えてもらうためには飲むしかない、ようだ。雪男は渋々頷いた。
「あ、糠袋やないんよね、石鹸? ゆっくり洗うて」お構いなく。
「いや…」お構いなくと言われても。
「うちな、落籍されて、洋妾《らしゃめん》になるとこでなァ」
 花魁幽霊は雪男が髪を洗う横で滔々と続ける。
 あるとき、逆上した客に殺されてしまった。妹女郎と禿を守ろうとして背中を袈裟懸けに斬られ、数日生死の境をさまよった挙げ句に息を引き取り、山奥の沼に捨てられた。客は太政官高位の権力者の息子で、司直としてもどうにもならなかったのだ、と。
 雪男は率直に非道いな、と呟いていた。人は時として、同種にすら残酷だ。世の中は理想論でどうにかなるほど綺麗事だらけではない、雪男だって見て見ぬ振りをするとか切り捨てるとか惨いことをする。誰もが言い訳を設えてどうにか保っている、そんなところが悪魔にも心地良いのだろう、人が悪魔のささやきに堕ちるのはきっと一瞬だ。
「……」
 流されて排水溝に落ちる泡をぼんやりと目で追う。
 人生など水の流れの中にある泡沫の如しとか昔の誰かは言ったが、どんな時代だっていまを生きることにひとは精一杯だったはずだ。世間の水が甘いかどうかはともかく。
「…やさしいなぁ」
 花魁幽霊は溜息のように細く漏らす。しんみりとやさしい、おとなの女性の声だ。
 雪男は小さく首を振った。彼女のために本気で怒れるほどやさしいのは兄の燐だ、気の毒だと言って、慰めようとする。雪男が無責任に言えてしまうのも、おざなりな司直以上に弔い方に疑問があって、山奥に捨てられたというのを聞いて病でもあったのかとすら考えてしまうのだから、我ながら救いようがない。
「…僕は、関係ありませんから」
 逃げるように湯船に浸かる、出ると言ったってきっと脱衣場までついてくるに違いないし、そうしたら着替え中の間抜けな姿をこの幽霊に晒さねばならない、それはいくら何でも避けたい。
「幽的になって、ふらふらしてたんを、祀ってくれたんや」
 花魁幽霊は湯船の縁に正座をするように浮くと雪男の顔をじっと見てふふと笑う。
「あんたさんと同じ顔したええ男が。声もそっくしや」
 男は悪魔が視えたらしい、こんなきれいなひとがこんなところで迷っていてはいけない、と恐れずに手を差し出し、ゆっくりと諭したという。そのときには幽霊となっていたのだろう、別の悪魔に喰われ糧にされていたかもしれない、行きがかったその男は徳の高い僧とかそんな類の人間だったのだろうか、あるいは祓魔師だったのかも知れない。時代的にひとならざるものの存在を人々が畏れ敬い、信じやすかったとはいえ神格化するのは容易ではない、群衆の信頼は通り過ぎていくもので、弱い力しか持てない幽霊は生前の感情のままにしか動けないし、怨みつらみを溜め込んだものは別として、そこに漂うだけで何も出来ないのだから。
「せやから、悪鬼にもならんで、三途の川も渡れへんでおったのやけど」
 悪意を溜め込んで流れてきた邪眼の悪魔に祠を奪われた。
「あの邪眼、眼ェ合わすと精力と記憶やらを喰らうんや、うちのも喰ろうてなァ」
「…ああ」
 確かに、意味もなく通行人がばたばたと倒れる不可解な事件ということであの場所で調査と討伐任務となったのだ。雪男たちの方が遅くなったのは憑かれたのが人だったからだ、下級の悪魔に精神が汚染されており、祓われた後も自分の名前も言えない有様だった。おそらく、邪眼が絡んでいたに違いない。中年の男性でどこかで見たことがある顔だと思ったが思い出せない、衰弱が非道かったがもう身元も知れて家族にも連絡が行っているだろう。
「よお知らんけど、邪眼て龍眼やったんやないの? 右が邪を喰ろぉて左が禍福を授けるもんやて見世の若い者から聞いたけど」
「……」
 そんな話は雪男も知らない。迷信の一つだろう、そういやかつては抗生物質も光学顕微鏡なんてのもないから伝染病もウィルスや細菌など衛生状態からでなしに信心だとか悪鬼の仕業と言われていたのだ。
「祀って拝んでくれた色男をなくしてたとこやった。あの子ぉが斬って、ぽろぽろ出てきたわ」
 ありえないだろうそれ。と突っ込みたくなるが、あったのだと主張するならそうですかというしかない。悪魔が神格化した同族を襲う、悪質化すると見境なく攻撃するため、彼らなりの縄張りもコロニーもなくなる。
「まァ、あの炎のせいっていうんもあるやろうけど…何やろね、出てきた姿に『雪男』いうて、尾っぽ振って来たんよねえ…」
「……」恥ずかしい兄め。
 湯船に沈みそうになる。
「それで、似た僕に会うために兄に適当なことを言ってついてきたんですか?」
 相手は微笑するだけだった。静かにどうだろなァ、と溜息のように呟く、色香が湯気に溶けるようだった。
「半分は真実《ほん》や。うちはおっこちきれた」
「おっこち…?」
「色男がなあ、うち連れて行きたかったんやけど、どうしても見付けたいひとがいるから、探し出すまで待ってて欲しい言うねん」
「……」つっとこめかみから滴が流れ落ちる。
 それは体の好い言い訳ではないか。雪男だって使いそうな婉曲的な拒否だ。
「いっとうだいじなひとなんやて。ずうっと、ずうっと探してて、『生き死にもわからないままぼくが死んだらきっと悪霊になる、醜くくて花魁を屹度無惨に喰らうだろう』って恩人に真顔で言われたら、やぼやら好きィせんなんて返せもしない」
 くっくと喉の奥で笑う花魁幽霊は楽しそうだった。そんな言葉は生前何度も遊郭の座敷で聞かされただろうに、絆されたのかわざとなのか、真に受け止めて、そして振られた相手を可哀想にと言う。
「結句、いかんなったけどなあ」
 土地の他愛もないいざこざに巻き込まれて死んだそうだ、驚くことにそれを知ったのは妖狐がその遺体にすり寄ったからで、新聞には載らないが、人々の口にはよくのぼった怪異の一つになったらしい。
「…そのひとなら、きっと兄の方が似てます。お人好しで、考えなしによく突っ込んだりしますから」得てして玄人は天然に弱い。天然が最強なのはもはや法則だ。
「あら、そやの?」
 男は幽霊にはならなかったのか、探し人というものがあって未練は強く残ったはずなのに。
「だから、あなたに憑かせるわけにも、近付かせるわけにもいかない」
 雪男は慎重に言ってから熱を逃がすようにすうと口から息を吐く。と、考えることに集中しようとしているが幽霊相手になんの我慢大会をやっているのだと思いかけてもいる。
「……」
 いやもうそれ以前にそろそろ限界ですと言いたい。あがりたいところを頑張ってはいるが汗がだらだら出ている、上せるのも時間の問題だ。
「怒るとこちゃうし、こうもうちには真っ直ぐやのになァ…」
「?」意味が分からない。
「せやから言うねんで? もっと素直にならなあかんよ」
「は?」
「あの邪眼が好きなんはひとの執着心いうもんや。なんやら“すとーかー”いうんやろ? 主さんも気ィつけなあかんよ」
「ストーカー?」
 瘴気を撒き散らすのは悪魔の専売特許のようなものだが、それだけではない、属性によって奇異をもたらし、人を病ませ、損なう。
「あの子ぉが好きで大事なら、ゆえば許したろ思ったけど、主さんヘンコやさかいに」
 花魁幽霊は手を振り、けらけらと笑い飛ばすとほな、と消えていった。出るのも唐突なら消えるのも拍子抜けるほど唐突だ、ともあれ、やっと出られる。
「あっつ…」
 蹌踉けそうになりながら湯船から出る。そのまま出ようかと思ったが少しでも熱を冷ましたい、雪男はシャワーの蛇口を捻った。
「“へんこ”?」方言とか昔の言葉なのか…どうでもいいけど。
―――ざああああ…
「……龍眼の話が本当だったら」
 まさかとは思うが呟いていた。
「邪眼は二つあるってことになるんやないの?」
「!」
 濡れても幽霊は濡れない、そりゃ幽霊だからな、と雪男は水も滴る遊女を見て固まる。と、ばちんと音がして突然の幕切れのように暗闇が落ちてきた。
 
 雪男がいないうちに遊ぼうとクロが誘ったのに、いつもなら喜んで相手してくれるところを燐は曖昧に答えたきり、机の上でノートと教科書を広げてぼうっとしていた。かといってベンキョウしているでもなくペンをぶらぶらさせたまま、違うことを考えているようだった。
―――あ。
 お話が出来る悪魔がすうと室内に現れ出た、クロも匂いで分かる。元は昔のひとだったが、いまでは神体に宿っていくらもながく生きている言わば仲間だ。燐が連れてきたが、ちょっと寂しそうに笑うだけで、クロとは遊んでくれなかった。逃げるように姿を消すのを見て苦手なのかも知れねーなと燐が言ったので、クロは男らしく引くことにして夜の散歩に出たのだった。クロがいなかったので燐や雪男とお話も出来ただろう。クロは、この悪魔が出てきたのは二人にお願いがあるからだと思っていた。だって、燐と雪男は獅郎の子だ、乱暴に悪魔を追い祓ったりしない。
「……」
 クロのようにちゃんとお話ししてくれるはずだ、雪男は分からず屋なところがあるけれど。
「あ、姐さん」
「そないな名やおへん」
 ぷいと横を向く、さっき見たときよりも輪郭が薄いというか、透けているように思える。クロはどうした方がいいのかなと頭を起こして辺りを見回した。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ?」
 神様として神体に憑くともうひとであった頃の名は失う、覚えているわけがないのだ、ばかだな、燐。言いたくてうずうずした。
「『おいらん』」
「えー」
 聞いておいて燐は不満そうだ。おいらんさんは言いにくい、やっぱ姐さんで良いだろ、と食い下がってそのまま良いことにしてしまった。お話しするならもっと相手の言うことも聞けと教えてやりたい。
「あのさ。雪男、その、怒ってなかった、かな…?」
「……」
 相手は目を瞬きをし、クロは燐を見上げる。またケンカしたのか?
「なんで行ったん分かるの?」
 燐は何となく、と言い、行かなかったのか?と逆に問い返した。
「風呂ついてったんじゃねーかな、と。あいつホクロとか見られんの嫌がって一人で入るけど、オレと一緒のとこに一個だけホクロあんの、背中に」双子ボタンなんだぜ。
 得意そうに話す、たぶんどうでもいいことだ、クロにもそれくらいは分かる。ところがそれを聞いて姐さんのひとはにっこりした。そんな顔をしたら燐はますます図に乗ってしまうじゃないか。びしっとそうじゃないと言ってやらなきゃ。
 クロはむくりと体を持ち上げて燐に話しかけようとした、しかし遅かった。
「俺たちの親父がさ、前に言ってたんだけどよ、数日後に隕石が落ちて確実に地球は壊れますよって言われてもきっといつも通りの生活送る奴がお前らみたいな背中してるんだぜ、ってなんかすっげー嬉しくてさ、ムカついたりドツきたくなることもあるけど、あいつの背中は許してやれるんだ、オレ」
 姐さんのひとはやさしく頷く。ひとだった頃もびっくりするほどにきれいだったに違いない、幽霊になっても手入れされた毛並みの具合(頭髪のこと)といい、いい香りがしそうな姿といい、きれいだ。そもそも燐の全然自分で分かってない雪男自慢を聞けるなんてエラすぎる。
「それは惚気いうんよ」
「ノロケ?」
「ごちそうさま」
 またしてもすっと消えてしまう。まるで燐が何度も頑張ったあのろうそくの火みたいに。
「姐さん?」
 クロは意を決して燐の前に出ると、きちんと座る。獅郎にも頼まれているし、先輩として燐を窘めてやらねばならない。
「ダメだよ、りん、ちゃんとあのひとのいうこと聞かなきゃ」
「え、話す前に勝手に消えちったじゃん」
 口を尖らすようにし、まるでわかっていない。
「名前なんて聞くし」
 クロはぱたんぱたんとしっぽで床を叩くことでいけません、を示した。燐は自分のだらりとのびてくるんと先が丸くなったしっぽを振り返ってから、クロを見返す。
「ダメなのか?」
「かみさまになっちゃったらなくなっちゃうんだ」
 燐は小さく口を開くと、眼をぱちぱちさせた。しっぽが床をぱたりとはねて、動かなくなる。
「あー…こっちから触れるけど向こうからは触れらんないってのは分かったけど、気にすんのってそこだけじゃなかったのか…」
 クロとしては幽霊は触れられないというのを知りちょっと驚いている。だから寂しそうに笑うだけで遊んでくれなかったのか。納得だ。
「だからゆきおに勉強しろっておこられるんだぞ」
 それに聞いてもいないのに雪男の自慢話なんかして、白けちゃうじゃないか、と続けると自慢じゃねえよと反論しながらもあー、と低い声をあげた。
「なんかくるな…お前にも言われると…」
 気持ちだとかなんとか言っておいて幽霊や神格化の特徴も覚えていない、雪男がキレて、姐さんが呆れてしまうのも分かる気がすると、しょぼんと肩が下がり、視線も下向いてしまう。
「また、雪男のとこ行ったのかなあ…」
 項垂れたまま嘆くように呟いてがしがしと頭を掻く。今度は間違えないようにしよう、と燐が口にしたところで―――
―――ガタンッ
 重い物が落ちるような音と地響きがし、明かりが消えた。
「…風か?」
 燐が首を傾げながらも刀袋を握るのが分かった。夏にも二度真っ暗になったことがある。寮は古いため、断水やら停電もごくたまに起こったりする、雪男は理事長であるメフィストにめんてなんすというのを掛け合っているのだが、のらりくらりとかわされてんだよなー、と燐が言っていた。
「……」
 クロは上から何かが屋上に落とされたような気がして天井を見上げる、こういうのは前にもあったと思う。そのときは物干し台が風に煽られて倒れ、竿が吹っ飛んだとかで、燐と雪男はどちらが悪いかを押しつけ合っていた。
「姐さんはいるか?」
 いない。
―――ガッ…
 耳に痛いような音がする、高くもなくギザギザと空気を引っ掻くかのようだ。
「ラジオ…?」
 燐が低く一人言ちるように言う。落ちたのか?
 暗闇に何かの箱がぱかりと開いたようにどこかのひとの声が流れてきた。クロもラジオは知っているが、ここではノイズがひどいというので二人はほとんど使わない、だから棚にある黒い箱は飾りみたいになっていた。
「…のため、中断された竜王戦ですが、前例にないため、挑戦者とも含めた協会の協議の結果、縹竜王の回復を待って天童市での第三局を…」
「あ、雪男」
 燐が思い出したように立ち上がった。
「あいつ、風呂だ」
 
 とすとすとすと足音が聞こえてくる。雪男は目を凝らし、そこに何があるのか確かめようとする。照明が落ちてしまい、タオルは分かったがメガネは探せなかった。とりあえず落ちたのだろうブレーカーを上げるべく下着のみの締まらない姿で頭をごしごしやりながら廊下を歩いていた。
「雪男か?」平気かよ?
「兄さん」
 夜目が利くのか兄はライトも持たずに鼻歌でも歌い出しそうなくらいの暢気さでよ、と手を挙げる。しっかりと刀袋は持っていたが、緊張感はまるでない。
「また落ちたんだ?」
「みたいだな」
 と、何でもないことのように雪男に手を伸ばしてくる。咄嗟に何事かと構えてしまうが、燐は何も言わずにぽんとまず頭髪に触れ、肩、腹、と点検するかのようにしてからにっと笑う。
「無事だな」
「まあ、…そりゃよく見えないけど動けはするよ」
 寮の停電は初めてではなかった。雪男は目を擦りながら、見えない視界をどうにかしようとする、が、やはり暗いし、手助けになるものはないし、燐の顔すらぼやけていてよくよく声を聞き、睨むようにしてやっと表情が知れるくらいだ。
「あー…見えねえか」
「まあ、光がまるでないわけじゃないし、銃は取れたけどね」左手にしたそれを示すようにしてかちりと音を立てさせる。燐は呆れたようにお前なあ、と言った。
「ちょっと兄さんが心配だったけど、やっぱり配線とかなのかなあ」
「だろー?」
 燐は手を伸ばす。もちろん気を引くためではなく、周囲の様子が視覚的にきちんと把握できない雪男の道案内のためだ。そんなことは分かっている。
「幽霊の姐さんは?」
 燐に手首を掴まれるままにして、雪男は歩く。湯上がりだというのにあたたかく感じる。燐の手には雪男のように硬いところがない、でも使い込まれているし、爪の形が自分とそっくりなことも知っている。燐と雪男は似てないと言われている、だけど双子の証はちゃんとあって、この手は安心もし、自分を苛つきもさせた。
「ふっつりと。兄さんは?」
 始めこそ薄ぼんやりと発光する気体のように見えたが、闇の色に溶けるようにいなくなってしまった。気になって呼んではみたが静けさに雪男の声が響くだけで、暗いだけに脱衣場も浴場も侘びしさだけが転がっているようだった。
「ゴチソウサマとかって消えた」
「ゴチかよ」
 それこそ手練手管で何人かを相手に駆け引きやらをしたひとなのだ、服を脱いだところで等しく人は位も立場もなくなるものと知っているのだろう、風呂に出てきたのはそういう訳なのかとなんとなく考える。武装しておらず丸腰で、しかも湯に浸かるという行為は身体と気持ちをほぐしてくれる、つまり気を抜くのだ。
「よく分かんねーけど、クロに怒られた」
「……。そう」
 膝を揃えて正座する燐に、座布団の上にちょんと座って噺家の師匠よろしく説教を垂れるクロの姿が想像が出来てなんだかちょっと笑えた。
「ずいぶんと自由な幽霊だよね…、大胆っていうか、気紛れで。…元々花魁だしなあ…」
「祓ったんじゃねーだろ? 気が済んだのかな?」
「油断はできない」
 雪男は鋭く言い返す、烈しくしたつもりはないけど燐は驚いたらしくびくりとし、まだ怒ってんのかよ、と僅かばかりの弱気が見える声を出した。
「オレは別にちっとくらいは憑いててもらっても…」ホラ、勝呂のトリみたいになりそうじゃね?
「巫山戯てんのか…?」
 低く地を這うような声が気持ちのままに出た。トリでなく伽樓羅と言え。
「え、や、嘘です、嘘」
 それよりも雪男、手が冷たくなってきてるぞ、と誤魔化すように燐は続ける。真夏じゃあるまいし、こんな格好でいればそうだろう、でも部屋にたどり着くまでの間だ。
 素直にならなあかんよ、とこんなときに頭に蘇る。
「……」
 掠れたような口笛、頭髪から覗く尖った耳の後ろから首にかけた線がいいなと思う。
 外の明かりだけが頼りのほの暗い中に浮き立つ制服の白さは、そこからちらちら見え隠れする肌色をより官能的に見せてくれる。定まらない輪郭のせいでより、想像力は働き、抑えていたはずのものをゆっくりと引き出して、まるで己を試すかのようだ。
 何しろ落ち着いた声とか手から伝わる体温とか集中しなくてもいまの雪男にはそれしかない。
「…僕、兄さんが好きだ。兄弟でいいとか悪いとか考えられないくらい」
 二歩ほど歩いたところでぴたりと燐は足を止める。
「……」
「兄さん?」
「えっ?」
 考え中かよ。
「呆けないでよ、傷付くから」
 燐は悪いと口ごもるように詫びると俯く。
「だからもうちょっと自覚して欲しいんだよね、他人の目とか、僕がどう思うかとか」ほんと逆上でもしたらどうするんだよ。
 答えない代わりに風邪引くんじゃねーぞ、と燐はつっかえながら言う。まるで手の平と尾の動揺ぶりを取り繕うかのように。でも隠せていない、汗ばんでいたり、忙しく揺れたりして態度に丸見えだ。
「オレは、べつ…」
「…あ」足に違和感といまの音は。
 木造部分が残る寮内はどこも均一化した校舎めいてはいるが、生活空間としての造りとして丸みを帯びているところもあった。目的はあるのだろうが傾斜をつけていたり、廊下に小さな段差が出来ていたりする、枠の跡すらも見える。横木が渡してあるところは出る音が違う、鈍く重みのあるようになる、大丈夫かと思ったが。
「―――っ!」
 僅かな傾斜に踏み出した足はかくりと折れ、どうやら肩にしていた剣が邪魔をして着地に失敗したらしい。
「兄さ…!」ぐらりと視界が揺れて手を引こうとしたが、遅かった。
―――ガッ!
 バランスは崩れて、剣が痛そうな音を立てる。大丈夫ではなかった。二人で縺れるようにしてごすんと倒れてしまった、進みからして仕方がないのだが雪男は燐を下敷きだ。ていうか、間違いなく兄の道連れだ。
「痛って…」
「ごめん、兄さん。平気?」
 横倒しの上に覆い被さってしまっている、近いので暗かろうが燐の顔がはっきりと見える。心なしかすぐに痛がる表情が消え、赤みが差すのが分かった。
「そういや何か言ってなかっ…」
「や。あ、あの…その、ゆきお…」
 バレたんだなと知った。そうだよな、と雪男は思う、事故とはいえ燐に下肢が触れてしまったのだから知られない方がおかしい。
「分からないって言うなら分かるまで何度だって繰り返すよ」
 責任を取れなど言わないけど。それでも分かって欲しくて、無理をするのも、腕に力を入れるのもやめた。密着して燐は逃れられずに、己の失言の反省なりをすればいい。
「下が、当た、…当たってて、お前の気持ちは兄ちゃんよく分かって、だな…」
 真面目に対処しようと思ってる、と燐はいつになく真剣に、戸惑いと照れが入り交じったような顔と声で言い、雪男にはその周章狼狽ぶりがかわいい。
「オレだって、男としてそれを鎮めるのは大変だってよく分かってる。…から、こうなってる以上貸す」
「は?」
「変な言い方だけど、オレの持ってる本でも手とかでもいいし、手伝う」
「……」
「本とかって」いま真っ暗で見えないんだけど。
「あー、じゃあ、ならいっか」
 燐は考える様子もなくさらりと言う。まるで使う前の商品のパッケージを確かめもせず剥がすみたいにとても簡単に。こっちが狼狽えてしまう、それとも聞き間違えなのか。
「うまくやれる自信ないけど」種明かしとかならいまだよ、とも続けそうになる。
「いいよ。オレにはここにいるのが違う誰かじゃなくて、雪男だって分かってる方が大事だから」
 なんだよそれ。理性の目の前に緞帳下ろしてくれるなよ。
「…兄さん」
「姐さんの子供の頃、御維新ってやつで身分の差はなくなったけど、大人になってもまだ残ることはあって、兄弟でもそうだったって聞いた。幽霊にならなかったら会えなかっただろうし、花魁じゃなかったらその人とはきっと話も出来なかっただろうって言ってた、それこそ雲の上のひとだからって。…上手く言えねーけど、オレはお前とこれくらいの差でよかったって思った」
 天然には弱い、もれなく、雪男も。
「……」
 王手だ、将棋で言うなら詰まれた。間違いなく。
「って、だからいいって言ってんだ。恥ずかしいから二度は聞くなよ」
 それでいい、と言ってしまえる上に手がいいか、それとも口かと真っ直ぐに訊けてしまう燐がよくわからなくて、でも嬉しくて雪男は笑う。力を抜いてゆっくりと燐を抱き締めた。
「雪男、銃を離せ」
「うん」
「…ちょ、とにかく、銃…」殺す気か。
「灼かれたら嫌だ」
「灼かねえし」
 燐は冗談でも聞いたかのように笑う。
 どこか近くて遠く衣擦れの音が聞こえたような気がした、燐は雪男の鎖骨に額を押しつけるように腕のなかに収まっている。広いはずの廊下で、ここだけ空気が密になり、二つの気配が遠ざかっていくのがどうしてか分かった。
 初めてがこんな場所だなんて不幸なんだか幸せなんだか。
 
 
 
 
 

 
 
 
 

 
 廊下なんかじゃ足りなくてベッドにもつれ込んだ後は、すっきりしたのか我先にと燐は寝息を立ててしまい、雪男はとっちらかった服やらをまとめ、がっちりと毛布で兄をくるんでからその隣に横たわった。ベッドは一人で寝てゆとりがある方だとは思うが、二人だと狭い、横を向かないと腕や足が当たってしまう。自分の寝床に戻ればいいと分かっているのに離れがたかった。
「……」
 髪を掻き上げて耳の後ろを見てみる、むずかるように肩を動かすだけで肌には何もない。
 吸い付いた痕なんて燐の肌にさっぱり残っていなかった。仕方ないとはいえ、すぐに怪我も何もそのしるしが消えてしまうのは困ったもんだなと思う。本人は便利だとか言ってはいるが、だからこそ團の一部には利用価値が高いとか考えられてしまうのだ。サタンの仔と恐れられ、距離を置かれては疎んじられる方がずっといい、燐からあらゆる情報を引き出せるだけ引き出して、不要になったら(まるで実験動物か物みたいだ)、手に負えなくなったら処分してしまえなど誰が言い出すとも限らない(少数だがあるのを雪男は知っている)。父が聞いたら歯ぎしりするだろう、そんなことをさせるために育てたんじゃないときっと本部に青筋立てて乗り込んでいくはずだ。生きていたらの話だが。
「…そうならないための、僕だ」
 兄さんを失わないためなら、なんだってする。
「バチカンなんて…」
 世界を敵に回すなんて造作ない。
「っ!」
 腿から腰をすうっと尾が撫で上げていく。ぞわっとした。
「勘弁してよ」びっくりした…。
 何だか窘められているみたいだ。
 燐は寝ていないのか。手を伸ばして捕まえようとすると尾は嫌がり、落ち着けるような場所でも探すようにぱたりぱたりと先が雪男の側面を叩く。急所だと聞いたから触らないようにしていたけれど、先端まで神経が通って、アンテナみたいな働きをしたりでもするのだろうか。
「…感じたりするのか? これ」
 燐との最中でも動きを一押しするように触ったり絡んだりしてきた、思い出すと顔が火照りそうになる。いいように振り回されている気がしないでもない。
 尾は心地よさそうな寝息を聞かせる主とは正反対に真剣に腕を叩いては、ああでもないこうでもないと考えあぐねているようで、もぞりもぞりとゆっくりとだが動いては、丁寧な検分(らしきもの)をしている。暫く見ているとやがて雪男の腰の下を通ってシーツに落ちた、ここがいいらしい。なんというか上手い具合にいい隙間だ。その選択と潔い着地に思わず感心してしまう。
「……」
  付属か分身かなのか尾は。それ自体が意思を持つ物体のようでもあり、いまのところは顔よりも感情がよくわかる燐の気持ちの指針みたいな役割をしている。けれど、本人も訊いてもよくわかっていないらしい、見ている方はもっと分からない。視界にあることには慣れたが、踏みつけていいのかと、そのダメージはと考えるのは雪男だけではないと思う。しかし迂闊に弄ったり逆撫でたりして炎を出されでもしたら。
「双子なのに分からないことだらけだよ」
 でも大丈夫。
 伊達に弟をやってきたわけじゃない、変に自信はあるから、そう言える。養父に懺悔しなければならない点はあるけれど。
「こんな手の掛かる兄貴は忘れたくても無理だよなあ…」
「せやねえ」
「うわっ!」
 しーっ、と指を口元に当ててみせる。幽霊花魁は消えていなかった、もぞりと下方で影が動くのが見えて慌ててメガネをかけると、どうしてかいなかったクロが戻って燐のベッドに上ったところだった。
「…っ…の、」
 暗がりに目は慣れているせいとはいえ暗い室内なのに見えてしまうのが大変につらい。
「野暮なことはせえへんよ、よかったなあ」
「おかげさまで…」よかったなって。
 さしもの百戦錬磨の元花魁はにこりと笑う、燐を起こさないよう上半身を持ち上げながらこちらは恥ずかしいやら何やらでもう汗ダラダラである。
「後悔なんてしないけど、…これで良かったんだか」
「うちとこはなァ、焼けてまっさらになったこともあったのやけど、仏も神も一緒やゆうて御堂とか建つようになってなあ。お稲荷さんやったんやけど、なんやら紺屋の旦那さんとか、娘子とかよお来はるようになって」
 雪男の自責ともつかない呟きに応えず、そんなことを言ってくる。
「…えっと…、愛染明王?」ならば真言系だ。
 恋の神様やねえ、誰ぞとこいびとになりたい、別れたない、ひとりぼっちになりたない言うんを平気やよ、頑張ってなあってみんなに言うてやるねんで、と幽霊はこそばゆいような顔をする。
「こいの、かみさま」
 瘴気とか魔障ともかけ離れ、生臭いこととはまるで無縁な言葉だ。悪魔なのに。
「せやし、もう戻らなあかんのよ」
「……」
 生前はいくつもの偽の恋をして、死後は祀られて本当の恋の神様になった。なんてベタな話なんだろうと思うけど、棘立っていた神経が収まってしまうと安直にもあるんだなあと感心もしてしまったりする。男って単純だ。
「もうすこうし一緒に居りたかったけど」
 それは困る。
 正直にも強張ってしまった雪男の顔を見て幽霊花魁はくすりと微笑する。
「ですからそれは…」
 居着かれて燐にどう影響を及ぼすか、またこの生活が乱されてしまうのも雪男は勘弁してくださいと本気で思う、さりとて神格化した悪魔を祓うのも忍びない。このまま祓ったら兄が怒ることくらい分かるし、満足したみたいだと雪男が言ったところで納得もしないだろう。と、言葉を探していると花魁幽霊はなんというか品の良い裾捌きで袂を抱えるようにしてすうと寄り、唇に触れていった。ぬくもりもなく、半透明にきれいなものが風に乗って目の前を通り過ぎたような感じだ。
「一回で許したる」
 ぽかんとした。
「え、…あ、はい」
 とんだ間抜けた返事になった。出来ることはすると言ったし、憑かれることはないとも思ってはいたが。触れて質感みたいなものは残る、氣の属性、幽霊はほんとうに淡い存在だ。
「ひとが手に入れられるのは、手の中に収まるものだけや。人間の今生のなりわいは器量次第の大博打さかいに、どっちに転んでも、仕舞いは同じ。楽になりたきゃそっちを選んでも、逃げたかて文句なんぞ言わん。要はこの世に在るか無いかや、生きることに悔やまんようせいぜいじたばたしはったらよろしい」
 説教や説法よりも背筋の伸びそうなことをやわらかくも凛とした口調で言われる、それを見詰めるのが己の定めと花魁幽霊はそれこそ生前の佇まいそのままに気高く、ペースに引き込まれたままなんだか飲まれそうにも感じた。
 つまりは合意で事に及んだ以上、足掻き続けろってことかよ。
「痛っ」
 と、びしりと尾が脇を打つ。
 雪男が身動いだのに不満でも漏らすように。休まる位置を変えさせてしまったせいなのか、それとも一振りの発破か、あるいは嫉妬か。
「……」
 このタイミングに深読みしたくなる。ていうか、結局お持ち帰りしただけで何もしてないんだけどこのお気楽に寝てる兄は。
「おごちそうさま」
 ゆったりと笑いながら花魁幽霊は線香の煙みたいに細く歪んで、そして儚く闇夜に消えていった。音もなく、動くものもなく、あるといえば燐の寝息だけで、室内には何事もなかったように夜の静寂が押し寄せ、力が抜けて雪男はシーツに倒れる。
 そういえば、花街では線香で時間を測っていたんだったな、と思い出す。どこだったか、線香の煙が立つ間鳴り続ける三味線の噺を子供の頃聞いた、兄も一緒だった。誠実な若旦那と一途な芸者の物語で、怪談なんだか悲恋ものなんだかよくわからなかった。
「タイトル忘れた…」
 とりあえずそれも含めて明日、調べることにしよう。燐は覚えているだろうか。
 
 
 
《ここで終わり》

なおと